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ゲッセマネの園でのキリストの苦しみ

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

CHRIST’S AGONY IN GETHSEMANE

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2012年3月18日、主の日の晩の説教

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

先週の日曜日の晩の集会で、私は“キリストの涙”に関して説教しました。 ここをクリックしてそれを読んで下さい。 その説教の最後のポイントは、“イエスはゲッセマネの園で涙を流された”でした。 私は“ゲッセマネの園で、十字架に釘付けにされる前の晩、イエスは苦しみ、そして一人で祈られました。 ゲッセマネの園の暗闇の中で、救い主は御自身の魂を、神への祈りに注ぎました。 ヘブル人への手紙第5章7節に書いてあるとおり、彼は祈られました、“激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、・・・その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである”(ヘブル人への手紙第5章7節)。 彼は何を恐れられたのでしょうか? 彼は、十字架で私たちの罪の贖いのために死なれる前に、ゲッセマネの園で死なれる事を恐れられたのだと、私は信じます”と言いました。

私は、“イエスは、死の杯が彼を過ぎ去ることを祈られた、それは、翌日彼が十字架で死なれる為に”とライス博士の言葉を引用しました。 そして、イエスが“十字架での御自身の使命のために、ゲッセマネの園で死から導き出されることを祈られた”と言った神学者オリバー・バスェル博士の言葉を引用しました。 そうして、“友よ、彼は祈りを聞かれた、彼はゲッセマネの園で死なれなかった”と言ったマックギー博士の言葉も引用しました。 また私は、イエスは神によって彼に負わされた私達の罪の為に、苦しみもだえられた、とも言いました。

その説教を読んだある人が私に、なぜイエスは十字架に行かれなければならなかったのかと尋ねました。 なぜイエスはゲッセマネの園で私達の罪の為に死ぬ事が出来なかったのでしょうか?  私は彼に、そのような事は不可能でしたと答えました。 聖書はこのように言っています。 

“すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節)。

キリストは“聖書に書いてあるとおり”死ななければならなかったのです。 もし彼がゲッセマネの園で死んでおられたならば、彼は旧約聖書で預言された救い主ではなかったでしょう。 彼は詐称者であり、預言された救い主ではなかったでしょう! 彼は、カタ タス グラファス、すなわち“聖書に書いてあるとおり”死なれなければならなかったのです。 その“聖書”とは旧約聖書を指しています。 なぜなら新約聖書は未だ書かれていなかったからです。 イエスはゲッセマネの園に入ろうとされる時、彼は“罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない”(ルカによる福音書第22章37節)と言われました。 イエスは、二人の強盗達の間で十字架に付けられる事によってその聖句を成就しなければならなかったと言って、イザヤ書第53章12節を引用されました。 もしイエスが、ゲッセマネの園で死んでおられたならば、彼はイザヤ書第53章12節を成就しておらず;彼は、カタ タス グラファス、すなわち“聖書に書いてあるとおり”死んでおられなかったでしょう。 彼はイザヤによって預言された救い主ではなかったのです!

イザヤ書第53章は、キリストの受難について旧約聖書における完璧な預言を表しています。 実際その言葉は、イザヤ書 第53章13節で始まっており、英語の聖書では15節ほど続いています。 それは、キリストの受難について次々と預言しています。 もしイエスがゲッセマネの園で死んでおられたならば、キリストの受難についての多くの預言が成就されなかったでしょう。 キリストの鞭打ち、恥、そしてつばをかけられた事などが預言されているイザヤ書第50章6節は成就しなかったでしょう。

