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苦しむ事を決意された

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

DETERMINED TO SUFFER

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年3月20日、主の日の朝の説教

“さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”(ルカによる福音書第9章51節)。

ギル博士(Dr. John Gill)は、“イエスは、ガリラヤの低地での奉仕を成し遂げられ、そこを離れねばならず、ユダの高地、そしてエルサレムへと向かわれる時が来た。・・・その時を最後に、彼はガリラヤへ二度と戻られなかった。・・・そして、エルサレムに向かう決意をされた。・・・彼は、どのような出来事に出会い、それに耐えるべきかを知っておられた。 すなわち、御自分の民の罪、律法によるのろい、そして神の怒りを背負う事、また、多くの敵対者、人々、そして悪魔によって捕らわれ、苦悩、恥、そして呪わしい死を体験される事などを知っておられたが、それらの何事も彼の決心を変えることなく、彼は[決意して、そこへ]向かわれた”と書いています(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume I, p. 589; note on Luke 9:51)。

“さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ” (ルカによる福音書第9章51節).

十字架につけられる為に“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”ました。 このテキストから私は三つの思考を話したいと思います。

I. 最初に、キリストは自ら十字架に向かわれた。

キリストの受難は偶然に起こったことではなかったのです! そうではありません! 彼は弟子達にすでにこのように告げられていました、

“人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる”
       (ルカによる福音書第9章22節)。

更に、イエスは彼らにこのように告げられていました、

“「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた”
       (ルカによる福音書第 9章 44-45節)。

イエスが十字架につけられ死なれる為にエルサレムに行かれた事を弟子達は理解していなかったけれども、イエスはそれを知っておられ、理解されていました。 なぜなら三回ほど、ルカによる福音書の中でキリストはこのように話されていたからです、

“イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった”
       (ルカによる福音書第18章31-34節)。

弟子達は、イエスがイスラエルの王ならびにメシヤとしての座を占められると期待していました。 彼らは単に、なぜイエスが十字架につけられなければならないか理解できませんでした。 なぜでしょうか? ルカによる福音書第18章34節は、“この言葉が彼らに隠されていた”と書いています。 イエスが“彼らの心を開いて、言われた、「こう、しるしてある。 キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる”(ルカによる福音書第24章45-46節)。 したがって、キリストが死からよみがえられるまで、弟子達は福音を理解していなかったのです(コリント人への第一の手紙 第15章1-4節)。 (ヨハネによる福音書第20章22, 24-28節参照)。  

しかしイエスは、エルサレムに行ことされた理由をご存知でした。 十字架で死なれる為に、“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”(ルカによる福音書 第 9章 51節)ました。 神が、ご自分の魂をゲツセマネの園で、私達の罪の重荷によって汗が血のように滴るまで砕かれ、死からご自分を救ってくださるよう神に叫ばれることを、イエスはご存知でした。 そして、翌朝十字架につけられることもご存知でした。 ピラトがイエスを鞭打ち、彼の背を打たれる毎に血が流れ出て、骨から肉が引き裂かれる毎に、鞭打つ者達が彼を嘲笑し、あざけり、彼の苦痛がいっそう激しく、ひどくなる事をも、イエスはご存知でした。 そしてキリストは十字架につけられるためにエルサレムに向かう事をもご存知でした。 彼らが、鞭打たれる場所へ引きずり、彼の手足に釘を打ち付ける事をもご存知でした。 そうして、兵卒達は十字架を吊り上げて、イエスが死なれるまで、高熱の中、裸で何時間もの間、彼をはりつけにしました。 イエスはそれらの全てをご存知でした。 彼は苦しみ、血を流され、そして死なれる事をもご存知でした。 にもかかわらず、“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”ました(ルカによる福音書第9章51節)。 彼は強いられてそうされたのではありません! いいえ、彼はご自分の意志で行かれたのです!

“・・・自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである”
       (ヘブル人への手紙第12章2節)。

イエス・キリストは、十字架で死なれる為に、“自分の前におかれている喜びのゆえに”、“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”たのです! 立って“In the Cross.”のコーラスを歌って下さい。

十字架に、十字架に、
   我が栄光あれ、
我が魂が天に上げられ、
   河の向こう岸に安らぎを見つけるまで。
(“Near the Cross” by Fanny J. Crosby, 1820-1915).

