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イタリアにおける無律法主義(アンチ・ノミアニズム)

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2013年9月8日、主の日の晩の説教

ANTINOMIANISM IN ITALY
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, September 8, 2013

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました”(コリント人への手紙第二5:17、新改訳)。

“というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです”。 (ユダの手紙第4節、新改訳)

先日、私の説教をイタリア語に翻訳している女性から電信メールを受け取りました。 彼女は、ある私の説教を何人かのイタリア人の“信者達”に向かって読んだと言いました。 しかし、聖書の言葉から判断すると、彼らは 全く“信者”ではなかった事を見出しました! 私の考えでは、その“信者”という言葉は、使われすぎ、時には混乱を招きます。 新約聖書の中で(使徒行伝5:14並びにテモテへの手紙第一4:12)、“信者達”という言葉が二度使われているのは事実ですが、その言葉は今日誤って使われているのです。 しばしば、その言葉は真の回心によるキリストとのつながりの無い、聖書への“観念的な”信仰を持つ人達に適用します。 その様な人達は、“見えるところは敬虔であっても、その実を否定する”(テモテへの手紙第二3:5)のように描写されています。 彼らは、“いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち”(テモテへの手紙第二3:7)なのです。 そして、“また、こういう人々は、・・・真理に逆らうのです。 彼らは知性の腐った、信仰の失格者です”(テモテへの手紙第二3:8)。 それらの聖句は、回心は彼らの人生の方向を変換するという事を否定する、自称“信者”を描写しています。 彼らは、人々は罪を保持しながら、且つクリスチャンと名のることが出来る、なぜなら彼らは聖書の幾つかの言葉を信じているから、と言っています。 彼らにとっては、主イエス・キリスト御自身とつながる事無く、幾つかの聖句を信じる事が彼らを救うのです。 最初のテキストは、“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です”(コリント人への手紙第二5:17)です。 しかし彼らは、その意味を“だれでも、幾つかの聖句を信じるなら、その人は救われる”と言うように曲解しているのです。 それは、“サンデマン主義”として知られている、非常なる異端です。 

更にまた、それらの“信者”と自称している人達は、クリスチャンが罪を犯し続けて生活するのは常であると考えているのです。 ですから彼らは、“私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち”(ユダの手紙4)なのです。 それは“無律法主義(アンチ・ノミアニズム)”と呼ばれている二番目の理論的誤謬です。 放蕩息子についての私の最近の説教の中で、私はこのように言いました。

何年か前に、 ここロスアンゼルスの売春宿に向かっていた女性が、彼女は“ボーンアゲン・クリスチャン”であったと言いました。或一人の福音主義の指導者が、“彼女を批判してはいけない”と私に言いました。何とも狂気です!このような混乱した福音主義のタイプは、“無律法主義”と呼ばばれています、そしてそれは豚小屋なる罪の中に生きながら、同時に神の子供であるといったような教えから来ています(R. L. Hymers, Jr., Th.D., “Misinterpreting the Prodigal Son,” [放蕩息子のたとえ話の誤った解説] August 25, 2013)。

ですから、無律法主義者達は、“神の恵みを放縦に”変えているのです(すなわち、“わいせつ、みだらな行為、いかがわしい行い”-W. E. Vine)、“好色”と訳されたギリシャ語は、ガラテヤ人への手紙第5章19節でも、他の“肉の行い”と併用して挙げられています―そこで、“こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません”(ガラテヤ人への手紙5:21)と私達に告げています。 それらの聖句はこのように告げています、

“肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません”(ガラテヤ人への手紙5:19-21)。

これ以上の明白な表示があるでしょうか!  “こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません”。 それでもなお且つ無律法主義者達は、彼らは神の国を相続すると主張しているのです! 何とも狂気ではありませんか! エペソ人への手紙第4章17節から19節にかけて、“好色”と訳されたギリシャ語は、不信者を描写する為に挙げられているのです。 それ以上明白にすることができ得るでしょうか? それでも近代の福音主義の無律法主義者達は、引き続き、“私たちの神の恵みを放縦に変えて”(ユダの手紙第4節)いるのです。 この異端はイタリアだけに留まりません。 あなた方が出会うほとんどの人達が、常習的に罪の中に生きていながらも、彼らは救われているというような考えは、ここアメリカにおいても非常に増えています! 実に、無律法主義がアメリカのキリスト教を滅ぼしているのです!

