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天地創造の第一日目
(創世記からの説教、その二)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE FIRST DAY OF CREATION
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年7月8日、主の日の晩の礼拝での説教
A sermon preached on Lord’s Day Evening, July 8, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。 すると光があった”(創世記第1章1-3節)。

ヘンリー・モリス博士 ( Dr. Henry M. Morris)は、クリエイション・リサーチ研究所(Institute for Creation Research)の創立者でした。 彼はミネソタ大学で科学の博士号を受け、13年間のバージニア州立大学での土木学科の主任教授を含め、28年間もの間一流の大学で教授を務めました。

創世記の記録The Genesis Record )は、創世記全体について創造説を信じる科学者によって書かれた唯一の解説書です。 モリス博士は最初の11章は他の章と同様、偽りのない歴史的な事実であるという確信を持ってこの解説書を書きました。 この確信は信仰だけに基づいたものではなく、創世記の記録について、何年にも及ぶ科学的な研究に基づいたものでした。 

この本創世記の記録の中で、モリス博士は、初期のこの地上の歴史について歴史的な出来事を通して、創世記だけでなく聖書全体を理解する上において非常に必要な背景を与えながら、読者を導いています(The Genesis Record, Baker Book House ,1986 reprint の表紙の言葉を引用)。 当時、ダラス神学学校の組織神学の教授であった チャールズ・ライリー博士(Dr. Charles C. Ryrie)は、モリス博士によって書かれた創世記の記録を“正に最高の解説書の一つである”(表紙の言葉)と賞賛しました。

“神は「光あれ」と言われた。 すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。 神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。 夕となり、また朝となった。 第一日である” (創世記第1章3-5節)。

   

モリス博士はこのように述べています、

第3節は、聖書で神が語られた最初の記録である。 “神は「光あれ」と言われた。 すると光があった。” 神の言葉が光をもたらしたのである! 光が現われた時、“神はその光とやみとを分けられた。” 地上に関する限り、やみは完全に取り除かれたのではなく、むしろ光と分けられただけである。 そして、“神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。” 後に起こる誤解を予期された如く、神は慎重に言い方を定められたのである! 神は“昼”と言う言葉を最初に使われた(へブル語でyom)。 神は“夜”と名づけられた“やみ”と区別する為に、それを“光”と定められたのである(Henry M. Morris, Ph.D., The Genesis Record, Baker Book House, 1986 edition, p. 55)。

私達は天地創造に関しての創世記の記述が文字道理真実である事にモリス博士と同意します。 私達は、神がこの世を創造されたことを信じます、なぜなら主イエス・キリストがそのように言われたからです。 彼は“神が万物を造られた創造の初め”(マルコによる福音書第13章19節)と語られました。 彼は“しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。・・』”(マルコによる福音書第10章6節)とも言われました。 私達が主イエス・キリストを信頼して以来、正に私達が創世記の初めの章で読むように、彼がこの世は神によって造られたと言われた事を受け入れます。 キリスト御自身がこの疑問に関し解決して下さいます。 

しかし、最初の日の光の創造は一つの特別な意味を持っています。 スコーフフィールドスタディバイブル (The Scofield Study Bible ) は、“より偉大なる光”はキリストがその光である・・・キリストの典型である、と適切に書いています。 新約聖書はこのように書いています、

“この言に命があった。 そしてこの命は人の光であった”
      (ヨハネによる福音書第1章4節)。

 

キリスト御自身がこう言われました。

“わたしは世の光である。 わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう”
      (ヨハネによる福音書第8章12節)。

この説教では、私は神が第一日目に光を創造された事について単刀直入には話しませんが、そうではなく、はじめの光の創造は、人が改心する時の二度目の創造に於いて、キリストの光がどのようにその人に達するかの描写、または象徴(タイプ)を、私は説明します。 私がこれから話す大部分は、スポルジョン(C. H. Spurgeon)の説教“光、自然なる、そして神聖なる”(The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1979 reprint , volume XI, pp. 636-648)を解り易くしたものです。 私達は、天地創造の第一日目と人の改心との間の、幾つかの対応した点に注意を払います。

I. 最初に、混沌の状態。

創世記第1章2節を見てください。

“地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり”
      (創世記第1章2節甲)。

カイルとデリッシュによる解説書 (The Keil and Delitzsch commentary) は、“形なく、むなしく”(tohu vabohu)という言葉は、“荒涼さと空虚さを予示し・・・到来する大地は、最初は荒れた、不毛な、形のない、生命の無いかたまりであった・・・地上そして天空にある混沌のかたまりは、まだ区別の無い、形もなく、そしてまだ生まれてないような、隆起の深い、巨大な水域であり、そして、これは闇に包まれていた”(C. F. Keil, Ph.D., Commentary on the Old Testament, Eerdmans, 1973 reprint, volume I, p. 48)。

