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真の回心

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

REAL CONVERSION
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて  
2007年11月25日、主の日の晩の説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord's Day Evening, November 25, 2007

“心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう”(マタイによる福音書第18章3節)。

今晩、私はとてもわかりやすい説教をします。 私はベストをつくして出来る限り分かり易く話すつもりです。 分かり易い事とは言え、それは多くの失われている新伝道主義者達にとっては革命的で怯えさせるような事かもしれません。

イエスは“心をいれかえて・・・天国にはいることはできないであろう”と言われました。 ですから、彼はあなた方が回心を体験しなければならない事を、まったく明白にそして明瞭にされたのです。 彼は、もしあなた方が回心をしなければ、あなた方は“天国にはいることはできないであろう”と言われました。 ですから、その疑問を解決しなければなりません―あなた方は、回心していますか? ほとんどのアメリカ人は、自分達は回心していると思い違いをしています。 しかし大変少数の人達が回心を体験しているにすぎないのです。 なぜでしょうか? それは、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)の誤った教えの成行きとして、多くの説教者達が、回心を人間の“決断”であるように変えてしまったからです。 今日、まれな人達が実際に回心の体験をしています。

あなた方にとって、自分は回心していないと見なす事が最善でしょう。 それが一番慎重な事です。 あなた方が間違えていても、それは害にはなりません。 逆に、もしあなた方が回心していると思っても、そうでないならば、あなた方の魂は永遠に地獄で罰せられるでしょう。 ですから、自分は救われていない者として考慮するほうが慎重なのです―恐らくそれが真実でしょうから。 聖書では、永遠なる確保について教えていますから、もしあなた方が本当に回心しているのであれば、自分自身救われていないものと考慮する事は、少しもあなた方を害する事はないのです。 しかし、もしあなた方が回心していないのでしたら、自分自身を救われていると見なす事は、あなた方を永遠の炎へと落としてしまうでしょう。 ですから、最も安全な事は、自分は回心していないと考える事です。

さて、私達は、多分に、あなた方は回心していないと言う事に一致しました。 それでは、ここからどうすればよいのでしょうか? では、回心した人に起こる事を私は説明しましょう。 スポルジョン(Spurgeon)は“一見なる信仰などと言うものがあるかもしれない。 しかし、普通、我々は段階によって信仰に達する”(C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Pasadena, Texas: Pilgrim Publications, 1992 reprint, p. 57 )。 ここに挙げているのが、ほとんどの人達が経て行く“段階”です。

I. 最初に、あなた方は回心の為以外の理由で教会に来ます。

ほとんどの人達がそうです。 私もそうでした。 私達の執事であり、ソリストであるグリフィス氏もそうでした。 そうして、あなたもそうだったでしょう。

私は十代の時に教会に来ました、なぜなら私は孤独だったからです、そして隣近所の人達が彼らの子供達と一緒に私を教会に連れて行ってくれました。 そのように、私は一人ぼっちで、隣近所の人達がとても私に良くしてくれたので、1954年に教会へ通い始めました。 私が初めて聞いた説教の終わりに、“祭壇に向かって”前に出て行き、洗礼を受けました。 そのようにして、私はバプテストになったのです。 しかし私は回心していませんでした。 その後7年もの長い奮闘の期間を経て、ようやく1961年に、私がバイオラ・カレッジ(現在のバイオラ・ユニバーシティ)でチャールズ J.ウッドブリッジ博士(Dr. Charles J. Woodbridge)の説教を聞いた時、私は回心を経験しました。

あなた方はどうですか? あなた方は孤独であったから教会に来たのでしょうか、それともあなた方の御両親が子どもの時から教会へ連れて来たからでしょうか? もしあなたが今晩、教会で育った子供のように、習慣としてここにいるのでしたら、あなたは回心しているからではありません。 それとも、私のように、あなた方は孤独であり、誰かが招いてくれて、その人達がとてもよくしてくれたから、あなた方も来ているのですか? もしそうであったら、あなた方が回心しているからではありません。 思い違いをしないで下さい。 教会の子供達のように習慣としてであっても、あるいは、13歳の頃の私のように、孤独であったにせよ、私はあなた方がここにいる事をうれしく思っています。 それらは教会へ来るにあったて、まったく正当な理由なのですが、それらの理由はあなた方を救う事は出来ません。 あなた方が救われるには、真の回心が無ければなりません。