ユダは、“私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち”と言っています。 彼らは父なる神の支配を否定し、私達の主イエス・キリストの支配をも否定しているのです。 彼らはしばしば、主なるキリストから救い主であるキリストを区別して分ける事によって、このようにしているのです。 私達のイタリア人の翻訳者は、“イタリアでは多くの福音主義者達が、イエスは救い主であっても、必然的にあなた方の主では無いと言っている”と伝えました。 トーザー博士(Dr. A. W. Tozer)は、その教義に対して強固に反論しました。 彼の有名な言葉はこうです、

     一つの注目すべき異端―すなわち、我々人間は、キリストを受け入れる事を選択する事が出来る、なぜなら、我々は彼を私達の救い主として必要とするからである。しかし、我々が望む限りにおいて、我々は、主としてのイエスに服従する事を延ばす権利がある、という広範囲に渡って受け入れられた発想―が私達の福音主義界に入り込んで来た・・・!。 
     今日において、我々がしばしば福音のアピールがこのような基本においてなされている事を聞く事は、何とも悲劇である:“イエスに来なさい!あなた方は誰にも従う事は無い。あなた方は何も変え無くても良い。何も妥協する事は無い―ただ彼に来て彼を救い主として信じなさい!” 
     それで彼らは救い主を信じる。後になり、集会もしくは会議等で、彼らは異なったアピールを聞くであろう:あなた方は彼を救い主として受け入れたからには、どのように彼を主として受け入れたいですか?
     私達はこのような事をあらゆる場所で聞くからといって、それが正しいわけでは無い。分裂したキリストを信じるよう、男性もしくは女性に強く勧める事は、不正な教えである。なぜなら、誰もキリストの半部分を受け入れる事はできないからである。・・・人がキリストを信じる時、彼は主イエス・キリスト全てを―制限する事無しに―信じなくてはならない! 罪が我々をむかつかせる時に会いに行くすばらしい看護婦のようにイエスを見なし、彼が我々を癒してくれた後で“ さよなら”と告げ、自分達の元の生き方に戻る、というのは誤りである事を私は確信する。  
     私達は、家の家具を買う人のように、“私はこのテーブルを買うけど、その椅子はほしくない”というように、イエスに来てはならない―分裂させている!そうであってはならない!キリストの全て、もしくは、キリストの何ものも、のどちらかである! 
     私達は、世界にキリストの全てを再び説教する必要があると信じる―我々の弁解を必要とされないキリスト、分裂されないキリスト、全てにおいて主とされる、さもなくば、全く主とはなられない、キリストである!
     私はあなた方に警告する―あなた方はそういう風にしてイエスからの助けは得られ無い、なぜなら、主は御自分が命令不可能な人を救われないからである!彼は、御自分の義務を分裂するような事はされないであろう!あなた方はキリストの半分を信じる事は出来ない。我々は主なる方を主として受け入れるのである―聖別された救い主、そして全ての王の王であられ、全ての主の主であられる主を!彼が我々の人生を導き、そして支配する事が出来るという理解無しに、もし彼が我々を救われ、我々を呼ばれ、そして我々を選ばれるならば、彼は主なる方では無いのである。
     我々の従順をイエス・キリストに捧げる義務は無い、と真から考えているからであろうか?我々が彼に救いを懇願したその時以来、イエスに対して我々が従順する義務がある、もし[あなた方]がその従順を彼に捧げないならば、私は[あなた方 ]が真に回心しているかを疑う!
     私はクリスチャン達の行動を目にし、聞き、そして私が彼らを注意深く見る時・・・彼らが真に回心しているかどうかの、疑問が湧くいてくる・・・。
     それは誤った教えによる結果であると私は信じる。彼等は、主を病院の如く、そしてイエスを困難に入り込んだ哀れな罪人を癒す職員のチーフであるように見なした!“主よ、私を癒してください!”と彼らは言い張る、“そうすれば、自分の道を歩む事が出来るから!”と。 
     それは不当な教えである・・・それは自己欺瞞で満ちている。我々は、イエス・キリストを我々の主、崇高な聖なる王冠をかぶられた、主なる主、そして全ての者の王と、見なそうではないか・・・!
     神は何事において、我々が神に対して正直である事を望んでおられる。御言を伺い、新訳聖書を読み、そしてもしあなた方が、私が伝えた真実の萌芽を見出すならば、それについて何とかする事を、私はあなた方に強く勧める。もしあなた方が、分裂した救い主に不完全に信じるように導かれているならば、未だそれに関してどうにかする機会が与えられてる事を喜びなさい!(A. W. Tozer, D.D., I Call It Heresy!, Christian Publications, 1974 edition, pp. 9-21)。

