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キリストにより得られた-贖罪と義認
(イザヤ書第53章からの説教、その十三)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

SATISFACTION AND JUSTIFICATION-
OBTAINED BY CHRIST
(SERMON NUMBER 13 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年4月1日、主の日の朝の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, April 1, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。


このテキストは、多くの意義で満ちており、その全ての言葉は私達の注目に値します。 ですから、私はこのテキストから遠ざかる事なく、多くの例証も挙げる事はしません。 一つの説教の中でこのテキストのすばらしい真実さに専念する事は、それで十分です;その主な要点をあなた方に知らせ、この言葉を簡単に、そして分かりやすくして(多くの人達の中の)今朝初めて私達の教会に訪れた人が、これらの言葉について深くはありながらも、そのわかりやすい意味をよく理解してこの集会から出て行かれますように。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。

このテキストの真理を受け入れることが出来るよう、神があなた方の心を開いてくださいますように。 このテキストを説教する時、私達があなた方に、“あなたの耳を傾け、私に来なさい。 聞きなさい、そうすればあなたの魂は生きるであろう”と言えますように-そうです、キリストと共に彼の王国で永遠に生きるのです!

三つの事柄に関して、このテキストが語っている事をあなた方は知るべきです。 最初に、神がおられる。 次に、義なる僕キリストがおられる。 最後に、信じる罪人の為に完全なる償いをもたらす、罪を負われるキリストがおられます。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。

Ⅰ 最初に、キリストの苦しみは神の正義を満たす。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する・・・”
      (イザヤ書第53章11節)。

ジュウゲン・モルトマン博士(Dr. Jürgen Moltmann)は、第二次世界大戦の後3年間、戦犯として捕らえられたドイツ人です。 イギリスの刑務所での監禁の間、彼は聖書を学び始めました。 その監禁生活と聖書を読んだ事の体験をもとに、彼は歴史と三位一体なる神:三位一体説の神学への貢献History and the Triune God: Contributions to Trinitarian Theology(Crossroad,1992)を書きました。 現在、モルトマン博士は自由主義の神学者です。 ですから私は疑いもなく彼の書いたほとんどの事は認めません。 しかし、彼にはいくらかの洞察力があります。 たとえば、モルトマン博士は、十字架を神が“邪悪な”人類との彼の結束を表現された行いとして理解しています。 神は十字架の上で罪人への彼の愛を明白にされ、御子なる神は父からの分離をこうむり、神に“内面から外見まで”苦痛そして苦しみを経験させました。 モルトマンは全てを正しく理解したわけではありませんが、彼は十字架で三位一体の人間としての苦しみを明らかにしています。 そして、それが、私は重要な点だと思います。 私の見解では、その事―すなわち、十字架につけられた時の三位一体の人間としての苦しみ―は考察する価値のある事です。 

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する・・・”
      (イザヤ書第53章11節)。

スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、  

これらの言葉の中に、私達は、父なる神が彼の御子について語られ、そして彼が魂の苦しみを耐えられたので、父は御子に満足なる報酬を確かにすることが言明されたことを知る。 救いに関し、聖なる三位一体の互いに異なる人としての共同の働きを観る事は、なんとも喜ばしい事であろうか! (C. H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1980 reprint, volume LXI, p.301)。

“彼”と言うのは、私は父なる神と捉えます。 “自分の魂の苦しみにより光を見て”とは、御子の魂の苦しみであり;スポルジョン(Spurgeon)は、それを“これらの言葉の中に、私達は、父なる神が彼の御子について語られ”と表しています。

“自分の魂の苦しみ”とは、キリストの霊的な、心の苦しみを表しています。  私達はキリストの肉体による苦しみを軽視してはなりません。 私達は決してキリストがピラトによって半死に至るまで鞭打たれた事を軽く見なしてはまりません。 私達は決してキリストがつばを吐きかけられ、とげの冠をかぶさせられた事を軽く見なしてはなりません。 そして、私達は確かに彼が私達に代わって十字架につけられた時に、体験された彼の手足の釘づけされた事、そしてその苦痛とのどの渇きなども軽く口に出してはなりません。 “かつ”、スポルジョン(Spurgeon)は、“彼の魂の苦しみは主要なる事であり、そしてそれについてこのテキストは話している・・・イエス・キリストは[非常]に苦しまれたので、彼の苦しみを想像することに、またそれらをいかなる言い方でもって、あなた方に伝えることに、私は落胆した”言っています(Spurgeon, 同著、pp. 302-303)。 “キリストの魂の苦しみは、彼の苦しみの典型であった”と言われています(同著、p. 302)。 彼の苦しみの中心と言う事です。