アーサー・ピンク(Arthur W. Pink)は、“初期の大地の歴史は、キリスト信者の歴史と対応している。 初期の世に関連して起こった事は、改心した人に、その一致を見い出す”(Arthur W. Pink, Gleanings in Genesis, Moody Press, 1981 reprint, p. 14)。 

何ともこれは改心していない人を描いたものでしょうか! “形なく、むなしく”- “荒涼さと空虚さ、不毛な、形のない、生命の無いかたまり・・・巨大な水域・・・闇に包まれていた”(C. F. Keil, 同著)。

“しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物を出す”(イザヤ書第57章20節)。

人の堕落した状態は、闇に包まれた空虚で不毛な、生命の無いかたまりであった初期の地球のようです。

“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)。

生まれ持った状態にある人は、初期の古い世界のようなものです。

“地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり”
      (創世記第1章2節甲)。

II 次に、神の霊が動いた。

“神の霊が水のおもてをおおっていた”
      (創世記第1章2節乙)。

これは改心の始まりの時点を描写しています。 カイル博士が“形なく、むなしく”と言ったように、“形のない、生命のないかたまり”であった創造の時のようにそれ自体に命をもたらす事は出来ませんでした。 “闇に包まれていた”この世は、それ自体によって光に達する事は出来ませんでした。 初期の状態の地はそれ自体姿を変える事は出来ませんでした。 もし道理が混沌の状態からもたらされたのであれば、神御自身がなされたのに違いありません! もし光が闇の世界に来たのであれば、神が創造されたのに違いありません!

   その類似は改心における真実をとらえています。 失われた者は決して神を求めません。 聖書はこう言っています、

“神を求める人はいない”(ローマ人への手紙第3章11節)。

改心していない人は迷った羊のようです。 迷った羊は羊飼いを探しません。 探すのは羊飼いです。 キリストが探されるのです。

“いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか”
      (ルカによる福音書第15章4節)。

改心は、失われた魂を求め、そしてそれをキリストへと引き寄せられる神御自身から始まります。 彼はこう言われました、

“わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、誰もわたしに来ることはできない”(ヨハネによる福音書第6章44節)。

聖霊の活動は混沌なる、闇に包まれた、生まれ変わっていない罪人が救いへともたらされる時に、最初に起こる事です。 堕落した人は初期の地上のように無力なのです。 失われた罪人は、混沌の世界がそれ自体を形づけると言う以上に、彼自身を改心させる事は出来ないのです。 

“神の霊が水のおもてをおおっていた”(創世記第1章2節乙)。

今晩、神があなた方の生活の中で動いておられるのではないでしょうか。 神の霊があなたを罪から救い主へと引き寄せられているのではないでしょうか。 あなたは自分自身では決してキリストを見つける事は出来ないでしょう。 あなたを清めて救いの為に救い主へと引き寄せる事は、全ては神の恵みによるのです。 

III 最後に、神の言葉が語られた。

創世記第1章3節を開き、立って、声高に読んでください。

“神は「光あれ」と言われた。 すると光があった”
      (創世記第1章3節)。

着席してください。

最初に、聖霊の動きがあり、その後に実際の神の言葉が現れました。 神が言われた正に最初の事は、“神は「光あれ」といわれた。 すると光があった”でした。 

改心に関しても同じです。 聖霊は決して神の言葉による奉仕なしには働きません。 アーサー・ピンク(Arthur W. Pink)は“聖霊によって適用された神の言葉を通して、罪人は光に来るのである”と言っています(Pink, 同著、p. 17)。

“み言葉が開けると光を放って”(詩篇第119章130節)。

神の言葉が初期の世に光を創造されたように、神の言葉が闇なる魂へ光を送られたのです。 

“あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである” (ペテロの第一の手紙第1章23節)。

もし聖霊があなたを引き寄せておられるならば、あなたの心は神の言葉の説教を聞くよう開かれ、そしてこのように言われキリスト・イエスを受け入れるでしょう。

“わたしは世の光である”(ヨハネによる福音書第8章12節、第9章5節)。

偉大なスポルジョンは、創造による光と改心への光は、両方ともがこのように働くと言っています、

暗闇それ自体により助けられる事はなく・・・あなた自身の堕落した状態を見よ。 大いなる救いの働きに促進できるような何かがあるであろうか? もしあなたがそう思うのであれば、あなたは自分自身をよく知っていない。 罪人を救う力は人からの力ではない。 人の力は無くならなければならない。 なぜならその唯一の目的は、神の力に出来る限り反対の主張をする事である・・・クリスチャンは教育される事によって作り上げられると思ってはならない。 あなたは満足するまで死体を洗ってもよいであろう・・・しかし、あなたはそれに命を洗い入れる事は出来ない・・・あなたはそれを生かせる事は出来ない、命の生気が天から下りて来なければならない。 改心は人の意志の力によるものではなく・・・神の霊による権力と活力によるものであり、ただ神の霊だけである(Spurgeon, 同著p. 640)。

