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生まれもった罪
ジョン・ウェスリーによる説教からの翻案

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

ORIGINAL SIN – ADAPTED FROM A SERMON
BY THE REV. JOHN WESLEY, M.A.
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年1月11日、主の日の晩の説教

私はジョン・ウェスリーを高く評価しています。ジョージ・ホイットフィールドと並んで、彼は18世紀の最も偉大な説教者のうちの一人でした。 彼とジョージ・ホイットフィールドは、彼らの説教でもってこの世をかきたてるよう神に使われました。 彼らの奉仕の期間に起こったリバイバルは非常に偉大だったので、私達はそれを“第一大覚醒”と呼んでいます。 私は、歴史上この注目すべき時期に起こった出来事に関して詳しく入り込む事は出来ませんが、ホイットフィールドとウェスリーは世界を覆したという事で十分だと思います。 ホイットフィールドはカルヴァン主義者(Calvinist)でした。 ウェスリーはアルミニウス主義者(Arminian)でした。 にもかかわらず、両者共が回心の必要性を説き、彼らの奉仕の下で何千人もの人々が救われました。 ホイットフィールドが亡くなった時、彼はジョン・ウェスリーに彼の葬儀の説教をするよう望んでいた事が分かりました。 ジョン・ウェスリーは彼の希望通りに説教し、伝道者ホイットフィールドへの賞賛を感動的に称えたのでした。

私は完全なる堕落に関して、この説教ほど明白に書かれた書物を読んだ事がありません。 そしてこの教義は、この時期、私達の説教壇において繰り返し強調される必要があります。 しかしながら、今日多くの説教者達は、ウェスリーが彼らの教会でこの説教をするならば、彼らは教会の扉を閉めて彼を閉め出すのでは、と私は憂います。それが、18世紀にイギリスで起こったことでした。 多くの牧師達は、あまりにも恐れたので、彼のメッセージが説教されるのを拒んだように、ウェスリーは彼の日誌の中で何度も何度も、“私は、二度とそこで説教するまい”と記しています。 インターネットを通してこの説教を読んでいる牧師達に私は尋ねます、“あなたの教会ではどうでしょうか? ウェスリーがこのメッセージをそこで説教出来るでしょうか?” このような説教が、神に使われ、宗教改革あるいはペンテコスト以来、最も偉大なリバイバルをかき立たせた事を忘れてはなりません。

では、私はここでジョン・ウェスリー師による“Original Sin(生まれもった罪)”を現代語に改めて説教します。 

“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記 第 6章 5節)。

人に関してのこの描写は、今まで人々が抱いてきた人間の本性についての高度な見解とははるかに異なる。 古代の多くの著者達は人類の尊厳についてすばらしく描写している。 彼らのある者は、人の内には、または少なくとも人の潜在的力の内には、幸福とすばらしい美徳が潜んでいる、というように人について語った。 彼らは、人は自分の力で生きる事ができ、人は神よりも少しだけ劣っていると言った。

これらの異教の哲学者達だけではない。 クリスチャンの説教者と名のる多くは、まるで人類が潔白で完全であるように、人の善良さ について主張している。 このような説教が、今世紀(18世紀)には非常に通常となっており、恐らく我々の国、英国ほど、他の国ではそうではあるまい。 彼らが称える“人間の本性についてのすばらしい面”を示すようベストを尽くしている説教者達が多くこの国にいる。 もし彼らが正しいならば、人はただ、“天使達よりも多少劣る”もしくは、より文字通りに言うならば、“神より多少劣る”だけなのである。

これらの説教が多くの人々によって熱望的に受け入れられるのは驚くべき事であろうか?  なぜなら誰が、自分が正当であるようみなす事を簡単に説得させられないであろうか? 結果として、このような説教者達と著者達は、広範囲に読まれ、感嘆され、そして支持される。 非常に多くの人々が、彼らの人に関する“肯定的思考”、そして人類に関する“肯定的な”メッセージとしての“可能的思考”を信じているので、今日、人間の本性について悪く言う事は、非常に時流からはずれているのである。 [ハイマーズ博士による注解:ウェスリーの考慮は今日でもまさに適用する!] 人は今日、多少の欠点を持っているように見られるが、一般的には、非常に潔白であり、賢明であり、そして有徳であるように思われている[ジョエル・オースティン(Joel Osteen)は、毎週日曜日にテレビを通してこの観点から説教しており、他の多くの説教者達も同様である。]

