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刺された心
(福音伝道主義的説教シリーズ、その3)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

A PIERCED HEART
(SERMON #3 ON EVANGELISTIC PREACHING)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2008年5月18日、主の日の朝の説教

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った”(使徒行伝第2章37節)。

第一の偉大なるリバイバル(覚醒)は1737年にニューイングランドで起こりました。 ジョナサン・エドワード(Jonathan Edwards)は、彼の書物“A Faithful Narrative of the Surprising Work of God in the Conversion of Many Hundred Souls(多くの人々の回心に於ける、驚くべき神の働きについての忠実なる話)の中でこの事について書いています。 有名な賛美歌の著者アイゼック・ワッツ博士(Dr. Isaac Watts)、そしてジョン・ガイス博士(Dr. John Guyse)は、このエドワードの本の初版の前書きを書いています。 彼らはこのように語っています、

どこであっても、神が人々の思いに救いの力を働かされる時、そこには罪の感覚の発見、神の怒りの危険性への感覚の発見が幾らか生じる(The Works of Jonathan Edwards, The Banner of Truth Trust, 1992 edition, volume I, page 345)。

全ての真実のリバイバルは、罪の深い自覚を体験する人々によって生じます。 スコットランドでの1859年のリバイバルの一人の目撃者がこのように語っています、

一つの主要なる特徴は非常に深い罪の意識である・・・。 そこには、まるで彼らの心が悲しみで砕かれたかのように嘆き悲しみ、そしてむせび泣く年老いた白髪の男性、女性、そして若者達がいた(Reminiscences of the Revival of ’59 and the Sixties, University Press, 1910, pp. xii, 90)。

リバイブルで多くの人達に生じた事は、人が回心する時、個人的にも生じます。 真の回心の体験には、大かれ少なかれ、罪の自覚が通常現れます。 ペテロが五旬節の日に説教した時に起こった事は例外ではありませんでした。 人々が真の回心を体験する事は、一般的であり並の事なのです。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

“刺された”と訳されている本来のギリシャ語は、“突き貫く、鋭く刺すという意味で、刺されたように心をつく痛ましい感情として使われる” (Fritz Rienecker, A Linguistic Key to the New Testament, Zondervan Publishing House, 1980, note on Acts 2:37)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・”
      (使徒行伝第2章37節)。

彼らは心を突き貫かれたような、痛ましい感情を体験しました。

ペテロが説教を終えた時、彼らの心が突き貫かれました。 痛ましい感情で、彼らは叫び出しました、

“兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか”
      (使徒行伝第2章37節)。

今朝、ここにいる何人かの回心のない人達が心を刺され、“私はどうしたらよいのでしょうか”と自分自身に問うよう、私は願います。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った” (使徒行伝第2章37節)。

私の今朝の主題は、心を刺される、という事です。 私は最初にそれの必要性、次にその欠乏、三番目にそれによる効果、そして最後にその手段、の四つの考慮をあげてみます。

I. 最初に、心を刺される事の必要性。

スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、

救いに基づく印象は常に心を刺されるという事である・・・説教者達は彼らの聴衆者達に非常に多くの印象を与えるが、彼らの心に傷を付ける説教者は祝福される。 救いに基づく印象は心に付けられなければならない、なぜなら全ての真の信仰はそこから生じなければならないからだ (C. H. Spurgeon, “Heart Piercing,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1978 reprint, volume LIV, p. 254)。

“全ての真の信仰はそこから生じる。” どこでしょうか? 心からです。 頭の中ではなく心なのです。 先週の日曜日に、私は人に関する問題点は知的なものではないと言いました。 人に関する問題点は罪なのです。 それが真実であるからには、福音に関する事実をただ信じるだけでは誰も救われないのです。 回心は頭の中で生じるものではありません。 それは心の中で生じるのです。

