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いちじくの葉の腰巻か皮の着物か?
(創世記からの説教、その二十四)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

APRONS OF LEAVES OR COATS OF SKIN?
(SERMON #24 ON THE BOOK OF GENESIS)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて   
2007年10月6日、土曜日の晩の説教

A sermon preached on Saturday Evening, October 6, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた”(創世記第3章7節)。


悪魔は、私達の最初の両親を、食べてはならない善悪を知る木の実を食べて罪を犯すように誘惑しました。 彼らが食べ、神にそむいた後に、ルターが言う“絶望によって彼らを滅す”ために、悪魔は他の方法を試みました。

“彼らの目は開け”、これは罪に対する自覚を表しています。 自覚することにより、罪人は自分の罪を知り、それを嫌悪します。 そして、アダムとエバのように、彼は罪の悟りを感じます。 しかし、人が自分の罪を知り、その罪のなす恐れを自覚する時に、彼には希望がないと偽る悪魔によって、その人は引きずり落とされます。

ルターが言っているように、悪魔は“絶望によって彼らを滅ぼす”機会を待ちます。 それがユダに起こった事なのです。 彼がキリストを裏切った事の邪悪さを知った時、彼には救いにおける悔い改めがなかったのです。 ギリシャ語で“メタノヤ(metanoia)”と言う、聖書にかなった悔い改めによる心の変化が彼にはなかったのです。 聖書では、彼は悔い改めたと書いてありますが、そこでは“メタメロマイ(metamelomai)と言う他のギリシャ語が用いられています。 それは“悔やむ”と言う意味です。 しかし、単なる悔やみは真の悔い改めではありません。 真の悔い改めは、人の心を変え、その人を違った方向へと向かせます。

アダムとエバにはユダと同じような“悔やみ”が有りました。 彼らは自分たちの罪に対して悔いましたが、彼らの心は新たな方向へとは変わりませんでした。 私達の両親(そしてユダ)の悲しみは、誤った悔やみでした。 聖書ではそれを“この世の悲しみ”と呼んでいます。

“神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる”(コリント人への第二の手紙第7章10節)。

罪人に罪の悟りがある時、初めはしばしば、“死をきたらせる[ような]この世の悲しみ”となります。 自分の罪によって、神に罪を犯した事に対する悲しみではなく、多少の罪の意識のある罪人は、しばしば“死をきたらせるこの世の悲しみ”を単に感じるでしょう。 彼は、非常な心の苦痛を感じるでしょうが、それは自己中心的な悔やみとなるでしょう。 結果として、自分が神の律法を破り、心の中で神に対して反抗する事によって神を怒らせたと言う“神に対しての悔い”ではなく、彼は自分自身を哀れに思うのです。

アダムとエバは、最初のような“死をきたらせる”-自分を哀れに思う-悲しみを感じました。 私達がカウンセリング・ルームで相談に乗っている多くの人達は、そのような自己中心的な悲しみを感じていま。 彼らは罪をめぐって泣き、自らの苦痛を表現するかもしれません。 しかし、彼らの“悔やみ”と呼ばれるものは、自分自身に対しての悲しみ、すなわち彼らがそのような悲惨な境遇にいるという悲しみに過ぎません。 彼らは神を怒らせた事に対しての悔いは感じていないのです。 彼らは単に自分達に対して哀れに思うだけなのです。 カウンセリング・ルームでは、自己中心的な悲しみと神を怒らせたと言う“神に対しての悔い”の違いを話しています。

人が彼の邪悪な状態を自覚する時、しばしばその人は自分自身を悲しみへと引き込みます。 これはその人にとって何の役にもたちません。 “この世の悲しみは死をきたらせる”のです。

私達の最初の両親の目が開かれ、そして多少の罪の意識を感じた時、悪魔は彼らの心に自己中心的な後悔をもたらしました。 ルターが“彼らを滅ぼすために”と言ったように、悪魔は彼らの心に自己中心的な後悔をもたらしました。 自己中心的な後悔とは、そういう事だけなのです。 それはあなたをキリストへは導きません。 後悔をし、それにもかかわらず首をつった、滅びの子、地獄の子であるユダを滅びへと導いたように、それは滅びへと通じるのです。 “この世の悲しみは死をきたらせる。” 自分自身を哀れに思うのではなく、あなたが神を怒らせ、そして何の意味もないように彼の律法を破ったことに対して悲しく思わなくてはなりません。