しかし一方では、我々は我々の聖書とどのように付き合えばよいのか? 彼らの説教や著作物は、聖書とはまったく調和しないのである! それらは人について聖書が述べている事ではない。 聖書は、“一人の不従順によって、すべての人々は続いて罪人である”、そして“アダムの中においてすべては死んだ”。 霊的に死に、命そして、神の象徴を失い、堕落し、邪悪なアダムは、そうして、“自分のかたちのような男の子を生み”、なぜなら、彼が他のどのような男の子をも生む事は、不可能であった! なぜなら“ だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか?”? 結果として、全ての人は、生まれつき“罪過と罪とによって死んでいた”、“この世の中で希望もなく神もない”、そして、“怒りの子であった”、それゆえに、全ての人は、“わたしは不義のなかに生れました。 わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました” と言えるのである。 ゆえに、全て我々は、 “すべての人は罪を犯したため、(人が元来創造された、栄光なる神のかたちの)神の栄光を受けられなくなっており”、“そこにはなんらの差別もない”。 そういうわけで、 “主は天から人の子らを見おろした”時に、“すべての人は迷い出て、彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。 義人はいない、ひとりもいない”。 これらの節は、誰も真に神を求めるものはいないという事を示している。

それが、私達のテキストがこのように言っている理由です、

“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた” ( 創世記第6章5節)。

このように、神は人を見られるのである。 私は、ここで三つの事を示す。 最初に、大洪水以前の人類はどの様であったか、次に、彼らは今日と同様であったかどうか、そして最後に、私達の観察に基ずく、幾つかの推論、そして幾つかのその結論を加える。

I. 最初に、私は大洪水以前の人類はどの様であったかを示す。

私達は神が人類について言われた事を真に信頼する事が出来る、

“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた” ( 創世記第6章5節)。

主は、“人の悪が地にはびこり・・・”を見られた。 それはこの人もしくはあの人というのではない。 それは何人かの人でもない。 それは、ほとんどの人々が悪であるというのでもない。 それは一般の人間のことである。 神は人々が例外なく不正であるのを見られた。 全ての人は不正であった! 創世記第6章5節は、全人類を含んでいる! そこには、何億もの人々がおり―彼らのすべてが不正であった。 それらのすべての数え切れない人々の群衆の中で、ただノアだけが、“ノアは主の前に恵みを得た”(創世記第6章8節)のである。 ただノアそして彼の家族だけが、間もなく後に世界的な破壊をもたらした、その普遍なる不正の例外であった。 彼らのみが恵みによって救われ、その他のすべての人々は、彼らの罪の為に有罪とされ罰せられた。

“主は・・・すべてその(人の)心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記第6章5節)。 “すべてその心に思いはかることが・・・”。 それ以上の重大な言葉を見出す事は可能ではない。 それらの言葉は、あらゆる愛情、あらゆる感情、あらゆる欲求、あらゆる動機、あらゆる思考を含んでいる。 人に関する全てが“いつも悪い事ばかりである”。

神は、全ての人は不正であり、 神性に反しているのを見られた。 神は、全ての人は彼に反抗しているのを見られた! 全ての人の心は神に反していた!

しかし、ある善は悪と混合していなかっただろうか? まったくない! このテキストは、人の思いは“いつも悪い事ばかりである”と言っている。 私達は、聖霊が人の中に留まる事を拒否する事は出来ない(創世記第6章3節参照)。 120年の間、 ノアの箱舟が造り上げられる間、聖霊は人々に悔い改めるよう励んだ。 そうであるにもかかわらず、彼らは御霊が人の中にもたらせた正しい思いを拒否した。 彼らは、聖霊のその働きを拒否し、彼らの罪なる状態を続けた。

私達は、“この悪との和解はなかったのか? 何か正なる事が人の心の中にあるのを見つける時間がなかったのか?”と訊ねるかもしれない。 いいえ、私達には彼らの心は正しかったと信じる理由は何もない。 なぜなら、神は、毎年、毎日、毎時、毎瞬、“すべてその(人の)心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。”人はけっして正ではなかった。 人はけっして不正から中断しなかった。

