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祈りと断食によらなければ

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

ONLY BY PRAYER AND FASTING
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年6月14日、主の日の朝の説教

“すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」”(マルコによる福音書第 9章29節).

スポルジョンは、マタイによる福音書第17章とマルコによる福音書第9章で描かれている、悪霊にとりつかれた若者の記述は非常に重要であると思えたので、彼はこれらの聖句に関して何度も説教しました。スポルジョンは、マタイによる福音書第17章の聖句について三つの説教を、そしてマルコによる福音書第9章の聖句について六つの説教を出版しました。しかしながら、今日これらの聖句に関して書かれた説教を探し出す事は困難であろうと私は思います。 スポルジョンの後半の奉仕以来、現代の原文批評はこれらの聖句を私達の聖書から書き落としています。 スコーフィールド・スタディ・バイブルにおいても、マタイによる福音書第17章21節についてのセンターコラムの注解“i”で、二つの重要な言葉が21節で書き落とされている事が記されています。 そして、マルコによる福音書第9章29節についての注解“u”においては、二つの重要な言葉‘そして断食’が書き落とされている事が記されています。

さて、 私はそれについて詳細に入ることは出来ません。 ただ私は、これらの二つの福音書には、この節が書き落とされていることが19世紀の後期に発見された、という事がいえます。 このことは、ほぼ全ての人にとって“そして断食”という言葉が不用であると思わせ、間接的な結果として、クリスチャン達は罪人の回心の為の断食の重要さを忘れてしまったのです。 この事について幾つかの要点にあなた方の注意を引き付けたいと思います。

I. 最初に、このテキストを書き落としている原文批評は、この終わりの時の教会を弱くさせている。

私は、同意しない人達がいる事は、承知の上です。彼らは、以前は知られていなかった事柄に関して、偉大な学識的ひらめきが与えられたと揶揄します。 しかし、私自身の牧師であった、ティモシー・リン博士(Dr. Timothy Lin)はその事に同意しません。 彼はセム系諸語の博士号を得ています。 彼は、ボブ・ジョーンズ・ユニバーシティ(Bob Jones University)の大学院で聖書におけるヘブライ語を教え、台湾の台北市にある中国福音主義神学校(China Evangelical Seminary)の学長でもありました。 リン博士は、近代前の昔の注解の方がむしろ信頼出来ると、常に言っていました。現代の保守的な学者でさえも、生きたキリスト教よりも学識を重んじるようになり、聖書の霊的な意味を普通見逃している、と彼は言っていました。 私も大いに彼に同意します! “終わりの時”のクリスチャン達について、聖書はこのように告げています、

“信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい” (テモテへの第二の手紙第3章5節)。

聖書の預言は、私達にこのようにも告げています、

“そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう” (テモテへの第二の手紙第4章4節)。

神は“終わりの時”の偽のクリスチャン達を天罰なる裁きによって罰せられるでしょう。

“そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り”
      (テサロニケ人への第二の手紙第2章11節)。

“終わりの時”のラオディケアのキリスト教に関して、キリストはこのように言われました、

“あなたを口から吐き出そう” (ヨハネの黙示録第3章16節)。

しかし、神が口から彼らを吐き出される前に、神は“彼らが偽りを信じるように、迷わす力”を送られます(テサロニケ人への第二の手紙第2章11節)。 その惑わしの一部は、聖書から私達のテキストを取り除いているような“より高い”、または“より低い”考証的批評によって一般的に受入れられている考えです。 

“これらのたぐいは祈り(と断食)によらなければ、どうしても追い出すことはできない” (マルコによる福音書第9章29節)。

多くの人々は見逃してはいますが、私達は、圧倒的大部分の古代のテキストはそれらの言葉を加えていると言う事を忘れるべきではありません。 アレクサンドリア学派の二つのテキストのみに、それらは書き添えられていません。 なぜでしょうか? アレクサンドリア学派は、鬼神論、そして人間の身体を重要視しないグノーシス主義(Gnosticism)によって著しく影響されていたからです。 ですからグノーシス主義に影響されたこれらの二つのテキストは、“祈りと断食”の言葉を取り除いたのです。 内容を乏しいものにしたこれらのテキストの使用は、“終わりの時”の教会を弱めたのです。グノーシス主義化された、終わりの時の“聖書”は、伝道の為の力を授かる大いなる手段の一つである、断食と祈り、に関する全ての引用を取り除いてしまったのです。