着席してください。 そうです、キリストは故意に十字架に行かれたのです。 

“さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ” (ルカによる福音書第9章51節)

II. 次に、キリストは私達に模範を示す為に十字架へ向かわれた。

ハリー・エマーソン・フォスディック(Harry Emerson Fosdick)のような、古くからの聖書を拒否する自由主義者達は、その点を強調しすぎる事を私は知っています。 なぜなら、彼らにはそれ以外の強調する点がないからです。 しかしそれは聖書に挙げられた点です、ですから私達は、時にはその事について説教すべきなのです。 シモン・ペテロは自由主義派ではありませんでしたが、彼はこのように語っています、

“キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである” (ペテロの第一の手紙 第2章21節).

キリストは苦しみ、そして死なれる為に、“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”ました。 そして全ての真のクリスチャン達は、彼の“模範”(ペテロの第一の手紙第2章21節)に従うべきです。 全ての真に回心したクリスチャンは、私達の偉大な模範であるキリストのように、試練と苦難を望んで貫くべきです。 

私は、現在、通称呼ばれている“繁栄の福音”がとても人気のある事を知っています。 ベニー・ヒン、ジョエル・オースティン、そしてTBNで放送されている多くのその他の説教者達は、それを常に説教しています。 しかしそれは単なる一時的にはやっているものに過ぎません。この先十年後にはそれを聞くことはさほど(もしくは全く)ないでしょう。 経済的な崩壊の間、それはまだ始まったばかりです。 多くの人々は“繁栄の福音”が誤った教えである事に気づくでしょう。 真の福音は、真の回心者たちに、自制と十字架を負う事を宣言しています。 

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (ルカによる福音書第9章23節).

イエスが“誰でも”と言われた事に注目して下さい。 彼は、優れた“聖徒達”のような特別のグループに向かって命じておられるのではありません。 彼は言われました、

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (ルカによる福音書第9章23節).

私の言葉を誤解しないで下さい。 私は、人の行いが私達の救いにかかわってくる事は信じません。 救いは全て神の恵みによるもので、“決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである”(エペソ人への手紙 第2章9節)と言っています。 

“あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである”(ピリピ人への手紙第2章13節)。

神があなたに働きかけられる時、あなたは自分を自制し、十字架を負い、そして回心に至る苦痛を貫き、キリストに来る事、そしてクリスチャンとしての試練心痛を乗り越える事を望んでするでしょう。 なぜなら、

“わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない”(使徒行伝第14章 22節)。

ある人は、“そんなに苦痛であるのならば、なぜ人はクリスチャンになりたがるのか?”と言うでしょう。 答えは簡単です。

“あなたの民は、・・・聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう”(詩篇第110篇3節。

後進国の多くのクリスチャンは、彼らの信仰のゆえに苦しめられ、投獄されている事を私は知っています。 しかし彼らはキリストを見捨てません。 あなた方はウェブサイトのwww.persecution.comで彼らについて読む事が出来ます。 神の恵みによって、あなた方も、“エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”(ルカによる福音書第 9章51節)るキリストのようである彼らのようになる事が出来ます。 なぜなら“キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである”(ペテロの第一の手紙第2章21節)。 苦しむ事によって、私達は成長したクリスチャンに育っていくのです。 神はクリスチャンの生活における試練と苦痛を用いて私達を更に清く、そして信仰に強固となるよう造り上げられるのです。 使徒パウロはこのように言っています、

“それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである”(ローマ人への手紙第5章3-5節)。

そうしてあなた方はこのコーラスを歌うことが出来るのです。 ある人達にとっては、それは、今は何の意味もありません、しかし、神の御恵みによって、いつかそれがある人達には意味あるものとなるでしょう。 立ってそれを歌って下さい!  