習慣として、また孤独であるからここにいると言うのは、悪い事ではありません 。 ただそれは浅はかすぎるだけであって、回心にはそれ以上のものが無ければなりません。

II. 二番目に、あなた方は神が実際存在しておられる事を知り始めます。

あなた方は教会に来る以前から神の存在を悟っていたかもしれません。 しかし、多くの人達は福音を知らされる前まで、神に対して不明確で、あいまいな信仰しか持っていません。 もし誰かがあなた方をここへ連れて来てくれたのであれば、あなたの場合も多分そうではなかったでしょうか。

もしあなた方が教会に来ながら育っていたとしたら、すでにあなた方は多くの御言葉を知っています。 聖書も簡単に見分けて開く事が出来ます。 救いの計画も知っています。 聖書の句や賛美歌もよく知っています。 しかし、あなた方にとって神は未だに不明確で、あいまいな存在なのです。

それでは、あなた方が新しく来られた方であろうと、教会で育った子供であろうと、何かが起こり始めます。 それは神について語るだけではなく、神が本当に存在するという事をあなた方に気付かせます。 神は、あなた方にとって正に真実な方であるように迫ってきます。 私は15歳の時に、神の真実性を非常に感じました。 その日は私の祖母が埋葬された日で、墓地から帰る際その並木道で実際に地面に倒れました。 私は、神が真実で生きておられる方である事を知りました。 しかしそれでもなお、回心は私にはありませんでした。 

そのような体験をした事がありますか? あなた方の生活の中で、神は実在されるお方ですか? それは非常に大切な事なのです。 聖書はこのように述べています、

“信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。 なぜなら、神に来る者は、神[のいますこと]・・・必ず信じるはずだからである”
      (ヘブル人への手紙第11章6節)。

神を信じるには、いくらかの信仰が要求されます―しかしそれは救いの信仰ではありません。 それは回心ではありません。 私の母は“私は常に神を信じた”とよく言いました。 そうであった事は私にはまったく疑いの余地はありません。 彼女は子供の頃から神を信じていました。 しかし彼女には、80歳になるまで回心はありませんでした。 彼女が神を信じていた事は重要な事でしたが、人が真に回心するにはそれ以上の事が起こらなければなりません。

ですから、あなた方はおそらく、神の真の実在を知る事なしに教会へ来たのであろうと、私は言っているのです。 そうして、おそらく徐々に、あるいは、やや敏速に、あなた方は神が存在される事を知って来るでしょう。 それは第二の段階ですが、まだ回心ではありません。

III. 三番目に、あなた方の罪によって、あなた方は神を傷つけ、怒らせた事を悟ります。

聖書は、“肉にある者は、神を喜ばせることができない”(ローマ人への手紙第8章8節)と言っています。 回心のない者としては、あなた方が成す何をも神を喜ばす事は出来ません。 実際、毎日のようにあなた方の“かたくなな、悔改めのない心のゆえに・・・神の怒りを、自分の身に積んでいるのである”(ローマ人への手紙第2章5節)。 聖書はこのように述べています。

“日ごとに憤りを起される神である”(詩篇第7章11節)。

あなた方が、本当に神がおられる事に気が付いた後、罪を犯す事によって、あなた方は神を怒らせている事を知るでしょう。 また、神を愛さない事によって、あなた方は彼を傷つけています。 あなた方の犯した罪は神と彼の戒めに逆らっていました。 これは真実である事が、あなた方に明瞭になるでしょう。 あなた方の神に対する愛の欠乏は、大いなる罪である事にもまた、この段階で、あなた方は気が付くでしょう。

この段階は、しばしば清教徒によって“目覚め”の段階とも呼ばれました。 しかし、鋭い罪の意識と深い自責がない限り、目覚める事は無いでしょう。 ジョン・ニュートン(John Newton)がこの歌詞を書いた時に感じたように、あなた方も感じるでしょう。

主よ、なんと我は邪悪で汚れていることか!
そのような罪の重荷で、あえて近づく事が出来ようか?
このような汚れた心があなたの住処となるべきか?
悲しや!なんともあらゆる面の、邪悪なことよ!
   (“O Lord, How Vile Am I” by John Newton, 1725-1807).

