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神の僕の苦悩と勝利

(イザヤ書第53章からの説教、その1)

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2013年2月24日、主の日の朝の説教

THE SUFFERING AND TRIUMPH OF GOD’S SERVANT!
(SERMON NUMBER 1 ON ISAIAH 53)
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Morning, February 24, 2013

“見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ”。(イザヤ書第52章13-15節、口語訳)

これらの聖句を開いておいてください。 ジョン・ギル博士(Dr. John Gill)、そして“大多数の”近代の注解者によると、これらの聖句は52章にではなく、53章に含められるべきです(Frank E. Gaebelein, D.D., The Expositor’s Bible Commentary, Regency Reference Library, 1986, volume 6, p. 300)。

13節から53章の12節に至るまでの節は、神の“苦しんでいる僕”について言及しています。 マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)は次のように述べています、

ここから始まり次の章の最後まで続いているこの預言は、イエス・キリストについて可能な限り明白に指適している;近代のユダヤ人達は、それを曲解しようと大いに努めているけれども、古代のユダヤ人達は、それが救世主の事であると理解していた・・・宦官に[この節から]キリストについて説いたピリポは、彼について、“ここで預言者が語っている彼”とはキリストのことで、他の何人でもないことを教え諭した。使徒行伝第8章34, 35節(Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson Publishers, 1996 reprint, volume 4, p. 235)。

古代のユダヤ・タルグム(Targum:旧約聖書のアラム語訳)は、古代の宗教指導者達、アベン・エズラ(Aben Ezra)とアルシェク(Alshech)が言ったように、それは救い主について言及している、と語っています(John Gill, D. D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume I, p. 309)。

歴史を隔て、クリスチャンの注解者達は、この節を主であるイエス・キリストについての預言と理解しています。 スポルジョン(Spurgeon)は次のように言いました、

それ以外にどのように理解できるであろうか?その預言者は他の誰を指す事が出来たか?もし、ナザレのその方、神の御子が、これらの三つの節の中で明らかでなければ、それは真夜中の暗闇それ自体と同じように、暗闇そのものである。我々はそれらの言葉を主イエス・キリストと結びつける事を一瞬たりとも躊躇はしない(C. H. Spurgeon, “The Sure Triumph of the Crucified One,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1971 reprint, volume XXI, p. 241)。

すでにマチュー・ヘンリーが解説しているように、伝道者ピリポは、この聖書の節はキリストの苦しみを預言していると言いました。

“宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。 自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝えた”(使徒行伝第8章34-35節)。

古代のタルグム、古代の宗教指導者達、伝道者ピリポ、そしてその時代時代の注解者達以上に、私達は更に詳しく言及することはできません。 今日のテキストの一語一語が、メシヤ、救い主である主イエス・キリストについての予言なのです。

I. 最初に、キリストの神への奉仕を理解する。

13節は父なる神の御言葉です。

“見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる”(イザヤ書第52章13節)。

神は私達に、彼の“僕”に目を向けるよう言われました。 イエスがこの地上に降りて来られた時、彼は、

“おのれをむなしうしてのかたちをとり、人間の姿になられた”(ピリピ人への手紙第2章7節)。

地上での神の僕として、キリストは慎重にことに対応され、賢明に行動されました。 この地上における奉仕の期間、イエスが語られ、そして行われた事は、大いなる知恵で成されました。 少年の時に、神の宮の中で宗教指導者達は彼の知恵に驚かされました。 パリサイ人やサドカイ人達は、彼に答える事が出きませんでした。 そして、イエスが話された時、ローマ総督のピラトの口は閉ざされました。

そして、私達のテキストは神の僕についてこのように述べています、

“わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる”(イザヤ書第52章13節)。

現代英語の言葉では、“上げられる”、“高く上げられる”、そして“非常に高く引き上げられる”、と言い表すことが出来ます。 ヤング博士(Dr. Young)は、“ピリピ人への手紙第2章9-11節、そして使徒行伝第2章33節で描写されている、キリストの高く上げられることを思わされずには、これらの言葉を読む事は不可能である”と言っています(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah, Eerdmans, 1972, volume 3, p.336)。

“それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった”(ピリピ人への手紙第2章9-11節)。

“このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、・・・それをわたしたちに注がれたのである”(使徒行伝第2章32-33節)。

“見よ、わがしもべは栄える。彼は高められあげられひじょうに高くなる”(イザヤ書第52章13節)。

高められ-“あげられ”。 あげられ-“引き上げられ”。 ひじょうに高く-“高く上げられる”。 ここには、キリストの高く上げられる段階が表されています。 彼は死からよみがえられました! 彼は、昇天時に天まで引き上げられました。 彼は今、神の右座におられ、あなた方の為に祈っておられのです! 高められ-“あげられ”! あげられ-“引き上げられ”。 ひじょうに高く―天の神の右座へと! アァメン!

