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カインとアベルの相違
(創世記からの説教、その三十四)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

CAIN AND ABEL CONTRASTED
(SERMON #34 ON THE BOOK OF GENESIS)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年12月9日、主の日の晩の説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord's Day Evening, December 9, 2007

“人はその妻エバを知った。 彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた。 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた”(創世記第4章1-5節)。

これらの節でのカインとアベルの話は非常に単純のように思えます、しかしそこには多くの深い意味があります。 そして私達は皆この句節に関して熟考すべきです、なぜならそれは罪と救いに関して多くを語っているからです。そして更に、今晩ここにいる全ての人は、カインもしくはアベルの様なのです。例外はありません。 あなた方はカインの様であるか、或いはアベルの様であるかのどちらかなのです。 あなたがこの説教を聞く間、自分は彼らの内どちらの様であるかを自分自身に問うべきです。 創世記の第4章で、私達は彼ら両者を見てみます。 彼らは今日この世に住む二つのタイプの人達なのです。ですから、全人類はカインのような人達とアベルのような人達の、二つの種類に分ける事が出来ます。 私が説教する間、あなたが属するグループを考慮してみてください。 まず最初に、私はこれらの若者がどのようであったかと言う二つの点を上げ、そして、彼らの相違点を示します。

I. 最初に、カインとアベルの二つの類似点。

彼らはどちらも堕落した両親による子供達でした。 堕落後、神が人類にのろいを下された後、そして彼らの両親がエデンの園から追い出された後、その園の外で彼ら両者は生まれました。 使徒パウロはこのように言っています、

“このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである”
       (ローマ人への手紙第5章12節)。

このようにカインとアベルのどちらもが、罪を身につけて生まれ、“生れながらの怒りの子であった”(エペソ人への手紙第2章3節)。 彼らのどちらもが神に対立する堕落した生まれながらの性格を持っていました。

“なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。 すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである”
        (ローマ人への手紙第8章7節)。

そのように、どちらもが罪過によって形造られ、罪のうちにはらまされ、どちらもがキリストによる神の救いを必要としました。

彼らの両方共が、同じ両親による、同じ家庭での、同じ環境で育ちました。 マギー博士(Dr. McGee)は次のように言っています、

これらの少年は同じ家庭環境を持っていた。彼らは同じ遺伝を持っていた。彼らは同じ環境にいた。彼らの内には違いはなかった・・・彼らは同じ遺伝を持ち、同じ環境にいたのである(J. Vernon McGee, Ph.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1981, volume I, p. 29)。

そのようにカインとアベルは、次の二つの点に関して正に同様でした。(1)彼らは完全に堕落した罪人であった。 (2)彼らは同じ遺伝を持ち、同じ環境にいた。 それら二つの事を私が取り上げるのは重要な事なのです、なぜなら、もしある少年が“悪い”方向に行ってしまえば、それは彼の邪悪な遺伝と環境のせいであり、彼が“良い”方向に行けば、それはこれら同じ二つの人本主義的な理由の為であるというような、大衆心理学の時代に私達は生きているからです。 しかし、聖書はそのようには言っていません。 聖書の中で、私達は彼らのどちらもが生まれつき堕落した罪人であり、そのような状態においては、どちらも神に喜ばれることは出来ない事を学んでいます。

ですから私達は、カインとアベルは、彼らがアダムとエバの家庭に育っているように、彼らの生まれつきの状態においては、正に同じである事を知る事が出来ます。 そしてこれらの句節は、彼らは同じ家庭環境で育っていたという事を示し、そこから次の要点へと私達を導きます。

