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イエスの御血に関するマッカーサーの教えへの一打

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

A BLOW AGAINST MACARTHUR’S TEACHING ON THE BLOOD
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

カリフォルニア州モンロビア市のカルバリー・ロード・バプテスト教会にて
2010年8月6日、金曜日の晩の説教

“きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである”(ペテロの第一の手紙第1章19節)。

私は、ジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)に対して個人的な恨みは持ち合わせていません。 私は時には、彼の他の主題に関する発言を引用さえしています。 しかし過去数年にわたり、私は、彼のキリストの御血に対する人を困惑させる発言に深く戸惑います。 例えば、マッカーサー・スタディー・バイブルの中で彼はこう言っています、“御血は、死の代用として使われる”(The MacArthur Study Bible, Word Publishers, 1997; note on Hebrews 9:14)。  ヘブル人への手紙の注解の中で彼はこのように語っています、“我々を救うのは、イエスの実際の血ではなかった、しかし、彼が実際に血を流すことにより象徴される、我々の身に代わる彼の死であった”(John MacArthur, D.D., The MacArthur New Testament Commentary on Hebrews, Moody Press, 1983, p. 237) 。 従って、マッカーサー博士は、イエスの御血を単なる“代用”という言葉に化し、キリストの十字架での死を単なる象徴と捉えています。 真の御血は無いのでは! ただ象徴であり、ただ代用の言葉なのです。 彼によれば、の御血は存在しないのです。 多くの若い説教者達は、彼の教えを支持しています。

しかし、私は二重舌にだまされるほど若くはありません! この“現代的な”教えに私を同意させることは出来ません! 私に言わせれば、それはあまりにも現代化し過ぎているようにみえます、それは単に、リベラル主義の古い嘘を現代的に曲げているだけです。 すなわち、彼らは聖書を今は攻撃しませんが、それを説明しているだけなのです。

他の人達が何をしようが、また言いようが、私はリベラルな人達によって提示された一切のものを拒否します。 私は今でも、次のように語ったマーチン・ロイド・ジョーンズ博士に同意します。

人が真に福音の言を説教しているかどうかをテストする究極の方法は、その中で“御血”を強調しているかどうかをみることである。 十字架と死について語るだけでは十分ではない。 テストは、“御血”である (D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., God’s Way of Reconciliation, p. 331) 。

“テストは、‘御血’である”。

“キリストの尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節)。

再び、ロイド・ジョーンズ博士は語ります、

我々の福音は、御血の福音である。 すなわち、御血はその基であり、それなくしては、福音はあり得ない (D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., ibid., p. 240) 。

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり
(『罪のけがれを』“Nothing But the Blood”
     by Robert Lowry, 1826-1899).

あなた方は、私がマッカーサー博士の“キリストの尊い血”を大事なものではないと見下すことに反対する時、“アーメン”と言うでしょう。 しかし、あなた方自身も同様なことをしているのではないですか。 あなた方が、深く罪の悟りに置かれない限り、“キリストの尊い血”の必要性に気づかないでしょう。 あなた方は、人生に罪の力を感じたことがありますか? あなた方は、自分達の罪が神の記録に残っていることを考えたことがありますか? あなた方が、“そのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれ”(ヨハネの黙示録第20章12節)るであろう怒りの日を恐れたことがありますか? あなた方は、罪の悟りに置かれたことがありますか? あなた方は、神があなた方の罪をその書物から読まれることを恐れたことがありますか? もしそうでないならば、あなた方は決して“キリストの尊い血”の必要性に気づかないでしょう。 もしそうでないならば、あなた方は、ごく一般に“契約の血”(ヘブル人への手紙第10章29節)としてそれをみなすだけなのです。 キリストの御血による救いは、古びた教義のように思え、私達の“現代”という時代に於いては、真剣に考えるには価しないと思うだけなのです。

もし律法の恐怖、そして罪の悟りがあなた方の魂を掴まないとしたら、あなた方は決して、“御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)ということを理解できないのです。 そして、心の中で、賛美歌にあるように“つみのけがれを あらいきよむは イエス・キリストの ちしおのほかなし”とは語れないのです。 あなた方が、自分達の罪に対して深く考えさせられない限り、あなた方は決してキリストへは来ないし、コーラスで歌われている喜びを知ることは無いのです。

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

起立し、それを歌いなさい!

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

あぁ、キリストの尊い御血を、ごく一般の神聖でないものと考える罪!

