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戸を閉められたならば?

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

WHAT WILL YOU DO WHEN THE DOOR IS SHUT?
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2010年5月16日、主の日の晩の説教

“そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう” (ルカによる福音書第13章24-25節)。

私の今晩のテキストは、とても厳粛なものです。 イエスは、ご自身の周りにいる人達に、これらの大変重々しい言葉を話されました。 “脅かす言葉”とでも言いましょうか。

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ”(ルカによる福音書第13章 24節)。

イエスは彼らに、“狭い戸口から入るように努めなさい。“と言われました。 狭い戸口と言うのは、イエスご自身を指しています。 イエスは、マタイによる福音書第7章13-14節で、このように語られています、

“「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」”
       (マタイによる福音書第7章 13-14節)。

ヨハネによる福音書第10章で、イエスは“狭い戸口”の代わりに“門”という言い方をしています。 どちらもイエスを示しています。 ヨハネによる福音書第10章9節で、イエスはこのように言われました、

“わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる・・・”
       (ヨハネによる福音書第10章9節)。

ですから、私達の今晩のテキストでイエスは、“狭い戸口から入るように努めなさい”―すなわち、イエスご自身を通って入るように努めなさい―“わたしを通って入る者は救われる”(ヨハネによる福音書第10章9節)と言っているのです。 しかしイエスは、あなた方は、イエスご自身を通して“入るように努めな”ければならない、そうでなければ、あなた方は救われない、と言っているのです。 “努めて”と訳された本来のギリシャ語は、“agonizesthe”です。 それは、ギリシャ人達によってしばしば軍的な闘争を意味する為に使われた言葉です。 それは真剣に苦闘、更に“戦う”ことも意味します。 私達は、キリストを通して“入る為に、真剣に奮闘、更に戦う”、キリストを通して入る機会を“とらえる”とも表現する事が出来るでしょう! できる限りの努力を尽くして入りなさい! 清教徒のジョン・トラップは、“[ローマ時代の]オリンピック・ゲームで花冠を獲得する為に全力を尽くしたように・・・しかし誰一人として、[彼は]悪魔と日中は戯れ、そして夜にはきリストと食事を共にする、[もしくは]気楽な思いで天国へ行く、などと思わせる事無く、激しく苦しむ[ほどまで]奮闘せよ”と言っています( John Trapp, Commentary on the Old and New Testaments, Transki Publications, 1997 reprint, volume 5, p. 326; comment on Luke 13:24)。 マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)は、更に強調してこのように述べています。

救われる全ての人は、狭い門から入るべきであり、生まれ変わるほどの、自分自身全ての変化を経なければならない・・・狭い門から入ろうとする人達は、努力して入らなければならない。 天国に入るのは困難な事であり、非常な心づかいや苦痛、困難そして不断の努力無しでは得る事は出来ない。我々は祈りにおいて神と奮闘しなければならない、ヤコブのように、罪と悪魔に抗して奮闘しなければならない。我々は、自らの心にて・・・奮闘しなければならない。Agonizesthe―“苦闘する事:ほうびを獲得する為に走る人達のように努力する; 自らを最大限にかきたて、また尽力する”( Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson Publishers, 1996 reprint, volume 5, p. 586; note on Luke 13:24)。

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである”(ルカによる福音書第13章 24-25節)。

では、単に“入ろうとする”人達が何人いるでしょうか。 “入ろうとしても”は、“努める”事よりももっと弱いのです。 ギリシャ語では“zeteō”です。 それは、“形式ばらずに学ぶ、または尋問する”、キリストを通して入る為に実際に奮闘する事を、熱心に、また努力なしに、すぐに気が変わり、中途半端に学ぶ、といった意味です。 たかが振る舞いだけで、救いについてただ中途半端に学びながら、キリストへと自らの道を押し分けるほどの願望も無い、いい加減な人達、それらの口先だけの軽薄な人達には、何と哀れな運命が待ち受けているでしょうか! 彼らは信仰を不正に扱い、いい加減にもてあそび―そうして、“入ろうとしても入れない”のです! 彼らは単に宗教を“もてあそんでいる”だけなのです!