彼の手と足が刺し貫かれた事を預言した詩篇第 22篇16節は成就しなかったでしょう。 そして、ゼカリヤ書第12章10節の“彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ(新共同訳)”も成就しなかったでしょう。 イエスがゲッセマネの園で死んでおられたならば、預言が次々と記されている詩篇第 22篇も成就しなかったでしょう。 そして、イエスがゲッセマネで死んでおられたならば、その他の多くの旧約聖書の御言が成就されなかったでしょう。 イエスがゲッセマネの園で、“激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ”られたのも不思議ではありません。 “そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである”。 イエスは、ゲッセマネの園で死なれ、翌日十字架に行く事が出来ない事を恐れられたのです! カタ タス グラファス、すなわち“聖書に書いてあるとおり”、彼は死ななければならなかったのです。 キリストは彼が十字架に付けられた時に詳細に記述された旧約聖書の預言を成就されたのです。 もし彼がゲッセマネで死んでおられたならば、これらの預言は成就されなかったのです、そしてキリストは、聖書によって預言された人類の救い主ではなく詐称者となったでしょう。 キリストが、“聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節)はなかったでしょう。 キリストが、“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください”(ルカによる福音書第22章42節)と祈られた事も、不思議ではありません。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください”(ルカによる福音書 第22章42節)。

“苦しみ(agony)” と訳されたギリシャ語は“アゴニア(agonia)”です。 それは、“激しい感情・・・・の”(Vine)を表します。 イエスは、非常な苦しみ、苦脳、そして痛みを、そこの暗闇で体験されたのです。 今晩、彼のゲッセマネでの苦悩について考えて見ましょう。 

I. 最初に、彼の苦悩。

イエスは、彼の弟子達と共に過ぎ越しの食事をなさいました。 彼は最初の主の晩餐を彼らと共にそこでされました。 ユダはその集まりから出て行き、祭司長のところに行き彼を裏切りました。 残った弟子達は賛美をし、ケドロン谷を渡り、オリブ山のふもとからゲッセマネの園の暗闇へと行きました。 イエスは、ゲッセマネの園の入り口に彼の弟子達を残して、“わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい”(マルコによる福音書第14章32節)と言われました。 そこで彼は、“恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」”(マルコによる福音書第14章33-34節)と言われ、ゲッセマネの奥の方にペテロ、ヤコブ、そしてヨハネをつれて行かれました。 ジョセフ・ハートはこのように言い表しています。

彼は、多くの苦悩を堪えられ
   多くの悲しき嘆きにあわれ
苦しき痛みに慣れられる
   しかし大いなる悲嘆なる試みはまだ訪れない
あなたさまに 担われる
   暗い、悲しみのゲッセマネ!
あなたさまに 担われる
   暗い、悲しみのゲッセマネ!
(“Many Woes He Had Endured” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “Come, Ye Sinners”).

マタイは、イエスが“悲しみを催しまたもだえはじめられた”(新共同訳、マタイによる福音書第26章37節)と書いています。 “もだえ”と訳されたギリシャ語に関して、グッドウィン(Goodwin)は、その言葉が“人々からの離脱-人間の状態から引き離された、動転状態の人”という意味であるから、イエスの苦しみによる動揺、もしくは錯乱があったと書いています。 すばらしい思案です! イエスは彼の強烈な苦しみによって、錯乱状態の間、狂気に近い状態となられました。 マタイは、救い主が“わたしは悲しみのあまり死ぬほどである”(マタイによる福音書第26章38節)と言われた言葉を引用しています。 “悲しみのあまり”と訳されたギリシャ語は、“悲しみに取り囲まれる、強烈に悲しむ”(ストロング・コンコーダンス)、悲しみによって苦しめられると言った意味です。 “彼は悲しみに陥られ、そして休息の間もなく”とグッドウィンは書いています。 リエンネッカー(Rienecker)は、彼は“悲しみで満ちていた、苦痛で圧倒された”と言っています。 イエスは悲痛と深い悲しみに浸されていました。  イエスは“ひどく恐れてもだえ始め”(新共同訳、マルコによる福音書第14章33節)と マルコは告げています。 “ひどく恐れて(英語でsore amazed)”と訳されたギリシャ語は、“非常に驚かされる”(Strong)、“周りの恐怖によって襲われる”(Rienecker)、“非常に悩まされる、恐怖に投げ込まれる、完全におびえさせられる、恐怖で満たされた、恐怖で抜け出せない”(Wuest)といった意味です。 ジョセフ・ハートはこのように表現しています。

神の選ばれし聖人よみな来たれ
   洗い清める血を請い願う者よ
今、私の思いは充足す
   悲しきゲッセマネを歌うために

主の生き様は現れる
   吐息し、戦かれ、祈られ、恐れられ
すべてはイエスに負わされる
   十分な強靭さでもって
(“Gethsemane, The Olive-Press!” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow”).

