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もう少しでクリスチャン―ジョージ・ホィットフィー
ルド牧師の説教からの応用

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THE ALMOST CHRISTIAN – ADAPTED FROM A SERMON
BY THE REVEREND GEORGE WHITEFIELD, M.A.
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2010年7月25日、主の日の朝の説教

“「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」”
(使徒行伝第26章28節)。

今日のほとんどの説教は、18世紀の説教に比べると非常に説得力に欠けています。 今日、バイブル・カレッジと神学校で教育を受け、説教者としての訓練を積んだ人達が何百人といるものの、“クリスチャン”と称する人達に向けて、無味乾燥な一節一節毎の聖書研究を説く代わりに、大胆にも彼らから抜け出て、日曜日に、失われた罪人に向かって説教する人達を、私達はほとんど見かけません。 

私はあえて言いますが、今日の説教者達は罪人に向けての伝道的説教を前もって準備する方法さえも忘れてしまっています。 それとも、彼らはそれを全く学んだ事が無いのかもしれません! 私よりも若い世代の説教者達は、説教法の着想が余り無い事を知っています。 実際あなた方はどのように伝道的な説教をしていますか? 多くの説教者達は全く理解していないのです! 今日の説教のほとんど多くは同じように聞こえます。 彼らは“教えています”が、ほとんどは“説教をする”その仕方を理解していないのです。

そして、今日の水準の低い説教が教会を空にしているのです。 十の教会の内一つでさえも晩の集会を催していません。 1958年には、全てのバプテスト教会(北部バプテスト、南部バプテスト、一般バプテスト、独立系バプテスト)が、日曜日の晩の集会を催していました。 私は自分自身の観察からそれを知っています。 私もそこにいました! 1958年には、全てのバプテスト教会が日曜日の晩の集会を催していました。 何が起こったのでしょうか? テレビが彼らを教会から引き離したとは考えられません! 1958年は、今言えば、“テレビの黄金時代(ゴールデン・エイジ)”の真っ只中でした。 しかし、150以上のチャネルから番組を選べるようになった今日、テレビは正に、ニュートン・ミノー(Newton Minow)が言ったように、“甚大な荒廃地”となっています。 いいえ、そうではありません、人々が日曜日の晩に教会へ来ない理由は、テレビで興味をそそられるような番組があるからではありません! その理由は、牧師達が群衆をひきつけるような説得力のある説教をしなくなったからなのです!

あの偉大なジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と、何と異なっている事でしょうか! 彼の説教する事が公表されると、何時間かの間に何千人もの人達が集まり、彼の説教を聞く為に、しばしば雪の降る中で、朝の五時には立って待っていました。 聖歌隊は無く、大型スクリーンも無く、マイクも無く、ましてや座る椅子などもありませんでした! にもかかわらず、例外なく何万人という人達が、熱烈に福音を宣べ伝えるジョージ・ホィットフィールドを聞く為にやって来たのです。   

ライリー博士(Dr. J. C. Ryle)は、彼の説教の評判なる理由の一つをこのように挙げました:“ホィットフィールドは際立って純粋なる福音を宣べ伝えた。 ごく少数の人達が、彼らの傍聴者達に、多くの小麦と少量のもみ殻を与えたことか。 彼は、説教以外に[他の事柄]ついては話さなかった。 彼は絶え間なく、あなた方の罪、あなた方の心、そしてイエス・キリストについて宣べた・・・。 ‘ああ、イエス・キリストの正義!’と、彼は頻繁に宣べた“(J. C. Ryle, “The New Birth)。 誰が今日このように説教するでしょうか? 今日の教会が、日曜日の晩の集会を閉ざすのも不思議ではありません!

これは、真の福音主義の説教の例として 挙げた、ジョージ・ホィットフィールドの説教“The Almost Christian(もう少しでクリスチャン)”を短縮し編集したものです。 しかし、もしあなた方の教会でそれを説教するならば、それを読むだけであってはなりません。 ホィットフィールドが説教した時のように、かなりの熱意が込められなければなりません!

