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覆わされたが、追放された。
(創世記からの説教、その三十三)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

CLOTHED BUT BANISHED
(SERMON #33 ON THE BOOK OF GENESIS)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年12月8日、土曜日の晩の説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Saturday Evening, December 8, 2007

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。 彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた”(創世記第3章21-24節)。

アダムは食べてはならない善悪を知る木の実を取って食べる事によって罪を犯しました。 それゆえに、アダムとエバは神によってのろいを宣告され、エデンの園から追い出されました。 これは現代人の思いには無常な罰のように思えるかもしれません、なぜなら、彼らはそれをただの“些細な”罪と思うからです。 しかし、イエスはこのように言われました、

“多く与えられた者からは多く求められ”
      (ルカによる福音書第12章48節)。

アダムに多くが与えられました。 彼には完璧な楽園が住む家として与えられました。 彼には全て必要な食物がエデンの園の木から与えられました。 この世で永遠なる命が得られたであろう命の木―彼はそれを食べていました―さえも与えられました。 しかし、彼が故意に神に背き、そして食べてはならない木の実を取って食べた時、このような大いなる恩恵を彼は投げ捨てたのです。 

アダムのこの実例は、クリスチャンの家庭に生まれ、教会の保護の下で幼児の時から育った子供に幾分似ています―すなわち、クリスチャンの家庭、教会、そして神の恵みによる手段から立ち去り、福音の説教、そして両親による祈りと教会の立派なクリスチャン達による祈りから去って行き、彼はその全てを無視するのです。

伝道主義の教会で育った若者達の88パーセントが正にそうであると言う事が、世論調査員のジョージ・バーナ(George Barna)によって言われており、彼が言っているように、その88パーセントが自分達の教会から出て行き、“決して戻って来ない”のです。 そのように、これらの“伝道主義の教会”にいる若者達は、アダムがエデンの園で成した事を、繰り返しているのです。 彼らの先祖のアダムが正に行ったように、彼らも同じ事を成し、そして自分達に非常な悲劇をもたらしています。 そのパラレルはあまりにも似通っており、気づかれずにはいられません。

“多く与えられた者からは多く求められ”
     (ルカによる福音書第12章48節)。

アダムに“多く求められ”た事は、義から罪への堕落、そしてみじめで、卑屈な破滅でした。

しかし神は、深い哀れみにより、なお且つアダムとエバに対して恵みを示されました。 そして、これらの堕落した罪人に対する神の恵みが、今晩の私達の説教の主題です。 アダムの恐ろしい罪にもかかわらず、

“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである”
       (エペソ人への手紙第2章4-5節)。

そのように、それが私達のテキストにある豊かな神の恵みなのです。

I. 最初に、神は動物の皮で彼らを覆われた。

起立して第21節を声を上げて読んで下さい。

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

着席して下さい。

彼らの作った腰に巻いたものは不十分でした。 神御自身が彼らの為に皮の着物を造られました。 そのように、彼らの罪は血を流す事なしには、覆われる事が出来ない事を彼らは学びました。 彼らがそのことを学んだのはこれが最初でした、

“血は命であるゆえに、あがなうことができるからである”
       (レビ記第17章11節)。

この節で“あがない”と訳されたヘブライ語の言葉は“kaphar”です。 それは“覆う”( Strong, number 3722)という意味です。 ですから、代替の生き物の血を払って、彼らは神の御前から覆われたのです。 これは、彼らにとって、十字架でキリストが流された御血の明白な描写なのです、なぜなら、

“血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない”
       (へブル人への手紙第9章22節)。

これらの皮の着物で造る為に流された血は予型(タイプ)で、次のような預言なのです、

“わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し”
       (ヨハネの黙示録第1章5節)。

それゆえに、その皮の着物は、後に人を罪から清める為に流されるキリストの御血を指しました。 しかしまた、それらの着物は罪を“覆う”ということも語っています。 使徒パウロはローマ人への手紙の中でこのように述べています、

“不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである”
       (ローマ人への手紙第4章7節)。

皮を示すヘブライ語は単数でありKJV(King James Version)が示しているように、複数ではない事にも注目すべきです。 へブライ語では、“皮(複数)”ではなく“皮(単数)”を表し、そのようにカイル(Keil)とデリッシュ(Delitzsch)、またルーポルド(Leupold)により、“皮(単数)”として正確に訳されています。 これは十字架の上でキリストによる唯一の犠牲を表しています。 へブル人への手紙では、このように書いています、