アダムとエバは彼らの邪悪な状態に悟らされました、しかし、彼らは神にそむいた事に関して何の苦痛も感じませんでした。 彼らの悲しみは罪に対する浅はかな自覚でした。 ですから私はあなたに言うのです、あなたは深い悲しみに落ち込むかもしれない、非常な苦痛を感じるかもしれない、それにもましてあなたは神を敬わず、神の愛を価値のないものとして彼の顔に向かって放り戻した、その罪の意識をあなたは感じていないのです。 罪人がそのようなうわべ上の罪の意識の状態にいる時、神は彼を助ける事は出来ません。

イアン・ムレイ(Iain H. Murray)はこう言っています、

罪の悟りの下にいる人達は、通常彼らの振舞いを[変えようとする]・・・神が要求している悔い改めとは、部分的な変化ではなく、また一時的な後悔でもない、人生の全てが変わる事である(Iain H. Murray, The Old Evangelicalism: Old Truths for a New Awakening, The Banner of Truth Trust, 2005, pp. 9-10) 。

人生においてのそのような“完全なる”変化は、その罪人が最終的に自分自身にはそのような完全な変化をする能力がない事を知る時に、起こるのです。 昔の賛美歌はこのように意訳しています、


我の何の行いも

自分を清める事は出来ない、

邪悪は心の奥底に潜む。


自分自身を変えようと励むほど、それはもっと不可能になってきます。 パウロがローマ人への手紙第7章8-9節で言っているように、罪は生き返り、(願わくば)あなたは死にます。 私はそのテキストを明晩“危機なる回心と神の律法”と題した説教で話します。

さて、アダムとエバはそのような危機の状態にいました。 彼らの目はいささか開かれました。 彼らは自分達が罪人であることを知っていました。 しかし、イアン・ムレイが“罪の悟りの下にいる人達は、通常彼らの振舞いを[変えようとする]”(同著、p. 9)と言っているように、 アダムとエバは、しばらくして振舞いの変化はまったく何の助けにもならない事に気が付きました。

“すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた”
      (創世記第3章7節)。

彼らは、自分達でもって自分達の罪の成り行きを隠そうとしました。 彼らが作った腰巻は、自分たちで何かをすることによって、自分の罪を隠そうとする、失われた人の描写(典型/タイプ)です。

それは何の役にも立ちませんでした、なぜなら、聖書では明白にこう言っているからです、

“わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖書により新たにされて、わたしたちは救われたのである”
      (テトスへの手紙第3章5節)。

それらのいちじくの腰巻は、肉体を供えられる以前のキリストの御血なしで罪を隠そうとした人の最初の試みを表しています。 あなたがどんなによい行いをしようと、あなたがどんなに強い決意をしようと、また、あなたがどんなにクリスチャンになろうと励んでも-それらの人間による全ての行いは、ただの“いちじくの葉”なのです-血のない誤った救いの見解を土台にした人間の宗教なのです。 神の御心と御自身の目的である-肉体を持つ以前のキリストの御血、“ほふられた子羊”(ヨハネの黙示録第13章8節)による救いではないのです。

キリストの流された御血なしの人間の宗教を描写した、血の無いいちじくの葉の背後に身を隠す事により彼らが感じた誤りの保証を、神ははぎ取らなければならなかったのです。

私達は次回に、どのように神が彼ら自身の謝った救いの望みをはぎとられたか、どのように神はよい行いとされる“いちじくの葉”による救いはないという事を彼らに知らせようとされたか、どのように彼らは罪と定められ、神から隠れる事が出来なかったのか、という事を学びます。

最終的に彼らの言い訳が無くなり、そして彼らが完全に罪を悟らされた時に、神御自身が彼らの罪を清められ、血に染まった皮で彼らを覆われました。 創世記第3章21節を開いて、立って声を上げてそれを読んで下さい。

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

着席して下さい。

それらの着物はキリストが御自身の正義によって彼らを覆われた事を表しています。 旧約聖書のエキスパートであるティモシー・リン先生(Dr. Timothy Lin)はしばしば、へブライ語ではその皮を複数形ではなく、単数形で表していると指摘しています。 神が彼らを覆うために造られた着物は一つの動物から出来ていました。 そのことは、罪を覆うことのできるキリストは唯一一人だけである事実を象徴しています。 更に、その皮がとられた動物によって血が流されなければなりませんでした。 これは罪を贖うためのキリストの死の力を表しており、それは罪を洗い清めるキリストによって流された血の力を表しており、そして、それはキリスト御自身が御自分の正義によって罪人を覆われる事を示しています。


彼の正義のみにより着せられ、

王座の御前に過ちなく立つ

   (“The Solid Rock” by Edward Mote, 1797-1874).


