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マーティン・ルター、そして悪魔

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

MARTIN LUTHER AND THE DEVIL

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年10月31日、宗教改革記念の主の日の晩の説教

“あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている”
(ペテロの第一の手紙第5章8節)。

[偉大なバプテスト教派の説教者であるチャールズ・スポルジョンによるルターの伝記概略は、スクロールしてこの説教の最後で見ることができます。]

この聖句に関して、マーティン・ルター(1483-1546)は、“休む事の無い悪霊は、狡猾で邪悪である。・・・彼は、全てを食い尽くす、空腹でほえたけるライオンのように歩き回る”と言っています(Martin Luther, Th.D., Commentary on Peter and Jude, Kregel Classics, 1990 reprint, p. 218; comment on I Peter 5:8)。

レンスキ博士は、“ネロの支配下であったその当時、恐るべき迫害のどよめきが哀れなクリスチャンの犠牲者達に聞かれた。 西暦64年の10月に、その強襲が突発した。 ペテロ自身も[殉教者]となった。・・・悪魔は常に[このように]ほえたけるのではない。・・・”(R. C. H. Lenski, Th.D., The Epistles of St. Peter, St. John and St. Jude, Augsburg Publishing House, 1966, p. 225)。

最初の三世紀の間、何千人ものクリスチャンたちが、古代ローマの闘技場でライオンにばらばらになるまで食いちぎられた時、悪魔はほえたけた。 ペテロは次のように言った時、疑いもなくそのことを考えていたのでしょう。

“あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている” (ペテロの第一の手紙第5章 8節).

悪魔はこのように、ルターの厳しい尋問の間にほえたけたことでしょう。 そして、ユダヤ人虐殺の間、中国の文化大革命の間ほえたけました。 そして現在、世界の多くの国々のイスラム教過激派の支配下で、このようにしているのです。

しかし悪魔は、ここ、西洋の国々では“ほえたけ”てはいません。 ここアメリカでは、悪魔は人々を“食いつくす”為に更なる巧みなわなを使っています。 悪魔は物質主義(霊的な事を否定する主義)を利用し、私達を眠りにつかせ、悪魔の存在を私達に気付かせないようにしています。 しかし悪魔は、アメリカや西洋で密かに活発に活動しています。 ここでは目に見えない密かな方法で悪魔は働いていますが、彼の最終の目的は同じで、“食いつくすべきものを求めて”いるのです。 キリストは、悪魔は“初めから、人殺しであって”(ヨハネによる福音書第8章44節)と言われました。 悪魔の名前の一つは、“アバドン”(ヨハネの黙示録第9章11節)です。 “アバドン”は“破壊者”という意味です。 悪魔の目的は、公然と、密かに、人間の魂を“食いつくす”、“殺害する”、“滅ぼす”事なのです。 

悪魔の密かな働きに、彼は非常に成功しており、多くのアメリカのバプテスト教派の牧師達は、サタンや悪魔に関しての全体的な説教をする事は、全くもしくはまれにしかありません。 彼ら自身の教会内においても、多くの説教者は悪魔の活動の現実性に対してなんとも盲目ではないでしょうか! 

アメリカ人は何と霊的に愚かになってしまったのでしょうか! アメリカは、感謝祭、クリスマス、そして復活祭を私達の公共の学校から禁止する事を許可しました。 しかしハロウィーンに関しては、子供達が眺める為に、ほとんど全ての教室は、口から血を流しているような悪魔や骸骨、そして魔女と吸血鬼などで飾り付けされています。 聖書は、“彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり”(ローマ人への手紙 第1章22節)と言っています。 そして、シェイクスピアは、“これらの人間は何と愚かであるか”と言いました。 