“神は「光あれ」と言われた。すると光があった”(創世記第1章1-3節)。

また、スポルジョンはこのように言っています、

深い暗闇からの声は無かった、“神よ、我らを照らして下さい”、願望と思いつきは[神]によって始まり、暗闇によるものではない。 神は「光あれ」と言われた。 そしてそこには光があった。 心中の初めの恩寵の働きは、人の願望によって始まるものではなく、神によってその願望は植えつけられるのである・・・本性の堕落そして哀れみの無い状態を悟りなさい。 むなしく、そして暗く、耐えることなく、混沌は暗黒と闇で覆われるように屈していた。 そしてまだ神を捜し求めていない時、光が現れ、そして約束は成就された。 [聖書が言っているように]“わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ”(同著p. 641)。

   あなたは、古代の世が混沌と暗闇から自らを引き出せなかったのと同様に、自分自身をクリスチャンにする力はありません。 あなたは、古い世が光を見つけられないのと同様、光を自分自身にもってくる力はありません。 初期の地上に光が来たのは、神の恵みの力だけによるのです。     

“神は「光あれ」と言われた。すると光があった”(創世記第1章3節)。

それはあなたの魂の救いと同じです。

“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである。”(エペソ人への手紙第2章8-9節)。

救いは“あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。” 光が、混沌な暗闇の大地への賜物であったのと同じように。 ですから、イエスの光は、“形なく、むなしく”、暗闇の中で魂が失われている罪人への恵みの賜物です。 初期の大地の救いは、キリストにある神の賜物によったのです。 そして、もしあなたがかって暗闇から生きるキリストに導かれたのであれば、それはまったく神の恵みだけによるのです。

驚くべき神の恵み! 何とここちよい音、
    我のような惨めなものを救い給うた!
我はかって失われし、今は見つかれし、
    我は盲目なれど、今我は知る。
(“Amazing Grace” by John Newton, 1725-1807).

   “ああ”、私は多くの人が、“自分は失われた、そしてそれを知った。 私は神を拒絶していた、そして私は自分が神を拒絶していたのを知った。 しかし、どういうわけか、私はそれを説明することはできないが、私の心は自分の罪で砕かれた。 そして、私は完全には理解できないが、神を拒絶する私の思いは砕かれた。 私はイエスに来ました、そして、イエスは私の罪を洗い流し、神の御前に私を清くされた!” それは、キリストにある神の恵みによる救いです!

   もし、そのようなすばらしい恵みがあなたに来るのであれば、いつものように、また、天地創造の第一日目に起こったように、それは瞬時に来ます。

“神は「光あれ」と言われた。すると光があった”(創世記第1章3節)。

そのすばらしい不相応の神の恵みがあなたにすぐに来ますように。 そして、混沌とした生活や永久の滅びから、あなたが救われますように。 神の恵みが主イエス・キリストの光へあなたを導いてくださいますように、そして、あなたは、“死人の中から生き返る”(ローマ人への手紙第11章15節)ことを知っているイエスを知るようになるでしょう。

光に来なさい、それはあなたのために輝く;
その光は心地よく私に降り注ぐ;
かって私は盲目なれど、今は見ることができる;
世の光はイエスなり。
(”The Light of the World is Jesus” by Philip P. Bliss, 1838-1876).

来なさい、光に来なさい! イエスに来なさい! 彼に来て、瞬時に救われなさい! 彼に今晩来なさい!

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: 創世記第1章1-3節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“The Light of the World is Jesus” (by Philip B. Bliss, 1838-1876).

要 綱

天地創造の第一日目
(創世記からの説教、その二)

THE FIRST DAY OF CREATION

“はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。 すると光があった”(創世記第1章1-3節)。

(創世記第1章3-5節;マルコによる福音書第13章19節;
第10章6節;ヨハネによる福音書第1章4節;第8章12節)

I.   最初に、混沌の状態。 創世記第1章2節甲;イザヤ書第57章20節;
エペソ人への手紙第4章18節。

II.  次に、神の霊が動いた。 創世記第1章2節乙;ローマ人への手紙
第3章10;ルカによる福音書第15章4節;ヨハネによる福音書
第6章44節。

III. 最後に、神の言葉が語られた。 創世記第1章3節;詩篇第119章130節;
ペテロの第一の手紙第1章23節;ヨハネによる福音書第8章12節;
第9章5節;エペソ人への手紙第2章8-9節;ローマ人への手紙
第11章15節。