“神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう”(ヘブル人への手紙第10章29節)。

たとえ、キリストの尊い血を無視すること以外に、何ら罪を犯していなくとも、あなた方を非難するのに十分なのです! あぁ、あなた方はその罪を犯したことはありませんか? キリストの尊い御血を無視していませんか? そして、もしそうであるならば、ロイド・ジョーンズ博士はこのように言っています、

キリストの御血の必要性に気づかない罪ほど偉大な罪は、この世界には無い (D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., Assurance, p. 291; these quotations are taken from Tony Sargent, Ph.D., Gems from Martyn Lloyd-Jones, Paternoster, 2007, pp. 164-165) 。

“キリストの御血の必要性に気づかない罪ほど偉大な罪は、この世界には無い”。これを考えて見なさい! 起立して、その歌をもう一度歌いなさい!

つみのけがれを
   あらいきよむるは
イエス・キリストの
   ちしおのほかなし
イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

この序文でもって、次に直接、私達のテキストに入ります。

“キリストの尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節)。

I. 最初に、使徒ペテロは、キリストの御血について語った。

それは、他の誰の血でもありません。 それは、普通の血ではありません。 それは、彼が言うところのキリストの御血なのです。 それは、三位一体の第二神格をなす、人となられた神の御血です。 それは、人となられた神の御血です。

“・・・言は神であった。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った”(ヨハネによる福音書第1章1, 14節)。

それは、位格的結合による完全なる神であり、完全なる人である、主イエス・キリストの御血です。 それは、アダムの罪に染まらない、御血です。 なぜなら、御霊によりメリーの処女胎の中に置かれた、神聖なる御子イエスの静脈をなす御血だからです。

御使いがメリーに言ったように、

“「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう”(ルカによる福音書第1章35節)。

ですから、“キリストの尊い血”は、他の人の血とは異なっています、なぜなら、キリスト・イエスは、“罪は犯されなかった”(ヘブル人への手紙第4章15節)だからです。 これが彼の御血なのです。

“このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され”
       (ヘブル人への手紙第7章26節)。

また、キリストの御血は、単に大事であるのでなく、それは何物にも置き換えられない教義なのです。 偉大なスポルジョンは語っています、

聖書全体を通して、絶え間なく“血”について書かれているのが分かる。“血を流さなくして、罪の赦免はない”。“御子であるイエス・キリストの血は、我々を全ての罪から清める”。“あなた方は、代々語られてきた空しい会話にあるように、銀や金のような朽ちるものによって贖われたのではない。あなた方が贖われたのは、キリストの尊い血によってである”。その“血”という言葉は、何度も何度も記録されている。そして、もし説教者がそれを繰り返し語ることに不満を言う人がいるなら、私はその人に対して謝りの言葉を持たない。もしその血を語らないことに対して自らを恥ずかしく思う(C.H. Spurgeon, “Blood Even on the Golden Altar,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1975 reprint, volume 40, p. 325) 。

その歌をもう一度歌いなさい!

つみのけがれを
   あらいきよむるは
イエス・キリストの
   ちしおのほかなし
イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

再び、キリストの御血は、彼の苦難の間、キリストの静脈から流れ落ちました。 ゲッセマネの園で、彼の苦悶は始まりました、

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

兵卒達は、彼が祈り“その汗が血のしたたりのように地に落ちた”場所に来て彼を捕らえました。 彼らは、イエスをローマ領の総督であるピラトに引き出し、彼の背を鞭打ちました。 残忍なローマ式鞭で骨を裂かれ、彼の御血は止め処も無く流れ落ちました。 彼らは、十字架の処刑場であるゴルゴタの丘にイエスを連れて行きました。 引っ張り出しました。 彼らはイエスの手と足を十字架に釘つけにしました。 その御血は傷口から流れ出ました。 彼は十字架で亡くなりました。 それから、使徒ヨハネはこう言いました、

“しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た”(ヨハネによる福音書第19章34節)。

これが、私達が話している御血なのです! これが、神聖なる傷の無い神の御子の御血なのです! これが、“キリストの尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節)なのです!

恥と嘲笑の無礼に耐えし
   非難されし我が身の代わりに汝は立ち
汝の御血で我が許しを覆われし
   ハレルヤ! 我が救い主!
(“Hallelujah! What a Saviour!” by Philip P. Bliss, 1838-1876).

『罪のけがれを』を再び歌いなさい。

つみのけがれを
   あらいきよむるは
いえすきりすとの
   ちしおのほかなし

II.次に、使徒ペテロは、キリストの御血の尊さについて語った。

彼はそれを“キリストの尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節)と呼びました。 ストロング博士は、ギリシャ語で“尊い”と訳されている本来の意味は、“価値のある、贅沢な、尊敬される、愛される、名誉な、そして最も尊い”(Strong #5093)であると言っています。.