II. 次に、カインとアベルの相違点。

その相違は非常に単純です。 カインは回心しなかった人であり、アベルは明らかに回心していました。 アーサー・ピンク(A.W. Pink)はこのように語っています、

カインとアベルは、二つの主なグループに分類された人々を代表する者達として示されている。前者は独善的な者として、また後者は霊的に打ちひしがれた心を持つ者として;前者は表面的に[クリスチャンを装っている]者として、また後者は真に[回心している]者として;前者は自分自身の行いに頼る者達として、また後者はキリストの成しとげられた行いに頼る者達として;前者は人間の長所による救いを主張する者達として、後者は[神の]恵により[キリストによって]救われる事を[望む]者達として;前者は神に拒絶されのろわれた者達として、また後者は神に受け入れられ救われた者達として;というように、彼らは失われた者として、また救われた者として特徴付けられる (Arthur W. Pink, Gleanings in Genesis, Moody Press, 1981 reprint, p. 63)。

カインは自分の身の破滅そして堕落した状態を否定し、血の贖いによる―神御自身のやり方へ至らなかったのです。 しかし、アベルは自分の罪深さを認識し、神が言われ事を信じ、自分の罪の為の血なる犠牲的な身代わりに彼の信仰を示し、それゆえに回心し、信仰のみにより、キリストのみを通して、神の御前に正しい者とみなされたのです。

それが彼らの相違点です。 私は、この主題に関して現代の注解者達が言う事は気にかけません。 例を上げれば、ジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)は、アベルの供え物は受け入れられた、“なぜならば、それは従順に与えられたからである”と述べています(The MacArthur Study Bible, Word Bibles, 1997, p. 22, note on Genesis 4:4, 5, emphasis added)。 彼の見解は “従順”ということを、アベルの供え物が神に受け入れられた理由として重要視しているように思えます。 私は、そのような見解は“従順”を救いを得る為の手段としているのではないかと心配します。 それはカトリックの見解に非常に似かよっているようにも思え(それはフィニーの見解でもあった)、私は全く信じません。 それは私達の時代の“決断主義”による誤りです。 それは人が自分の救いに関して何かを貢献するという信仰、すなわち“神人協力説(synergism)”の一形態なのです。 それは宗教改革者達や私達のバプテストの先駆者の信仰ではありません。 彼らは“神単独説者(monergists)”でした。 彼らは、信仰そのものは神からの賜物であり、人は何ら自分の救いに貢献できるものではない、と教えました。 神が全てをなさるのです! そのように、彼を救ったのはアベルの“従順”ではなく、賜物そのものである彼の“信仰”でした―“決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである”(エペソ人への手紙第2章9節)。 新約聖書の中で、私達は明白にそのように告げられています、

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた”
      (ヘブル人への手紙第11章4節)。

彼の供え物を受け入れられるようにしたのは、彼の“従順”(カトリック教 /フィニー / 現代の決断主義)ではなく、“信仰”(伝統的なプロテスタント / バプテスト)なのです。 “従順は”救いによる成果であり、その原因となるものではありません。 そのようにアベルには信仰があり、カインには信仰がなかったのです。 そして、アベルが血の供え物を神に持ってきたのは、彼の信仰によるのです。 彼はいかなる形の“従順”によって救われたのではなく、信仰のみにより救われたのです。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない”
       (へブル人への手紙第11章6節)。

従順は、人が信仰によりキリストの内に救われた後に生じて来るものであって、受け入れと救いの為の必須では決してありません。 これは明確にすべき重要なポイントです! 繰り返しますが、アベルは従順ならびに信仰(神人協力説)によって救われたのではありません。 アベルは血により、神から与えられた信仰を通して救われたのです。 アーサー・ピンク(Arthur W. Pink)はこのように述べています、

