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生れながらの人にとって愚かなるもの!

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

FOOLISHNESS TO THE NATURAL MAN!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年3月22日、主の日の晩の説教

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない”
(コリント人への第一の手紙第2章14節)。

第14節と15節で、使徒パウロは、生れながらの人と霊的な人の、二種類の人を挙げています。 彼は、全人類をこのような二つのグループに分けています。 彼は、生れながらの人と霊的な人の、二種類の人々のみをここで挙げています。 もし神の御霊が、生れもった本性から異なった新たな性質を彼らにもたらしていないのであれば、その人は生れながらの人であるとされます。 彼は、生れながらの人が、神の御霊によって、霊的な人へと変わらない限り、福音の真実を決して受けいれる事は出来ないと教えています(C. H. Spurgeon, “Natural or Spiritual?”, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1986 reprint, volume VII, pp. 473-480参照)。、

“生れながらの”という言葉は、感覚の“肉に属する”という意味の“psuchikos”というギリシャ語から訳されています(Strong)。 それは回心していない人の状態を表しています。 このような状態の人は、ユダの手紙第19節で“肉に属する者、御霊を持たない者たちである”(ユダの手紙第19節)と描写されています。 生れながらの状態から開放されるためには、人は回心し、“新たな人”(コリント人への第二の手紙第5章17節)と成らなければなりません。 私達のテキストをみれば、このことが真実であることを証明する三つの事実が分かります。

I. 最初に、生れながらの人は神の御霊の賜物を受けいれない。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

“生れながらの”という言葉は、感覚の“肉に属する”という意味の“psuchikos”というギリシャ語から訳されています(Strong)。 これは回心していない、 生れながらの状態を表しています。 彼は自分の感覚に従って生きているのです。 彼は、神との関係をもっていません。 

アダムは神に対して罪を犯しました、そうして彼の全ての子孫に堕落と罪をもたらせました。 全人類は、アダムによって罪の中へと陥れられ、私達の“生れながらの”罪の状態が彼によって受け継がれたのです。

“ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた”
      (ローマ人への手紙第5章19節)。

そのようにして、あなたは“生れながらの人は、神の御霊の賜物”を受けいれない“生れながらの”人となったのです(コリント人への手紙第2章14節)。リチャード・ウォ-ムブランドがこう言ったように、アダムの罪によって、

人の思いは狂っており、そして、あなた方が理性を超えた時にのみ、現実に達するのである(Wurmbrand, If Prison Walls Could Speak, Living Sacrifice Book Company, 2000 edition, p. 63)。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

私達の周辺にいる人達を毎日見るだけでも、それが真実である事が分かります。街並みにいる生れながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れません。それは酔っ払いや、淫行を行うような人を指しているだけではなく、非常にインテリで、洗練され、そして、宗教的な人達をも含めています。 全て彼らは同様です。彼らは神の御霊の賜物を受けいれ、あるいは受け取る事も出来ないのです。

聖書は私達に、罪の本性は、歴史が始まったアダムから来たものである事を私達に語っています。

“このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである”
      (ローマ人への手紙第5章12節)。

“すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように” (ローマ人への手紙第5章19節)。

全ての人類はアダムにより罪を犯し、この世の全ての人間は、アダムの罪の本性を受け継いだのです。このように全ての人間は、生れながらの人となったのです。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

周りを見て御覧なさい、あなた方は何百人もの神の御霊の賜物に激しく反対している生れながらの人達を見るでしょう。 彼らは教会のメンバーであるかもしれませんが、聖書を通して神が語られてる事に反対しているのです。 私が自由主義派(リベラル)の神学校へ通っていた時、聖書の最も基本的な事に激しく反対しているバプテストの教授がいた事に驚かされました。 当時私には、“神の御霊の賜物”に対しての彼らの攻撃の理由が完全には理解出来ませんでした。 聖書の基本的な真実に対する彼らの反対の姿勢が、彼らが単に“生れながらの”人達、回心していない人達であったという事実に基づいていることを、私は完全には当時理解していませんでした。 聖書はこのように言っています、

“なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである”
      (ローマ人への手紙第8章7節)。

生れながらの状態にいる人は、“神に対する、個人的な反目、憎悪、嫌忌、そして敵意”に満ちた敵対心を神に対して抱いています( R. C. H. Lenski, D.D., The Interpretation of St. Paul’s Epistle to the Romans, Augsburg Publishing House, 1961 edition, p. 506; comment on Romans 8:7)。