そうして、あなた方の思いや心の奥なる罪について深く考えるでしょう。 あなた方は“自分の心はとても罪深く、神からはるかに程遠い”などとも思いめぐらすでしょう。 これはあなた方を不安にします。 あなた方は自分の罪なる思いや神に対する愛のなさに非常に立腹し始めるでしょう。 神に対するあなた方の心の冷淡な不活力さは、あなた方を深く悩ますでしょう。 あなた方は自分のような罪深い心を持つ人には、望みがない事を悟るでしょう。 あなた方は、神があなた方を地獄へ送られるのは当然であり正当である事にも気が付くでしょう―なぜなら、あなた方は地獄に行く事が値するからです。 あなた方が真に目覚め、そしてあなた方が神を傷つけ怒らせていた事を悟る時、このようにあなた方は思い巡らすでしょう。 目覚めの段階は重要ですが、それはまだ回心ではありません。 自分がなんとも邪悪であるかを知る人は目覚めたのです―しかし、その人はまだ回心していません。 回心は、ただ単なる罪の自覚ではなく、それ以上の何かなのです。 あなた方は突如として、神を不快にさせていた事に気が付くかもしれません、あるいはそのような自覚は、単なる教義から、神は怒られておりあなた方に不快を感じておられるというような、より完全な理解へと変わっていくかもしれません。 あなた方が、自分は罪深く汚れているという事実に完全に目覚めた時にだけ、四番目の最終の段階である回心へとあなた方は備えられるのです。

チャールズ・スポルジョン(Charles Spurgeon)は、彼が15歳の時にこのような罪の自覚に達しました。 彼の父親と祖父は両方とも説教者でした。 彼らは、近代の“決断主義”がまだ真の回心をあいまいにし、不明瞭にさせる事の無かった時代に生存しました。 ですから、彼の父親や祖父は彼を“無理強い”て、表面的な“キリストへの決断”をさせなかったのです。 そうではなく、神による、彼の内における回心への徹底した御業を彼らは待ったのです。

スポルジョンが15歳の時、最終的に、彼は深い罪の自覚の下に来ました。 スポルジョンは、彼の罪に対する目覚めの経験を、このように書いています。

突然、私は神の律法を手に抱えているモーセに出会った、そして彼が私を見た時、彼は私を彼の炎のような目を通して伺うように思えた。 彼は神の言葉-十戒を[私に読むように告げ]―そして私がそれらを読んでいると、はなはだしく聖なるエホバの面前に、それらすべてが私を非難し、咎めるように思えた。

彼はその体験で、自分が神の御前に罪人である事、そして、何ら“宗教”あるいは“正当”をも彼を救う事が出来ない事を知りました。 青年スポルジョンは非常な苦痛の期間を貫いて来ました。 彼は多くの やり方で神との和解を得ようと努力しましたが、神と和解する為の彼の全ての試みは、それを達成しませんでした。 その時においてのみ、彼は四番目の“段階”―すなわち、最終段階である回心そのものへの準備が出来ました。

IV. 四番目に、罪を清める為にあなた方は神の御子イエス・キリストへ来ます。

スポルジョンが彼の罪に対して自覚をもった時、初めは単にイエスに来るだけで彼が救われるとは信じませんでした。 彼はこのように言っています。

私がキリストに来る前に、自分自身にこう言った、“もし私が今のままでイエスを信じたならば、私が救われるとは絶対にあるべきがない。 私は何かを感じるべきであり、何かを成すべきである。”

しかし、彼は何も“感じる”事が出来ず、何も“成す”事が出来なかったのです! 彼は惨めでした。 それでいいのです! それが人をその人自身から離し、救い主、イエスへと導くのです!

スポルジョンは雪嵐の中を小さな教会へと行きました。 そこには数人の人しかいませんでした。 牧師でさえも激しい嵐で来る事が出来ず、一人のやせ細った男性が立ち上がり、即座の説教をしました。 その男性は単に、“イエスを眺めよ”と述べました。 最終的に、彼の今までの奮闘と心の混乱のあげく、その青年スポルジョンはその事をしました―人生で初めて、彼は信仰によりイエス・キリストを眺めたのです! スポルジョンは、“御血によって私は救われた! 踊り転げながら家まで帰る事が出来た!”と言いました。 彼は単にイエスを眺めたのです! それは単純な事ではありますが、人間が得る事の出来る最も深甚な経験なのです。 まだ救われていない人達よ、それが真の回心なのです!