彼は死なれ、引き上げられ
   “すべては終わった”と叫ばれた
今では天へと高く上げられた
   ハレルヤ! 何という救い主よ!
(“Hallelujah, What a Saviour!” by Philip P. Bliss, 1838-1876).

“わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる”(イザヤ書第52章13節)。

イエスは今、そして永遠に、父なる神の僕-神の御子-死からよみがえられ、天に上がられ、御父の右座におられる方なのです! ハレルヤ! 何とすばらしい救い主であられるか!

II. 次に、罪の為のキリストの犠牲を理解する。

14節を声を上げて読んでください。

“多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである”(イザヤ書第52章14節)。

ヤング博士は、“その僕のひどく外観を損なった姿は、畏れによりぞっとさせ、衝撃を与える[であろう]・・・彼の外観の損ないはあまりにもひどく、人としての姿を彼には見ない[であろう]・・・彼の外観はあまりにも損われており、彼はもはや人のようには見えなくなった。 これは、イエスの苦しみがどんなにひどいものであったかの非常に鋭い表現である”(同著、pp.337-338)。 

苦痛を受けられた間、イエスの顔だちは無慈悲にも損なわれました。 彼が十字架につけられる前の晩に、彼は“苦しまれた”。

“そして、その汗が血のしたたりのように落ちた” (ルカによる福音書第22章44節)。

これは彼が捕らえられる以前の事でした。 ゲッセマネ園の暗闇の中で、あなた方の罪に対する裁きがキリストに置かれ始めました。 兵卒達が彼を捕らえに来た時、彼の体はすでに血に染まっていました。

そこで彼らはイエスを捕らえ、彼の顔を殴りました。 他の節でイザヤは、苦しまれている僕が言われた事をこう述べています、

“わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった”(イザヤ書第50章6節)。

ルカは、“かれらはイエスを打ちたたき”(ルカによる福音書第22章64節)と言っています。 ピラトは、“イエスをむち打った”(マルコによる福音書第15章15節)、とマルコは語っています。 ヨハネはこのように告げています、

“そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 そして平手でイエスを打ちつづけた”(ヨハネによる福音書第19章1-3節)。

そうして、彼らはイエスの手と足を十字架に釘づけにしました。 ヤング博士は、“あまりにもひどいため、彼はもはやひとの姿を成していなかった”(同著、p. 338)と語りました。

“多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである”(イザヤ書第52章14節)。

ほとんどの現代の絵画は、兵卒達がキリストを鞭打ち、殴り、そして十字架につけた後のキリストの様子を描写した、メル・ギブソンによる“キリストの受難”ほども的確ではありません。

スコーフィールド・スタディー・バイブル (The Scofield Study Bible)はこの節について、“その文字どおりの解釈は恐ろしげである。‘彼の顔立ちは、損なわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである’。 言い換えれば、人のようではない-残虐行為の結果はマタイによる福音書第26章に描写されている・・・”ジョセフ・ハートの賛美歌を聞いてください。

とげで彼のこめかみは突き刺され、深く傷つけられ
すべての傷から血の流れがほとばしり、
彼の背はからまるむちで激しく打たれ、
そして、さらに鋭いむちは彼の心を引き裂く

むき出しにされた身体を のろわれた木につけられ、
地と天にさらけ出され、
血と傷による哀れな光景よ
何たる傷つかれた愛よ!
   (“His Passion” by Joseph Hart, 1712-1768;
   to the tune of “‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow”).

何ゆえ、愛する救い主よ、教えたまえ
何ゆえ、そなたは血まみれの苦しまれる方となられたか?
何なる力強き動機がそなたを動揺させたか!
その動機は明白なり-それはすべて愛の故!
   (“Gethsemane, the Olive-Press!” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow”).

