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ノアの時代―その4
(創世記からの説教、その十五)
R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE DAYS OF NOAH – PART IV
(SERMON #15 ON THE BOOK OF GENESIS)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて  
2007年8月19日、主の日の朝の説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, August 19, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”(マタイによる福音書第24章37節).

現在、私達は、イエスがこの聖書の節で語られた時代に生きている、と私は確信しています。 私達の時代とノアの時代の間に大いなる類似点があります。 イエスは、ご自分が再臨なさる、そして、私達が知るようなこの世の終わりの来る直前には、この地上がノアの時代のようになるであろうと言われました。

ノアの時代にあった事が、この世が最後に迫って来る時にもあるでしょう。

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”(マタイによる福音書第24章37節)。

私達は、ノアの時代が私達の時代と似かよっていた九つの点を見てきました。


(1)  多くの人達が神から背を向けた、背教の時代であった。

(2)  人々が地上を移り動いたはなはだしい移動の時代であった。

(3)  無数の人達が許されることのない罪を犯し、神に見放された時代であった。

(4)  人々が一人以上の人と結婚した多重婚(複合的な結婚)の時代であった。

(5)  広範囲に渡って悪魔による占有が起こった時代であった。

(6)  この世において邪悪な思考が普及した時代であった。

(7)  俗的な音楽によって著しく影響された時代であった。

(8)  非常な暴力行為や殺人の時代であった。

(9)  熱心な説教が拒絶された時代であった。


これらの全ては、ここ何十年間の私達の時代で繰り返されています。 ですから、私達は現在、イエスがこのように語られた時代に生きている、と私は確信させられました。

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”
      (マタイによる福音書第24章37節)。

今朝、私はあなた方の思慮を、私達の時代がノアの時代に起こった事と類似しているもう一つの面に向けたいと思います。

では、創世記の第4章25節を開いて下さい。

“アダムはまたその妻を知った。 彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。 セツにもまた男の子が生まれた。 彼はその名をエノスと名づけた。 この時、人々は主の名を呼び始めた”(創世記第4章25-26節)。

私達がこの節を理解する為に、私は次の三つの事柄を問います。

I. “信心深い系列”と“不信心な系列”の二つの集団がいたか?

私達の多くは、大洪水以前にはセツから出た“信心深い”系列とカイ  ンから出た“不信心な”系列の二つの集団があったと教えられてきました。 これが、スコーフィールド・スタディー・バイブルの 創世記の第6章4節の記述で教えている事です。

ユダヤ人とクリスチャンの一様な解釈は、2節がセツの信心深い系列とカインの不信心な系列との間の分離の分析を表しており、それゆえ神への信仰における過失は、セツの家系を危うくしたとされている。

私は何年もその解釈を信じてきました。 スコーフィールド・スタディー・バイブルの記述は、それが“ユダヤ人とクリスチャンの一様な解釈”であると示している一方、それはメリル・アンガー博士(Dr. Merrill F. Unger)やデハーン博士(Dr. M. R. DeHaan)の解釈ではありません (参照:M. R. DeHaan, M.D., The Days of Noah, Zondervan, 1963, pp. 139-151) 。 デハーン博士はこう言っています、

      この不可解な話[創世記第6章1‐7節]に関して二つの解釈がある。 神の子達と人の娘達の交わりについて一般的に受け入れられている説明は、前者は信心深いセツの子孫達であり、そして人の娘達は邪悪なカインの子孫達であると言う事である。 スコーフィールド博士(Dr. C. I. Scofield)は、この節についての彼の記述の中で、この一般的に受け入れられている見解を信じている・・・。
       多くの人達によって、これはセツの(皆すべてが女)であると思われている子孫達と、カインの(皆すべてが男)であると思われている子孫達の結婚について示しているといった論議を我々が吟味する際、我々は徹底した吟味のもとで、それは証明される事の出来ない事である事を我々は見い出す。 なぜなら、それは多くの困難な点や疑問を提示しているからである。もしその引用がセツの信心深い娘達とカインの不信心な息子達についてであるならば、我々はこれら以下の事を弁明しなければならない。

1.  なぜこの結合はセツの女の子孫達とカインの男の子孫達の間だけの事であり、そしてセツのの子孫達(人の息子達)やカインのの子孫達(神の娘達)ではないのか。

2.  セツの子孫達は皆女であったのか、そしてカインの者達は男であったのか? 全てのセツの子孫達は信者であり、全てのカインの子孫達は不信者であったのか?

