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教会で育つ事の有利な点そして不利な点

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THE ADVANTAGES AND DISADVANTAGES
OF BEING RAISED IN CHURCH
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年10月25日、主の日の晩の説教

“さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”(サムエル記上第2章12節)。

それは判りやすい話です。 ある一人の不妊の女性がいました。 彼女は神に祈り、そしてもし神が祈りを聞き入れてくださるならば、彼女は子供の一生涯を幕屋での奉仕に捧げると約束しました。 神は彼女の祈りを聞き入れられ、彼女に一人の男の子が生まれました。 彼女はその子をサムエルと名付けました。 そして彼を幕屋に連れて行き、エリと称する祭司によって育てられるよう、その子を引き渡しました。

さて、その祭司にはホフニとピネハスという二人の息子達がいました。 彼らは宗教的ではありましたが、神に関する事柄には無関心でした。 その反面、少年サムエルは、ある晩、主に出会い、回心しました。 しかし祭司エリの息子達は宗教的ながらも、不信の状態が続きしました。 最終的に、神は彼らにさばきを下されました。

“また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された”(サムエル記上 第4章11節)。

聖書で挙げられているそのホフニとピネハスの記述には理由があります。 それは、クリスチャンの家庭で育った若者達への警告として聖書に挙げられている、と私は信じます。 あなた方はクリスチャンの家庭で育ちましたか? もしそうであるならば、これらの若者達の生き方を通して、神はあなた方へ多くの教訓を与えています。 

“さて、エリの子らは、よこしまな人々で”
       (サムエル記上第2章12節)。

私はここで、エリの息子達から二つの教訓を挙げます。

I. 最初に、教会で育つ事の有利な点。

彼らは、多くの人々には無い機会がありました。 彼らは敬虔な家庭で育ちました。 彼らは、今までの生活の中で神の恵みなる御業に服従させられました。 彼らは、聖書を知っていました。 彼らは何度も説教を耳にしました。 彼らは習慣上宗教的でした。 にもかかわらず、“よこしまな人々”(サムエル記上第2章12節)だったのです。 

聖書の“よこしまな人々(sons of Belial)”とはどういう意味でしょうか? これはヘブライ語の言い方で、彼らは“卑劣”であったという意味です。 カイルとデリッシュ(Keil and Delitzsch)の解説書によると、

ホフニとピネハスは・・・卑劣な人達であり、主を知らず、すなわち、彼らは主を恐れず、もしくは神に関して自分達を悩ますことが無かった(C. F. Keil and F. Delitzsch, Commentary on the Old Testament, Eerdmans, 1973 reprint, volume III, part 2, p. 35)。

マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)は、

エリ自身は非常に正しい人であった。そして自分の息子達に優れた教育を与え、正しく指導し、よい模範を示し、そして彼らの為に多くの祈りを費やした事は疑いも無い。にもかかわらず、彼らが成人したとき、彼らはよこしまで、冒涜、邪悪な者達であると明かされた・・・彼らは、まったく神を知らない者達のように語られ、彼らは神についてまったく無知な者のように生きた。注意、両親は彼らの子供達に救いの恵みを与えることは出来ず、また血筋によるものでもないMatthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson, 1996 reprint, volume 2, page 226)。

これらの二人は敬虔な家庭で育ちました。 彼らは、生活上神の恩恵なる御業の下にいました。 彼らは聖書を知っていました。 彼らは幼い頃から幕屋なる“教会”にいました。 彼らは、父親エリの説教を聞きました。 彼らは習慣上宗教的でした。 それらは真にすばらしい有利な点であり、当時の異教徒達にはそのような利点はありませんでした。 ほとんどのへブル人達でさえも、これらの二人のように、神の幕屋の内で育つような有利な点はまったくありませんでした。 しかし、彼らは“主を恐れなかった”(サムエル記上第2章12節)のです。

今日、教会で育ち、教会外で育った子供達が持たない多くの利点を保持する若者達がいます。 それらのローカルの教会の環境の中で育った子供達には、クリスチャンの両親がいます。 彼らは、神の恵みの御業の下に生活しているのです。 彼らは何百回もの説教と聖書の教えを聞きました。 彼は聖句も知っています。 彼らは、習慣上宗教的になるよう教えられました。 教会の集会に出席する事は、彼らにとって生活の一部なのです。