しかし、多くの生れながらの人達は、神の御霊の賜物に対して公然と、また激しくは対抗しません。 しかし、彼らは、内密にそれらを軽蔑し、それらを否定するのです。 もしあなた方が自分自身に正直になるならば、あなた方は、いつかそれがあなたにとって真実である事を知るでしょう。 神の恵みによってあなた方が、いつか日常生活の中において、自分達の生れながらの思いが、神に対して敵対している事を知るでしょう。

あなた方が、聖書を読む事に真の喜びを抱いていない事は、真実ではないでしょうか? あなた方が、単に義務的に聖書を読んでいる事は、真実ではないでしょうか? あなた方が、神の御言葉を読んでも霊的に価値のある事を何も得ていないのは真実ではないですか? そして、それがあなた方が未だにこの状態であるという事の著しい証明ではないでしょうか?

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”?
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

祈りについても言える事です。 あなたは祈りを通して神に近づいた事がありますか? 祈る事を楽しみますか? 自分に正直になりなさい。 そして、もし祈りに満喫しないのであれば、そして、祈りを通して神に近づいた経験がないのであれば、それはあなたが未だにこの状態である事のもう一つの証明ではないでしょうか?

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

そして、あなた方が、日曜日に教会へ来る時、神の御言葉の説教を通して、神があなた方に伝えられる事を聞きたいと思っていますか?  それとも、あなた方は説教を受けいれる事も、また楽しむ事も全くなく、床に目を向け、あるいは思いをそらしたりしていませんか?  そして、もしそれらがあなた方にとって真実であるならば、あなた方が未だにこの状態である事のもう一つの明白な証明ではありませんか?

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

そして、もしあなた方が集会の後のカウンセリング室に来て、執事のケイガン先生のあなた方に伝えるべき事を興味深く聞いていますか? あなた方の回心に関しての彼の助言に熱心に耳を傾けていますか? それとも、そこを出て行く際に、彼の言う事も受けいれず、彼の言った事を直ぐに忘れ、あなた方の思いをそげていませんか? そして、もしそれらがあなた方にとって真実であるならば、あなた方が未だに生れながらの状態である事のもう一つの証明ではないでしょうか?

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

もしあなた方が生れながらの状態ではないならば、あなた方は説教を熱心に聞き入り、あなた方の人生がその事にかかっているように聞き入るでしょう、そうではないでしょうか? もしあなた方が生れながらの状態ではないならば、あなた方はカウンセリング室でケイガン先生の助言を熱心に聞き入り、彼があなた方に述べる事を真剣に受け取るでしょう、そうではないでしょうか? また、あなた方の何人かはもっとひどい状態にいるのです。あなた方の何人かは、私がお願いしているにもかかわらず、説教の終りにカウンセリング室へ行く事さえしません。 この事実によって証明されるように、不信の更に深い段階へと沈んでしまったのです。 私達は強制的にカウンセリング室にあなた方を連れて行きません。 私達はただ単に、その機会をあなた方に与えているだけです。 しかし、あなた方のその興味の欠落は、あなた方は今危険な状態にいることの証なのです。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない・・・”
      (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

では、次のポイントに移ります。

II. 次に、生れながらの人は神の御霊の賜物を愚かなものと考える。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである・・・” (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

“愚かな”と訳された本来のギリシャ語は、“つまらない、馬鹿げた”、もしくは重要ではない、という意味です(W. E. Vine)。“私はそうではない”、とあなた方は言うかもしれません。 確かですか?私には確かであるようには思えません!  あなた方がキリストによる十字架での身代わりの死、あなた方の罪の為に死なれた事などについての説教を何度も聞いたのは真実ではないですか? そして、あなた方がその事について真剣に対応していないのもまた真実ではないですか? あなた方が毎回集会の後で、それをあなた方の思いから取り出しているのも真実ではないですか?  あなた方が次の集会までキリストの受難に関して全く忘れてしまっているのも真実ではないですか?  そして、それらが真実であるならば、あなた方が、キリストの受難をあなた方にとってつまらなく、また重要ではない教えのように見なしているという確かな証拠ではありませんか? あなた方がそれを口に出して認めるには、あなた方はあまりにも立派過ぎる事を知っています。 しかし、あなた方の福音に対する考慮の欠如が、あなた方が、コリント人への第一の手紙第1章18節で表されている事を実際に証明しているのです。

