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キリストの栄光の源
(イザヤ書第53章からの説教、その十四)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE SOURCE OF CHRIST’S GLORY
(SERMON NUMBER 14 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年4月1日、主の日の晩の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, April 1, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした” (イザヤ書第53章12節)。


ジョン・トラップ(John Trapp)は、1601年から1669年まで生きました。 彼は、“もっとも勤勉なすばらしい説教者で、彼の名声は、聖書全体に渡る注解書Commentaryにあり、清教徒全盛時の清教徒聖書の研究の例を私達に与えてくれます;それは古風で趣きのあるユーモアーと造詣深い学識が特徴である”と言われています(Elgin S. Moyer, Ph.D., Who Was Who in Church History, Keats Publishing, 1974, p. 410)。 スポルジョン(Spurgeon)は、トラップの注解書を高く推薦しました。

イザヤ書の53章に関して、トラップはこのように述べています、

ここでは、すべての言葉に重みがあり、使徒たちや福音伝道者たちは、われわれの救いの不思議さを説明するにあたり、イザヤ書のこの章全体に大いなる敬意をはらっていることは確かな事で・・・そして、この預言者は、これらを書いている時、大変に偉大な霊でもって耐える必要があった、なぜなら、この中で、彼は大変明白に、屈辱と賞賛の二つの側にある、主イエス・キリストを打ち出しており、また、他の旧約聖書の作者が新約聖書から啓蒙されたにもかかわらず、この章は新約聖書の数箇所で啓蒙を与えているのである(John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, Transki Publications, 1997, vol. III, p. 410)。

実際に、今夜の私達のテキストは“啓蒙を与え”、新約聖書で私達が読むその理解を深めます。

ジャック・ワーレン博士(Dr. Jack Warren)は、私達のテキストについて“この[イザヤ書53章]最後の節は、興味のある文案でその章を締めくくっている。 すなわち、それは、救い主が自らの魂を注ぎ出し、罪人とともに数えられたことを称えている”(Jack Warren, D.D., Redemption in Isaiah 53, Baptist Evangel Publications, 2004, p. 31).

“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした”
      (イザヤ書第53章12節)。

今この瞬間、キリストは父なる神が彼に授けられた報いを楽しまれています―“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。” 今彼は、神や天使、あるいは栄光の中で償われた人達に、あなどられ捨てられてはいません! 天国にいるすべての人達は彼を崇敬しています! すべての栄光は、神の右座にある御座にいるキリストの周りに誇示されています。

キリストは、この賞賛と栄光を受けるのに何をされたのでしょうか? なぜ彼は、“大いなる者と共に・・・強い者と共に獲物を分かち取る”のでしょうか? その答えは、彼が四つのことをしたことにあります。

Ⅰ. 最初に、彼は死にいたるまで、自分の魂をそそぎだした。

“彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし・・・”
      (イザヤ書第53章12節)。

キリストはそれを故意にしました。 彼はそれを思考と配慮をもって行いました。 一時的な感情的衝動から行ったのではありません。 故意に、彼は自らの魂を、少しずつ、ついにそれがなくなるまですべてそそぎ出され、

“「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた”
      (ヨハネによる福音書第19章30節)。

キリストは自らの意志でこれを行ったことを覚えていてください。 彼は言いました、

“わたしが自分の命を捨てるから・・・だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。 わたしが、自分からそれを捨てるのである。 わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある” (ヨハネによる福音書第10章17-18節)。

これは大変に重要な点です。 イエスは偶然には死ななかったことを理解しなければなりません。 彼は故意に死にました;私達の罪の罰を贖うために、彼は故意に御自分の人生を捧げられました。 彼は十字架の上で“死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし”たのです。 それは、彼がそうする必要があったからではなく、あなた方のために、そして、私のために―すなわち、自らの信頼をキリストにおく、すべての人達の救いのためにそうされたのです。

彼を信頼しなさい、ためらってはいけません。 彼を完全に信頼するために、彼があなた方のために御自分の魂をそそぎだしたように、あなたの魂をそそぎだしなさい。 来て、キリストに平安をもちなさい、そうして、あなた方は、なぜキリストが賞賛と栄光をもって賛美されるのかを知るでしょう。 彼は名誉な地位を与えられました、なぜなら、

“あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた”
      (ペテロの第一の手紙第3章18節)。

彼の十字架での死は、彼に非常な屈辱を与えましたが、今では彼に、“大いなる者と共に物を分かち”取らせ、彼は“強い者と共に獲物”を分かち取るのです。 しかるに、神は彼に“嗣業(しぎょう)として”(詩篇第2章8節)与えるのです。 神は、“わたしは彼に、征服を与え、獲得した物を与え、そして、罪悪の霊を支配させる・・・そして、これは彼にとって、屈辱の中で死んだことに対する報いとなるであろう”(トラップ、同書)。

“そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである”
      (コロサイ人への手紙第2章15節)。

死の権力は猛威をふるう、
   しかし、キリストは彼らの軍団を追い散らした:
高らかに清い雄たけびを上げよう! ハレルヤ!
   ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!
(“The Strife is O’er” translated by Francis Pott, 1832-1909).