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである”(ルカによる福音書第13章 24-25節)。

キャロル博士(Dr. B. H. Carroll、1843-1914)は、サウスウエスタン・バプテスト派神学校(Southwestern Baptist Theological Seminary)の学長でした。 彼はこのように述べています、

・・・狭い戸口から入るように今努めなさい。なぜなら、一度家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは、多くの人達が入ろうとしても入れないからである。その考慮はこうである:時が立つにつれ期限がある;人がこの俗世な全ての活動の中に置かれた時に、何の違いもまったく無い時がある。それが正にここでの救い主の意見である。それがイザヤの強調するところである。

“主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに”(イザヤ書第55章6節)。

・・・それが十人のおとめ達についてのたとえ話の(主要なる)思考である。それらの愚かなおとめ達は入ろうとし、一生懸命に入ろうとして戸をたたき“御主人様、御主人様、開けてください”と言った[マタイによる福音書第25章11節]・・・その後の[彼女達の]奮闘の無さは、奮闘によって何も成し遂げる事が出来ない時、戸が閉められた時、機会が無くなった時、努めるには遅すぎた。その時に、彼らは目を覚まし;彼らは奮い起こされ、そして目を開き、恐ろしい光景、永遠なる疑問の重要さ、外は暗闇、死、追放された事、そして内は生命と栄光である事を知る。少なくとも、個人的救いの大いなる重要性は、彼をたずね求め、試み、努力をし、激しく叩き、そして祈る、しかし、無駄に帰す。“遅すぎる、遅すぎる、あなた方は今入ることはできない”・・・人がキリストに入れないとはどういう意味なのか?それは・・・簡単に理解できることである。すなわち、神は我々が地上にいる間に機会を与えてくださった、その機会は、彼の裁量による。我々はその機会を計ることはできない。神が計れる。神のみが、その機会の期限を知られる。ある女学生には三週間を与え、罪悪な男には六年間を与えられるかもしれない。私には分からない。それは完全に神のみが知ることである。ここに神聖な統治がある。我々が知るのは、キリストを捜し求めることが出来るときがあるかもしれないし、ないかもしれない。こう書いてある、“主を尋ね求めよ、見いだしうるときに・・・。”この聖句の意味は、これらの人達はキリストに入ろうとしたが、キリストはその時引き下がられた。 我々が知るように、一度戸が閉められてしまうと、その戸は永遠に開かない。もし死が我々がキリストにいないことを知るならば、我々には二度とその機会がない・・・戸は閉められたからだ。しかし、我々の救い主は、死がおとずれる前に、そのことが起こる事を話される。 彼は言う、人が聖霊を貶すと、今の世ならびに次の世で、決してゆるされることのない取り返しのつかない罪を犯したことになる。その意味は、まだ生きている間に戸が閉められ、永遠に閉められてもこの世で生き、終には戸はその人に対して永遠に閉められるのである。早くに立ち上がり、晩くに座り、日夜戸を叩き、エサウのように泣き叫び、そして、彼らは懺悔する機会がない事を知る(B. H. Carroll, D.D., The Four Gospels, Baker Book House, 1976 reprint, volume I, pp. 131-135; notes on Luke 13:24-25)。

あぁ、聖書は何度、あまりにも待ち続けた人達の事を描写しているのでしょうか。 神は戸を閉められ、神が彼らをあきらめられた後、彼らがより長く生きたとしても彼らは救われなかったのです。 聖書の中に書かれている、いくつかの話を今晩してみましょう。

カインは、弟のアベルにやきもちを焼いていました、なぜなら、神は、アベルの、犠牲の血の供え物を受け入れ、自分の菜物の供え物を拒絶したからです。 カインは腹を立てました。 神は彼に、“正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう”(創世記第4章7節)言いました。 しかし、彼は悔い改めず、血により神に来ませんでした。 時は過ぎさりました。 ある日、ある時に、神はカインをあきらめました。 彼はアベルを殺す思いが起こりそうしました。 カインはその後数年生きましたが、彼が救われるには遅すぎました。 神は彼をあきらめたのです! 彼は取り返しのつかない罪を犯してしまったのです!

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ”(ルカによる福音書第13章 24節)。

ノアの時代に、神は言われました、

“そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」”
       (創世記第6章3節)。

日は経ちました。 暦は一枚一枚めくられました。 十年が経ち、また十年が経ちましたが、人々は悔い改めず、主を探し求めませんでした。 月日はあっという間に過ぎ去りました。 終に、120年の最後の年の最後の日がきました。 ノアはまさに臨んで裁きについて、長く強い口調で説教しましたが、人々は気にもかけず、彼らには何ら危険なことではないかのように、“すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた”(マタイによる福音書第24章38節)。 “ノアが箱舟にはいる日まで”の言葉に注意しなさい! その日、“主は彼のうしろの戸を閉ざされた”(創世記第7章16節)。 そうして、その日、彼らは起き中に入ろうとしましたが、手遅れでした! 神は彼らを諦められたのです。 彼らは、取り返しのつかない罪を犯したのです! こうして七日の後、洪水が地に起りました(創世記第7章10節)が、彼らが箱舟に入るには、手遅れでした―彼らが救われるには、遅すぎたのです。 私は、彼らが爪を立て、掻き毟りながら、神が彼らを中に入れてくれるようもがいている姿が目に浮かびます。 しかし、手遅れなのです! 彼らの全ての人は、洪水で溺れました。 神は、“その不信仰な世界に洪水をきたらせ”ました(ペテロの第二の手紙第2章5節)。 遅すぎます! 遅すぎます! 彼らは、欺き、一寸かじってはやめ、宗教的な戯言を、家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまう(ルカによる福音書第13章25節)までしていたのです。