II. 次に、人々は今も同様かどうかを訊ねる。

これは確かなことである。 すなわち、聖書は、現在の人類は以前とは異なると考える根拠を私達には与えていない。 神がダビデに“彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない”(詩篇第14章3節)と語られたのは一千年後になってからであった。 各世代にわたり、すべての預言者は同じ事を語る。 イザヤは、“あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、なおも打たれようとするのか。その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。 足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない”(イザヤ書第1章5-6節)と言った。 新約聖書の中で、人類に対するこれと同じ見方は、すべての使徒から与えられた。 例えば、使徒パウロは、“すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない”(ローマ人への手紙第3章9-10節)と書いている。 旧約と新約聖書から、回心をしていない状態の人は大洪水以前の人と同じく、今日でも失われそして堕落していることを、私達は学ぶ。 “主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記第6章5節)。

この人類の低くみる評価は、日々の経験から証明される。 回心していない人々は、このようには見ないことは真実です。 驚くにはおよばない。 生まれながらにして盲目の人は、盲目なのである! 彼は盲目である事に気づかない、なぜなら盲目に慣れているからだ。 同様に、回心していない人は、いつも霊的に盲目で、盲目である事に慣れていて、他のやりかたをとる必要があることに気づかない。 しかし、神が霊的に盲目である人の霊的な目を開ける時、その人は自分を含むすべての人々は不正で失われていることを悟る。 あなたが、覚醒する時、あなたは自分自身を含むすべての人々は、無知、罪、そして不正にみちていることを知る。 神があなたの目を開けられる時、あなたは“・・・この世の中で・・・神もない者であった”(エペソ人への手紙第2章12節)ことを知る。 ギリシャ語の原語では、“この世の中で・・・神もない”とは文字通り“この世の中で無神論者”という意味である。 あなたの状態というのは、あなたは神の知識をもたず、面識もない、ということである。 あなたは神が存在することを信じているかもしれないが、神の存在は、あなたが回心する前では、あなたにとって教義の一つに過ぎない。 すなわち、あなたは、中国の共産党の主席にあった事もないが、彼がいることを信じるのと同様です[ウェスリー氏は、1911年に追放された中国の皇帝を話している]。 それと同じように、あなたは神がいる事を信じているが、個人的にはあなたは彼を知らない。 あなたは、回心無くしては彼を知ることはできない。 聖書が私達に語っているように、“すべての事は父からわたしに任せられています。 そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません”(マタイによる福音書第11章27節)なのです。

人の生まれつきの言語が何であるかを知りたい古代の王について書かれた本を読みました。 一つの実験として、王は二人の赤ん坊が生まれるや否や、孤立した場所へ隔離し、人の声を聞くことなしに育てるよう命じた。 その結果は何であったか? 結果は、彼らがその独房から外へ連れ出された時、彼らは全く言葉を話さなかった、その代わり、動物のように音だけを発したのである。

もし二人の赤ん坊が、宗教について教えることなくして育て上げられたならば、その結果はちょうどこれと同じになるだろう。 彼らは宗教を全くもたないであろう。 彼らは森の動物達と同じように神の知識などはもたないであろう。 神の御霊の影響からかけ離れた生まれつきの宗教である!

神の知識をもたないことは、私達は神への愛をもたないことである。 私達は、知らない人を愛することをしない。 ほとんどの人々は、神を愛しているという、あるいは、彼らはそう信じているのかもしれない。 しかし、真実は、拒否する事が出来ないほど明白である。 すなわち、生まれながらにして神を愛する人はいない。 ちょうど、自ら歩いているところの岩や土を愛していないのと同じである。 私達は楽しめる事を愛するのである。 しかし、生まれながらにして、神に楽しみをもつ者はいない。 回心をしていない状態では、あなたは、どのように人は神に楽しみをもつことができるのかを理解できない。 実際には、あなたは神を嫌いなのだ。 今までに彼の事を思った事もないのである。 神を愛せよ! それは、あなたの思いも及ばないことである。 あなたは、神を愛するというレベルまで到達することはできない。

また、回心をしていない人々は神を恐れる事をしない。 ある人達は、不合理な、迷信的な恐れを抱くことは知っている。 しかし、それでされ、会話や例えで習ったに過ぎない。 生まれながらにして、“神は私達の思考の中にはない”のである。 回心をしていない人々は、神を愛するほどに神を恐れない。 彼らは、ほとんどの時において神について考えないだけである。 そして、彼らが神について考える時、神は、彼らにとって捕らえがたい、本当でない、すごくかけ離れた存在となるのである。