彼は賞賛と栄光を与えられました、なぜなら彼は罪人を救うために御自分の魂を死にいたるまでそそがれたからです。 来て、彼を信頼しなさい! 来て、彼を完全に信頼しなさい! 今来て、彼を信頼しなさい!

Ⅱ. 次に、彼はとがある者と共に数えられた。

“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである・・・”
      (イザヤ書第53章12節)。

キリストは、罪人の中に御自分の居場所をもたれました。 この地上での奉仕を通して、彼は罪深い人々と共に交わりをもちました。 それは、パリサイ人のキリストに対する主な不平の一つでした。 あざけりながら、彼らはキリストをこう呼びました、

“取税人、罪人の仲間”(ルカによる福音書第7章34節)。

そして、十字架で彼が死に臨むとき、彼は二人の犯罪者と一緒に磔(はりつけ)になったのです。

“とがある者と共に数えられた”(イザヤ書第53章12節)。

それは、彼は彼らと共に“数えられた”(Strong)ということです。 “彼がとがある者だったからではなく、強盗と共に磔にされるとき、そのように扱われたからである”(Jamieson, Fausset and Brown, volume 2, p. 733)。 マルコの福音書ではこのように述べられています、

“また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。 こうして、「彼は罪人たちのひとりに数えられて」と書いてある言葉が成就したのである”(マルコによる福音書第15章27-28節)。

ヤング博士(Dr. Young)は、“これら二人は、単なる罪人ではなく、実際の犯罪者であった”(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah, 1972, volume 3, p. 359)。

ルカの福音書では、その二人の強盗のうち一人はイエスを信じ、救われたと語っています(ルカによる福音書第23章39-43節)。 ジョン・ライス博士(Dr. John R. Rice)は、“一人の強盗は救われた、それは最も恥ずべき罪人が望みを失うことがない・・・”(John R. Rice, D.D., The King of the Jews, Sword of the Lord, 1980 reprint, p. 475)。 マックギー博士(Dr. McGee)は、このように述べています、

これら二人の強盗の間にある違いは何であったか? 何もない―両方とも強盗であった。 違いは、一人の強盗はイエス・キリストを信じ、も一人はそうしなかったいう事実にある(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson, 1983, volume IV, p. 354)。

彼は“とがある者と共に数えられた”。  これは、イエスは自らの意志で最も悪質な罪人でさえ、その代わりとして御自身をおかれた、ことを意味します。 罪人は救われることができます、なぜなら、キリストは彼らと共に数えられたからです。 しかし、救われるためには、あなた方は彼を信じなければなりません。

キリストは今崇められています、なぜなら、彼は罪人に代わり彼らの場に身を落とし立たれ、彼らの罪を御自分に負い、彼らが救われることを可能にされたからです。 よって、彼は“とがある者と共に数えられた”ので、崇められているのです。

Ⅲ. 三番目に、彼は多くの人の罪を負った。

立って声を上げて、“多くの人の罪”のところまで読んでください。

“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い・・・”(イザヤ書第53章12節)。

着席してください。

“彼は多くの人の罪を負い”。 使徒のペテロが言ったように、

“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた”
      (ペテロの第一の手紙第2章24節)。

これが身代わりによる救いなのです。 キリストは、“ご自分の身に負われた”罪人の罪を十字架にもっていきました。 彼は、あなた方の罪をご自分の身に負うことによって、そして、あなた方に代わり死ぬことによって、あなた方の罪の罰を償います。 イエスの身代わりの死を通した償いなくしては、福音はありません。 彼の罪人に対する身代わりの死は、福音のこころであり本質なのです。 スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、