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである”(ルカによる福音書第13章 24-25節)。

エサウは、“一杯の食のために長子の権利を”弟に売りました(ヘブル人への手紙第12章16節)。 彼は言いました、“長子の特権などわたしに何になろう」”(創世記第25章32節)。 “そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた”(創世記第25章34節)。 年月は早く過ぎ去りました。 エサウは、長子の特権がどんなにか大事なものであるかを、終に知りました。 しかし、それは遅すぎました。 彼は40年間もの間、取り返しのつかない罪を犯していたのです! 今や、彼は泣き叫びますが、それはすでに手遅れなのです!

“あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである”(ヘブル人への手紙第12章17節)。

今となっては、エサウには遅すぎるのです―永久に! 神はこう言われました、

“「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである”(ローマ人への手紙第9章13節)。

“「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである”(ルカによる福音書第13章 24-25節)。

この話をどこで読んだのか覚えていませんが、ジョン・ライス博士の本の一冊だと思います。 私は、それを書とめました。 数年前に書とめたように、今その話をあなた方にしましょう。

ライス博士は、伝道集会に毎晩やって来た男性について話しました。 その人は、後ろの席に座り、笑いながら、説教を小ばかにしていました。 博士は、説教を続け集会は終わりました。 数年が経ちましたが、その男性は救われていませんでした。

ある晩、ライス博士は姉と電話で話しました。 彼女は、“ジョン、あの人を覚えていますか?” 彼は、“覚えています。 彼は集会に来たが、救われなかった。 彼は、説教を小ばかにし、冗談を言いながら笑い飛ばした”と言いました。

そして、ライス博士の姉は彼に、その男性に何が起こったかを話しました。 彼は胃を壊し、病院に運ばれました。 医者は言いました、“手遅れです。 何も出来ません。 家に帰って、遺書を書きなさい。 そんなに長くはないでしょう”と。

それは、ダラスの暑い夏の日でした。 エアコンが出回る前の時代でした。 人々は、かすかな風が中に入るよう、窓を開け放していました。 死を迎えていたその男性は、数週間家で横になっていました。 彼を慰められる人はいませんでした。 彼らはバプテストの牧師に来てもらいましたが、その人をキリストに導くことは出来ませんでした。 その死を迎えた男性は、(救われるには)遅すぎる、あまりにも待ちすぎた、と繰り返し言い続けました。 ダラスの暑い夏に、彼の叫び声は、通りを越して街の遠くまで聞かれたのです。 彼の叫び声、“あぁ神様、自分には時間がもう少し必要です! あぁ神様、自分は死ぬ準備ができていません! あぁ神様、自分は死ぬ準備ができていません! 死ぬ準備ができていません! 死ぬ準備ができていません!”は、皆に聞かれたのです。 遅すぎました。 その男性は、取り返しのつかない罪を犯したのでスす。 彼は、“あぁ神様、自分は死ぬ準備ができていません!”と叫びながら死んでいきました。

“そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう” (ルカによる福音書第13章24-25節)。

待ってはいけません! これ以上時間を延ばしてはいけません! キリストは十字架の上で罪の罰を贖うために死にました。 彼に来なさい、そうすれば、彼はご自身の御血でもってあなたの罪を清めるでしょう、そして、彼の義でもってあなたを包まれるでしょう。 “あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ”(イザヤ書第55章6節)。 救いの扉が永遠に閉まる前に、そして、彼が身近にいる今こそ、キリストに“はいるように努めなさい!” ライス博士はこのように言いました、

あなたは無駄に月日をもてあまし、救い主を拒否し続ける。
   彼の警告は、我慢強く、彼の願いはやさしい。
しかし、あなたはゆるされない果物を食べ、サタンの約束を信じた。
   よって、あなたのこころを頑なになり、あなたの思いは暗くなった。
そうして、裁きに出くわし、哀れみを請うが得られない。
   聖霊が過ぎ去るまであなたは無駄に月日をもてあました。
死があなたに望がないのを知ったとき、何と咎め、悲しむのか。
   あなたは、あまりにも長く、無駄に月日をもてあました。
(“If You Linger Too Long” by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ルカによる福音書13章24-28節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“If You Linger Too Long” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).