マーティン・ルターに戻ります。 彼はしばしば20世紀のリベラルな“学者達”から、サタンと悪魔について重要視し過ぎた事で非難されています。 エワルド・プラス(Ewald M. Plass)のような保守的な近代ルーテル派でさえも、ルターの悪魔についての重要視を幾分批判しています。 プラスは、“ルターは、当然、当時の受け入れられていた多くの迷信などを一緒にしていた。 自然に起こった状況を悪魔の力による仕業としばしば解釈していた事は疑いも無い”と言いました。 しかしながら、プラスは、“悪魔は、[ルターの時代には]現在よりもより顕著に活動的であったのかもしれない。 なぜなら、彼はどれほど危うくなるかを感じ取っていた”と言って自分自身を正当化しています。 デイビッド・ラーセン(David L. Larsen)もまた、“ルターは、中世に生きていた人である、・・・ルターは、最後の審判が急速に近づいている間、‘神と悪魔の間の完全なる衝突の中に閉じ込められていた’全ての人達を見ていた”(David L. Larsen, M.Div., D.D., The Company of the Preachers, Kregel Publications, 1998, p. 153) と言って、ルターのサタンや悪魔についての重要視を軽んじました。

疑いもなくラーセン博士は、この主題において、ルターの欠点を見つけることを、新福音主義派のフラー神学校で修士号を所得した際、学んだのでしょう。 フラーの学生たちは、私たちの信仰の巨人たちを批判することを素早く学んでいることを知りました。 私が卒業した二つの神学校で、私もその様に教えられましたが、私はその様な影響を拒否しました。 しかし、ラーセンはそうではありませんでした。 ラーセンは、“ルターは、中世に生きていた人である、・・・ルターは、最後の審判が急速に近づいている間、‘神と悪魔の間の完全なる衝突の中に閉じ込められていた’全ての人達を見ていた”と言いましたが、それのどこが誤っているでしょうか? なぜそれが彼を中世に生きていた人、とするのでしょうか? 老年時代にルターは、ユダヤ人やその他の事柄について幾つかの中世らしき事を言いました、私はそれらを強く否定します。 しかし、ルターは、人が“神と悪魔の間の完全なる衝突の中に閉じ込められていた”と考えたことは誤っていません! そのことについては彼は正しかったのです、なぜなら、聖書がそうのように教えているからです!

“身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている”(ペテロの第一の手紙第5章8節)。

悪魔と悪霊達についてルターが言った事のほとんどは聖書に添っています。

I. 最初に、ルターが、悪魔や悪霊達について述べた事は正しかった。

ルターはこのように述べました、

      [悪魔はどこから来たのか?]それらは仮定した事実である:天使達は天から落ちた、そして悪霊は、光の天使から暗闇の天使へと変わっていった・・・。

聖書は、ルターが正しい事を示しています、

“黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる”(イザヤ書第14章12-15節)。

ルターは言いました、

      よい天使と悪い天使がいる。しかし神は彼らを皆良い者として造られた。従って、悪い天使達は、堕天し、真実を堅く固持しなかった、という事の必然性から生じる。・・それは、彼らの自尊心によって、彼らが落ちた事はほぼ確実である、なぜなら彼らは神の御子を・・・見下し、御子以上に自らを高めたかったからである(Plass, 同著 p. 391)。

聖書はルターが正しい事を示しています。 聖書とルターの両共が、エゼキエル書第28章13節から17節で書かれている事を語っています、

“あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、 ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。わたしはあなたを油そそがれた/守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日までは/そのおこないが完全であった。あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした”(エゼキエル書第28章13‐17節)。

そして、天から落ちた御使いは悪霊となりました。 ユダの手紙はこのように言っています、

“主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた”(ユダの手紙第6節)。

これらの内の何人かの御使い達は地獄に縛られました。 しかし彼らの多くは、今日私達がこの世で出くわす悪霊なのです。 ルターは、“あくま世にみちて”と言いました。 “デビル”とは、“悪霊達”の古い言い方です。 それを歌って下さい!

あくま世にみちて
   よしやおどすとも
われらはおそれじ
   かみはみかたなり
(『み神は城なり』“A Mighty Fortress Is Our God”
     by Martin Luther, stanza three.)