さて、これら三つの事柄―すなわち、彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、罪人の罰を負ったこと;彼がとがある者と共に数えられ、そのように、罪人を両側にして立ったこと;そして次に、彼は実際に彼らの罪を負い・・・それは彼を汚さなかったが、彼らを汚す罪を取り除くことを彼に可能にしたこと―これら三つの事柄は、われわれの主イエスの栄光のよりどころとするものである。 これら三つの事柄と、もう一つのことのために、神は、彼に大いなる者と共に物を分かち取らせ、強い者と共に獲物を分かち取るせる(C. H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1975 reprint, volume XXXV, p. 93)。

Ⅳ. 最後に、彼はとがある者のためにとりなしをした。

テキストは、次の言葉で終っています、

“とがある者のためにとりなしをした”(イザヤ書第53章12節)。

十字架で、キリストは罪人のために祈りました、彼が次のように叫ばれた時、“とがある者のためにとりなし”をしたのです、

“「父よ、彼らをゆるしてください。 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」”(ルカによる福音書第23章34節)。

そして、十字架に磔られている時、彼は罪人のために祈りました。

よって、今でさえ天国で、イエスは罪人のために祈られています、

“彼は、いつも生きていて[私達]のためにとりなしておられる”
      (ヘブル人への手紙第7章25節)。

彼は十字架で死なれた時、罪人のためにとりなしをなさいました。 今日、彼は、天国で父なる神の右座に座られて、罪人のために祈り続けられています。

イエスが行われたそれら四つの事柄が、父の右座で、今彼が栄光の中で賞賛されている理由であることに注目してください。 そして、キリストの今日の栄光をなす四つのすべての理由は、彼が罪人を救われることに直接しているのです!

“おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって・・・あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである”
      (ピリピ人への手紙第2章8‐11節)。

しかし、イエスのすべての救いの力をもっても、救われることを必要とするとは思わない人々を、彼は救わないことにも注目してください。 スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、

もし、あなた方に罪がないならば、彼はあなた方を罪から清めることはできない。 彼はできますか・・・? あなた方はすごく潔癖で尊敬される人々で、人生に於いていかなる間違ったことをしたことがない;イエスはあなた方にとって何であろうか? もちろん、あなた方は自分の道を行き、自分自身の世話をするであろう・・・ああ!何と愚かなことか・・・もし、あなた方がそう見るのであれば、あなた方のこころは、今まで一度も掃除をしたことのない真っ黒な煙突のように汚いものである。 あなた方のこころは、汚れた井戸のようである。 ああ、あなた方がこれに気づき、あなた方の誤った正義感を捨てさることができればよいが! [しかし]もしあなた方がそうしなければ、イエスはあなた方にとって、何者でもない。 彼はご自分の栄光を罪人から得られたのです、けしてあなた方のよな自尊心の強い人々からではない。 しかし、あなた方が罪あるものとみなし、自分の罪を懺悔するならば、あなた方は、喜びを持って、イエスが、罪人に対してなされたそれら四つのことを思い出すであろう。 そして、彼が罪人に対してそれらを行ったがために、彼は今日栄光と名誉と威厳をもって賞賛される・・・[それゆえ]私はこころを込めてあなた方に懇願する、人としてこの世に来られ、血を流され、そして罪深い人達のために死なれた、神の御子イエスを信頼しなさい! もし、あなた方が彼を信頼すれば、彼はあなたを欺かないであろう、むしろ、あなた方は救われるのである。 そして、一度救われ、永久に救われるのである(Spurgeon、同書p. 95)。

アーメン!

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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レイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ピリピ人への手紙第2章5-11節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Yes, I Know!” (by Anna W. Waterman, 1920).


要 綱

キリストの栄光の源
(イザヤ書第53章からの説教、その十四)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした”(イザヤ書第53章12節)。

I.   最初に、彼は死にいたるまで、自分の魂をそそぎだした。 
イザヤ書第53章  12甲節; ヨハネによる福音書第19章30節;
10章17-18節;ペテロの  第一の手紙第3章18節;詩篇第2章8節;
コロサイ人への手紙第2章  15節。

II.  次に、彼はとがある者と共に数えられた。 イザヤ書第53章12乙節;  
ルカによる福音書第7章34節;マルコによる福音書第15章27-28節;  
ルカによる福音書第23章39-43節。

III. 三番目に、彼は多くの人の罪を負った。 イザヤ書第53章12丙節;
 ペテロの第一の手紙第2章24節。

IV. 最後に、彼はとがある者のためにとりなしをした。 イザヤ書第53章12丁節;  
ルカによる福音書第23章34節;へブル人への手紙第7章25節;  
ピリピ人への手紙 第2章8-11節。