あなたが罪の重荷により疲れはてる時、あなたが心を改め“正しく”なろうと試みたり、あなたの罪を“いちじくの葉”で覆って自分を救おうとするようなゲームを終える時、自分がする事が何もないこと、あるいは、将来に行おうと期待する事が何もないこと、自分を清め自分の罪を覆う事が出来ることが何もないことを悟るその時に、あなたはエルバイナ・ホール(Elvina M. Hall)のよく知られた賛美歌を理解するでしょう、


自分には何も正しさはなく

   それゆえにそなたの御恵みを請う

我はわが着物をカルバリーの小羊の血により

   白く清めるであろう

(“Jesus Paid It All” by Elvina M. Hall, 1820-1899).


しかし、創世記第3章21節には更に知るべき事があります。  立ってそれをもう一度、声高に呼んでください。

“主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた”(創世記第3章21節)。

着席して下さい。 彼らが動物の皮で覆われる為には、血が流されなければなりませんでした。 では、レビ記第17章11節を開いて下さい。 最後の“血は命である・・・”という言葉から始まる部分を声を上げて読んでください。

“血は命であるゆえに、あがなうことができるからである”
      (レビ記第17章11節)。

“あがない”の言葉に線を引いて下さい。 その横の余白のところに“覆う”と書いてください。 それがへブライ語の“カファー(kaphar)”の意味です。 それは”覆う“という意味です。 ですから、私達はレビ記第17章11節をこのように訳する事が出来ます、

“魂を覆うことのできるものは、血である”

キリストの御血は、過去においてから、彼により頼む者の罪を覆うのです。 彼らの罪は覆われるので、神は罪を見ないのです。 最後の審判に於いて、“その書”が開けられる時、神は彼らの記録をご覧になります。 彼は罪の記載の無いのを知るでしょう、なぜなら彼らの罪はキリストの御血でもって覆われていたからです!

ある知人は、“覆うこと”とは旧約聖書の言葉で、新約聖書には出てこない、と言いました。 その知人は、私が教えられた、より強調された神の摂理の見解に影響されたのでしょうか。 しかし、私は彼の言ったことを数週間何となく考えました。 それから後のある日に、私はCruden’s Concordance を手にし“覆われた”の単語を調べました。 新約聖書にあるではないですか! ローマ人への手紙第4章7節を開いて、それを声高に呼んで下さい。

“不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである”(ローマ人への手紙第4章7節)。

そうです、これは詩篇の第32篇 1節からの引用であることは知っています。 しかし、私はまたこのことも知っています、聖霊がヘブライ語で書かれた旧約聖書をギリシャ語で書かれた新約聖書に引用する時、ヘブライ語の言葉から転移するために、そのギリシャ語は聖霊によって選ばれます―なぜなら、“聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの”(テモテへの第二の手紙第3章16節)―旧約聖書と新約聖書の両方共―であるからです。 ですから、聖霊は、ギリシャ語で書かれた新約聖書の中で、“罪をおおわれた”人はさいわいである、と言ったのです。 “おおわれた”と訳されたギリシャ語は、“epikaluptō”で、その意味は、“隠すこと”あるは“覆いをかけること”です(Strong)。

それは、旧約聖書と新約聖書の両方にあります。 血は命であるゆえに、あがなうことができるからである”(レビ記第17章11節)。 “不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである”(ローマ人への手紙第4章7節)。 そして、その“おおわれること”とは、神がアダムとエバに着せた皮の着物に象徴されるのです。

神の審判あら救われるためには、あなたはキリストの正義でもって覆われなければなりません。 あなたの罪はキリストの御血でもって覆われなければなりません。 そうすれば、神はあなたの罪をご覧にならないでしょう。 立って、5番目の讃美歌“汝に隠れ”の合唱の部分(Hiding in Thee)を歌って下さい。 この歌は、キリストを受け入れ彼の御血と正義でもって神の怒りから身を隠したという歌です。


汝に隠れし、汝に隠れし、

汝は“岩の時代”をさいわいし、

我は汝に隠れし。

   (“Hiding in Thee” by William O. Cushing, 1823-1902).

(説教終了)
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