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園の中と門の外のキリスト
(創世記からの説教、その三十五)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

CHRIST IN THE GARDEN AND OUTSIDE THE GATE
(SERMON #35 ON THE BOOK OF GENESIS)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年12月15日、土曜日の晩の説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Saturday Evening, December 15, 2007

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

“アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた” (創世記第4章4節)。

人の堕落の後、神を適切に崇拝する為に血が流されなければならなかった事を理解すること無しに、これらの節を読む事は不可能です。 また、私達の最初の両親を覆う為の動物のいけにえ、そして、アベルによる神を崇拝する際の小羊のいけにえに関して、両方の場合に流された血は、創世記第3章15節の、“彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう”の預言の成就として、私達の主イエス・キリストより流されるであろう血の典型(タイプ)であると言う事を理解しないで見る事は不可能であると私は思います。 アダムとエバを覆う為に流された血、そしてアベルによって流された血の両方共が、それゆえ、キリストの行いを指しているに違いありません。 着物を造る為に流された血、そしてアベルによって流された血は、キリストの苦悩の異なった様相を象徴しています。 この見解に同意しない人はほとんどいないでしょう。 しかし、私はこれらの両方の流された血の対型(アンチタイプ)に焦点をおきたいと思います。 あなた方は、私は極端すぎると思うかもしれませんが、これらの二つの出来事は、私達の主の二箇所で流された血の典型(タイプ)を語っているように私には思えます。 これらの二つの典型(タイプ)と新約聖書のそれらの二つの対型(アンチタイプ)を比べてみましょう。

I. 最初に、神が着物を造るために流された血はエデンの園であった。

神が私達の両親の“皮の着物”を造られた際、血はエデンの園で流されました―なぜなら、それらの皮の着物を彼らに造る為に血が流されたその時までは、まだ彼らは園から追い出されてはいませんでした。 私の意見ではそれが典型(タイプ)です。

新約聖書の中で、その典型(タイプ)の成就である対型(アンチタイプ)はどこにあるのでしょうか? その典型(タイプ)の成就はもう一つの園であるゲツセマネの園、である事が私には明白であるように思えます。 スポルジョン(C. H. Spurgeon)はこのように述べています、

園で、アダムの自己放縦は我々を没落させたように、別の園での[最後の人]アダムの苦悩は、我々を回復させるであろうと考えられないであろうか? ゲツセマネは、エデンでの食べてはならない木の実によって起こった災いの為の薬を供給している(C. H. Spurgeon, “The Agony in Gethsemane,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1971 reprint, volume XX, p. 589)。

そのように、エデンの園で私達の最初の両親を覆う着物を造る際に流された血は、ゲツセマネの園でキリストが流された血を予示していると私は信じます。 そして私達の主が十字架にかけられた前の晩、ゲツセマネの園で流された御血は、エデンの園で流された血の対型(アンチタイプ)、または成就なのです。

エデンの園で、アダムは罪を犯し人類に没落をもたらしました。  ゲツセマネの園で、キリストは御自身で人間の罪を受け取られ、私達の没落した血筋を回復する為に御自分の血を流されたのです。

御自分の弟子達と共に過ぎ越しの祭りの食事をされた後、イエスは彼らと共にゲツセマネの園に出て行かれました。 なぜキリストは御自分の苦悩をされ始めるのに、ゲツセマネの園を選ばれたのでしょうか? アダムの罪が人間を没落させたのは別の園であったのではないですか? なぜキリストは血まみれの汗をゲツセマネの園で流されたのでしょうか? エデンの最初の園で、アダムとエバが覆われる為に流された最初の血の成就であったのではないですか?

ゲツセマネの園で、

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。

何が園でイエスを苦しみもだえさせたのでしょうか? それは神が私達の為に彼を苦しめられたのだと私は信じます。 それは父なる神によって彼の上に置かれた、考えられないほどの恐ろしい事でした。 イザヤによる預言の言葉が、ゲツセマネの園での彼の苦しみの原因について、その全ての疑問を取り除くでしょう、

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
      (イザヤ書第53章6節)。

ゲツセマネで キリストが苦しみもだえて汗を “血のしたたりのように” 流された時、その園で、

“[神]はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
      (イザヤ書第53章6節)。

さて、キリストは罪なる人に落ちるべきのろいを受け始められました。 私達の限界ある思いでは完全に理解する事が出来ない苦しみの神秘が、ゲツセマネの園で生じました。 清教徒の賛美歌の作者であるジョセフ・ハート(Joseph Hart)が書いているように、

それは神に、神のみに
それらの全ての重荷が知られた
   (“Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768).