そうです! そうです! 私達は、“価値のある、贅沢な、尊敬される、愛される、名誉な、そして最も尊いキリストの血”について語っているのです! そうです! そうです! もしあなた方が罪から清められたいのであれば、“キリストの尊い血”によってだけなのです!

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

緩やかにそれをもう一度歌いなさい。

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

ロイド・ジョーンズ博士、ありがとうございます! 親愛なる医師である博士、ありがとうございます! 医師であったロイド・ジョーンズ博士は、それをうまく言い得ています。 有名な賛美歌の歌詞を含む、彼の次のコメントに耳を傾けなさい。 ロイド・ジョーンズ博士は言いました、

この世の問題を解決する全ての策は、私を罪の穢れから離れさせるには十分ではない。 しかし、ここに染み穢れの無い神の御子の御血がある。 私は、それは強力なものであると感じる。

不思議なる力があり、
小羊の尊い御血に

彼の御血は完璧に清める
彼の御血は、我がためにあり
(チャールズ・ウェスリー)

[医師の博士は言います]、それが我々の慰めであり安らぎなのだ(D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., Fellowship With God, p. 144 – quoted in Gems From Martyn Lloyd-Jones, ibid., p. 164) 。

それが“キリストの尊い血”なのです!

あぁ、慈悲にあふれる泉から
   十字架につけられし我等の救い主から流れでる
我らの贖のために流された尊い御血
   我等の全ての罪のための恵みとゆるし
(“Oh, What a Fountain” by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

この説教を終える前に、あなた方に質問があります。 イエスの御血は、あなた方にとって尊いですか? あなた方はそれを価値のあるものと見なしますか? あなた方はイエスに来ていますか? あなた方は、“キリストの尊い血”でもってあなた方の全ての罪は洗い清められていますか? 彼の御血でもって、あなた方は罪から洗い清められていると、正直に言えますか? あなた方は、次の聖句を私達と共に口にすることが出来ますか?

“わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し”
       (ヨハネの黙示録第1章5節)。

あなた方は、私達と一緒にコーラスの部分を、真摯に歌えますか?

イエスのちしお
   ほむべきかな
われをあらい
   ゆきのごとくせり

もしあなた方の罪ゆえのさばきから救われたいのであれば、“キリストの尊い血”でもってそれらの罪からあなた方は洗い清められなければありません。 もしキリストの御血があなた方の罪を清めていないのであれば、あなた方は永遠にそのために罰を受けるのです。

お願いですから、“迫ってきている神の怒りから”(マタイによる福音書第3章7節)逃れなさい。 迫ってきている神のさばきからのがれなさい! キリストにへ逃れなさい。 彼の全てを清める御血によって、遅すぎることなく、神があなた方を諦められる前に、聖霊があなた方を頑なに放って置かれる前に、神に見捨てられる前に、地獄の口が開く前に、あなた方の罪から清められなさい。 さもなければ、あなた方は火と滅亡の底に落ちるでしょう。

あぁ、お願いですから、イエスに来なさい、そしてあなた方を害とするもの、多種多様な罪から洗い清められなさい! イエスに来なさい、そして“キリストの尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節)で清められなさい。 『きたれ、なれを清むれば』を歌いなさい。

主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて
きよめたまえ
    (『きたれ、なれを清むれば』“I Am Coming, Lord”
       by Lewis Hartsough, 1828-1919).

歌いなさい!

主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて
きよめたまえ

あなた方は、歌ったとおりの事をすることを祈ります。 あなたは方は、イエスに来てキリストの尊い御血でもって罪から清められますことを祈ります。 アーメン。

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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ハイマーズ博士による、説教前の朗読:ペテロの第一の手紙第1章18-19節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Oh, What a Fountain!” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

要 綱

イエスの御血に関するマッカーサーの教えへの一打

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである”(ペテロの第一の手紙第1章19節)。

(ヨハネの黙示録第20章12節;へブル人への手紙第10章29節;
ヨハネの第一の手紙第1章7節)

I.   最初に、使徒ペテロは、キリストの御血について語った。
ヨハネによる福音書第1章1, 14節;
ルカによる福音書第1章35節;
へブル人への手紙第4章15節;第7章26節;
ルカによる福音書第22章24節;
ヨハネによる福音書第19章34節。

II.  次に、使徒ペテロは、キリストの御血の尊さについて語った。
ヨハネの黙示録第1章5節;
マタイによる福音書第3章7節。