教会外で育った子供達には、そのような有利な点はありません。 彼らの両親は祈りません。 彼らの両親は、聖書を彼らに読んでくれません。 彼らの両親は、彼らを教会へ連れて行ってくれません。 実際、彼らの両親は、しばしば彼らが教会へ来るのを引き止めます。 彼らは聖書を知りません。 彼らは伝道的な説教を聞いた事がありません。 彼らはキリスト教を習慣とした事はありません。 彼らが教会へ来る時、全てが彼らにとって真新しい事なのです。 彼らは賛美歌を知りません。 彼らは聖書の見方を知りません。 彼らは、教会のスケジュールが以前の彼らの生活パターンと合わない事でうろたえ、また混乱させられます。 

そして、教会で育った若者達は、真の回心を体験する事無く、彼らの宗教上の慣習を続ける一方、教会の外で育ったこれらの若者達の何人かは、真のクリスチャンになるでしょう。 クリスチャンの家庭で育った若者達についてもまた、“主を恐れなかった”(サムエル記上第2章12節)と言えるでしょう。 そこには何らの違いはありません。 聖書は正確にこのように語っています、

そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており”
      (ローマ人への手紙第3章23節)。

教会で育った人と、教会外で育った人との差別はありません。 

“そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており”
      (ローマ人への手紙第3章23節)。

そこにはなんらの差別も無いのです。

“だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」”
      (ヨハネによる福音書第3章3節)。

そうです、教会で育った若者達には多くの有利な点があります、しかし罪に関しては何らの差別も無いのです。

“あなたがたは新しく生れなければならない”
       (ヨハネによる福音書第3章7節)。

“だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」”
      (ヨハネによる福音書第3章3節)。

以前、私はThe Rise of Evangelicalism: The Age of Edwards, Whitefield and the Wesleys (Dr. Mark A. Noll, InterVarsity Press, 2003) と題する本を読みました。 それは、18世紀に起こった最初の大覚醒についての概観です。 私は様々な情報源からこの本に書かれている最初の大覚醒について読みました、そして、私はこれが、そのリバイバルの注目すべき期間に起こった事について興味ある梗概になるものを見出しました。 

この本の後方で、1942年にスコットランド、カンバスラング(Cambuslang, Scotland)でウィリアム・マッカロック(William McCulloch)の説教の下で回心したある男性と彼の妻の宗教告白を読みました。 その男性と彼の妻は両方共に宗教的でした。 彼らは幼少の時分から教会に出席していました。 その人はこのように語っています、

私は主に習慣として教会に出席した。・・私は宗教的に育てられたという有利な点があった、私は毎日二回祈るように教えられ、それを継続した・・・そして通常の私の行為の一貫性が、自分は正当な道にいる[すなわち自分はクリスチャンである]という確信をもたせた(同著、page 284)。

しかし、二月に彼らは、ウィリアム・マッカロックの説教を聞き、“後に彼らは魂の葛藤を感じた”(同著)。 最終的にその人は回心しました。 そして長い期間、心の混乱があった後、彼の妻も回心を体験しました。 ノール(Noll)は、“それらの話の顕著な特徴は、聖書における長い間の親しみが、福音による罪の自覚、奮闘、そして再確信等の張り詰めた期間への貢献と、どんなにも容易にもたらされたか、という事である”(同著、p. 285)と語っています。

そしてノールは、トーマス・テイラー[Thomas Taylor (1738-1816)]について語っています。 彼は、“4歳の時からウェストミンスター・ショーター・カテキズムの暗記を含めた厳しい宗教的な教育を受けた”(同著、p. 289)。 それはまさに厳しい宗教上の教育でした! それにもかかわらず、彼は、回心していませんでした。 アレイン(Alleine)のAlarm to the Unconverted(不信者への警告)、バニアンのPilgrim’s Progress を読み、そして偉大な伝道者ジョージ・ホウィット・フィールドの説教を聞いた後、テイラーは罪の認識を深く感じました。 ノールは、“20歳に近づいた頃、悪魔との奮闘の期間に・・・テイラーは回心した・・・「私は信仰の目によって、イエス・キリストの十字架を見た・・・私は、その瞬間にイエスを信じた」”(同著、p. 289)。 彼は回心しました。 その後まもなく、彼は説教するように使命を感じ、伝道者となりました。 ノールは、彼はどのイギリスのメソジスト主義者よりも長い期間説教したと言っています。