“「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」”(使徒行伝第26章28節)。

キリストが、彼に従う者達は“わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう”(ルカによる福音書第21章12節)と言われた事を、使徒パウロは理解していました。 使徒達が捕らわれ、彼らの前に引き渡され、使徒達が彼らにイエスと主の復活について、彼らに宣べ伝える機会を与えられなかったならば、これらの支配者達は決して福音を聞く事は無かったでしょう。 

パウロが、異邦人で総督フェストとアグリッパ王の前に、彼自身を明らかにするように呼ばれた時、彼は自分自身を明らかにし、更に彼らに福音を宣べ伝える機会を得ました。 そうして彼は、それを力強く成したが為に、フェストは、 “「パウロよ、・・・博学が、おまえを狂わせている」”(使徒行伝第26章24節)と 大声で言いました。 恐れの無いパウロは、“「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。 わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです”(使徒行伝第26章25節)と答えました。 

アグリッパ王が、フェストよりも彼の説教に興味を持っていたので、パウロは彼に向かって率直にこのように告げました:“王はこれらのことをよく知っておられるので[キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえる事、使徒行伝第26章23節]、・・・一つとして、王が見のがされたことはないと信じます”(使徒行伝第26章26節)。 そして、パウロはあからさまに“アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。 信じておられると思います」”(使徒行伝第26章 27節)と言いました。 パウロがそのように言った時、アグリッパ王の感情が非常に揺り動かされ、“おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている”(使徒行伝第26章28節)と叫んだのです。 

今日でも、福音が熱心に力強く宣べ伝えられる時、フェストのように何人かの人達は、高慢すぎて福音を受け入れる事に関心がありません。  彼らは、説教者は“狂っている”と思うのです。 他の人達は、アグリッパのように、クリスチャンになるようもう少しで悟らされるのです。 彼らは心の中で、このように思っています、

“「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」”(使徒行伝第26章28節)。

今朝私が話している事は、もう少しでクリスチャンになるよう悟らされているあなた方に向けてのものです。 “もう少しで”クリスチャンになる事の危険性について、あなた方に警告する事は非常に重要であると私は思います。 ですからこのテキストの言葉から、私は三つの事をあなた方に示します。 

I. 最初に、もう少しでクリスチャンという事は、どんな意味であるか。

もう少しでクリスチャンという人は、二つの意見の間で躊躇する:キリストをとるか、この世をとるか、を決めかねる人です。 使徒ヤコブはその人をこのように表しています。

“二心の者”(ヤコブの手紙第1章8節)。

もう少しでクリスチャンという人は、外見的な宗教の義務に従う事を頼っている人です。 彼は自分自身に、“自分は聖書を読んでいる。 教会に通っている。 それで十分ではないか?”と言います。 彼が知っている人達よりも自分は好ましいと思っています。 しかし同時に、彼は心中の奥深い宗教に対しては実際には見知らぬ者なのです。 彼は、“信心深い様子をしながらその実を捨てる者”(テモテへの第二の手紙第3章5節)なのです。 彼は何ヶ月もの間教会に通い続けますが、彼は回心せず、年月が経つと以前よりも悪い状態になってくるのです。  

もう少しでクリスチャンという人は、“良い行い”に頼り、自分が誰にも害を加えていない、と見なすみなす事で満足しているのです。 しかし彼は、キリストが“この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。 彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう”(マタイによる福音書第25章30節)といわれた事を忘れています。 彼は、いちじくの実がならないことはのろいであり、根から枯れてしまい、悪い実を結ぶからではなく、全く実を結ばない為である事を忘れています。 

もう少しでクリスチャンという人は、自分自身には正直で規律正しいけれども、彼の正直さと正しさは自己愛から出ているのです。 確かに、彼は外見的な罪は犯さないけれども、それは神の律法に従順しているからではなく、 彼の気質は過度の罪を好まない、もしくは自分の評判を失いたくない、もしくは自分のプロ的な仕事柄自分に適切としないからなのです。 彼が酒飲みではない事は事実です、しかし、彼はクリスチャンとしての自制に欠けています。 彼は神の御言よりも俗世間によって導かれています。 彼は、神の御心を求めるのではなく、彼自身の邪悪な願望に最も適した事を成し、自分の信仰の外見的な要求に順応させているだけなのです。  

私は、もう少しでクリスチャンという人達の特性を概説しただけですが、それがあなた方の性格の幾つかを表わしている事をあなた方が自覚するよう望みます。 そして私は、あなた方がこのテキストに従った言葉通りの使徒達の仲間に加わる事を祈り、また“もう少し[ではなく]完全な”クリスチャン(使徒行伝第26章29節)となる事を願います。 

II. 次に、なぜ多くの人達は、もう少しでクリスチャンという人達なのであろうか。

なぜあなた方は名ばかりのクリスチャンに留まっているのでしょうか? なぜあなた方は、“もう少しでクリスチャン”という状態に留まっているのですか?