あらゆる形での原文批評は、今日の教会を強める事無くむしろ弱めてしまったと私は思います。 間違っているでしょうか?キリスト教の歴史を少しは読んでみてください。 キリスト教は、原文批評の以前よりも強化されているでしょうか、それとも弱まっているでしょうか?当然、キリスト教の歴史を学んだことのある人は誰でも、今日のキリスト教は大変弱まっている事が明らかに理解できます。 ですから、私の見解としては、より高い、そしてより低い考証的原文批評の両方共がキリスト教を弱めており、それは、クリスチャンを霊的なことから遠ざけ、さまざまな西洋の合理主義的形式へと向けているという事です。 それが中国の教会が西洋の教会よりも強力である事の理由です。 彼らは共産主義者による迫害によって、西洋の合理主義から保護されているのです。 中国では、彼らは未だにこの聖句を理解しています、

“これらのたぐいは祈り(と断食)によらなければ、どうしても追い出すことはできない” (マルコによる福音書第9章29節)。

ですから、西洋の教会は教会員を失い荒廃している一方、中国ではリバイブルが見られるのです。 それが私達のテキストについて、私が強調する最初の見解です。

II. 次に、このテキストの重要性の認識の欠如は、西洋の教会が自らの子供達に伝道する事を引き止めている。

“これらのたぐいは祈り(と断食)によらなければ、どうしても追い出すことはできない” (マルコによる福音書第9章29節)。

これはどのような状況だったのでしょうか? なぜキリストは彼の弟子達にこの忠告をされたのでしょうか? それは明白です、父親によって彼らの目の前に連れてこられた若者を、彼らが癒す事が出来なかったからです。 弟子達は、あらゆる事を試しましたが、彼らはこの若者を助ける事ができなかったのです。 彼の父親はその事をイエスに訴えたのです。

“それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」” (マタイによる福音書第17章16節)。

西洋の教会は、今日それと同じような哀れな状態です。 ここアメリカにある多くのアジア系の教会もこのように哀れな状態ではないか、と私は思います。 バーナ世論調査では、アメリカの教会は88パーセント以上の教会で育った若者達を失っている事が示されています。 彼らは、単に教会で育った若者達の回心、そしてクリスチャンとして彼らが成長をすることを見極める事が出来ないのです。 その結果として、ほぼ90パーセントの彼らの子供達は教会を離れ、俗世間へと去って行ってしまうのです。 それは、使徒ヨハネが指摘しているように、彼らが回心していなかったからなのです。

“彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである”(ヨハネの第一の手紙第2章19節)。

私は、キリストの御血に関してはジョン・マッカーサー(John MacArthur)と同意しませんが、彼が述べているこの事は正しいと思います、 

彼らは教会の中で育ち、そして去って行く・・・真のキリスト教信仰の最大のテストは忍耐である。人々が教会から去って行く事は、彼ら自らの仮面をはぐ事である(John MacArthur, D.D., The MacArthur Study Bible, Word Publishing, 1997, p. 1967; note on I John 2:19)。 

西洋の教会は、彼らの“教会の子供達”をまだ幼少の頃に軽率な“決断”をさせ、彼らが青年になると、彼らを教会に留める為に、出来る限りのほぼ全ての無分別なやり方を試みています。 それでも、88パーセント以上の割合で、彼らは失敗しています! 彼らが自称する“進歩主義的”計画は、役に立ちません、なぜならそれらは聖書ではなく、むしろ合理主義に基づいた人造的なもくろみだからです。 単純な話、“教会の子供達”はもともと回心していかったという事なのです! ですから、彼らが経済的に自立出来るようになると、彼らは教会を去って行く事によって罪を犯すのです。聖書はこう言っています、

“罪を犯す者は、悪魔から出た者である”
       (ヨハネの第一の手紙第3章8節)。

彼らは未だに“悪魔から出た者である”からです。

“あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている”(ヨハネによる福音書第8章44節)。

これらの“教会の子供達”が、信頼できる教会員となる唯一の道は、サタンからの救出にあるのです。 それは回心により新たな心を受入れる事によってのみに生じる事が可能です!

“あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ”(ローマ人への手紙第12章2節)。

心を“新たにする事”は真の回心の際に生じます。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である” (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

“教会の子供達”は、新たにされた心がなくてはなりません、そうして新たな人となるのです。 これは真の回心を通してのみ生じる事が可能です。 それは神業なる行いです。 新生は単に“キリストへの決断”を通して生じる事ではありません。

III. 最後に、教会の若者達が回心するためには、このテキストの重要性を理解し、実行しなければならない。

“これらのたぐいは祈り(と断食)によらなければ、どうしても追い出すことはできない” (マルコによる福音書第9章29節)。

スポルジョンはこのように書いています、

それはどういうことか? 私は、このような・・・場合、単なる通常の聖書の説教だけでは効力は無く、そして通常の祈りは十分では無いという事を、彼は意図していると信じる。 それには並ならぬ信仰がなくてはならない、そしてそれを得るには、並以上の祈りが無くてはならない、そしてその祈りが適切な地点にまで達するには、多くの場合、断食をもがなされなければならない(C. H. Spurgeon, “A Desperate Case – How to Meet It,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1991, volume X, p. 35)。

使徒ヤコブはこのように述べています、

“義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである”
      (ヤコブの手紙第5章16節)。

スポルジョンはこのように書いています、

並以上の祈りが無くてはならない、そしてその祈りが適切な地点にまで達するには、多くの場合、断食をもがなされなければならない(同著)。

ある時に、弟子達は非常に驚き、尋ねました、

“「それでは、だれが救われることができるのだろう」”
      (マルコによる福音書第10章26節)。

イエスは彼らを見つめて、答えられました、

“「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」” (マルコによる福音書第10章27節)。

ですから、私達が断食し祈る時に、私達自身では出来ない事を、神がされるように呼び求めるのです。 私達も出来る範囲で、教会の救われていない人達の為に、断食し祈りましょう。 私達は、彼らが心から罪の自覚が生じるように祈らなければなりません。  私達は、彼らが自らの罪を感じるように祈らなければなりません。 私達は、彼らが悔い改め、十字架につけられ、よみがえられた救い主と真に直面するように、そしてキリストの御血により、彼らの罪が洗い流されるように祈らなければなりません。 彼らが悔い改め、心からこのように言えるように、断食をし、祈ろうではありませんか。

主よこのみいままたくし
   すみたまえわがこころに
すべての偶像をくだきて
   かたしめよあしきものに
もたしめよわれにも
   ゆきよりもしろきこころ
(“『主よこの身いままたくし』 Whiter Than Snow”
     by James Nicholson, 1828-1896).

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
www.realconversion.com “Sermon Manuscripts” をクリックしてください。

クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:マタイによる福音書第17章14-21節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Then Jesus Came” (by Homer Rodeheaver, 1880-1955).

要 綱

祈りと断食によらなければ

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」”(マルコによる福音書第 9章29節).

I.   最初に、このテキストを書き落としている原文批評は、この終わ
りの時の教会を弱くさせている。 
テモテへの第二の手紙第3章5節;第4章4節;第3章1節;
テサロニケ人への第二の手紙第2章11節;
ヨハネの黙示録第3章16節。

II.  次に、このテキストの重要性の認識の欠如は、西洋の教会
が自らの子供達に伝道する事を引き止めている。
マタイによる福音書第17章16節;
ヨハネの第一の手紙第2章19節;第3章8節;
ヨハネによる福音書第8章44節;
ローマ人への手紙第12章2節;
コリント人への第二の手紙第5章17節。

III. 最後に、教会の若者達が回心するためには、このテキストの重要性を
理解し、実行しなければならない。ヤコブの手紙第5章16節;
マルコによる福音書第10章26, 27節。