神の小羊であるイエスは、御自分の身に人間の罪を、そして御自身の魂にそれらの罪の重荷を負れました。

“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた”
      (ペテロの第一の手紙第2章24節)。

私達の罪はゲツセマネの園でイエスの上に置かれ、翌日、彼はそれらを十字架へ負われたと、私は確信します。 イエスはその前の晩に私達の罪を御自身に取られ、その翌日、十字架へそれらを負われたのです。

“・・・十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。 その傷によって、あなたがたは、いやされたのである”
        (ペテロの第一の手紙第2章24節)。

そのように、私達はその典型(タイプ)とキリストにおけるその完全なる成就を理解するのです。 神が私達の最初の両親に着物を造られる為に流された血は、エデンの園の中で流されました。 キリストが十字架につけられる前の晩に、キリストの苦しみによる血のしたたりなる汗は、ゲツセマネの園の中で流されました。

II. 次に、アベルのいけにえの血はエデンの園の外で流された。

アダムとエバの息子であるアベルが、血の流されたいけにえを神に捧げたのは、彼らがエデンの園から追放された後の事でした。 アベルが、アダムから血のいけにえがされなければならない事を聞かされたのは確かなことです―それは、十字架でのキリストの完璧ないけにえを指しています。 父親から以外に、アベルがそのような血のいけにえを教えられたことは他にあったでしょうか? 私達の二番目のテキストである創世記第4章4節に、そのように書いてあります、

“アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた”(創世記第4章4節)。

神はアベルを顧みられたと、私達はよく耳にしますが、通常“その供え物”(創世記第4章4節)に注目することなく、それらの言葉を見過ごしています。 彼の信仰のゆえに“主はアベルを顧みられた”のです。 聖書は明白に言っています、

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ”
      (ヘブル人への手紙第11章4節)。

彼の“信仰”のゆえに、“主はアベルを顧みられた”のです。 しかし、創世記第4章4節には、まだ他のことも書かれています。 すなわち、“主はアベルとその供え物とを顧みられた”。 神はアベルの信仰、そして“その供え物”を顧みられました。 ですから、神は(1)アベルの信仰と(2)アベルの血の供え物を顧みたのです。 これら信仰血は、分けることの出来ない重要な二つの事柄です。 そして、これは二番目の典型(タイプ)とキリスト・イエスにおけるその成就に私達を導きます。

アダムとエバの着物を造るために流された血は、エデンの園で起こりました。 ゲツセマネの園でのキリストの血のしたたりは、その典型(タイプ)であり、それを成就するものです。

しかし、アベルのいけにえは、彼の両親が楽園から追放された後に、エデンの園の外で起こっています。 それは、第二の典型(タイプ)です。 それは、キリストがその園の外で、御血を流されたことによって成就されました。  キリストは、ゲツセマネの園で捕らわれ、アダムとエバが皮の着物に覆われて園から追放されたように、その園から連れ出されました。 キリストはむち打たれ、十字架にはりつけにされたエルサレムの城壁の外に連れ出されました。 そして、彼がゲツセマネの園から負われた罪が贖われたのはその十字架の上でした。 彼は園では死にませんでした。 死ななかったのです! 彼はゲツセマネの園の外で、実際にはエルサレムの城壁の外で死にました。 聖書はこのように語っています、

“だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである”(ヘブル人への手紙第13章12節)。

彼は、門の外で、エルサレムの都市の城壁の外で、ゲツセマネの外で、苦しまれ死なれました。 それが対型(アンチタイプ)です。 アベルは、自分の血のいけにえをエデンの園の外で供えました。 イエスはご自身の御血のいけにえをゲツセマネの園の外―エルサレムの城壁の外で供えられたのです。

これから私達は何を学ぶことが出来るのでしょうか? 私は以下のことが言えると思います、すなわち、エデンの園で皮の着物が造られた際に流された血は、ゲツセマネの園で私達の罪のために苦しまれたイエスを描写し、エデンの園の外で成されたアベルの血のいけにえは、後に、ゲツセマネの園の外―町の城壁の外で起こるであろう十字架のキリストの死の典型(タイプ)で、それを予示している。

それゆえキリストは、エデンの園の中で人が堕落して以来私達の救い主となられ、今日に於いてさえ堕落した状態の私達のために、身代わりのいけにえとしておられるのです。 彼は、御自分の死と御自身の御血でもって、アベルのように、貧しく、堕落し、追放された常態で生きる私達を、そして、エデンの園の外の、この無常な神を知らない罪に呪われた世界に生きる、私達を救うのです。 そして、その偉大な真実さは、使徒パウロの語る次の言葉で表現出来ます、

“キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった”
      (テモテへの第一の手紙第1章15節)。

あなたは罪人ですか? そうでしたら、キリストはあなたを救うために来られました! あなたは失われた、良心の呵責をうけた、自分の罪のために神に咎められる罪人ですか? そうでしたら、キリストはあなたを救うために来られました! 信仰で持って、あなた自身をイエスに投げ出しなさい、そうすれば彼はあなたの魂を救われ、彼の御血でもってあなたの罪を清めるでしょう。 イエスに来なさい。 これ以上疑いを持つ事なく。 彼はあなたを救われるでしょう。

“キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった”
      (テモテへの第一の手紙第1章15節)。

(説教終了)
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要 綱

園の中と門の外のキリスト
(創世記からの説教、その三十五)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

“アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた”(創世記第4章4節)。

(創世記第3章15節)

I.   最初に、神が着物を造るために流された血は
エデンの園であった。
創世記第3章21節;ルカによる福音書第22章44節;
イザヤ書第53章6節;ペテロの第一の手紙第2章24節。

II.  次に、アベルのいけにえの血は  エデンの園の外で流された。
創世記第4章4節;へブル人への手紙第11章4節;
第13章12節;テモテへの第一の手紙第1章15節。