よって、すべての人々は、真に“世の中に於いて無神論者”であり、この世に神をもたない。 回心をしていない状態では、全ての人にとって、神は知られていない。 生まれながらにして、あなたは偶像崇拝者である。 神の代わりに自分自身を崇めているのである。 あなたが日曜日に教会に来ないのもその理由からだ。 あなたは神の代わりに自分を崇め、自分に仕えている、ちょうど何も信じない偶像崇拝者のように。

すべての高慢は偶像崇拝である。 神を思うこと以上に、私達自身を思っている。 あなたの高慢の故、“それは私が考えている事ではない。 それは私が信じている事ではない” これとは何ですか? それは高慢さなのだ。

しかし、高慢さだけが、あなたを罪人と定める偶像崇拝ではない。 魔王のように、“私は自分のしたいことをする”と言うのです。 あなたは自分を楽しませることをするのです。 だれかが、あなたはなぜそうしたのかと訊ねると、あなたは、“なぜなら、私はそうしたかった”と言うでしょう。 神がしたい事をするといった考えはまったくもたない。 あなたの個人意志は、魔王とおなじである。

次に、あなたはこの世とこの世にある事を愛している。 私は、あなたがヤギよりもましだとは思わない。 いいえ、ヤギがあなたよりましかもしれない! 汚い思いを抱くことは、あなたの思いが朽ちていることを示す! 汚らわしいことを思い続けることが、毎日ひどくなる。 “すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記 第 6章 5節)。

この致命的な病の第三番目の兆候は、“人生の高慢さ”、すなわち他から認められ受け入れられたいという欲望である。 多くの説教者でさえも、人々の承認を求めることは正しいことだと考えている。 はたして、これらの人々は、キリストや使徒の言うことを聞いた事があるのだろうか。 彼らはキリストの言葉、“互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか”(ヨハネによる福音書第5章44節)を聞いた事があるのか疑われるだろう。 もしこれが真実であるならば、もし、お互いに名誉を求め合い、神からの誉れを求めない、そのことを信じることが不可能ならば、人類の状態はまったくひどいものであることを考えなさい! 失われた友人や家族が思うことを、神が思われること以上に心配している人は、神からではなく人からの承認を求めているのである。 キリストはこう語った、“互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか”と。 すべての人は神よりも皆から受け入れられたいので、このことは人類の状態がどんなにひどいかを示す。

“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた” (創世記第6章5節)。

III. 私は、言われてきたことからのいくつかの推理を示す。

最初に、聖書のキリスト教と他の宗教に大いなる違いがある事をみる。 古代の哲学者は、特別な罪、例えば、強欲、残酷、贅沢、あるいは浪費など。 “悪をもたずして生れた者はいない”と言った者もいた。 彼らのうちで誰一人として、すべての人は完全に堕落しており、すべての悪に満ちている、と言う真実を言ったものはいない。 それゆえ、最初の偉大な違いは、人の完全なる堕落と崩壊である。 人は内に潜む悪をもっているという考えは、聖書のキリスト教の特徴をなすものである。 聖書のみが、“すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである”と教えている。

次に、生まれながらの罪を否定するものは失われた人である。 彼らは今だ異端者である。 生まれながらにして、人類は悪であることをあなたは信じるか? 人類は完全に堕落し、朽ちていることを信じるか? あるいは、テキストにあるように、“すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである”事を信じるか? もし同意するのであれば、あなたはキリスト教に同意するのである。 拒否をするのであれば、あなたは失われた人なのである。 この教えをあなたが拒否するのであれば、あなたはクリスチャンではない。 あなたが何を言おうと、あなたは今だ異教徒なのである。