II. 次に、ルターが、悪魔は悲しみと絶望感を生み出す者である、と言ったのは正しかった。

ルターは言いました、

      すべての悲しみは悪魔から出たものである、なぜなら、彼は死の主であるからである。それゆえ、神との関係から来る我々の悲しみは、悪魔の仕業である事はほぼ確かである(Plass, 同著, p. 398)。

      この改革者は、常に悪魔を悲しみをもたらす霊と呼んでいた;サタンは、光、命、そして楽しさを憎んだ;なぜなら彼は、暗闇と絶望の霊であり、彼は人を暗闇と絶望へと引きずり落とす事を好んでいるからである(comment on Luther, Plass, 同著, pp. 397-398)。

ルターは、言いました。

“[悪魔]は心にひどい思いを入れ込む;神への憎悪、不敬と絶望など。これらは‘鋭い矢’である。”(Plass, 同著, p. 399)。

これらは、現在私達が個人的に知っている人達に実際起っている現実話です。 この教会の執事の一人が、カウンセリングの部屋である若者に話をしました。 その若者は、“神は私を愛していない。 イエスは自分を愛していない”、と言いました。 ルターが言ったように、それらは、明白にサタンから差し入れられた“不敬と絶望”なのです。 そこで執事は彼に聖書の言葉を読みました、

“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである”(ヨハネによる福音書第3章16節)。

その執事は彼に、その節を信じるかどうか聞きましたが、彼はそれに答えませんでした。 悪魔自身が、彼が答えるのを妨げさせたのです! 悪魔は、私たちが聖書の言葉を聞くのを妨げようとします、そして、私たちがそれを聞くとき、その言葉を受け入れるのを妨げもするのです。 ルターは、“すべての悪魔の狡猾は、[神の]言葉から我々を引き裂こうとしている” (Plass, 同著, p. 396)。

ある若い女性が同じ執事にこう言いました、“私はゆるされていない。 なぜだか分からない”。 彼女は知らないかもしれませんが、私は知っています。 彼女はゆるされてません、なぜなら、彼女は聖書の語られている約束を信じる代わりに、悪魔が彼女の思いに入れた考えを信じているからです。 彼女はキリストの次の言葉を拒絶しています、“わたしに来るものを決して拒みはしない”(ヨハネによる福音書第6章37節)。 ルターは言いました、“悪魔は絶望の思いをこころに叩き込む”。 彼は、“すべての悪魔の狡猾は、[神の]言葉から我々を引き裂こうとしている”と言いました。

III. 最後に、悲しみと絶望感は、罪の悟りと同じではないことを言ったルターは正しかった。

ルターは、悲しみと絶望感は悪魔から来る、と言いました。 そして、罪の悟りは神から来ると教えました。 聖書も同じようにそれらの違いを指摘しています。

“神のみこころに添うた悲しみは、・・・悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる”(コリント人への第二の手紙第7章10節)。

ルターは、回心の前に起こる罪の悟りについて話しています。 彼は言いました、

      もし回心するのであれば、あなたは慄き、警告の自覚をもつ、そのことは必要である。そうして、この状態が生じた後、あなたは、自分自身の働きからではない、神からの働きで起こる慰めをつかまなければならない。神は、戦慄におののく罪びとたちに神の慈悲を宣言するために、御子をこの世に送られた。これが回心が生じる方法であり、他の方法は誤りである(Plass, 同著, p. 343)。

ルターは言いました、

      義とされるとは、我々が罪、死、そして悪魔から贖われ、我々によるのではなく、一人子である御子イエス・キリストの助けによって、永遠の命の共有者となることである (Plass, 同著, p. 343)。

ルターは言いました、

      義とされるために、イエス・キリストに耳を傾け、彼を信じる・・・こと以外の何事も必要とされない(Plass, 同著, p. 707)。

これらの点において、聖書に則ったプロテスタントとバプテストは、偉大な宗教改革者であるルターに同意します。 使徒パウロ自身、“主イエスを信じなさい。 そうしたら、あなたも・・・救われます”(使徒行伝第16章31節)と言いました。 これ以上に必要なものはありません! 私たちは、キリストのみにおける信仰によって救われるのです。 ソングシートの第三番を開き、それを歌ってください!

みかみはしろなり たてなり ぶきなり
   あくにかたしむる つよきたすけなり
としをへたる くろきのおさ
   ひじゅつつくし せめきたるも
などかおそるべき

われらのちからは よわくたよりなし
   されどえらばれしかみの ひとぞある
そはたれぞや 万軍の主なる
   キリストイエス かちをえたもう
ゆいいつのかみなり

あくま世にみちて よしやおどすとも
   われらはおそれじ かみはみかたなり
この世のきみ すごみがおに
   せまりくとも なにかはあらん
かちはさだまれり

みかみのことばは まえにすすむなり
   われらのうちには きよきみたまあり
このいのちも たからも名も
   子らもつまも ささげまつらん
かみのくにのため
    (『み神は城なり』“A Mighty Fortress Is Our God” by Martin Luther, 1483-1546;
          translated by Frederick H. Hedge, 1805-1890.)

