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この言葉が彼らに隠されていた

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THIS SAYING WAS HID FROM THEM

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年3月27日、主の日の晩の説教

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)。

ルカによる福音書で、イエスが、ご自身が死なれる事を十二の弟子達に告げられたのは、これが三度目です(ルカによる福音書第9章22節、44節)。 ルカによる福音書第18章31節から33節で、イエスはこのように告げ、そのことを明白にされました。 

“イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」”(ルカによる福音書第18章31-33節)。

これ以上明白に出来るでしょうか? 且つ、“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。 この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)。  マルコによる福音書第9章32節には、“彼らはイエスの言われたことを悟らず”と書かれています。 ロバートソン博士(Dr. A. T. Robertson)は、マルコによる福音書第9章32節の引用に関して、“彼らはそれでも悟らなかった。 彼らは、キリストの死と復活の話題に関して不可知論者(不信者)であった”(A. T. Robertson, Litt.D., Word Pictures in the New Testament, Broadman Press, 1930, volume I, p. 344; note on Mark 9:32)。

キリストの福音は、使徒パウロによって簡潔に、そして明白に述べられました。

“わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと”
       (コリント人への第一の手紙第15章3節)。

そうであるにもかかわらず、この時も十二の弟子達は福音を理解できず、また信じませんでした。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)。

ロバートソン博士は、“彼らはそれでも悟らなかった。 彼らは、キリストの死と復活の話題に関して不可知論者(不信者)であった”(同著)と言いました。 十二の弟子達は、それでも福音を信じなかったのです! マルコによる福音書第9章30節から32節に関しての注解で、バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)は、“イエスが御自分の死と復活を彼らに公表されたのは、それが最初ではなく、それでも彼らは理解しなかった”( J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p. 201; note on Mark 9:30-32)と書いています。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)。

このテキストに出てくる三つの言葉は、彼らの福音を信じなかったことを私たちに語っています。

I. 最初に、彼らは福音を理解していなかった。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった”。 “わかる”と訳されたギリシャ語の語源は、“知的に十分に理解する”(ストロング注解書)という意味です。 キリストは明白にまた文字通り話されたけれども、弟子達は彼の言われたことを把握することが出来ませんでした。 このテキストは、“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった”と言っています。 マチュ―・プール(Matthew Poole)は、“その言葉は十分理解し易い”(A Commentary on the Whole Bible, The Banner of Truth Trust, 1990 reprint, volume 3, p. 258; note on Luke 18:34)と書いていますが、弟子たちには、これらのことが何一つわかりませんでした!。 弟子達は、キリストが“異邦人に引きわたされ”、の言葉を理解しませんでした。 彼らはイエスが“あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ”、の言葉を理解しませんでした。 彼らは、“むち打たれてから”、すなわちイエスが背中の骨まで打たれであろうという事を理解しませんでした。 彼らはイエスが十字架で“殺され”るであろうという事を理解しませんでした。 彼らは、イエスが死から“三日目に”よみがえるであろうという事を理解しませんでした。 マルコによる福音書で告げられているように、

“それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた
       (マルコによる福音書第9章31-32節)。

彼らの無知に対する一般の反応は、ウィリアム・マクドナルドによって以下のように説明されます。

彼らの思いは、ローマの支配下から彼らを自由にし、直ちに王国を造り上げる現世の解放者についての思いで満ちていた、それゆえ彼らがその他の構想を考慮する事を拒否していた(William MacDonald, Believer’s Bible Commentary, Thomas Nelson Publishers, 1989 edition, p. 1440; note on Luke 18:34)。

彼の思いは、苦しむメサイア(メサイア・ベン・ヨセフ)を信じる事に対して偏見を持っていました、なぜなら当時の多くのユダヤ人達は、ローマから彼らを解放するメサイア(メサイア・ベン・ダビデ)を求めていたからです。 彼らはそれらの二人のメサイアは実際一人である事を悟っていませんでした。 ここをクリックして、私の説教、“The Fear of the Disciples”を読んで下さい。 しかし福音に対する彼らの無知の理由が他にもあります。 