三番目として、私達は完全なる堕落(生まれながらの罪)について、イエス・キリストの真の宗教から学ぶ。 これは、罪深い状態でもって朽ちた、魂を癒やす神の方法(therapeia psuches)である。 そこでは、魂を癒やす偉大な医師、イエス・キリストは、この死に至らせる病のために完全に堕落した魂を、再生させる。 キリストは、私達に信仰を与える、真の神の存在や紙についての神聖な証明、そして彼を知る知識によって、私達の無神論的態度を癒やす。 この真実について、“キリストは私を愛した、そしてご自身を私に与えられた”と言われる。 悔い改めと自らの心を卑下することにより、高慢という死に至らせる病はいやされる。 個人意志は、彼の意思に対する、感謝の思いをキリストに差し出すことによって、癒やされる。 この世を愛するのではなく、神への新たな愛が処方箋である。 回心は人の内側そして外側を変えへ、神に従わせる。 もし人が堕落の中に失われていなく助け手のない罪人でなければ、なぜキリストは十字架の上で死ななければならなかったのか? もし人が救いのない堕落したものでなければ、ヨハネによる福音書第3章16節は無意味である。 もし私達が救いのない失われた者でなければ、なぜキリストの御血が必要であるのか?

もし人類が失墜し朽ちていないのであれば、キリストの御血は必要ではないであろう。 人の心の中で回心する必要もなく、変化をする必要もなく、新たにする必要もないのである。 神の御霊の働きのない外面だけの宗教で十分である。 外面だけの宗教は、人の朽ちた状態を否定する人々にとっては十分なのである。 もし人類が朽ちていなくて、不正で満ちていないのであれば、彼らは正しいであろう、唯単に人生の外面だけを綺麗にするだけで十分だからだ。 あなたが生きている道を再び整えることが、もし彼らの見方が正しければ、それでじゅうぶんである。 事実、あなたの生き方の外面を改良することが、あなたがすべき必要のあることである―もし、彼らの見方が正しく、完全に朽ちていなく、助け手のない罪人でないならば。

しかし、私達はこれを聖書から学んではいない。 神は人の内面が何であるかをみ、そして彼は、回心と朽ちた状態、そしてそれから再生する方法とに、はるかに違った考えを持っている。 キリスト教の大いなる理由は、回心を通して神のイメージの中でこころを新たにすることと、私達が最初の両親から引き継いだ義と真実の愛の完全なる喪失を直し癒やすことだ。 真の回心の中で心を新たにしない一般に言われているキリスト教は、地獄から人を救えないのだ。 人類が罪に陥る前に、回心させるその間際に魂をもとの状態へ戻す全ての宗教は、つまらない冗談に過ぎず、神に対する嘲笑である。

真の回心ではなく、見せ掛けの宗教をあなた方に提供する虚偽の教師と説教者全てに警戒せよ。 あなた方に謝った慰めの言葉をもって近寄る、そのような説教者達に注意を払ってはだめだ。

これらの偽りの説教者達に耳を傾けるかわりに、“聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰”(ユダの手紙第3節)を信じ続けなさい。 そして、神の御霊によってあなた方のこころに今伝えられるように。

あなた方は罪の中に生まれた。 それゆえ、“あなたがたは新しく生れなければならない”(ヨハネによる福音書第3章7節)のだ。 あなた方は、神の、神により、神を通して生まれなければならないのだ。 唯一神だけが、あなた方の罪深い状態を癒やすことができ、あなた方に新しい人生を与える事ができるのだ! アダムによって、全ての人は死んだのだ。 キリストによって、あなた方は生かされるであろう。 あなたは、“・・・先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって”―彼は再び生かすでしょう(エペソ人への手紙第2章1節、言い換え)。 彼はあなた方に、この説教を聞くための十分な人生を与えられた。 さて、あなた方の全くの死をもたらす病が、キリストによって癒やされるまで、“信仰から信仰へと”進んで行きなさい!

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読: ローマ人への手紙第3章9-19節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Not What These Hands Have Done” (by Horatius Bonar, 1808-1889).

要 綱

生まれもった罪
ジョン・ウェスリーによる説教からの翻案

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記第6章5節)。

I.   最初に、大洪水以前の人類はどの様であったかを考えなさい。
創世記第6章5, 8, 3節。

II.  次に、人々は今も同様かどうかを考えなさい。
ローマ人への手紙第3章9-10節;
エペソ人への手紙第2章12節;
マタイによる福音書第11章27節;
ヨハネによる福音書第5章44節。

III. 言われてきたことからの推理を考えなさい。
ユダの手紙第3節;ヨハネによる福音書第3章7節;
エペソ人への手紙第2章1節;
ヨハネの第一の手紙第1章7節。