“なぜなら、人はに信じて義とされ”
      (ローマ人への手紙第10章10節)。

聖書では、“心”は人の内的な生活の中心、自覚の温床と言及しています。 しかし、人の心は罪によって堕落し、汚れています。 預言者エレミヤはこう言っています、

“心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている”(エレミヤ書第17章9節)。

あなたの心中の偽りと悪は、真実からあなたを遠ざけ盲目にし、あなたを自己欺瞞の状態に留まらせます。

聖霊がやって来るのはそこなのです。

“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう” (ヨハネによる福音書第16章8節)。

罪人が回心させられる一般的な方法は、回心のない人の罪を戒め、非難し、悟らせるような、神の御言葉の説教に於いて働く聖霊によるのです。 ジュネーヴ聖書のヨハネによる福音書第16章8節に於ける注解では、“神の御霊は御言葉の説教によりたいへん力強く働き、それがこの世に、この世の不正を認めさせるよう・・・威圧する”(The 1599 Geneva Bible, Tolle Lege Press, 2006 reprint, note on John 16:8)。 神の御霊による、罪を悟らせ、戒める働きは、神の御前にあなたが罪人である事をあなたの心に感じさせます。

それはただの真実の知識だけではありません! それは単に福音を知的に信じる事ではありません! 違います! それは、あなたの本心が刺され、あなたが罪人であり、罪の中に迷っており、そして自分の自己欺瞞によって曲解し、自分自身の心のはなはだ邪悪な状態により罪を宣告されていると言う事実に、あなたが面するようにもたらされるまで、神の御言葉の説教に於いて働く、神の御霊により応じた、あなたの欺瞞に満ちた、はなはだしく邪悪で、ずるいあなたの心なのです!

“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう” (ヨハネによる福音書第16章8節)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

この心を刺される状態は、絶対に必要であり、それは回心の始まりであり、そしてそれなしには、真の回心はまったくなく、ただの偽りの回心、単なる無意味な信仰告白、単なる失せた“決断主義”であると私は断言します。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

II. 次に、刺される事の欠如。

スポルジョンはこのように述べています、

もしそれが真に心の働きでなければ、それは長続きしないであろう。 多くの背教者がいる理由は、彼らは砂の上に築き上げており、深く土台に据えられていないからである。 救いに導く働き、継続する働きは、神が本心へとかなり深く堀って行かれる事である・・・それが完全なる罪の自覚であり、単なる信仰告白でなく、それが最後まで持ちこたえるのである。 もしそのように印象付けられた事が心を刺さないならば、それはただの一時的なものとなり、それが無くなってしまえば、悪がそこに入りこみ、ことによると、最も心が動かされにくい人達とは、非常に何度も印象付けられた人達でありながらも、救われていない人達である・・・。 そのような印象をあしらえば、彼らは福音に無感覚になり、それに達する者にとって、それは非常に危険な状態である (Spurgeon, ibid., pp. 256-257) 。

神の御霊による心の突き刺しがなければ、回心は生じないでしょう。 そのうちに、神はこうあなたに言われるでしょう、

“わたしはもはや彼らを見過ごしにしない”
      (アモス書第7章8節、第8章2節)。

そしてその時には、もはや本心が突き刺される事はないでしょう。 あなたの心は永遠に石のようにかたくなになるでしょう。 そして神は再びあなたを見過される事はないでしょう。 あなたは許される事のない罪を犯したのです。 そして永遠に福音は、

“おまえの目に隠されている” (ルカによる福音書第19章42節)。

もし神があなたを放って置かれるならば、あなたはどうなるでしょうか? もしあなたが本心を刺される事無しに、あなたの罪の意識を感じる事無しに、放って置かれたならば、どうなるでしょうか? このようになるのです。 神は、

“彼らを正しからぬ思いにわたし” (ローマ人への手紙第1章28節)。

そして、神があなたをそのような思いに渡される時、あなたのかたくなな心は、

“あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 神はおのおのに、そのわざにしたがって報いられる” (ローマ人への手紙第2章5-6節)。

あなた本心が刺されなくなった時に、あなたは死んだも同然の人となるのです、

“この世の中で希望もなく神もない者であった”
      (エペソ人への手紙第2章12節)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

III. 三番目に、この刺される事による効果。

彼らの心が刺された後の結果はどうだったのでしょうか? 何が生じたのでしょうか? 何が彼らの心を動かしたのでしょうか? このテキストの後半がそれに答えています、

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った” (使徒行伝第2章37節)。

彼らの本心が刺された事によって、彼らを泣き叫ぶように動かしました、

“「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」”
     (使徒行伝第2章37節)。

人の心が神の御霊によって刺されるまで、誰も真剣な感情もしくは真意でそのような事は言わないでしょう。 彼は正にどうするべきか知っていると思うでしょう! 彼は答えも知っていると思うでしょう。 彼は自分で全て理解していると思うでしょう。 彼は“自分がこうすれば、救われる”と思うでしょう。 神の御霊による罪の自覚が彼の心を刺す時にのみに、彼の心は真剣になって泣き叫ぶでしょう、

“[わたしは]どうしたらよいのでしょうか?”