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

II. 次に、キリストの苦痛の原因。

ゲッセマネの園でのキリストの苦脳の原因は何だったのでしょうか? 私は、彼の苦脳はサタンによる攻撃であると以前は思っていました。 しかし今はそれが原因であったとは思いません。 悪魔のことは、ゲッセマネでのキリストの苦悩に関するどの記述にも書き出されていません。 キリストのご奉仕の初めの方で彼は、悪魔によって激しく誘惑されました。 荒野で三回“試みる者がきて”(マタイによる福音書第4章3節)と書いています。 しかし私達は、イエスがそれらの誘惑の時に、“ひどく恐れてもだえ始め”とは理解していません。 そこには、ゲッセマネの園で血を流されたような事は全く書かれていません。 彼が荒野で誘惑されている間、イエスは神の御言葉を唱える事によって比較的容易に悪魔に打ち勝たれました。 しかし、ゲッセマネの園での彼の苦しみは非常に激しく、それは彼を死に直面させるほどでした。 マックギー博士は言いました、“ゲッセマネの園でキリストが、 ‘この杯をわたしから取りのけてください’(ルカによる福音書第 22章42節)と祈られた時、その杯は死を意味した。 彼はゲッセマネの園での死を望まれなかったのである”(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, volume V, p. 540; note on Hebrews 5:7)。

ゲッセマネの園での非常な苦しみは、父なる神によって下されたように私には思え、私はそのように信じます。

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
       (イザヤ書第53章6節)。

スポルジョンは、ゲッセマネの園で、父なる神が、“わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた”(コリント人への第二の手紙第5章21節)と告げています。 “キリストはそこで、罪人に値すべきのろいを負われたのである。 なぜなら、彼は罪人の代わりとなられ、罪人の代理として苦しまなければならなかったからである。・・・キリストはそこでおそらく初めて、それが罪を負う者となる事であったと知られたのであろう・・・なぜならそれが全て彼の上に置かれたからである”(C. H. Spurgeon, “The Agony in Gethsemane,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1971, volume XX, p. 593)。

贖いの日に、二匹のヤギがアロンによって使われました。 ゲッセマネの園のキリストは、二匹目のヤギとして描写されました。 二番目のヤギは、罪の為のいけにえとされた時、非常な苦痛を体験しました。 その動物が体験した恐れと苦痛は、キリストの苦悩についてのほんの小さな描写、もしくは典型でした。 イエスのゲッセマネでの苦脳は、非典型、成就なのです。

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

預言者のイザヤは言いました、

“しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、・・・”(イザヤ書第53章10節)。

当然このことはゲッセマネの園で始まったのです!

よびとのつみゆえ    なやみたもう主を
あまつかみなどて
   すてさることあらん
(“‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow” by William B. Tappan, 1794-1849).

“よびとのつみゆえ なやみたもう主(この真夜中に、他の者の罪ゆえ、悲しみの人は血に咽ぶ)”。 ジョン・ギル博士は言いました、“彼は打たれ傷つけられ、神は彼をなやまされる。 彼の悲しみは今始まる。 彼の悲しみはここでは終わらず、十字架で・・・彼は、彼の民の罪の重さゆえ、そして、神聖なる怒りによってもだえ始める。 彼は気を失い死へと沈むほどに砕かれ・・・死の塵へと運ばれ・・・彼の魂と身体が互いに十字架で離れるまで、彼の悲しみは彼から離れない”(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume I, p. 334)。

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”(イザヤ書第53章6節)のは、ゲッセマネの園でした。 ジョセフ・ハートは言いました、

そこでは[神の御子]は私のすべての罪を負うた
   恵みによりこのことを知ることができる
しかし、彼が受けた苦難は
   あまりにも莫大で理解に耐えない
誰一人としてこの苦悩を耐え忍ぶことはできない
   あぁ、暗闇のゲッセマネ!
誰一人としてこの苦悩を耐え忍ぶことはできない
   あぁ、暗闇のゲッセマネ!
(“Many Woes He Had Endured” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “Come, Ye Sinners”).