3.  我々はどのようにして不信者と信者の交わりの結果として、ネピリム、昔の勇士そして有名な人々の誕生を説明できるであろうか?・・・では、どのようにして我々はこれらの創世記の第6章で述べられる結合による子供達が、これらのネピリムと呼ばれる巨大な奇形人達であったという事実を説明できようか?

4.  もしこれらの神の子達が信心深いセツの子孫達であり、人の娘達が邪悪なカインの子供達であったとしたら、それは確かに、彼らの異種族間の結婚が、大洪水による裁きを引き起こすような主要な罪であった事を意味するのではない。 それは人間の異種族間の結婚によるただの不適な結合であったはずはない。

これらの事実だけでも一般に受け入れられている説明を完全に弁明できない(M. R. DeHaan, M.D., The Days of Noah, Zondervan, 1963, pp. 140-142) 。

デハーン博士は創世記第6章4節に関して、ダラス神学学校の旧約聖書の教授であった故メリル博士(Merrill F. Unger, Ph.D., Th.D.)もそうであったように、正に同じ観点を受け入れています (参照: Unger’s Commentary on the Old Testament, Moody Press, 1981, volume 1, pp. 36-37) 。 私はアンガー博士やデハーン博士が言った事が正しいと思います。

II. 救い主の系列は、いわゆる“信心深い系列”
と間違えられているのか?

いわゆる“信心深いセツの系列”は、創世記第6章4節に関して、誤解、そして、ルカによる福音書第3章23節から38節で挙げられている救い主の系列と、ノアの時代のいわゆる“信心深い系列”との混乱が基となっています。 創世記第6章4節が、“信心深いセツの系列”を示していないならば、ノアの時代のそのような“信心深い”人々の集団に関しての聖書によるサポートはありません。 ただ残されたのは救い主の系列だけあり、信心深い集団などは存在しないのです。 救い主の系列は一世代につき一人づつから成り立っているのです! それはいわゆる“信心深い系列”の人々から成り立っているのではありません。 救い主の系列は、各世代の一人のみによって築かれたと言えましょう。 それだけが創世記の第5章に挙げられています。 もし私が間違っているとあなたが思うなら、あなた自身に、ノアに関して私が間違っているかどうかを尋ねてみる事です! ノアは救い主の系列の中で救われている唯一の人でした(創世記第5章29-32章;第6章8節;ペテロの第二の手紙第2章5節を参照)。 聖書は明確に、神は“その不信仰な世界に洪水をきたらせ・・・ノアたち八人の者だけを保護された”(ペテロの第二の手紙第2章5節)と私達に告げています。 この節は、大洪水の時にたった八人の人達が救われたと示しており、それ以外の人達は“不信心”だったのです。 その事は、セツの“信心深い系列”などというものはなかった、と言う事を非常に明白にしています。 そのような“系列”はノアの時代には存在しなかったのです! それは注釈者達によって考案された事であって、神の言葉には見当たりません!