スポルジョンによる、ルターの伝記概略

“信仰による義人は生きる。”(ローマ人への手紙第1章17節)

スポルジョンは言いました、

      私は、ルターの生涯におけるある出来事を挙げてこの教えを概説しよう。この偉大な宗教改革者の上に徐々に福音のひらめきが打ちのめした。大黒柱につながれた、すばらしい聖書を翻し、彼がこの聖句“信仰による義人は生きる”へと到達したのは、その修道院であった。このすばらしい聖句が彼の脳裏に残ったが、彼はその関連を理解する事に苦しんだ。彼は安息を見出せなかった、しかしながら、彼の聖職である修道士としての習慣に安らぎを見出した。正しい事ではないと知りながらも、彼は非常に多くの難行に、また非常に困難な苦行に耐え、時には極度の疲労により卒倒していた自分を見つけた。彼は死の直前にまで自身を懲らしめた。彼はどうしてもローマへ向かわなければならなかった、なぜならローマには日々活気的な教会があったからである。そしてそれらの聖なる礼拝堂では、罪のゆるし、そして、様々な祝福を確かに取得すること出来るからである。彼は聖なる都[ローマ]に行く事を夢に描いた。その期待は裏切られ、彼はそれが偽善者達の溜まり場、そして不正の巣であることを見出した。恐るべき事に、彼はもし地獄が存在するならば、ローマはその上に建てられていると人々が話しているのを聞いた。なぜならば、それは、この世で最もそこに近い通路であったからである。そうであるけれども、なお且つ彼はローマ法王を信じ、休息を得る為に難行を続けた。しかし、何も見出す事が出来なかった。・・・[後に]主は、迷いから彼を完全に解放された。そして彼は、祭司達、祭司の才覚、苦行、また彼が成し、命をかけた全ての事によるのではなく、彼の[キリスト]への信仰によって生きねばならない事を理解した。我々のこの[今晩の]テキストが、その[カトリック]の修道士を自由にし、彼の心を燃やした。

“信仰による義人は生きる”(ローマ人への手紙第1章17節)。

ルターは、最終的にその聖句を理解した時に、彼はキリストのみを信頼しました。 彼は、彼の母親に、“私は自分が生まれ変わり、天国の入り口へ入ったのを感じた”と書いています。 スポルジョンはこのように書いています、

      彼はそれを信じると間もな く、行動を起こそうという自覚をおぼえた。タゼルという一人の[祭司]は、多額の現金のゆえに、罪のゆるしを売ろうとドイツに行こうとしていた。それがどんな罪であろうとも、お金が[集金]箱の底に触れや否や、罪はゆるされた。 ルターはそれを耳にした時、憤慨し、“私は彼のドラムに穴をあける”と声を張り上げて言った。そして彼は実際そのことをし、更に多くの他のドラムにもそのようにした。彼の論題を教会のドアに釘付けた事は、免罪符の音楽を黙らせる確かな方法であった。ルターはお金や代償、そして間もなく後に嘲笑の的となったローマ法王による免罪符無しに、キリストへの信仰による罪のゆるしを主張した。ルターは信仰によって生きたゆえに、そうでなければ沈黙していたかもしれない彼が、ライオンがえじきに向かって憤って吠えるように、誤りを公然と非難した。彼の内にあった信仰が、彼を張り詰めた生涯で満たせ、彼を敵対者との闘争に追い込んだ。しばらくして後、彼らはルターにアウクスブルクへの出頭を命じた。彼の友人達は、彼に行かないよう助言したにもかかわらずルターは出頭した。彼らは、ルターを異端者として、彼自身にヴォルムスの帝国議会で応対する為に出頭を命じた。そして回りの者達は、彼に引き下がるように言いつけた。なぜなら疑いもなく彼は[火あぶりの刑で]焼かれからであった。しかし、彼は証言が広められる事は必要であると感じ、馬車に乗り村から村へ、町から町へと宣べ伝えた。貧しい人々は出てきて、キリストの福音のために命がけで立ち向かっていたルターと握手をし合った。彼がヴォルムスの威厳ある議会の前に出て、どのように立ちはだかったか、心にかけよ。そして人間なる防御の業では、彼の命さえも犠牲になり、たぶんにジョン・ハスと同様、[火あぶりの刑で焼かれる]であろう事を承知していたにもかかわらず、彼は、彼の神、主の人として[振る舞った]。その日、ドイツ帝国議会でのルターの行いは、何万倍にも及ぶ人の子達が彼の名をほめたたえ、更に彼の神、主の名を賛美した(C. H. Spurgeon, “A Luther Sermon at the Tabernacle,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1973 reprint, Volume XXIX, pp. 622-623)。

