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林道亮(ティモシー・リン)博士に捧ぐ

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

A TRIBUTE TO DR. TIMOTHY LIN
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年10月18日、主の日の朝の説教

“そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。”(ピリピ人への手紙第1章6節)。

ティモシー・リン(林道亮)博士は、中国生まれの、旧約聖書の専門の学者、聖書用語の師、神学校の教授、牧師、そして台湾の台北市にある福音神学校の学長でもあられました。

リン博士は、1911年1月18日に中国の監督教会派の牧師の家庭に生まれ、2009年10月11日、日曜日の朝にこの世を発たれました。

ティモシー・リン博士は、6歳の時から聖書を読む事をしつけられました。 彼の父親は、リン博士が六歳になる前から説教するよう食卓のテーブルに彼を立たせました。 しかしリン博士は、彼が19歳になるまで回心しませんでした。 その時、彼は罪を悟らされ、彼の全ての罪を詳細に告白し、またそれらを書き記し、イエス・キリストの御血が彼の“彼の全ての罪から”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)彼を清めた事を意識してくるまで何度もそれを繰り返しました。 彼は聖職の道に入る事は望んでいませんでしたが、ある日、ひとりの年配の牧師が涙を流してそうするように彼に懇願してきました。 若かりしリンはこれを神からの使命であると受け取り、奉仕の備えの為に南京にある神学校へ入学しました。 しかしながら、彼はその神学校が、“史実に基ずく批評的な方法”を用いた自由主義を教え、聖書を覆している事に気がつきました。 彼は優等生でした。 彼がそこでの聖書の批判に対して抗議した時、その神学校の学長に、“ティモシー、控えなさい。 あなたをオックスフォード大学に送る。”と告げられました。 しかしリンは妥協しませんでした。 彼は1934年にその学校の近代主義的教えのゆえにその神学校を立ち去りました。

 彼は1937年まで上海のジュビリー教会の牧師を勤めました。 1938年から1939年まで、彼はクリスチャン・ミッショナリ・アライアンス聖書専門学校の学長を勤めました。 1940年に、彼は、コンコーディア神学校とワシントン大学でへブライ語とギリシャ語を学ぶ為に始めて渡米しました。

 

第二次世界大戦の最中にティモシー・リンは、べテル孤児院を管理し、べテル高校の学長を勤めました。 ここで、彼の最初の妻は、日本帝国部隊によって射殺されました。 そしてティモシー・リンはその攻撃の間、安全の為に孤児院から子供達を導いている際に自分の首を骨折しました。 その後、彼は上海バイブル・カレッジの学部長を務めました。 戦争後、彼は杭州にある東中国神学校の学長となるよう招待されました。 そこは、チャイナ・インランド・ミッションに加盟していました。 

1940年に、リンはグレイス・ウー(Gracie Wu)と結婚しました。 1945年に、彼らの間に、メリーランドで外科医をしている一人息子、サムエル・リンが誕生しました。 グレイス・リン夫人は1967年9月13に亡くなりました。 1969年2月にリン博士は、リリー・ウォング(Lily Wong)と再婚されましたが、彼女はリン博士を残して先立ちました。 

1948年に、彼は学業を進めるために再び渡米し、当時、デラウェアー州ワシントン市に在したフェイス神学校(Faith Theological Seminary)から神学修士課程、そして宗教学修士課程の学位を取得されました。 彼は更に、(現在、ペンシルバニア大学と合併し、高等のユダヤ教の学問の中心的存在として名高い)ペンシルバニア州ペンシルバニア市のドロップシ大学からへブライ語、そして同系語の博士号を取得されました。 へブライ語また同系語の博士号取得に加え、リン博士は名誉学位と同時に幾つかの他の課程をも取得されました。 

1950年代には、サウス・カロライナ州にあるボブ・ジョーンズ・ユニバーシティの大学院にて教授を勤められました。 そこでは、彼は体系的神学、聖書における神学、旧約聖書におけるへブライ語、聖書におけるアラム語、古典アラブ語、ペルシャ・シリア語を教えられました。 後に、カリフォルニア州のラ・ミラダ市にあるタルボット神学校とイリノイ州のディアーフィールド市にあるトリニティー伝道主義セミナリーで教鞭をとられました。 また、新アメリカン・スタンダード聖書の中国語の翻訳者の一人でもあります。 1980年より、ジェームズ・ハドソン・テイラー三世の後を引き継ぎ、台湾にある中国伝道主義セミナリーの学長に就任しました。 1991年に退任される時、そこの学校より、“聖書通訳と教会発展”のために尽くされたティモシー・リン博士は名誉を授けられました。

1961年に、ロスアンゼルスにある、会員80名ほどの小さな中国人教会、ファースト・チャイニーズ・バプテスト教会の臨時牧師に就任しました。 1962年に正規の牧師となりました。 60年代後半から70年代の初期にかけ、そこの教会はリバイバルを経験しました。 数年間の内に、2000人者人達が日曜日の礼拝に出席するようになりました。 リン博士の指導の下、ロスアンゼルス市を始め、数箇所に教会が発足しました。 クレンショー地区(ロスアンゼルスの一部)、サクラメント、カレシコ、ファウンテンバレー、ウォルナット、モンテレーパークです。 各教会とも、300人の出席者を数えました。

リン博士はまた、よく知られた聖書会議での演説者でした。 主に、牧師、教師、教会指導者を対象にした、聖書翻訳と教会発展について話されました。 博士は、アジア、北米、オーストラリア、そしてヨーロッパに数々の講演旅行をされました。

ティモシー・リン博士は、99歳の誕生日を3ヵ月後に控えた2009年10月11日、カリフォルニア州のモンテレー・パークにて死去されました。 博士の生涯の概要は以下のリンクで見られます

http://en.wikipedia.org/wiki/Timothy_Lin)。

リン博士が亡くなられるその午後に、私は妻と医師チャン先生、私達の中国語の通訳者である宋氏と共に、彼の病院を訪ねました 。 私は、博士の人生を通して、聖句ピリピ人への手紙第1章6節を中国語の通訳を通して声を出して読み上げました。 私がその聖句を読んだ時に、リン博士は眉を上げて、目を開かれました。

“そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している” (ピリピ人への手紙第1章6節)。

神は、リン博士の98年と9ヶ月に渡る長き生涯において信仰深くあられました。 神は、リン博士が19歳の時に博士自身の罪を博士に悟らし、博士はキリストに来るまで、夜中を通して全ての罪を懺悔し、それを書面にもし、それに涙を流し、終に、十字架で亡くなられ流された御血でもってリン博士の罪は洗い流されたのです。 それが、リン博士のクリスチャンとしての人生の始まりでした。 あなた方もキリストに来て、彼の御血でもって罪が洗い流され清められますように。 それがあなた方への私達の祈りです! アーメン!

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ピリピ人への手紙第1章1-6節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Amazing Grace” (by John Newton, 1725-1807) 。