1.  なぜなら、あなた方はクリスチャンになるために、誤った見解を持っているからです。あなた方の何人かは、それは教会へ通う事であると思っています。 何人かは、ある特定の事柄を信じる事であると思っています。ほんのわずかな人達が、それは性格の変化、神聖なる生き方を受け入れる事、イエス・キリストとの活気のある生きた結合:キリストにより新たに生まれる事などを理解しています。 しかしニコデモのようにあなた方は、“どうして、そんなことがあり得ましょうか”(ヨハネによる福音書第3章9節)と疑問を持っています。なぜならあなた方は、入るように(ルカによる福音書第13章24節)求めておらず努力していないので、あなた方は、名ばかりのクリスチャン、もう少しでクリスチャンという状態に留まるのです。

2.  もう少しでクリスチャンという状態に留まるもう一つの理由は、あなた方の何人かは、人へのへつらい、奴隷的な恐れ、すなわち、人または、あなた方が屈服している人達への恐れがあり、そのようにあなた方を罪の奴隷とし、キリストへ来る事から引き離しているのです。ある人達は、キリストに来るように努めるならば、自分の両親が何と言うであろうかと恐れています。他の人達は、自分の友人達が何と言うであろうかと恐れています。ある人達は更に、自分が真剣になり始めると、教会内で他の回心していない友達がどう思うかを恐れています。キリストは、 “互に誉を受けながら、・・・どうして信じることができようか”(ヨハネによる福音書第5章44節)と言って、 あなた方について話されました。使徒ヤコブは、“世を友とするのは、神への敵対である”(ヤコブの手紙第4章4節)と言いました。“彼らは神のほまれよりも、人のほまれ”を好んでいるので、あなた方が、もう少しでクリスチャンという状態に留まっているのも不思議ではありません。ですから彼らが、不信者の俗的な友人達をあきらめようとしないので 、祈りをしキリストを求めても、決してキリストを見出す事がないのです!

3.  あなた方の何人かが、もう少しでクリスチャンという状態に留まるもう一つの理由は、あなた方がこの世の快楽を愛するからです。 あなた方は、“神よりも快楽を愛する者”(テモテへの第二の手紙 第3章 4節)だからです。 しかしキリストは、“だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て”(ルカによる福音書第9章23節)と言われました。 あなた方がそれを聞くと、あなた方の何人かは悲しげに去って行きます、なぜならあなた方もまた、身体的な快楽を大いに愛しているからです。彼らの世俗的な愛好に抗して奮闘する事なくして天国に行けると考えている人達が何人かいます。そしてこれが、多くの人々が完全ではなく、もう少しでクリスチャンである一つの理由なのです。

4.  あなた方の何人かが、非常に多くの人達が、もう少しでクリスチャンという状態に留まっている最後の理由は、彼らは定まりが無く、心変わりをする気質だからです。私達は、救われたように見えたが、キリストを持たず、しばらくした後教会を去り、肉体の欲に陥いて行く、一時は回心したであろうと思われた多くの人達を嘆き悲しみます。私は、“わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」”(へブル人への手紙第10章38節)このぞっとすような聖句を彼らに繰り返し語るのに身震いがします。そして、再度、“いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である”(ヘブル人への手紙第6章4-6節)のです。定まりが無く、心変わりするする気質では、彼らは最初は良いように見えても、信仰を捨て、永遠の破滅に下るのです。

III. 最後に、愚かな完全なる狂気は、もう少しでクリスチャンという
状態に留まらせる。

1.  私が最初に与える証明は、あなた方はこの方法では救いを受けることができない、ということです。 そのような人々は、もう少しでクリスチャンという状態に留まる人達ですが、本当のところクリスチャンになり損ねる人達です。 あなた方が亡くなる時、あなた方のクリスチャン・ファミリーの人達はこう言うでしょう、“彼はもう少しで救われたのに!”と。

“ほとんど” 変わることなく
   “ほとんど” 失敗に終わりし
悲しき、悲しき、とても激しい嘆き、
   “ほとんど” しかし、失われし。
(“Almost Persuaded” by Philip P. Bliss, 1838-1876).

2.  もう少しでクリスチャンという状態に留まることが愚かな完全ある狂気である第二の証明は、それは他の人たちへの害であることです。 もう少しでクリスチャンという状態にある人達は、この全体の世で最も害を及ぼすものの一つです。 彼は、羊の着物を着た狼で、間違った預言者なのです。もう少しでクリスチャンという状態にある人達は、“神の御国に自分自身入らず、入る人達の邪魔をする”のです。 彼らは、無神論者やイスラム教徒、あるいはモルモン教徒以上に危険な存在なのです。 なぜなら、ほとんど全ての人達は、彼らを識別しますが、もう少しでクリスチャンという状態に留まる人達は、識別できません。彼らは偽善者で、イスラム教、モルモン教、ありは無神論者達にはいままで着いていかなかった人達を、引きつけるからです。 それゆえ、もう少しでクリスチャンという状態にいる人達は、彼らよりもより思い天罰を地獄で覚悟すべきです。 なぜなら、彼らは、他の宗派よりも、神の働きを台無しにするからです。 彼らには、より深い地獄の捌きが待っているのです。