II. 次に、福音は彼らに隠されていた。

“・・・ので、イエスの言われた事が理解できなかった”
       (ルカによる福音書第 18章34節)。

“隠されていた”という言葉は、 “秘密にする、隠される”という意味のギリシャ語から訳されています。 それは、ヨハネによる福音書第8章59節の“イエスは身を隠して”に見られる、正に同じギリシャ語です。 ですから私達のテキスト、“この言葉が彼らに隠されていたので”、も同様です。 彼らが宮におられるキリストに石を投げようとした際に(ヨハネによる福音書第8章59節)、イエスが御自分を隠された時、神業なる要素がかかわっています。 “この言葉が彼らに隠されていたので”にも、神業なる要素がかかわっています。 ルカによる福音書第18章34節の言葉について、フランク・ゲイビレンの注解書は、“ルカは弟子達の無知さを、神業による理解力の保留と帰している”(Frank E. Gaebelein, D.D., general editor, The Expositor’s Bible Commentary, Zondervan Publishing House, 1984 edition, volume 8, p. 1005; note on Luke 18:34)。 それは正にこのテキストの意図として、私が考慮している事です。 “この言葉が彼らに隠されていた”のは、神業による理解力の保留だったのです。 

その当時、弟子達は偉大な聖徒ではなかった事が理解できます。 彼らは単なる人でした。 彼らは、私達のようなアダムの子孫でした。 したがって、彼らは、私が救われる七年前ように、そして救われていないあなた方のように、“自分の罪過と罪とによって死んでいた”のです(エペソ人への手紙第2章1, 5節)。 アダムの子孫として彼らの肉の思いは、“神に敵するからである”(ローマ人への手紙第8章 7節)。  アダムの子孫として、彼らは生まれながらの人であり、そして“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない”(コリント人への第一の手紙第2章14節)。 アダムの子孫として、“十字架の言は、滅び行く者には愚かである”(コリント人への第一の手紙第1章18節)。 キリストがニコデモに、“あなたがたは新しく生れなければならない”(ヨハネによる福音書第3章7節)と告げられたように、弟子達も“新しく生まれなければならない”のです。 彼らは、自分達の仕事場を去り、キリストに従う事によって、新たに生まれる事は出来なかったのです。 それは行いによる救いとなるでしょう! それはローマカトリック教の解釈です! しかし私達は、恵みによる救いを信じます、ですから彼らはイエスに従う事によって救われる事は出来ませんでした!

“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである”(エペソ人への手紙第2章8節)。

ユダは十二弟子の一人でした。 彼は新たに生まれていたでしょうか? キリストは、ユダが“不信者”であり、“滅びの子”と呼びました(ヨハネによる福音書第17章12節)。 トマスは新たに生まれていたでしょうか? 復活の後トマスはかたくなに、“決して信じない”(ヨハネによる福音書第20章25節)と言いました。 ペテロは神からの開示があった事を私は知っています(マタイによる福音書第16章17節)。 しかし、しばらく後にイエスが“殺され、そして三日目によみがえる”(マタイによる福音書第16章 21-22節)と彼らに示された事に対して、ペテロはイエスをいさめました。 そうしてイエスはペテロに、“「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」”言われました(マタイによる福音書第16章 23節)。 明らかにペテロは福音を拒否し、サタンに影響されてキリストの受難と復活を拒絶しました。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)。

使徒ペテロはこのように言っています、

“もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて・・・”  (コリント人への第二の手紙第4章 3-4節).

そうです、“不可思議な”思いを暗ます事、弟子達へのサタンによる暗まし、そして彼ら自身の肉による、アダムからの生まれつきの状態による、福音への暗ましがあるのです。 イエスは、“心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう”(マタイによる福音書第18章3節)と言われました。 彼は誰に対してそう言われたのでしょうか? 彼はそのことを“弟子たち”(マタイによる福音書第18章1節)に言われたのです。 立って、マタイによる福音書第18章1節を読んでください。

 

“そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう”(マタイによる福音書第18章1-3節)。

着席して下さい。 弟子達は、彼らの中で誰が天国では一番偉いかを知りたがっていました。(マタイによる福音書第18章1節)。 イエスは弟子達に、“心をいれかえて・・・ならなければ、天国にはいることはできないであろう”と言われました(マタイによる福音書第18章3節)。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので”(ルカによる福音書第18章34節)。

III. 最後に、彼らは福音を体験していなかった。

私達のテキストの最後の方で、“言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)と書かれています。 “理解”と訳されているギリシャ語の言語は、“知っている、確かにする、体験によって気がつく”(George Ricker Berry, A Greek-English Lexicon of New Testament Synonyms, coded to Strong, number 1097)と言う意味です。 同じ言葉が、ピリピ人への手紙第3章10節、“すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって・・・”で使われています。 弟子達は福音を体験によって知りませんでした。 彼らはその言葉を聞きましたが、真実なる福音を体験していませんでした。 では、立ってその聖句を声を上げて読み通してください。 ルカによる福音書第18章31節から34節です。 

“イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章31-34節)。

着席してください。 

よく 理解できましたか?  “弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が[体験によって]理解できなかった”。

スポルジョン(C. H. Spurgeon)の信仰告白に注目して下さい。 彼は、父親自身福音説教者であった牧師の家で育ちました。 彼は一生涯、福音説教者であった彼の祖父の家で夏を過ごしました。 且つ、イエスの復活前の弟子達のように、彼は回心していませんでした。 スポルジョンはこのように書いています、

自分は若い時からイエスの犠牲による救いの計画を聞いていた。しかし私は自分が[異教徒の国で]生まれていたかのように、それについて心底から知らなかった。それは新たな啓示として、まるで全く聖書を読んだ事がないように、自分に示された・・・[そして]私は、信仰により、神の御子である方が人となり、御自分の神聖なる身体に、十字架で私の罪を負われた事を理解し悟った。あなた方はそれを理解したであろうか? (C. H. Spurgeon, How Can a Just God Justify Guilty Man?, Chapel Library, Pensacola, Florida)。

スポルジョンはきリストについて知っていました。 彼は救いの計画を聞きました。 しかし彼は、“これらのことが何一つわからなかった。この「福音の」言葉が彼ら「彼」に隠されていたので、「体験でもって」イエスの言われた事が理解できなかった”。 福音の言葉は突然彼に来ました。 彼には、“それは新たな啓示として、まるで全く聖書を読んだ事がないように”示されたのです。

それが真の回心です。 あなた方の魂があなた方の罪の重さを感じさせられるとき、あなた方は復活されたキリストに引き寄せられるのです。 ある人が私に、“十二弟子が、復活されたキリストに出くわすことによって回心したと、聖書のどこにそう書かれているのですか?”聞きました。 答えは簡単です。 四つの福音書の終わりに―マタイによる福音書第28章、マルコによる福音書第16章、ルカによる福音書第24章(特に、36から45節)、そしてヨハネによる福音書第20章19-22節に書かれています。 アメリカで最も知られた聖書学者であるバーノン・マックギー博士は、ヨハネによる福音書第20章22節に関して、“私は個人的に、我々の主が彼らに息を吹きかけられ、‘聖霊を受けよ’と言われたときに、これらの弟子達は新生し、それ以前は、聖霊は彼らに内在していなかったと信じる”(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, volume IV, p. 498; note on John 20:21)。 このウェッブサイト www.thruthebible.orgで、マックギー博士の説教が聴けます。 .

では、聖霊によって、あなた方が自分の罪の悟りにおかれ、聖霊があなた方のこころを開かれ、復活された神の御子であるイエス・キリストにあなた方を引き寄せられ、彼の御血でもって罪から清められますことを祈ります。 アーメン。

マックギー博士の番組は、毎回『きたれ、なれを清むれば』(“Jesus Paid It All.”)の賛美歌で終わります。 ソングシートの7番目に載っています。 立ってそれを歌ってください。

「きたれ なれをきよむれば」
とのたもう みこえにききしたがわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

ゆくわがみの けがれとつみ
すこしものこさず あらいたまえ
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

まねくイエスは 信仰とあいと
のぞみとへいわを あたえたまわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

すくいぬしは みめぐみもて
よせきたる つみにかたせたまわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ
   (『きたれなれを清むれば』by Elvina M. Hall, 1820-1889).

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ルカによる福音書第18章31-34節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Open My Eyes” (by Clara H. Scott, 1841-1897).

要 綱

この言葉が彼らに隠されていた

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”(ルカによる福音書第18章34節)

(ルカによる福音書第18章31-33節;
マルコによる福音書第9章32節;
コリント人への第一の手紙第15章3-4節)

I.   最初に、彼らは福音を理解していなかった。
 ルカによる福音書第18章34甲節; マルコによる福音書第9章31-32節。

II.  次に、福音は彼らに隠されていた。
ルカによる福音書第18章34乙節; ヨハネによる福音書第8章59節;
エペソ人への手紙第2章1, 5節; ローマ人への手紙第8章7節;
コリント人への第一の手紙第2章14節;第1章18節;
ヨハネによる福音書第3章7節; エペソ人への手紙第2章8-9節;
ヨハネによる福音書第17章12節;第20章25節;
マタイによる福音書第16章17節;
マタイによる福音書第16章21-22, 23節;
コリント人への第二の手紙第4章3-4節;
マタイによる福音書第18章1-3節。

III. 最後に、彼らは福音を体験していなかった。
ルカによる福音書第18章34丙節; ピリピ人への手紙第3章10節。