何ゆえ、愛する救い主よ、教えたまえ、なぜそなたの顔立ちは、“そこなわれて人と異なり、[そなたの]姿は人の子と異なっていた”のかを? その答えは、53章の12節の終わりに、“彼は多くの人の罪を負い”と書かれています。 これはあなた方の罪のための、彼の犠牲、身代わりとなる犠牲です―キリストはあなた方の罪のために十字架の上で、あなた方に代わって苦しまれ、そして死なれたのです! そのように、私達はキリストの神への奉仕を理解します。 そのように、私達はあなた方の罪を償う為のキリストの犠牲を理解します。

III. 最後に、キリストによる救いが応用される事を知る。

起立してイザヤ書第52章15節を声を上げて読んでください。

“彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ”(イザヤ書第52章15節)。

着席して下さい。 ヤング博士はこの節で、14節でのキリストによる身代わりの犠牲、そして彼の苦しみが説明され、応用される、と言いました。

その預言者は、なぜ彼[キリスト]が外観を損なわれたかを説明している。それゆえ・・・この外観の損なわれた状態によって“彼は多くの国民を驚かす”。[その]外観を損なわれた者、すなわち僕は、罪を清める儀式を行う事によって、他の者達の為によき事を行う。[苦しみの中で]彼の外観の損ないは・・・彼、ご自身が国民の為の清めをもたらそうとされている状態であった。 “彼は驚かす”の動詞は、清めの為の水または血をふりかけることを物語っている・・・ここで示されているのは、[大祭司としてのキリスト]の奉仕であり、この奉仕の目的は、他の者達に清めと浄罪をもたらす事である・・・大祭司として彼自身が水と血をふりかけ、そのようにして多くの国民を清めるのである。彼は、苦しみを受けられる者として、すなわち清めのための苦しみをもって、これを行う・・・ そしてその苦しみは、彼を注視する者達の態度の中に重大な変化をもたらす(同著、pp.338-339)。

この預言の正確な成就で、キリストの福音の説教は、ユダヤ教の拘束から離脱し、普遍の宗教となりました。 最初の一世紀の初めから“多くの国民”は伝道されました。 そして、全世界における人々はイエスの血によって清められ、キリストによる救いへと彼らを導き、ヤング博士が言ったように、“彼に注視する者達の態度の中に重大な変化をもたらした”のです。 この世の全ての国家の王達が救われた者達ではないにしても、初期の歴史におけるキリスト教の普及を通して、彼らは少なからず、“口をつぐんだ”、そして、彼に反する事もなく、外見上のクリスチャンとなりました。 今日の時代、エリザベス女王二世(Queen Elizabeth II)でさえも、ウエスト・ミンスター寺院(Westminster Abbey)でのクリスマスのようなクリスチャンの行事の時に、“彼のゆえに”口をつぐみ、キリストの前に沈黙の敬意で頭をさげました。 多くの他の西洋や東洋の君主主義の国々でも、少なからず、キリストに対して外見的な敬意を表し、そしてビクトリア女王(Queen Victoria)のように、彼らの多くは外見的な敬意を表す以上の事をし、事実、キリスト教初期の時代においては、コンスタンチン皇帝(Emperor Constantine)はそうしました。 また他の多くもそうしたのです。

“それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ”(イザヤ書第52章15節)。

ここで預言者によって預言されたように、キリストの福音は世界の国々へと普及していきました。

“彼は多くの国民を驚かす”(イザヤ書第52章15節)。

外見上のクリスチャンであるアメリカ合衆国の大統領でさえ、毎週日曜日に教会で頭を垂れ、“彼のゆえに[自分の]口をつぐむ”のです。

しかし、ここで語らなければならない事は、このすばらしい預言は、ヨーロッパや、英国、そしてアメリカでは、かつてのようには述べられていません。 西洋諸国の教会は、“自由主義派”からの聖書に対する攻撃のゆえに混乱が起こっており、フィニー(Finney)による福音の曲解を通して西洋の教会は弱められ、近代いろいろな形で、彼の悪魔のような“決断主義”の方法を信奉する者達のゆえに、動揺が起こっているのです。 であるにしても、第三世界の多くの国々では、かって弱められた西洋の教会で見られたような、力強い覚醒とリバイバルが未だに大いに起こっています。 喜ばしいことに、中国、東南アジア、アフリカ、インド、中南米、そしてメキシコの国々では、福音を語る教会に人々は洪水のように、今この時、押し寄せています! もちろん、彼らはしばしば迫害を受けますが、二世紀にテルトゥリアヌス(Tertullian)が言ったように、“殉教者の血は、教会の種である”のです。 これは今日、しばしば“第三世界”と呼ばれる国々を通して、真実なことなのです。 一方、アメリカや一般的な西洋諸国は、キリスト教の伝統的な背景から離れ落ち、ヒューマニスティックな、懐疑的な、霊的混乱に陥っているのです。 偉大なスポルジョンは次のような予言しました、

イエスは、ユダヤ人だけでなく、他のすべての異邦人に対して語りかけるであろう・・・すべての土地は、汝の語るのを聞き、にわか雨が芝に降り注ぐように、汝がやって来られるのを感じる。はるかかなたの浅黒い部族、そして陽の没する土地の住人は、汝の教えを聞き、それを飲み干すであろう・・・汝は、汝の恵みあふれる御言葉でもって、多くの国民に語りかけるであろう(同著、p. 248)。

スポルジョンの“預言的”メッセージは、彼がそれらの言葉を宣べた100年前以上に、今日ではより真実味をおびています。 私達はそうであることに喜びを禁じえません!アァ メン!