しかし私は、無律法主義者が自己の放縦を悔い改め、真に回心するのは、非常にまれである事を見出しました。 私は過去55年間説教をし続け、この異端を悔い改めた無律法主義者を一人として目にした事が個人的にはありません。 それが真実である事を私は信じます。 なぜなら、徹底した無律法主義の人達は、サタンの支配下にいるからです。 私はヨハネの手紙第一第3章8節の“罪を犯している者は、悪魔から出た者です”を根拠にして述べています。 ですから私達は、罪を犯している無律法主義者達は、“悪魔から出た者”である、と告げられているのです。 それは彼らが悪魔の支配下にいるという事です。 悪魔は、“空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊”(エペソ人への手紙第2章2節)なのです。 私は、リフォメイション・スタディ・バイブルの“無律法主義”に関する記述をここで引用しましょう。 

無律法主義、(アンチ・ノミアニズム)は、“律法に反対する”と言う意味である。無律法主義の見解は、聖書における神の律法がクリスチャンの生活を直接支配する事を否定している人達・・・もし彼らが信じ続けるならば、彼らの振る舞いは何の違いももたらさない、といった誤った結論に導く事である。しかしヨハネの手紙第一第1章8節から2章1節、そして3章4節から10節は、異なった説明を指摘している。キリストにおり、同時に罪に奉ずるといった生活は、不可能である(p. 1831)。

更にまた、イタリアの無律法主義者達は、コリント人への手紙第一第5章1節に抗議しています。

“あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです”(コリント人への手紙第一5:1)。

それらのイタリアの無律法主義者達は、“これは信者間の近親相姦の喩である”と言いました。 ですが、彼らはこの聖句は、“信者も不品行を犯すことが出来る”事を認めている、と言いました。 私はその様なナンセンスをアメリカでも耳にした事があります。 しかしコリント人への手紙第一第5章2節から13節でパウロはコリントの教会に、“その悪い人をあなたがたの中から除きなさい”(コリント人への手紙第一5:11)と告げ、その事を示しています。 使徒パウロが、彼らにその様な“悪い人”を教会から除き、その様な人とは食事をしてもいけない(コリント人への手紙第一5:11)と告げている事は明白です。 その事に関して注解書は、次の章のコリント人への手紙第一第6章9節から11節を挙げています。 

“あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけまんせん。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです” (コリント人への手紙第一6:9-11)。

使徒パウロはここで、“神の国を相続できない”(コリント人への手紙第一6:9)無律法主義者達に対するリストを挙げています。 これが、近親相姦の“不品行”を犯した人は神の国を相続できないであろう事が非常に明白にされています。 コリント人への手紙第一第6章9節で聖書は、“不品行な者”は神の国を相続できないと告げています。 ヨハネの黙示録第21章8節は私達に、その様な不品行の人達は、火と硫黄との燃える池の中に落とされる、と告げています。 彼らは永遠に地獄の火の中に落とされるのです。 

先に私が言ったように、 無律法主義はイタリアだけに限りません。 全くそうでは無いのです! この悪魔からの教えは、西洋の国々、そして特にアメリカ中で普及しています。 無律法主義は私達の二番目のテキストで完璧に次のように描写されています。

“というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです” (ユダの手紙第4節)。

無律法主義者達は、自分達は神の恵みによって救われたから罪を犯し続けられる、と言います。  彼らは何もあきらめる事は無いと言っています。 彼らは収入の十分の一も捧げる事無く、伝道もしません。 彼らは教会の集会にも出席しません! そして彼らは、これらの事への従順を主張する私達を“形式主義者”である呼んでいます。 それは無律法主義者達の得意な言葉の一つです。 彼らは従順なクリスチャン達に向かって、“形式主義者”もしくは“偽善者”とも呼んでいます。 しかし、彼らはそれらの言葉を誤用しているのです。 形式主義者や偽善者(パリサイ人)達は、人々は良い行いによって救われると教えています。 しかし私達は、神の恵みのみにより救われる、そうして良い行いは、真に救われた人の生活から湧き出てくると教えています。 形式主義者や偽善者達は、行いによってあなた方は救われると教えています。 真のクリスチャン達は、神の恵みがあなた方を救い、真の救いがその後で、全ての真の回心者の生活の中で、よい行いを生み出していると教えているのです。 形式主義者達は、良い行いが救いを生み出すと教えています。 私達は神の恵みが救いを生み出し、良い行いは結果として生じると教えています。 形式主義者達は、 良い行いが救いを生み出すと教えています。 私達は、救いが良い行いを生じさせると言いう―形式主義者の正に逆なのです! 彼らは、クリスチャンは教会に加わり、欠かす事無く毎週日曜日に教会に必ずしも出席しなくてはならないとさえ思っていません。 彼らは祈祷会へ必ずしも毎週出席しなくてはならないとも思っていません。 彼らは収入の十分の一を必ずしも納めなくてはならない、もしくは毎週伝道にいかなくてはならないとは思っていません。 彼らは慎み深い装いをする必要は無いと思っています。 彼らはしばしば、教会に、ビーチに行くような格好で出席しています、なぜなら、彼らは適切な服装に対して断固として反抗しているからです。 先週私の妻は、年老いた牧師のお葬式で、無律法主義派の牧師の十代の娘さんが超ミニスカートをはいているのを目にしました! 無律法主義の福音主義者が私達の教会に出席する時、私達は彼らにネクタイとシャツを着るよう彼らに与えます。 福音主義では無い、カトリック教信者、仏教信者、 また他の宗教の人達は誰もそれに対して抗議しません。 しかし、無律法主義の福音主義者達は常に、抗議します。 彼らはしばしばネクタイを取って床に投げ捨て、あるいは着用する事を拒否します。 彼らは適切な服装に対して強固に反抗します! 彼らには服装の規定は無いからです! 彼らには律法がありません。 彼らは全ての規則に対して反対します。 彼らは無律法主義者だからです! 更にまた、彼らは恥ずべき罪を悔い改め、それらの罪を止めようともしません。 他の言葉で言うならば、無律法主義者達は、ボーンアゲン・クリスチャンにはなれても、彼らの生活の中で、全く何の変化も必要ないと思っているのです! 

私達は、聖書が教えている事―恵みによる真の救いは、よい行いの生活を生み出す―を信じます。 それは多くの聖句によって非常に明白に示されています。 例えばエペソ人への手紙第2章にあるように、 

“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです” (エペソ人への手紙2:8-10)。

“良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです”-それは明白で明瞭です。 それは簡単に理解できるはずです。

 

しかし無律法主義者達は、それらの聖書の言葉を受け入れません。 彼らはそれらに対して抗議します。 彼らは、“裁いてはならない”と言います。 しかし、彼らはどの人達よりも独善的に非難するする人達です! 私自身の生活と奉仕の中で、私が体験した最悪な非難の幾つかは、邪悪な無律法主義の人達によるものでした。 私の最初の説教は、カリフォルニア州のハンティントン・パークで、私が会員であった教会の若者達の間で体験した無律法主義に対する説教でした。 私は当時17才でした。 若者のグループのリーダーは説教後私を呼び出し、その様な説教は決して二度と、してならないと私を非難しました。 彼が私を叱っている間、彼の助手が、若者達に、私は間違えており、私の説教によって腹立ててはならないと、告げました。 しかし何ヵ月か後に教会の子供達の両親が、この若い指導者が彼らの子供達と性交渉を持っていた事を知り、彼はその教会を追い出されなくてはならなくなりました。 何年かの間に、私が当時説教したほとんど全ての若者達が不敬虔な生活のゆえに、その教会から去って行くのを見ました。 神は、“ロバート、あなたは、無律法主義に対して説教をし続けなさい。 それは邪悪な異端である。 恐れてはならない。 大胆にそれに対して説教しなさい!”と私の心に告げられました。 

私は奉仕を通じてその様にしました。 北サンフランシスコの、マリーン・カウンティ地区の無律法主義派の教会の指導者に、そこで牧師の奉仕をしていた時に、私は“形式主義者”として、激しく非難されました。  後に、その人は彼の教会の女の子と性交渉を持っていた事が明るみになりました。 ロスアンゼルス市の西のウェストウッドで、ある“聖書の教授”である無律法主義者が、私を偽善者、そして危険な偽りの教師と呼びました。 彼が私達の教会のある若者と電話で会話を交わし、私の事を無茶苦茶に言っている時に、私はもう一つの電話のラインで聞いていました。 いきなり彼に“ハロー、ビル。 ハイマーズ牧師です”と私が言った途端、彼は叫んで電話を切りました。 彼の聖書のクラスの学生達は、麻薬を救い、日曜日の教会の出席に対して断固と反対していました。 それが、この無律法主義の“教師”が教えた事なのです。 何年か後に彼は、全ての“教会の職務”から外され-そして完全に無くなりました。 今日に至るまで、一人の無律法主義の女性が、私をインターネットで批難し、私を形式主義者、そして偽りの教師と呼んでいます。 彼女は手に銃を持ち、その銃が彼女に“打て、殺すまで打て”と告げると言っています。 私達は彼女をFBI(連邦捜査局)に報告しました。 しかししばらく前に、私はそれらの無律法主義者達の批難によって、さほどおびえさせられない事を学びました。 そのような批難は、古代にカインがアベルを殺した時以来、真のクリスチャンに対して続いているのです。 使徒ヨハネは兄弟カインによってアベルが殺された事を引用しています。 ヨハネは、カインについて、“彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 なぜ兄弟を殺したのでしょう。 自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。 兄弟たち。 世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません”(ヨハネの手紙第一3:12-13)と言いました。