このような並ならぬ人生の間に、彼はショロスシャイヤーで(Shropshire)群衆に攻撃され、海嵐による死の脅威、橋の崩壊、馬からの落下などから、何回も彼は神の助けによって救われ、彼は聖書研究の為に、ラテン語、ギリシャ語そしてへブライ語などに精通した・・・敵意の直面に耐え・・・そして常に彼は・・・説教した。 彼が説教した事は・・・悔い改め、信仰そして新生などである(同著、pp. 289-290)。

その男性と彼の妻、そしてトーマス・テイラー、これらの三人は、彼らの回心する前の何年もの間、教会で厳格に育った後回心しました。 しかし彼らは皆、罪の自覚を通し、新生を体験しなければならなかったのです!

しかしエリの息子達は、それを体験しませんでした。 彼らは“さて、エリの子らは、主を恐れなかった”、そして彼らは神を知る事も無かったのです(サムエル記上 第2章12節)。

II. 次に、教会で育つ事の不利な点。

私は、ローカルの教会で育つ事の多くの有利な点を示しました。 しかし、不利な点もあります。 二つの不利な点が先ず思い当たります。

最初に、教会で育った若者達は、通常、教会外で育った若者達を悩ます孤独などを体験する事はありません。 私はこの説教で詳しく述べる時間はありませんが、サムエルの母親が、彼を幕屋に残した事を手短に話しましょう。 彼女は、年に一回だけ彼に会いに来ました。 その子供は、盲目になりつつあった年老いた祭司エリ以外はほぼ誰とも話をすることも無く、幕屋での変わった環境で強烈な孤独を体験したに違いありません。 エリの二人の息子達はサムエルと何のかかわりも持たなかったように思えます。 彼らが二人でふざけている時にも、サムエルは、一人残されました。

“さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。・・・サムエルが・・・寝ていた時、主は・・・呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、・・その時エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った”
       (サムエル記上第3章2-4, 8節)。

暗闇の中で神はヤコブの前に来られました。 メディアンの荒野で、神は(モーゼ)を呼ばれました。 北アフリカの砂漠を一人で横切っているエチオピアの宦官に、神は語られました。 そしてここでも、私達は、暗闇の中に一人でいるサムエルと称する少年が、孤独な体験を通してイエス・キリストへと神に呼ばれた事を読みます。

クリスチャンの家庭の中で生活をし、週に何回もの活気のある教会の集いの中で育った事は、しばしば不利な点であると、私は思います。 あなた方の何人かはまったく孤独を感じたことがありません。 教会で育ったあなた方の何人かは、ホフニとピネハスのように不敬虔で、無責任なのです。 ですからあなた方は、まったくサムエルのような体験をした事が無いのです。 神はあなた方を暗闇の中で呼んでいますか? あなた方は今までの人生の中で暗闇を体験した事がありますか? これが教会で育った若者達の不利な点なのです。 あなた方は、常にクリスチャンの家庭で過ごしており、クリスチャンの友人達に囲まれています。 これがあなた方を多くの若者達が俗世間で体験しているような暗闇の孤独から、あなた方を守っているのです。 “教会へ来なさい”? しかし、あなた方はいつも教会の家にいます! “キリストに来なさい”? しかし、あなた方は常にキリストについて知っています! しかし、あなた方はキリストを個人的に知っていますか? それがピネハスとホフニが、まったく直面した事の無い疑問なのです。

“エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”
      (サムエル記上第2章12節)。

彼らは主について全てを知っていましたが、個人的には主を知りませんでした。 あなた方はどうですか? それは、教会内で育つことの、あるいは何年間もの間回心しない状態でいることの最初の不利な点です。 あなた方は、ときに俗世間の若者達をキリストへ向かわせる実存的な孤独を感じたことがないのです。