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

苦悩される神の御子をみよ
   あえぎ、もだえ、血の汗を流される!
神聖なる 計り知れない[めぐみ]の深さ!
   イエス、汝の愛は!
(“Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow”).

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
      (イザヤ書第53章6節)。

キリストは、ゲッセマネの園で私たちの罪を“ご自身に”負い、翌日死ぬ場所の十字架までもって行ったのです。 彼が血の汗を流すまで彼を砕いたのは、私たちの罪なのです!

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

そうです、彼はご自分の身に私たちの罪を負われ、十字架までもって行ったのです。

“・・・十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。・・・”(ペテロの第一の手紙第2章24節)。

ゲッセマネの園へ行き、イエスがあなた方と私のためになされたことを見なさい。 私たちは、私たちの罪のために地獄へ下らなければならなかったでしょう。 しかし、イエスはそれらの罪をご自分に負いました。 そして、私たちの不義の罰を完全に贖うために、その園と十字架で生き地獄にいるような体験をされたのです。

クリスチャンの人たちは、しばしばゲッセマネの園と十字架に思いをはせるべきです。 ゲッセマネと十字架は切り離すことのできないものです。   “・・・救いにあずかるわたしたちには、[十字架は]神の力である”(コリント人への第一の手紙第1章18節)。 私たちは、キリストのゲッセマネの園と十字架でなされたことによって、神のために生きる力を与えられるのです! 私たちは、キリストの苦しみを思うことによって、彼のために生きることを教示されるのです!

十字架のかげに
   ゆきしときに
みかみのあいを
   さとりえたり
おらせたまえ
   このみを主よ
十字架のかげに
   とこしえまで
(“Near the Cross” by Fanny J. Crosby, 1820-1915).

まだ救われていないあなた方に言います、ゲッセマネの園で、暗闇の中、あなた方のために苦悩され血を流される彼を、あなた方はどのように見ることができるのでしょうか、そして何ゆえあなた方は彼に背を向けることができるのでしょうか? 彼はあなた方の罪のために苦しまれているのです! あなた方は、どのようにして彼を否定し、彼の愛を拒否できるのですか?

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

苦悩される神の御子をみよ
   あえぎ、もだえ、血の汗を流される!
神聖なる 計り知れない[めぐみ]の深さ!
   イエス、汝の愛は!

イエスは、ゲッセマネの園でご自分の身にあなたの罪を負いました、なぜなら、彼はあなたを愛しているからです!

聖なる神に反する罪
   神の義なる律法に反する罪
神の愛、御血に反する罪
   神の御名と御業に反する罪
あぁ、大海のような罪の数々
   ゲッセマネよ、私を隠したまえ!
あぁ、大海のような罪の数々
   ゲッセマネよ、私を隠したまえ!
(“Many Woes He Had Endured” by Joseph Hart, 1712-1768;
     to the tune of “Come, Ye Sinners”).

今夜、あなたは彼を信頼しますか? 永遠の愛でもってあなたを愛する彼に来ますか? 苦悩される救い主を信じなさい! 今、その方に拠り頼みなさい! 汝の罪は、彼によってゆるされ、汝は常盤の命をもつでしょう! 

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マルコによる福音書第14章32-41節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow” (by William B. Tappan, 1794-1849).

要 綱

ゲッセマネの園でのキリストの苦しみ

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

(ヘブル人への手紙第5章7節;
コリント人への第一の手紙第15章3節;
ルカによる福音書第22章37節;イザヤ書第53章12節;
イザヤ書第50章6節;詩篇第22篇16節;
ゼカリヤ書第12章10節;ルカによる福音書第22章42節)

I.   最初に、彼の苦悩。
マルコによる福音書第14章32, 33-34節;
マタイによる福音書第26章37-38節。

II.  次に、キリストの苦痛の原因。
マタイによる福音書第4章3節;
イザヤ書第53章6節;
コリント人への第二の手紙第5章21節;
イザヤ書第53章10節;
ペテロの第一の手紙第2章24節;
コリント人への第一の手紙第1章18節。