十字架に、十字架に、
   我が栄光あれ、
我が魂が天に上げられ、
   河の向こう岸に安らぎを見つけるまで。

着席して下さい。 キリストは、私達にどんな犠牲が掛かろうとも、彼に従う事を示すように、模範を残される為に十字架に向かわれました! 

“さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ” (ルカによる福音書第9章51節)

III. 最後に、キリストは私達の罪を償う為に十字架に向かわれた。

イエスは、ヤコブとヨハネにこう言われました、

“人の子がきたのは、滅ぼすためではなく、救うためである”
       (ルカによる福音書第9章56節)。

イエスはザカリヤに告げられました。

“人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである”(ルカによる福音書第19章10節)。

イエスの十字架での死によって、イエスはあなたを、裁き、罪、そして神の怒りから救う事が出来るのです。 イエスは、十字架の上であなたの罪を報いる為に、あなたの身代わりとなり、死なれる事によって、あなたを救う事が出来るのです。 イエスは自ら進んで、“エルサレムへ・・・顔をむけられ”、そしてあなたの罪をあがなう為に十字架で死なれたのです。

“そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた”
       (イザヤ書第53章6節)。

“わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った”(イザヤ書第53章11節)。

キリストはあなたの身代わりとなって死ぬ為にエルサレムに向かわれました。 それは、イエスの“身代わりの贖罪”と呼ばれます。 チャールズ・ホッジ博士は、このように書いています。

身代わりの苦痛はひとりの人によって他の人が耐える苦痛である(Charles Hodge, Ph.D., Systematic Theology, Eerdmans, 1946 reprint, p. 475) 。

イザヤはこのように言っています、

“彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ”(イザヤ書第53章5節)。

使徒パウロはこのように言っています、

“すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節)。

キリストの十字架での死は神の義を満たします。 キリストの死は神の律法を満たします。 キリストの死は神の怒りを静め、その贖いです。 よって、キリストの死は神と罪びとである私たちを和解させるのです。 キリストの死は私たちを悪魔の束縛から解放します。 イエスが天国から降臨されたのはそのためなのです。 イエスは十字架で死なれるために、“エルサレムへ行こうと決意”されたのです(ルカによる福音書第9章51節)。 彼の十字架での死はあなたの罪を贖います、そして、あなたはいつまでも永遠に救われるでしょう! 神があなたをイエスに導かれますよう私たちは祈ります! 立ってソングシートの七番目の賛美歌を歌ってください。

すべての受難の傷が、イエスの愛を明らかにする、
深い紅色の細流の贖いの御血は、それらの受難を語る、
贖いの御血。

御血が染み込んだ冠は、キリストの美しき額を刺すのか!
手と足を貫いた釘は、受難を突き刺す!
受難を突き刺す!

あぁ、来たれ、死に至る罪に悩めるものよ、
来たれ、彼のすべてを救われる御血は、あなたをも清くされる、
あなたをも清くされる。
   (“Jesus Wounded” by Edward Caswell, 1849;
        to the tune of “Majestic Sweetness Sits Enthroned).

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ルカによる福音書第18章31-34節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus Wounded” (by Edward Caswell, 1849;
to the tune of “Majestic Sweetness Sits Enthroned”).

要 綱

苦しむ事を決意された

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ”(ルカによる福音書第9章51節)。

I.   最初に、キリストは自ら十字架に向かわれた。
ルカによる福音書第9章22, 44-45節;第18章31-34節;
ルカによる福音書第24章45-46節; コリント人への第一の手紙第15章1-4節;
ヨハネによる福音書第20章22, 24-28節;ヘブル人への手紙第12章2節。

II.  次に、キリストは私達に模範を示す為に十字架に向かわれた。
ペテロの第一の手紙第2章21節;ルカによる福音書第9章23節;
エペソ人への手紙第2章9節;ピリピ人への手紙第2章13節;
使徒行伝第14章22節;詩篇第110篇3節;ローマ人への手紙第5章3-5節。

III. 最後に、キリストは私達の罪を償う為に十字架に向かわれた。
ルカによる福音書第9章56節;第19章10節;イザヤ書第53章6, 11, 5節;
コリント人への第一の手紙第15章3節。