“十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが.・・・”
      (コリント人への第一の手紙第1章18節)。

その節の中で、同じギリシャ語が使われています―すなわち、“愚か”、そんなに重要ではない、それについて深く考えるのは馬鹿げている、という意味です。 では、もしあなた方が自分自身に対して正直になるならば、それらのことはあなた方にとって真実ではありませんか? すなわち、十字架の説教はあなた方には馬鹿げている事ではないですか? 考えるに値する事ととは思わないのではないでしょうか? 説教を聞いている間に、しばらく考えるに値する事とは思わないのではないでしょうか? 一人になった時に、あなた方の心と思いを掴むには役にはたたないと思っているのではないでしょうか? もし、その事が真実であるならば、あなた方は未だに生れながらの人の状態にあり、次のものを受けいれることも、また受けいれようともしない事の証明ではないでしょうか?

“神の御霊の賜物” (コリント人への第一の手紙第2章14節)。

“十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが.・・・”
      (コリント人への第一の手紙第1章18節)。

では、第三のポイントに入りましょう。

III. 最後に、生れながらの人は回心しなければならない。

最後に臨んで、これは私達のテキストの意味合いを強く暗示します。

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない”(コリント人への第一の手紙第2章14節)。

“彼はそれを理解することができない。” あぁ、人は福音の事実を繰り返し唱えることは出来ますが、その人の心の中ではその真実を“理解する”事が出来ないのです。 “キリストはわたしの身代わりに亡くなった”という言葉をその人は言えるでしょう、しかし、その人はキリストを自分のものにする事が出来ないのです。 その人は救いの意味でキリストに来る事が出来ないのです。 その人は伝道者から福音を聞くことが出来るかもしれませんが、その言葉はその人には奇妙に聞こえるのです。

キリストの受けた傷は開けられた、
   罪人よ、彼の傷はあなた方のためになされたのだ;
キリストの受けた傷は開けられた、
   それゆえ、そこに難を逃れよ。
("The Wounds of Christ" by Evangeline Booth, 1865-1950).

“彼はそれを理解することができない”!

あぁ、福音の言葉を聞く恐怖の時がまた来た、しかしキリストを決して知ることはない! あぁ、あなた方が死の深みに陥る時、あなた方はその言葉のみを知り、イエスその方を知らない! あぁ、神がルデヤの心を開かれたように、あなた方の心を開かれるように!

“主は彼女の心を開いて”(使徒行伝第16章14節)。

あぁ、神の御霊があなたの心を開き、あなたが福音の言葉を受けいれ、イエスに来て、彼の御血でもって罪から洗い清められるように!

キリストの受けた傷は開けられた、 それゆえ、そこに難を逃れよ。

あなたが単に福音の言葉を知る状態から、キリストがあなたの心を掴み、あなたが実際に救いのために彼に来て、“不可思議な合体”でもって彼に加わる、その状態にまで動かされるよう、私はあなたに説き伏せます。 ウェストミンスター教理問答(Westminster Catechism)が述べているように、

キリストに加わるという、キリストとの選ばれた合体は、神の恵みの働きによる。それは霊的で不可思議な事ではあるが、真実で分かつ事の出来ないものである(The Westminster Larger Catechism, answer to question 66)。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:コリント人への第一の手紙第1章18-24節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“The Wounds of Christ” (by Evangeline Booth, 1865-1950).

要 綱

生れながらの人にとって愚かなるもの!

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない”(コリント人への第一の手紙第2章14節)。

(ユダの手紙第19節;コリント人への第二の手紙第5章17節)

I.   最初に、生れながらの人は神の御霊の賜物を受けいれない。
コリント人への第一の手紙第2章14甲節;
ローマ人への手紙第5章12, 19節;第8章7節。

II.  次に、生れながらの人は神の御霊の賜物を愚かなものと考える。
コリント人への第一の手紙第2章14乙節;
コリント人への第一の手紙第1章18節。

III. 最後に、生れながらの人は回心しなければならない。
コリント人への第一の手紙第2章14丙節;
使徒行伝第16章14節。