“信仰による義人は生きる”(ローマ人への手紙第1章17節)。

私が最初にルターに出会ったのは、遡ること1950年代初期で、バプテスト教会でした。 ある日曜日の晩に、教会はルターの白黒の古い映画を見せました。 彼は、私が興味を注がれるような物は何一つない、過去の一風変わった人物のように思えました。 その映画は退屈な長ったらしい映画ように思えたことを覚えています。 私は、なぜ私の牧師、ウォルター・ペッグ博士(Dr. Walter A. Pegg)は、このような映画を見せるのか不思議でした。 しかし、私はこの偉大な映画に関して違った見方をしている事を言い加えなければなりません。 今日では、この映画を見るのがとても好きで! ここをクリックして映画の一場面を見てください

私のルターとの二度目の出会いは、私が回心した後のことでした。 私はジョン・ウェスリーの回心の体験談を読みました。 その中でウェスリーはこのように書いています、

夜半に、私はアルダーゲイト通りのソサエティに気の向かないまま出かけて行った。そこではある人がルターによるローマ人への手紙の前書きを読んでいた。8時45分ころ、彼は、キリストへの信仰を通して神が心に働かれる変換を説明していた。私は心が不思議と温まるのを感じた。私はキリストを信頼したのを心に感じた。キリストのみによる救い、すなわち、彼は私の罪を取り去り、その確信が自分に与えられ、このような自分でさえも、私を罪と死の律法から救って下さった(John Wesley, The Works of John Wesley, third edition, Baker Book House, 1979 reprint, volume I, p. 103)。

これは私に強く印象付けました、なぜなら、ウェスリーは、第一次大覚醒の間の最も影響を与えた説教達者の内の一人になった事を私は知っていたからです。 ウェスリーは、キリストへの信仰による義に関してのルターの言葉を聴いている時に、回心しました。

そして後にも、我々のバプテスト教派の先駆者であるジョン・バニヤンは、ルターが顕著な回心をした時の事、“Expanding his study of the Scripture with writings of Martin Luther”(Pilgrim's Progress, Thomas Nelson, 1999 reprint, publisher's introduction, p. xii)を読んだことを、私は知りました。 バニヤンは後に、いつの時においても最も広範囲にわたって読まれているバプテストの著者となりました!

メソジスト教派のジョン・ウェスリーは、ルターの言葉を聴いて回心しました。 そしてバプテスト教派の ジョン・バニヤンは、ルターの書いた言葉を読んで回心への奮闘の中、助けられました。 私はルターの書物を読む事は、かなり為になることがあるに違いないと思いました。

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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Or phone him at (818)352-0452.

クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: イザヤ書第14章12-15節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Christian, Dost Thou See Them?” (by Andrew of Crete, 660-732;
translated by John M. Neale, 1818-1866;
to the tune of “Onward, Christian Soldiers”).

要 綱

マーティン・ルター、そして悪魔

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。” (ペテロの第一の手紙第5章8節)

(ヨハネによる福音書第8章44節;
ヨハネの黙示録第9章11節;ローマ人への第1章22節)

I.   最初に、ルターが、悪魔や悪霊達について述べた事は正しかった。
イザヤ書第14章12-15節; エゼキエル書第28章13-17節;
ユダの手紙第6節。

II.  次に、ルターが、悪魔は悲しみと絶望感を生み出す者である、
と言ったのは正しかった。 ヨハネによる福音書第3章16節;
第6章37節。

III. 最後に、悲しみと絶望感は、罪の悟りと同じではないことを言った
ルターは正しかった。 コリント人への第二の手紙第7章10節;
使徒行伝第16章31節。