“大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。 しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである”(ヘブル人への手紙第9章25-26節)。

これらのへブル人への手紙の節に関して、次のように、ローマ・カトリックを正していると、ギル博士(Dr. Gill)は述べています、

毎日のように、キリストの身体を捧げているように装う・・・しかし、キリストは御自分の血を持って天国へ入られた・・・キリストは一度のみ、天国へ入られた、そこでは、彼は座られ、継続して彼のご奉仕を適切に成し遂げられる (John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume III, p. 441) 。

ですから、アダムとエバを覆われた一枚の皮の着物は、十字架で私達の罪を贖う為にキリストが成された一つの行いの予型(タイプ)です。 そしてまた、一枚の皮は、唯一の救いの道を語っています。 多くの皮が使われたのではなく、ただ一枚だけでした、

“この人による以外に救はない。 わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである”
       (使徒行伝第4章12節)。

“神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである”
        (テモテへの第一の手紙第2章5-6節)。

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

神が彼らを覆われたその皮は、身代わりにより、血が流されなければならない事を常に思い出させます。 キリストは、その予型(タイプ)を成就する為、私達の罪の為に苦しまれ、そして神の御前に私達の罪を覆い、そして清める為に、御自分の血を流され、私達の身代わりとして死なれました。 他による救いの道はありません。 あなたは信仰によって、キリストに来なければなりません。 あなたは彼の御血によって清められなければなりません。 あなたは彼の義によって覆われなければなりません。 ピンク(A. W. Pink)は、このように述べています、

その予型(タイプ)は何と美しく完璧であろうか!その[皮を]備え、それを着物とし、そして我々の最初の両親に着せられたのは主なる神であった。彼らは何もしなかった。神が全てを成されたのである。彼らは完全に受身の状態であった。同じ神の恵みなる真実は、放蕩息子のたとえ話の中で表されている。放浪している者が[自分自身を失われている罪人と]知った時に、父親の思いなる善意が表されている。“しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ・・・』”(ルカによる福音書第15章22節)。(放蕩息子は衣を身に着けなければならなかったのではなく、また、彼自身それを身に纏う事もなかった。全ては彼のためにされた。そのように、[救われた]全ての罪人も同じである。“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である”(エペソ人への手紙第2章8節)。そのように我々も主にあって歌おう “わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて・・・”(イザヤ書第61章10節)(A. W. Pink, Gleanings in Genesis, Moody Press, 1981 reprint, pp. 44-45)。

II. 次に、神は彼らを園から追い出された。

起立して第22節を声を上げて読んで下さい。

“主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。 彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」”(創世記第3章22節)。

着席してください。 ルターはこのように言いました、

読むと、神には複数の(人)が存在する・・・と、我々は結論すべきである。第1章26節にあるように、“われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り”とある。それらの句節は、神聖なる本質は一つであることと人の複数を表し、もしくは(神聖なる)三位一体として存在する。この三位一体の不可思議は、新約聖書の中でより鮮明に書かれている・・・。それから(一つの)神聖なる本質の中に、三者がおられ、その不可思議は、この世が創造された最初の時にはっきりと示された。後に、それは(より明白に)預言者により語られ、最後に(新約聖書の中で)完全に明言された・・・それゆえ、このメッセージは、三位一体、すなわち、神は(本質においては)一人ではあるが、三者であるという(クリスチャンの)信仰条項をサポートする(Martin Luther, Th.D., Luther’s Commentary on Genesis, Zondervan Publishing House, 1958 reprint, volume I, p. 87)。

私は、この点に関して、この宗教改革者に完全に同意します。

よって私達は、三位一体の三者がお互いに人の堕落について語られているのを知ります。 しかし、その文章は不完全です。 この翻訳者は第22節をコロンで終えることによって、このことを示唆しています。 もし、あたかも三位一体の人達が、人の堕落するのをご覧になるのに悲しみを覚えるのであれば、彼らは続けて話すことはできなかったでしょう。 ルーポルドは、神の態度を言い表すために“‘悲しみ’という言葉”を使っています(H. C. Leupold, D.D., Exposition of Genesis, Baker Book House, 1984 reprint, volume I, p. 180)。