もしあなた方がこれらの二つの事を理解すれば、セツの“信心深い系列”はなくなるでしょう。


(1)  創世記第5章で挙げられている救い主の系列は、創世記の第5章で名指されている各世代の一人のみによって成り立った。

(2)  神の子達と人の娘達は、悪魔達と人間の女を表しており、“カインの神なしの系列”、またはセツの“信心深い系列”のどちらでもない。


私はセツの“信心深い系列”などのようなものは無かった、と言う事を支持します。 私はこれは誤った見解であり、スコーフィールドによって広められ、聖書自体には見当たらない事であることを主張します。 私はスコーフイールド・スタディー・バイブルの全てを非難しているのではありません。 ほとんどの記述は正しく、そして聖書に基づいています。 私はスコーフィールドの聖書から毎回説教をしています。 しかし、この特定の解釈は誤っていると思います。

III. なぜこの主題は、非常に不明瞭で混乱させられるのか?

そこには二つの根本的な理由があると私は思います。


(1)  今日、悪魔やサタンは多くの人達によって深刻に取り上げられていない。

(2)  新生を説教する事にかわって、表面的な“決断主義者”の解釈が受け入れられている。


“セツの信心深い系列-カインの不信心な系列”が採用された最初の理由は、悪魔やサタンが多くの人達によって深刻に 取り上げられていないからです。 なんと! 聖書の中に記録されている悪魔の行動に関して何も触れる事無く、人類の歴史上で最も偉大な破局が起こった事を私達は信じるべきしょうか? 私は、そういう事は信じられません。 明らかに、サタンはノアの時代の世の中で行動していました。 霊的なる人は創世記第6章4節にあるこの事が理解できるでしょう。

“そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。 これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。 彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった”
      (創世記第6章4節)。

ダラス神学学校のメリル・アンガー博士(Dr. Merrill F. Unger)は、これは“落ちた御使い達と共に生活した人の罪”を表していると指摘しています (Unger’s Commentary on the Old Testament, p. 36) 。 しかし、スコーフィールド博士は、これは不可能である、なぜなら“御使いは性別の無いように書かれているからである”と言っています(創世記第6章4節の記述)。 スコーフィールドの考慮は、このように書かれているマタイによる福音書第22章30節 が土台とされています。

“復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。 彼らは天にいる御使のようなものである”
      (マタイによる福音書第22章30節)。

しかしこの節は“天にいる神の御使いたち”についてのみを話しています。 それは、落ちた使い達であったかどうかには触れていません! それゆえに、私はスコーフィールド博士は、マタイによる福音書第22章を、彼の創世記第6章4節に関する彼の記述の中で“結婚は御使いの間では知られていない”と言うふうに間違って引用しています。 イエスは天にいる御使い達についてのみを話されていました。

サタンと悪魔達の権力についてさほど重要視していない事によって、多くの注釈者達は私達の時代の非常に危険な悪魔の欺きについて人々を警告しなかったのです。

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”
      (マタイによる福音書第24章37節)。

二番目に、表面的な“決断主義者”の解釈が受け入れられているという事です。 スコーフィールドは、“セツの信心深い系列とカインの不信心な系列の間の分離の分析、そして神への信仰における過失はセツの系列を危うくした”事について話しています(創世記第6章4節に関するスコーフィールドの記述)。 馬鹿げた事です! もしあなた方が、創世記の第6章4節についてのそのような誤った解釈を、よりに戻そうとするならば、 単に、そのような考慮を支持するような聖書の言葉はありません。

更にそもそも、それは救いがいかに成されるかではありません! 教会で育った子供達を互いに結婚させ、そして教会外の子供達から引き離す事によって、宗派やローカルの教会を“保持”していく事は出来ません。 それは正にパリサイ人が教えた事であって、聖書に忠実ではありません。 聖書は不信者との結婚を妨げる事によって“信心深い系列”を作り上げていく、とは教えていません! そうではないのです! 各自、そして“教会で育った子供”は生まれかわらなければなりません(ヨハネによる福音書第3章3, 7節)。 再生なしの分離は、パリサイ主義を造り上げていくだけです!