結論

あなたの、真の回心の為のキリストへの探求を何事によっても途絶えさせてはなりません。 キリストがこのように言われた事を忘れてはなりません。

“心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう”(マタイによる福音書第18章3節)。

天路歴程(Pilgrim’s Progress)の主人公のように、どんな表面的な“キリストへの決断”などで落ち着いてはなりません。 だめです! だめです! あなたの回心は真実であることを確かなものにしなさい、なぜなら、もしあなたが本当に回心していなければ、“天国にはいることはできない”(マタイによる福音書第18章3節)からです。

本当の回心を経験するために

1.  あなたは、真実の神―すなわち、人が死ぬ時、罪人を地獄に送り、救われた者を天国に導く神が存在することを本当に信じるようにならなければなりません。

2.  あなたは、自分は深く神に反してきた罪人であることを、心中深く、知らなければなりません。 この状態は長期(あるいは短期)にわたるかもしれません。 この教会の執事のケイガン先生は、“神が私にとって真実になった後、私は多くの月日眠れぬ夜を通して、心の葛藤を経験した。 私は、人生におけるこの期間を、二年間の知的苦悶と説明できるだけである”(C. L. Cagan, Ph.D., From Darwin to Design, Whitaker House, 2006, p. 41) と言っています。 

3.  あなたは、神を傷つけ怒らせたことに対して、自分自身を和解させるために、何らよいことは出来ないということを知らなければなりません。 あなたの言うこと、学ぶこと、あるいは成すことは、何ら助けになりません。 そのことを、あなたの心と精神に明白にしなければなりません。

4.  あなたは、彼の御血でもって清められるために、また、彼への信仰を通して、彼の正義のあなたへの転嫁のために、イエス・キリスト、神の御子に来なければなりません。 ケイガン先生は、“私は正確にその瞬間を思い出すことが出来る。 私が[イエス]を信頼した時・・・一瞬にして[イエス]と対峙したような・・・疑いもなく、私はイエスの面前におり、彼は私のためにおられた。 多くの年月、彼はいつも私のために、愛情をもって、私に救いを提供するためにそこにおられたが、私は彼に背を向けていた。 しかしあの晩、私は、彼を信頼するその時がきたことを知った。 私は、彼に来るか、それとも彼に背を向けるか、そのどちらかをしなければならないことを知った。 その瞬間、ほんの数秒の内に、私はイエスに来た。 私はもはや自己中心的な神を信じない者ではなくなった。 私は、イエス・キリストを信頼している。 私は、彼を信じた。 それは正に単純なことであった。 その短時に、信頼するという単なる行動で・・・私は、イエス・キリストへ“横切る”という、一生で最も大事なできごと―すなわち、回心を経験した。 私は、生涯逃げ続けてきたが、あの晩、私は振り向き、直接に、瞬時にして、イエス・キリストに来た”(C. L. Cagan, p. 19同著) 。それが真実の回心なのです。 それが、あなたが経験しなければならない、イエス・キリストへの回心なのです!


キリストは、あなたの罪の贖いのために、そしてあなたを怒りの神と和解させるために、十字架で死なれました。 キリストは、身体ごと死からよみがえられ、天国へ上って行かれました。 そこでは今、彼は神の右座に座られて、あなたが救われることを祈っておられます。

“このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。 そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない”(コロサイ人への手紙第3章1-2節)。

キリストを仰ぎ見なさい! 神の御子を仰ぎ見なさい! 彼の御血でもって、あなたの罪を洗い流してもらいなさい! あなたは瞬時にして救われるでしょう。 ジョセフ・ハート(Joseph Hart)が記しているように、

十字架で死なれた神を、
罪人が信じ、信頼したその時、
罪人は許しを与えられ、
彼の御血でもって、完全なるあがないがなされた。
   (“The Moment a Sinner Believes” by Joseph Hart, 1712-1768).

それが、スポルジョンに起こったことなのです。 それが、ケイガン先生に起こったことなのです。 そして、それが、あなたに起こらなければならないことなのです。 それを、ジョセフ・ハートは、賛美歌の中で語っているのです!

十字架で死なれた神を、
罪人が信じ、信頼したその時、
罪人は許しを与えられ、
彼の御血でもって、完全なるあがないがなされた。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: エペソ人への手紙第2章1-7節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Amazing Grace” (by John Newton, 1725-1807).

要 綱

真の回心

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

“心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう”(マタイによる福音書第18章3節)。

I.   最初に、あなた方は回心の為以外の理由で教会に来ます。

II.  二番目に、あなた方は神が実際存在しておられる事を知り始め ます。
へブル人への手紙第11章6節。

III. 三番目に、あなた方の罪によって、あなた方は神を傷つけ、
怒らせた事を悟ります。 ローマ人への手紙第8章8節;
三番目に、あなた方の罪によって、あなた方は神を傷つけ、
怒らせた事を悟ります。ローマ人への手紙第8章8節;
ローマ人への手紙第2章5節; 詩篇第7章11節。

IV.  四番目に、罪を清める為にあなた方は神の御子イエス・
キリストへ来ます。コロサイ人への手紙第3章1-2節。