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彼らはイエスを見捨てて逃げ去った

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THEY FORSOOK HIM AND FLED

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年4月17日、主の日の晩の説教

“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”(マタイによる福音書第26章56節)。
 

イエスはゲッセマネの園での一人だけの祈りを終えられました。彼は眠っていた弟子達に、“立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた”(マタイによる福音書第26章46節)と言われました。弟子達が眠りから目覚めると、ユダが“祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆”(マタイによる福音書第 26章 47節)を率いて来ました。ゲッセマネの園の暗闇の中にいた弟子達は皆同じように見えたに違いありません。 ユダは、あらかじめ彼らに“わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ”(マタイによる福音書第26章 48節)と合図していました。 ユダは接吻しました。 “このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた”(マタイによる福音書第26章50節)のです。“シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった”(ヨハネによる福音書第18章10節)。 イエスは、“その僕の耳に手を触れて、おいやしになった”(ルカによる福音書第22章51節)。 そこでイエスはペテロに、剣をもとの鞘に置くよう言われ、そして“それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか”(マタイによる福音書第26章53-54節)と言われました。 そうしてイエスを捕らえに来た群衆に向かって、“「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった”(マタイによる福音書第26章55節)と言われました。 そして私達のテキストに続きます。

“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”(マタイによる福音書第26章56節)。

それらの出来事は、預言者達によって何百年も前に語られました。 レンスキ博士(Dr. R. C. H. Lenski)は、“これらの出来事は、‘ひとつの理由、そしてそれだけの為に、起こった:預言者達による聖書の言葉が成就される為である。’ ここに、この晩に起こっている事の真実の力がある。:神が預言されたご計画を遂行されており、したがって、イエスは彼を捕らえる者達の手に御自分を自ら進んで引き渡されてるのである、・・・そうして56節が成就されたのである。 イエスは連れて行かれ、弟子達は皆逃げ去った”と言っています(R. C. H. Lenski, Ph.D., The Interpretation of St. Matthew’s Gospel, Augsburg Publishing House, 1964 edition, p. 1055; note on Matthew 26:56)。 

“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”(マタイによる福音書第26章56節)。

この説教で、この聖句を多少深く掘り下げ、弟子達が“見捨てて逃げ去った”理由を探求することが私の意図です。 ジョージ・リッキー・ベリー博士(Dr. George Ricker Berry〕は、キング・ジェイムズ訳で“forsook”と訳されたギリシャ語は、“見捨てる”( A Greek-English Lexicon and New Testament Synonyms)と言う意味であると言っています。 これらが、弟子達がイエスを見捨てて逃げ去った幾つかの理由です。

I. 最初に、預言者達による聖句を成就する為、彼らはイエスを見捨てて逃げ去ったからである。

私達のテキストは、“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである”と言っています。 これは、イエスを見捨てて逃げ去った弟子達についての預言を含んでいます。 ゼカリヤ書 第13章 6-7節は、このように言っています。

“もし、人が彼に『あなたの背中の傷は何か』と尋ねるならば、『これはわたしの友だちの家で受けた傷だ』と、彼は言うであろう」。・・・牧者を撃て、その羊は散る。・・・”(ゼカリヤ書第13章 6-7節)。

ヘンリー・モリス博士は、“牧者を撃て、その羊は散る”と言う言葉に関して、このように言っています、

この聖句は、マタイによる福音書第26章31節とマルコによる福音書第14章27節で、キリスト御自身によって引用されている。よい羊飼いであるキリストは、彼の命を彼の羊の為に捨てたのである(ヨハネによる福音書第10章11節)。しかし、これらの世も変わるようなひどい体験を通して、彼の羊はしばらくの間散るのである(Henry M. Morris, Ph.D., The Defender’s Study Bible, World Publishing, 1995 edition, p. 993; note on Zechariah 13:7)。

主イエス・キリストは、ゼカリヤ書第13章7節は、弟子達がイエスを見捨てて逃げ去っていく事を預言したと言われました。 マタイによる福音書第26章31節で、キリストはこのように語っています、