3.  もう少しでクリスチャンという状態に留まることはが愚かな完全ある狂気である第三の証明は、私達の主、救い主のイエス・キリストに対する恩知らずであることです。 
      イエスは、私達を救われるために天国から降りてきました。彼は恥辱を受け、罵られ、ゲッセマネの園で苦悩の中、御血を流され、捕縛され、笑いものにされ、半殺しにあい、そして十字架に釘付けにされて、私達に代わって死んでいきました。 彼は私達を洗い清めるために、ご自身の尊い御血を流されました。あぁ、あなた方のこころは完全には彼のところにないのに、どうしてあなた方は、彼を愛していると言えようか? あなた方自身を完全にキリストに与えないのに、彼があなた方を永遠の惨めさ、そして刑罰から救うために苦悩されたことを、どのようにしてあなた方は知るのか?
      イエスにあなたのこころを完全に与えなさい。二つの意見の狭間に立つのを止めなさい。なぜ、あなた自身をキリストから距離を置くのですか? なぜ、あなたの魂を縛り上げ、キリストへ逃れることをさせない鎖である罪の奴隷になって、この世、肉欲、そして悪魔から離れないのですかいるのですか? 何を恐れているのですか? なぜ、あなた自身を完全にキリストに与えないのですか? あなた自身をキリストに完全に投げだすことを、恥ずかしいことだと思うのですか?
      キリストとこの世の間を彷徨することは、あなたを満足させる徒考えることは、大きな錯覚です。 そうです、それはあなたがキリストの提供された大いなる平安を経験することを妨げるだけです。 あなたが自身のこころを完全にキリストに与える事を除いて、あなたが神との平安を得ることはありません。
      結論として、私は、あなた方が、もう少しでクリスチャンという状態から抜け出すことを強く勧告します。 神の怒りとさばきから逃れなさい。そのために、どんな犠牲をあなたが払おうとも、キリストに逃れなさい。そうして、あなた自身を、キリストに与えるように努力奮闘しなさい。いつも祈っていなさい、そしていつも、自分自身を彼との喜びのために備えなさい。 そこには、完璧な喜びがあり、永遠の幸福が神の右座にあるからです。 アーメン!


この説教『The Almost Christian』は、第一大覚醒(1730-1760)の時に、ジョージ・ホィットフィールドによって説教されました。 私はその説教を、文字離れした現代人に理解し易いように編集し簡潔にしました。 あなた方がこの説教をもう一度読み、深く考えるように。 あなた方が“もう少しでクリスチャン”になる状態から抜け出しますように。 神ご自身が、いつかこのことがあなた方とは関係なくなるかもしれないですが、あなた方を真のクリスチャンとして“完全に”されるますように(使徒行伝第26章29節)。

“ほとんど説得されし”しかし 収穫は過ぎたり!
   “ほとんど説得されし”しかし 運命はついに来たり!
“ほとんど” 変わることなく
   “ほとんど” 失敗に終わりし
悲しき、悲しき、とても激しい嘆き、
   “ほとんど” しかし、失われし。
(“Almost Persuaded” by Philip P. Bliss, 1838-1876).

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:使徒行伝第26章19-29節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Almost Persuaded” (by Philip P. Bliss, 1838-1876).

要 綱

もう少しでクリスチャン―ジョージ・ホィットフィー
ルド牧師の説教からの応用

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」”
(使徒行伝第26章28節)。

(ルカによる福音書第21章12節;
使徒行伝第26章24, 25, 23, 26, 27, 28 節)

I.   最初に、もう少しでクリスチャンという事は、どんな意味であるか。
ヤコブの手紙第1章8節;テモテへの第二の手紙 第3章5節;
マタイによる福音書第25章30節;使徒行伝第26章29節。

II.  次に、なぜ多くの人達は、もう少しでクリスチャンという人達なのであろうか。
ヨハネによる福音書第3章9節;ルカによる福音書第13章24節;
ヨハネによる福音書第5章44節;ヤコブの手紙第4章4節;
ヨハネによる福音書第12章43節;テモテへの第二の手紙第3章4節;
ルカによる福音書第9章23節;ヘブル人への手紙第10章38節;第6章4-6節。

III. 最後に、愚かな完全なる狂気は、もう少しでクリスチャンという状態に留まらせる。
使徒行伝第26章29節。