第二の不利な点は、あなたはそれを前に聞いていたことです。 あなたは今15歳としましょう。 もし教会の中で育ったならば、あなたは日曜日の朝と晩の説教、そして週日の他の説教を含め千五百以上の説教を聞いていることになります。 もしあなたが20歳でしたら、私から二千の説教を聞いたことになります。 あなたは他の説教者からの説教も聞いています。 ですので、あなたは二千五百ほどの説教を聞いたといっても言い過ぎではないでしょう。 その中には、聖書研究やあなたが読んだクリスチャンの書籍は含まれていません。 もしあなたがキリスト教系の学校へ通っていたり、クリスチャン書物やビデオ教材を使いながらホーム・スクールで学んでいるのであれば、19歳もしくは20歳までに、三千回を超えるほどの福音の説教やその説明を、疑いもなく聞いていることになるのです。 その不利な点とは何でしょうか? そう、あなた方がまだ回心していないのであれば、それはとてつもない不利な点になるのです。 説教者がたとえどんな主題を説教しようとも、あなた方は今までにその説教を聞いてしまっているのです! 人の自然な傾向として、ある事を何度も何度も聞いていると、人はそれに耳を傾けなくなり、“今彼は、堕落について説教をしようとしている。 今彼は、贖罪について説教をしようとしている。 今彼は、地獄について説教をしようとしている。 今彼は、新生について説教をしようとしている。 今私達は、伝道的説教をもとうとしている。 今彼は、罪について説教をしようとしている。 自分はそれら全ての説教を数百回聞いている。”と考えてしまうのです。 そして、まだ回心していない者を回心させる恵みの手段である説教の最中に、あなたの集中力は自然と散逸されるのです。 私は、イエスが次の聖句をあなた方に語られているのではと非常に恐れます。 彼は言われました、

“こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』”
      (マタイによる福音書第13章14-15節)。

それは、ピネハスとホフニの状態だったのです。 彼らはそれを前に聞いていたのです。 彼らの耳は“聞くに鈍かった”のです。 彼らの父エリが、最期の最期に再度彼らに忠告を与えたときでさえ、彼らの耳はふさがっていたのです。

“この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』”
      (マタイによる福音書第13章15節)。

それは今晩のあなたの状態ですか? もしそうであるならば、神はあなたを助けます。 エリの息子達がそうであったように、あなたは危険なほどさばきの永罰に近づいていように思えます。 あなたは、ライス博士が言う、“ゆるされることのない罪”を犯す、正に危険な状態にいるように思えます。 あなたは神に見放たれる、正に危険な状態にいるように思えます。 

“さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”
      (サムエル記上第2章12節)。

“エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された”
       (サムエル記上第4章11節)。

そして、彼らは神のいない永遠の地獄に行きました。

1742年、スコットランドで、その人と彼の妻が目覚めたように、あなたが突然眠りから覚める、これが私の祈りです。 その人は言いました、

私は主に習慣として教会に出席した。・・私は宗教的に育てられたという有利な点があった、私は毎日二回祈るように教えられ、それを継続した・・・そして通常の私の行為の一貫性が、自分は正当な道にいる[すなわち自分はクリスチャンである]という確信をもたせた(Noll、同著、p. 284)。

しかし、その人はもう一回の説教、疑いもなく以前彼が何度も聞いたような説教を聞きました。 しかしこの時は、彼は“魂の葛藤”の中にいました。 最終的に、彼はイエス・キリストに立ち返り救われたのです。

教会の中で育とうと育つまいと、それはあなたの経験となるのでしょうか? あるいはあなたは今のままの状態でい続け、神に見放たれ、そして、最後には黄泉の火炎の中に投げ込まれるのでしょうか?

“さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”
      (サムエル記上第2章12節)。

“しかし、おくびょうな者・・・には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」”
      (ヨハネの黙示録第21章8節)。

預言者イザヤはこのように語りました、

“あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ” (イザヤ書第55章6節)。

もしそうすることに失敗したならば、あなたの墳墓の周りで、こう囁かれるでしょう、あなたは“主を知らなかった”と。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読。サムエル記上第2章12-21節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“If You Linger Too Long” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980) 。

要 綱

教会で育つ事の有利な点そして不利な点

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”(サムエル記上第2章12節)。

(サムエル記上第4章11節)

I.   最初に、教会で育つ事の有利な点。
ローマ人への手紙第3:22-23節;

ヨハネによる福音書第3章3, 7節。

II.  次に、教会で育つ事の不利な点。。
サムエル記上第3章2-4, 8節;
マタイによる福音書第13章14-15節;
ヨハネの黙示録第21章8節;
イザヤ書第55章6節。