この約束は完全には成就されていません。 しかし、そうなるでしょう―主がそのように言われたのですから―預言者イザヤによって。 彼はこのように言いました、

“もろもろの国は、あなたの光に来”(イザヤ書第60章3節)。

“もろもろの国の宝が、あなたに来るからである”(イザヤ書第60章5節)。

“見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る”(イザヤ書第49章12節)。

中国の初期の宣教師であったジェームズ・ハドソン・テイラー(James Hudson Taylor)はしばしば、“スエネ”は中国の地であったと言いました。 そのように、スコーフィールド・スタディー・バイブルのイザヤ書第49章12節の注意書きにも書かれています。 今日私達の目前で起こっている中国の出来事を見るとき、誰がテイラー、そしてスコーフィールドに反対すでしょうか? 確かに、それは少なくとも応用として、真実なのです! 中華人民共和国では、毎時間数千人の人達がキリストに回心しています。 そして、はるかかなたの多くの土地でも起こっているのです。 そのことに喜びを禁じえません!

新生児の中絶により毎日三千人もの無力な子供達を殺害し、数千もの教会を閉ざす、ここアメリカとは異なり、はるかかなたの地で、神の働きが育ち、普及するでしょう! 神は、彼らにより多くの回心者を加えてくださるでしょう! 神は、キリストを知る者達、そして彼の名のために喜んで苦しむ人達に、多くの国民の間で、彼らに栄冠を与えてくださるでしょう!

しかし、私は今朝あなたにお尋ねします、“あなたはキリストを知っていますか? あなたは、あなたの罪(そうです、あなたのです!)の罰のために‘彼の顔だちは、そこなわれて人と異な’ったイエスを、信仰をとおして目を向けた事がありますか? イエスは、彼の御血を、天の神の書物に記録されているあなたの罪にふりかけましたか? この世の罪を取り除く神の小羊の血により、あなたは洗い清められましたか? そして、もしそうでなかったならば、イエスの御前で、‘口をつぐみ’ませんか? そして、イエスにひざまずき、彼をあなた自身の主・救い主として受け入れませんか?  今、そのようにされませんか?”

起立してソングシートの賛美歌7番を歌って下さい。

計り知れぬ人類の罰は、救い主の身に置かれ、
   苦悩を身にまとい、罪人のために彼は召され
罪人のために彼は召され

死への激痛の中、彼は我が為に祈られ、
   十字架に釘づけにされたとき 我が身の罰はゆるされた
十字架に釘づけにされたとき

あぁ、驚くべき愛! 言葉で言い尽くせない愛
   永遠に歌われる主題の愛
永遠に歌われる歌
   (“Love in Agony” by William Williams, 1759;
       To the tune of “Majestic Sweetness Sits Enthroned”).

もしイエスを信頼しクリスチャンになることについて私達と話がしたいのでしたら、今会堂の後ろに移ってください。 ケイガン先生が、話が出来る静かな部屋へ案内します。 今行ってください。 チャン先生、彼らのために祈りを捧げてください。 アァメン。

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here) – or you may
write to him at P.O. Box 15308, Los Angeles, CA 90015. Or phone him at (818)352-0452.

アベル・プルードム氏による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第27章26-36節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Love in Agony” (by William Williams, 1759;
sung to the tune of “Majestic Sweetness Sits Enthroned”).

要 綱

神の僕の苦悩と勝利

(イザヤ書第53章からの説教、その1)

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

“見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ”。 (イザヤ書第52章13-15節、口語訳)

(使徒行伝第8章34-35節)

I.   最初に、キリストの神への奉仕を理解する。
イザヤ書第52章13節; ピリピ人への手紙第2章7節;
ピリピ人への手紙第2章9節; 使徒行伝第2章32-33節。

II.  二番目に、罪の為のキリストの犠牲を理解する。
イザヤ書第52章14節; ルカによる福音書第22章44節;
イザヤ書第50章6節; ルカによる福音書第22章64節;
マルコによる福音書第15章15節;
ヨハネによる福音書第9章1-3節; イザヤ書第53章12節。

III. 最後に、キリストによる救いが応用される事を知る。
イザヤ書第52章15節; イザヤ書第60章3, 5節;
イザヤ書第49章12節。