私達が何度も繰り返し、福音の教えを学ぶ事は出来ても、神の御霊があなたの本心を突き刺さない限り、何の役にも立ちません。 そうして、あなたが傷ついた時に、あなたは、私達がイエスについて語らなければならない事、すなわち、あなたの罪を償う為のイエスの死、あなたの悪を清める為のイエスの血を聞くでしょう。 しかし、あなたの心が刺れ、そしてあなたの心と人生の内にある多くの邪悪をはっきりと感じるまで、あなたはキリストをつかもうともせず、彼に屈する事もなく、私達の救いに関する助けを受け入れようともしないでしょう。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った” (使徒行伝第2章37節)。

これは正に使徒パウロの回心に生じた事です。

“そこで彼は、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。 すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 さあ立って、町にはいって行きなさい。 そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。”(使徒行伝第9章5-6節)。

ふるえ、驚きながら彼はこう言いました。

“主よ、あなたは何をわたしにせよと望んでおられるのですか”
      (この部分は口語訳には載せられていない。)

これは正にピリピでの獄吏に生じた事でした。 彼は、

“駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した・・・「先生がた、わたしは救われるために何をすべきでしょうか」” (使徒行伝第16章29-30節)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った” (使徒行伝第2章37節)。

そのように、本心が刺される事によって、救われる為の知識がないようにあなたに感じさせる事は明白です! それはあなたを救いに関してまったく何も知らないように感じさせるでしょう。 そうしてあなたは何も知らないよう感じ、教会へ来た事がまったくない異教徒のように、あなたが福音について無知であり、そして盲目であるように感じさせるでしょう。 それはあなたを神の御前に、柔順に、そして率直にさせるでしょう。

律法によって死に、神の御霊によって心を刺され、あなたはへりくだり、冷静な態度になり、そしてこう言うでしょう、

“兄弟たちよ、[わたし]は、どうしたらよいのでしょうか”
      (使徒行伝第2章37節)。

IV. 最後に、この刺される事の主な手段。

神の御霊が罪人の心中に律法を適用させる幾つかの方法があります。 しばしば、神は過去に犯した特定な罪を彼らに思い起こさせるかもしれません。 神はそのことをあなたに起させるかもしれません。 神はあなたが恥じ入る何かを思い起こさせて、あなたの心を刺すでしょう。

しかし、より深い刺しぬきは、しばしば失われた人が自分のたいへん罪深い性格を感じる時に起こります。 そうして、その人はこう感じ入るのです、

“足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ”(イザヤ書第1章6節)。

しかし、神が意識を刺し通す主な方法は、ペテロの五旬節の日の説教の中に見つけられます。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

“これ”は何だったのでしょうか? 36節を見てください。

“だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。 あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである”(使徒行伝第2章36節)。

あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである”(使徒行伝第2章36節)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され・・・” (使徒行伝第2章37節)。

私達がアンチ・ユダヤ主義という罪を肯定ないしそれに同調しているよう思われないために、たいへん注意を払ってこれらの言葉を説明しましょう。 ペテロが話した人々のほとんどは、個人的にははりつけに関して何ら係わり合いがありませんでした。 彼らのほとんどは、五旬節の祭日を祝うためにエルサレムに来たばかりの巡礼者でした。 そして、彼らの多くは、ユダヤ人の両親さえ持たないユダヤ教へ改宗した人達でした。 この祝いは、イエスが十字架にはりつけになった時の過ぎ越しの祝いの五十日後に行われました。 過ぎ越しの祝いに来たほとんど全ての人達は家路に付いていたでしょう。 それゆえ、キリストが十字架にはりつけになった時、これらのほとんどの人達はエルサレムにさえいなかったのです。 その時には、実際にイエスの手と足とを釘付けにした、ローマ総督ピラトの手下のローマ兵がいたに過ぎませんでした。 ですので、ペテロが“あなたがたが十字架につけた”と言った時、彼は何かより深い話をしているのです。 彼はキリストの十字架でのはりつけによる人類の全ての罪の供え物である、キリストの贖罪について話しているのです。 十字架のはりつけを目の当たりにした使徒ヨハネはこう言いました、

“彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。 ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである” (ヨハネの第一の手紙第2章2節)。

イザヤが言っているように、

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ” (イザヤ書第53章5節)。

そして、使徒パウロは言いました、

“聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。 同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである” (ローマ人への手紙第10章11-12節)。

これが、ペテロが次のことを言った時の意味です、

あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」” (使徒行伝第2章36節)。

彼らは、イエスは彼らによって彼らのために、また同様に人類によって人類のために十字架にはりつけにされたことを知ったので、これは彼らの本心を刺したのです。 しかし信仰上、彼らは福音の真実に目覚めていたと私は信じます、

“彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。 ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである” (ヨハネの第一の手紙第2章2節)。

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った” (使徒行伝第2章37節)。

スポルジョンはこのように述べています、

しかし、神が罪人の心を刺すために使われる主要な手段は、イエス・キリストの死をかけた愛である、と私は思う。 十字架の上のキリストのように傷ついたものはない、十字架のようにいやされるものはない。 永遠の愛とあわれみの中から、私達が、イエスはこの地上に来て、私達の罪が彼の上に置かれ・・・私達に代わって、カルバリーの十字架で死んだことを発見する時、私達の罪で刺した彼を見る事は、私達はそゆえに涙をながす・・・そう、血を流す救い主は人の心を血に染め、彼が刺される時、彼らは刺される。 確かな事は、御子を私のために死なされた、神の計り知れない愛の発見のように、私の心を刺すものはない・・・生きた御霊は、そのような啓蒙を神の選民に示す! 彼らの心は傷つき、それは彼らを傷ついた救い主へ導く。 彼らに知らせよ、誰であろうと彼に寄り頼む者は、この方、神に愛され、永遠に神に愛されるであろう!(Spurgeon, ibid., pp. 260-261).

はりつけにされた救い主への考慮は、五旬節の祝日に来ていた人々の心を刺しました、そしてそれらは、あなたが、あなたの罪のために、あなたの代理として、あなたに代わって死なれたイエスを思う時、あなたの心をも刺すべきです。 ジョン・ニュートン(John Newton)の賛美歌の中に出てくる言葉に、

私は木にかけられた人を見た、
   苦しみと血の中で;
彼は苦痛の満ちた目を私に向けた、
   私が十字架の近くに立ったとき。
ああ、救い主が私の為に死なれた
   それは木の上であるべきか?
私の魂は奮い立ち、私の心は満ちる、
   彼は私のために死なれたことを思う。

私の心は罪の意識を感じ、罪を負う、
   そして、私を絶望に至らしめた;
私は私の罪を知り、彼の血は流れた
   彼をそこに釘付けにした。
ああ、救い主が私の為に死なれた
   それは木の上であるべきか?
私の魂は奮い立ち、私の心は満ちる、
   彼は私のために死なれたことを思う。
(“He Died For Me” (by John Newton, 1725-1807).

もしあなたの心が、あなたの身代わりとして、あなたを恐ろしい罪の罰から救われるために死なれたイエスの思いで刺されたのであれば、彼に来なさい。 そして、あなたは刺された心をいやす薬でもって魂の平安を見出すでしょう。 あなたにその事が起こるように。 アーメン。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: 使徒行伝第2章32-37節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“He Died For Me” (by John Newton, 1725-1807).

要 綱

刺された心
(福音伝道主義的説教シリーズ、その3)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った”(使徒行伝第2章37節)。

I.   最初に、心を刺される事の必要性。
ローマ人への手紙第10章10節;エレミヤ書第17章9節;
ヨハネによる福音書第16章8節。

II.  次に、刺されることの欠如。
アモス書第7章8節;第8章2節;ルカによる福音書第19章42節;
ローマ人への手紙第1章28節;第2章5-6節;
エペソ人への手紙第2章12節。

III. 三番目に、この刺される事による効果。
使徒行伝第9章5-6節;第16章29-30節。

IV. 最後に、この刺される事の主な手段。
イザヤ書第1章6節;使徒行伝第2章36節;
ヨハネの第一の手紙第2章2節;イザヤ書第53章5節;
ローマ人への手紙第10章11-12節。