・・・神が我々の最初の両親をエデンの園より追放される以前に、神は救いの道を彼らに示された。“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)・・・アダムとエバを[皮]で覆われることによって、神は四つの教訓をされた。最初に、罪深い罪人が聖なる神に近づくには、相応の覆いが必要であった。 二番目に、彼ら自身で作ったイチジクの葉による覆いは[神]に受け入れられるような物ではなかった。三番目に、神御自身が覆いを備えられなければならなった。四番目に、[罪の為に]必要な覆いは死によってのみ得る事が出来た。死は罪による報酬である・・・彼らが死ぬか、もしくは誰かが彼らの代わりに死ななければならない。哀れみは公正が果たされた後に[失われた罪人に]のみ来る事が出来る・・・。彼らを[皮]で覆う事によって、―すなわち、罪は唯一覆われることができる―償われる、償われると言うヘブライ語は、流される血の代価でもって“覆おう”という意味で、このことを神は強制的なシンボルとして彼らに示された。[これは十字架を指しており]そしてキリストの十字架を予示する事である。神は、アダムとエバに、 代理―すなわち、不当なために正に死ぬと言うこと、罪のない者が罪人のために死ぬということの根本的な真実を教えられた。アダムとエバは罪を犯した・・・しかし彼らの[身代わり]として、これらの動物が殺された。 そして、これらの死によって、覆いが提供され、彼らの罪と恥は隠された。そのように、それはキリスト、[救ってくださった方]によって成されたのである。[キリスト]によって、私は義の衣を備えられたのである・・・これらの必須物は彼らの子孫へと伝えられた。[神]に受け入れられ御前に来る為には、彼らが血の供え物を持ってくるべきである事をカインとアベルの[どちらも]が知っていた事は質問の余地もない(Pink, 同著, page 64) 。

カインは、キリストに来ない、彼の御血でもって洗い清められない、自分の罪を覆われていない、生まれつきの人を代表しています。 アベルは、自分の罪を知り、自分自身を堕落した罪人と見なし、彼の尊い御血でもって清めてもらうために、イエスに来る人を代表しています。 清めのためにキリストに来ることを拒む人達は、神によって、彼らに対してわざわいである、とされるのです。

“彼らはわざわいである。 彼らはカインの道を行き”
       (ユダの手紙第11節)

たとえどんなに注意を払って、親が子供達をクリスチャンの信仰に育て導いたとしても、イエスに来ない子供達が“カインの道”を行く時がきます。 たとえどんなに長い間、あなた方が教会に通って来ても、そして、たとえどんなに多くの説教をあなた方が聞いたとしても、イエスに来ないあなた方が“カインの道”を行く時がきます。

さて、この説教の前に、私はあなた方にあなたはカインの様ですか、それともアベルの様ですか、と質問をしました。 答えは単純明快です。 もしあなたがイエスにより頼み(信頼し)、彼の御血でもって清められるのであれば、あなたはアベルの様なのです。 しかし、もしあなたがキリストに来ないのであれば、あなたはカインの様なのです、そして、あなたはすぐにこのように言われるでしょう、

“彼らはわざわいである。 彼らはカインの道を行き”
       (ユダの手紙第11節)

その恐ろしい経験があなたに起こらないように。 あなたの持つ疑いと恐れを投げ捨て、あなたの不信心、反逆心、そして罪を愛する心と葛藤をし、イエスに来るように。

“(イエス・キリストは)わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放(された)” (ヨハネの黙示録第1章5節)。

起立をして“とうとき泉あり(There Is a Fountain)”の最初の歌詞を思い出して歌ってください。

とうときいずみあり、そのうちよりインマヌエルの血ぞあふれながる;
つみになやむものくぐりいらば、けがれはあらわれしみはけされん。
けがれはあらわれしみはけされん、けがれはあらわれしみはけされん;
つみになやむものくぐりいらば、けがれはあらわれしみはけされん。
   (“とうとき泉ありThere Is a Fountain” by William Cowper, 1731-1800).

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: へブル人への手紙第11章1-6節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“とうとき泉あり(There Is a Fountain)” (by William Cowper, 1731-1800).

要 綱

カインとアベルの相違

(創世記からの説教、その三十四)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

“人はその妻エバを知った。 彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた。 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた”(創世記第4章1-5節)。

I.   最初に、カインとアベルの二つの類似点。
ローマ人への第5章12節;エペソ人への手紙
第2章3節;ローマ人への手紙第8章7節。

II.  次に、カインとアベルの相違点。
エペソ人への手紙第2章9節;へブル人への手紙
第11章4, 6節;創世記3章21節;ユダの手紙第11節;
ヨハネの黙示録第1章5節。