ノアの時代においての“分離する事”についてのスコーフィールドの教えは、私達の教会を、救われていない“教会の子供達”で満たすようにさせた一つの教えである、と私は非常に恐れています。 これらの子供達は“イエスを彼らの心に招く”事をし、そして“招きの時”に手を上げました―しかし、彼らは未だカインの子供達です! 彼らは表面的に彼らの手を上げ、またはオウムのように機械的な祈りの言葉によって、いわゆる“信心深いセツの系列”などには加わっていないのです。 彼らは、バプテストの家庭で生まれ、あるいはバプテストの学校へ通って“信心深いセツの系列”などには加わっていないのです!  彼らは未だ“カインの不信心な系列”の中にいるのです―そして、未だに彼らは神の裁きの下に来るでしょう。 “だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない”(ヨハネによる福音書第3章3節)。

これは、多くの教会では説教されない事はよくわかります―なぜなら、それらの多くの教会は、執事や日曜学校の教師、そして説教者を含む“カインの不信心な系列”によって左右されているからです! 新生は、ホウィトフィールドやウェスリーの時代のイギリスの教会のように、多くの我々の教会にとって無縁のような教えだからです! ホウィトフィールドやウェスリーの両者は教会から締め出されました、なぜなら牧師達は、“新生”についての彼らの説教が教会を分裂させる事を恐れていたからです。 これは多くの“保守的な”教会でも今日真実となっています。 彼らは“新生に関して熱烈な説教はあってはならない”と言っています! ですから、私達の時代の多くの福音伝道主義者は、失われているのです―黄泉に下るのです!

あなたがたは生まれかわらなければならない、
あなたがたは生まれかわらなければならない、
はっきりとあなたがたに言うが、
あなたがたは生まれかわらなければならない、
   (“Ye Must Be Born Again” by William T. Sleeper, 1819-1904).

ノアの時代の人達は、宗教的でしたが失われていました。 創世記の第4章26節を、どうぞ見てください。

“セツにもまた男の子が生まれた。 彼はその名をエノスと名づけた。 この時、人々は主の名を呼び始めた”
      (創世記第4章26節)。

これらの人達は祈りました。 彼らは主の名を呼んでいました。 しかし、ほとんどの人は救われていませんでした。 いわゆる“信心深いセツの系列”は、大洪水で溺れてしまったのです! 彼らは主の名を呼んでいましたが、彼ら―非常に多くの彼らは、黄泉に下ったのです! 事実、世界中に於いて、たった八人だけが救われたのです! 神は

“また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、・・・ノアたち八人の者だけを保護された”
      (ペテロの第二の手紙第2章5節)。

そして、それは―私達の時代に於いて―再び起きているのです。

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”
      (マタイによる福音書第24章37節)。

“そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし、彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。 その日その時が、あなたがたにはわからないからである”(マタイによる福音書第25章11-13節)

私はあなた方に、まだ時間がある内にキリストに来てもらいたいのです。 預言者イザヤがそのことを記したように、

“あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ”
      (イザヤ書第55章6節)。

あなた方が、心から―そして全精神を込めて、そうするように! アーメン。

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: 創世記第6章1-7節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Ye Must Be Born Again” (by William T. Sleeper, 1819-1904).

要 綱

ノアの時代―その4
(創世記からの説教、その十五)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

“人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう”(マタイによる福音書第24章37節).

(創世記第4章25-26節)

I.   “信心深い系列”と“不信心な系列”の二つの集団がいたか?
創世記第6章1-7節。

II.  救い主の系列は、いわゆる“信心深い系列”と間違えられて いるのか?
創世記第6章4節;ルカによる福音書第3章23-38節;
創世記第5章29-32節;創世記第6章8節;
ペテロの第二の手紙第2章5節。

III. なぜこの主題は、非常に不明瞭で混乱させられるのか?
創世記第6章4節;マタイによる福音書第22章30節;
ヨハネによる福音書第3章3,7節;創世記第4章26節;
ペテロの第二の手紙第2章5節;マタイによる福音書
第25章11-13節;イザヤ書第55章6節。