ですから、悲しみをもって、神はアダムとエバを園から追放されました。

“彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない”(創世記第3章22節)。

さて、堕落の後、もし人が命の木からとって食べたのであれば、彼は永遠に罪に呪われた身体でもって生きたでしょう。 カイル(C. F. Keil)は、“罪の中における不死は、神が人のために用意された[魂の永遠の命]ではなく、終焉のない悲嘆である・・・。 楽園からの追放は、それゆえ、人の行いに課せられたさばきであり、一方、人を永遠の死から保護するために、人を一時的な死に捨てた”と言いました(C. F. Keil, Ph.D., Commentary on the Old Testament, William B. Eerdmans Publishing Company, 1973 reprint, volume I, p. 107)。 そして、ルーポルド博士(Dr. Leupold)はこう述べました、

堕落し悲惨な中にいる人にとって、この罪に損なわれた身体のための不滅の質の獲得は、悲痛な惨禍であったであろう。彼は決して“この浮世の煩わしさ”を引きずることはできなかったにちがいない。キリストのよみがえられた御身体は、除外されたであろう (H. C. Leupold, ibid., pp. 181-182)。

もしアダムが、彼自身の堕落した状態の中で命の木を食べたのであれば、彼は“罪に損なわれた身体”をもって永遠に生きたであろう―たとえば、決して死なない“罪に損なわれた”身体をもつドラキュラのような化け物のように。

さて、“そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出し”とある 第23節の最初の数語に注目して下さいです。 ここの言葉の意味は、“彼を・・・追い出し”です。 それから第24節の“神は人を追い出し” を見て下さい。 アンガー博士(Dr. Unger)は、“最初のヘブライ語は‘去らせる・・・あるいは放逐する’の意味で、二番目の動詞は、より強制的な意味合いを持つ‘追い出すあるいは追放する’の意味である”(Merrill F. Unger, Ph.D., Unger’s Commentary on the Old Testament, Moody Press, 1981, volume I, p. 21)と述べています。 これは、アダムとエバは、楽園の外の過酷な世界へ行く気が進まなかった、その楽園から離れたくなかったことを表します。 しかし、彼らはその楽園から追放され 彼らを寄せ付けないためにケルビムが送られ、彼らが命の木へ来れないようにされました。 エデンの園は、ノアの大洪水で破壊されるまで存在しましたが、その間は人はもはやその中に入ることが出来ませんでした。清教徒のジョン・トラップ(John Trapp)はこのように語っています、

キリストは、御自身の意志で自らを追放されたことによって、全ての信者を天にある家に連れ戻し、そして“[彼らに]神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう”(ヨハネの黙示録第2章7節)とされた。我々のために準備をされるために行かれたキリストが、再び戻られ、“あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう”と言われる時まで、我々のここでの生活は、追放の何物でもない(John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, Transki Publications, 1997 reprint, vol. I, p. 22) 。

キリストはこのように言われました、

“あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている”
        (ヨハネによる福音書第16章33節)。

クリスチャンとして、私達は罪に損なわれた世界に住み続けます。 私達は救われていますが、不完全な世界に住み続けるのです。 アダムとエバのように、私達は(キリストの義を)着せられていますが、神が天の完璧なパラダイスに私達を連れて行かれるまで、追放された状態で、堕落した世界に住むのです。 それが、天に上げられ、神の右座におられるイエスに来なさい、と私達が話している理由です。

“上にあるものを求めなさい。 そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない”
       (コロサイ人への手紙第3章1-2節)。

キリストに来なさい。 彼の御血でもって洗い清められなさい。 “あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない”のです。

(説教終了)
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要 綱

覆わされたが、追放された。
(創世記からの説教、その三十三)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。 彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた”(創世記第3章21-24節)。

(ルカによる福音書第12章48節;
エペソ人への手紙第2章4-5節)

I.   最初に、神は動物の皮で彼らを覆われた。
創世記第3章21節;レビ記第17章11節;
へブル人への第9章22節;ヨハネの黙示録
第1章5節;ローマ人への手紙第4章7節;
へブル人への手紙第9章25-26節;
使徒行伝第4章12節;テモテへの第一の手紙
第2章5-6節;ルカによる福音書第15章22節;
エペソ人への手紙第2章8節;イザヤ書第61章10節。

II.  次に、神は彼らを園から追い出された
創世記第3章22節;創世記第1章26節;3章23-24節;
ヨハネの黙示録第2章7節;ヨハネによる福音書
第16章33節;コロサイ人への手紙第3章1-2節。