“『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである”(マタイによる福音書第26章 31節)。

再び、マルコによる福音書第14章27節で、

“そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである”(マルコによる福音書14章27節)。

ですから、弟子達がイエスを見捨てて逃さったと言うことが、ゼカリヤの預言の成就であった事には、疑いはありません。

“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”(マタイによる福音書第26章56節)。

II. 次に、彼らはイエスを見捨てて逃げ去った、なぜなら、彼らは堕落した人類の者だったからである。

人類は堕落した人種です。 私達は決してそれを忘れてはなりません。

“ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである”(ローマ人への手紙第5章12節)。

ですから、全ての人々は生まれつき“罪過によって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章5節)のです。 そして、全ての人々は、“生れながらの怒りの子であった”(エペソ人への手紙第2章3節)のです。

弟子達は他の人達よりも正当だったのではありません。 彼らもまた、“生れながらの怒りの子”でした。  彼らも、同じく“罪過によって死んでいた”のです。 彼らも、同じくアダムの子孫でした。 ある昔のニュー・イングランドの児童本が言っているように、

“アダムの堕落によって、
我々は皆罪を犯した”

ですから、弟子達は、“神に敵する”(ローマ人への手紙第8章7節)肉に属する思いを持っていました。 よって、キリストが福音の言を彼らに説教するたび毎に、彼らはそれを拒絶しました。 マックギー博士はこう言っています、

[キリストは]御自分が死ぬ為にエルサレムに行かれようとされた事を五回ほど繰り返して言われた。(マタイによる福音書[第16章21節];17章12節;17章22-23節;20章18-l9節;20章28節)。 これらの徹底した指示にもかかわらず、キリストが復活されるまで、弟子達は、〔福音〕の意味を把握する事が出来なかった((J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p. 93; note on Matthew 16:21)。

なぜ、弟子達は福音の“意味を把握”しなかったのでしょうか? その答えは簡単です。 

“もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである”(コリント人への第二の手紙第4章3節)。

マックギー博士のヨハネによる福音書第20章22節についての解説で、彼は、よみがえられたキリストに出会うまで、そしてキリストが彼らに、息を吹きかけて、“聖霊を受けよ”と言われるまで、弟子達は新たに生まれ(再生)ていなかった(J. Vernon McGee, Th.D., ibid., p. 498; note on John 20:22)。 この主題についての私の説教は、ここをクリックしていただければ読めます– “The Fear of the Disciples” – “This Saying Was Hid From Them,” “The Conversion of Peter,” “Peter Under Conviction,” and “The False Repentance of Judas.

“弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”
       (マタイによる福音書第26章56節)。

ある人は、キリストが復活された後まで、弟子達が再生されていなかったと言うのは、いき過ぎであると言うかもしれません。 もしあなた方がそのように考えているのでしたら、聖書の観点から、賢明に話し合いましょう。

私はイアン・ムライの著作、The Old Evangelicalism(The Banner of Truth Trust, 2005)にとても感嘆します。 一般的な回心に関して、イアン・ムライ博士は、“今日、回心に関する真実の回復の緊急なる必需がある。 この主題に関して起こされた論争は、多くの重要でない事を吹き飛ばす健全な傾向となるであろう” (p. 68)。 この主題に関して私に問い合わせをしてください。 あなた方の意見を聞きたいと思います。 私自身が個人ごとにお答えします!

“弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”
       (マタイによる福音書第26章56節)。

III. 最後に、彼らはイエスを見捨てて逃げ去った、なぜなら、これに先立って、彼らには古い福音主義的な罪の悟りがなかったからである。

彼らは自分自身の能力に非常に大きな自信をもっていました。 キリストが死から復活され彼らに現れる以前に、何度も何度もこのことを私達は見ています。 例えば、イエスがペテロに、その晩彼はイエスを否定するであろうことを言われたとき、

“ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った”(マタイによる福音書第26章35節)。

マーチン・ロイド・ジョーンズ博士は、このように書いています、

罪の教義無くして、そして罪が何であるかを理解せずして、真の福音主義はない・・・福音主義は、神の神聖、人の罪深さ、そして悪と過ちを伴って始まらなければならない。救罪とあがないのためにキリストへ急ぐ者は、この方法で自己に罪があることを知らされた者だけである(D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., Studies in the Sermon on the Mount, InterVarsity, 1959, volume 1, p. 235)。

使徒達は、彼ら全員が“イエスを見捨てて逃げ去った”になるまでは、古い福音主義的な罪の悟りに置かれていなかった、と私は信じます。 その少し前に、使徒達が、“わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます”と言ったとき、

“イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。・・・”
       (ヨハネによる福音書第16章30-32節)。

キリストを否定した後に感じたペテロの悲しみと罪の悟りは、他の使徒達も感じたものであると、私は信じます。 “そして外へ出て、激しく泣いた”(ルカによる福音書第22章62節)。 シェッド博士(Dr. W. G. T. Shedd)は、“聖霊は、通常、人が罪の悟りに置かれるまでは、人を再生しない”(Shedd, Dogmatic Theology, volume 2, page 514)とコメントしています。

さて、結論として、私は先にもどり、これをまだ回心していないあなた方に応用しましょう。 あなた方は、こころが“よろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。・・・”(エレミヤ書第17章9節)というように、自分が朽ちた罪びとであると感じたことがありますか? あなた方は、“わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。”(ローマ人への手紙第7章24節)と感じたことがありますか? あなた方は、自分自身に抱くすべての自信を失ったことがありますか? ロイド・ジョーンズ博士が言うように、“救罪とあがないのためにキリストへ急ぐ者は、この方法で自己に罪があることを知らされた者だけである”(同著)。 起立して、ソングシートの8番を歌ってください。

イエスの御名において、一つの思いをもって聖なる賛美を高らかに歌え、
そして、彼が流されたすべての御血の癒しの流れを考えよ。

あぁ、その純血が流されたとき、彼が負った苦悩を誰が話せるか、
我々の罪が負うされた時、何が彼の苦しめられた胸中を苦悶されるか?

彼の心が深く打ちひしがれたのは、 侮辱的な嘲弄の声ではなかった。
刺しとおす釘、尖ったとげは、もっとも悲しい悲痛を起こさず。

しかし、すべての苦闘する吐息は、内に、より重い悲しみを漏らし、
人の罪の重さは、彼の苦しみの魂に負わされる。

我々の罪の重苦しい荷を負われるために下られた汝は、
我々に汝の義を与え、我らの神に我々を導かれる。
   (“The Lord Hath Laid on Him” by William Hiley Bathurst, 1796-1877;
     to the tune of “Amazing Grace.”)

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here)
or you may write to him at P.O. Box 15308, Los Angeles, CA 90015.
Or phone him at (818)352-0452.

クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第26章47-56節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱: “Alone” (by Ben H. Price, 1914).

(説教終了)
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要 綱

彼らはイエスを見捨てて逃げ去った

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った”(マタイによる福音書第26章56節)。

(マタイによる福音書第26章46, 47, 48, 50節;
ヨハネによる福音書第18章10節;
ルカによる福音書第22章51節;
マタイによる福音書第26章53-54, 55節)

I.   最初に、預言者達による聖句を成就する為、
彼らはイエスを見捨てて逃げ去ったからである。
 ゼカリヤ書第13章6-7節; マタイによる福音書第26章31節;
マルコによる福音書第14章27節。

II.  次に、彼らはイエスを見捨てて逃げ去った、なぜなら、
彼らは堕落した人類の者だったからである。
ローマ人への手紙第5章12節; エペソ人への手紙第2章5, 3節;
ローマ人への手紙第8章7節;コリント人への第二の手紙第4章3節。

III. 最後に、彼らはイエスを見捨てて逃げ去った、なぜなら、これに先立って、
彼らには古い福音主義的な罪の悟りがなかったからである。
マタイによる福音書第26章35節;ヨハネによる福音書第16章30-32節;
ルカによる福音書第22章62節; エレミヤ書第17章9節;
ローマ人への手紙第7章24節。