無律法主義者は、“死んだ行ないからの回心”(ヘブル人への手紙6:1)についての強い説教を拒否します。 彼らは文字道理この種の説教を嫌悪します―そして、それを説教する牧師に挑むのです。 ヘロデは、罪からの回心を説教したバプテスマのヨハネの首を刎ねました。 ユダヤの議会(サンヒドリン)は、罪からの回心を説教したキリストの十字架刑を採決しました。 使徒パウロは、罪からの回心を説教したので“にせ兄弟の難に会い”(コリント人への手紙第二11:26;使徒行伝26:20, 21)ました。

献身的な無律法主義者は、回心しませんでした。 彼らは決して新生を体験しませんでした。 そして、文字道理彼らは、彼らに救われていない、ことを言う者を嫌悪します。 トーザー博士は、彼のエッセイ『The Once-Born and the Twice-Born』の中で彼らの憤慨について書きました。 彼は聖句から、決して新生を体験したことの無い人達は、新生(再び生まれかわること)を体験した人達に、いつも挑むことを、示しました。 無律法主義者達は、新生を体験した人達を見くびり、脅し、そして攻撃します。 トーザー博士は、“新生を体験した人たちに対するこの異常な怒りは、彼らは真実を教えていることを確認するだけに費やされている”(A. W. Tozer, D.D., “The Once-Born and the Twice-Born,” Man: The Dwelling Place of God, Christian Publications, 1966, page 21) と言われました。.

これがそのケースであるのは非常に悲しいことです。 無律法主義者の人たちが救われることを私達は節に望みます。 しばしば、彼らが救われることを私達は祈ります。 キリストが彼らの罪の贖いのために十字架で死んだことを知っています。 キリストは天国に生きているのを、彼らは知っています。 しかし、彼らは決して真に悔い改めをせず、真に彼に拠りどころを求めていません。 

今夜ここに、無律法主義者の人達がいるかもしれません。 間違った回心にしがみつき、こころの中で真に回心した人に挑んでいるかも知れません。 あるいは、この説教をインターネットで読んでいる、あるいは聞いている人達の中で、真の回心を持つことに対して葛藤しているでしょう。 私はあなた方に、“あなた方は死と、間違った証の腐った身体にしがみついている”と重い心でもって言います。 あなた方には、真の回心の平安と喜びが欠けているのです。 命を選びなさい! 命を選びなさい! 腐ったもの、そして間違った回心の腐敗した死骸を捨て去りなさい! そうして、あなた方自分自身をイエス・キリストに投げ出しなさい! 彼は、ご自身の尊い御血でもってあなた方の罪を清められるでしょう! 彼はあなた方を新しく創造され、神に敵対すのではなく、愛を持って神に従うよう、あなた方を新しく創造されるでしょう。 聖書はこう語ります、

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました” (コリント人への手紙第二5:17)。

あなた方が悔い改め、自分自身をイエスに投げかけるとき、あなた方は、『“I Surrender All.”』を歌えるでしょう。

我はすべてをイエスに帰す。 我はすべてを躊躇うことなく彼に与える。
   我は常しえに彼を愛し信頼する。 日々の生活に彼を慕う。
我はすべてを帰す。 我はすべてを帰す。
   我が祝福ある救い主に、我はすべてを帰す。

我はすべてをイエスに帰す。 我は謙虚に彼の足元にかがむ。
   世の楽しみは過ぎ去る。 イエスよ、我を導きたまえ、今導きたまえ。
我はすべてを帰す。 我はすべてを帰す。
   我が祝福ある救い主に、我はすべてを帰す。
(“I Surrender All” by Judson W. Van DeVenter, 1855-1939).

私達は、イエスによって救われることについてあなた方と話せます。 もし話がしたいのであれば、席を立って集会場の後ろに今行ってください。 ケイガン先生は、話が出来るよう、あなた方を静かな部屋へ案内します。 チャン先生、これらの招きに応じた人たちが今晩救われますことを、彼らのために祈ってください。 アァメン。

(説教終了)
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:エペソ人への手紙第2章4-10節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“I Surrender All” (by Judson W. Van DeVenter, 1855-1939).