“苦しみ”と言う言葉は、人間の罪の重荷を負われた時、そして父なる神による裁きが彼に下った時、“彼の魂”に体験された悲嘆、苦悩、苦痛を表しています。 これは、彼が捕らわれる前、彼がむち打たれる前、そして彼が十字架につけられる前に、すでにゲツセマネの園で彼は明らかにこれを体験されました。 そして、それは十字架の上で彼が続けて体験された、魂の悲嘆と苦痛をも含んでいます。

彼の魂の苦しみは、彼の民の救いをもたらす為に、彼が耐えられた苦役と苦しみである;彼の従順と死、彼の悲しみと苦しみ;特に神の怒りの意向の下での彼の魂の陣痛、その引喩は、女性の苦痛[子供を生み出すときの苦痛]と比べられる;そして、彼が貫かれた全ての苦しみそして死に至る苦痛である(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume 5, p. 315)。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する・・・”
      (イザヤ書第53章11節)。

“満足する”は、神の怒りの贖罪について語っています。 父なる神は、“満足”されます、あるいは、なだめられる、と言いましょうか。

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた”
      (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

“彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である”
      (ヨハネの第一の手紙第2章2節)。

“神はこのキリストを立てて、・・・供え物とされた”
      (ローマ人への手紙第3章25節)。

ジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)は、キリストの血については間違った見解をもっていますが、以下のことは正しく述べています、

[供え物]という言葉は、“沈静”もしくは“満足すること”を意味する。 十字架でのイエスの犠牲は、神の罪に対する神聖の要求を満足させた・・・であるからにして、イエスは神を沈静もしくは満足させたのである(John MacArthur, D.D., The MacArthur Study Bible, Word Publishing, 1997, note on I John 2:2)。

よって、私達は供え物を見、神の罪のない御子が体験された、罪に対する神の怒りが、満足させられるのです。 キリストの苦悩は、神の正義を“満たし”、神の罪に対する怒りをなだめ、沈静させます。

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。 それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである” (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する・・・”
      (イザヤ書第53章11節)。

キリストの苦悩は神の正義を満足させた。

Ⅱ 次に、キリストの知識は、多くの人達を義とする。

立ってそのテキストを“多くの人を義とし”と言う言葉まで声を出して読んで下さい。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし・・・”
      (イザヤ書第53章11節)。

着席してください。

預言書イザヤは、イザヤ書第53章13節でキリストを神の“僕”と表しています。 そして、この私達のテキストで、キリストは神の“義なるわがしもべ”と呼ばれています。 キリストは義なる方です。 なぜなら、彼は“罪を知らないかた”(コリント人への第二の手紙5章21節)であられたからです。 彼は罪のない神なる御子、父なる神の“義なるわがしもべ”なのです。

キリストは“多くの人を義とし”(第11節)。 ここに福音の中心があります。 私達は神の律法に従うことで自分達を義とはしません。 なぜなら、

“律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである”(ローマ人への手紙第3章20節)。

私達は自分たちを義とすることは出来ません、なぜなら、私達は生まれつき罪人であるからです。 私達はキリストの義の身代わりによってのみ義とされるのです。 “負わす事”は法的な言葉です。 私達はキリストの義の身代わりによって法的に義とされるのです。 彼らに対する彼の義の身代わりによって、神の“義なるわがしもべは・・・多くの人を義”(イザヤ書第53章11節)とするのです。

ジョン・トラップ(John Trapp)は、枢機卿コンタレヌス(Cardinal Contarenus)が、他の枢機卿ピギウス(Pighius)によって処刑された事を思い起こさせました。 なぜなら、コンタレヌスはこの節を文字通り信じていたので、彼は“新教徒”と呼ばれ、“人の義は神の代償なしの哀れみによって、そしてキリストの功徳によるものである”と言う彼の信仰の為に処刑されました(John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, 1997 reprint, volume III, pp. 410-411, note on Isaiah 53:11)。

“義なるわがしもべは、多くの人を義と[するであろう]”。 それらの言葉は、死ぬに値する価値があったのでしょうか? まさに、その通りです! それは正にバプテストやプロテスタントの信仰の中心となる事です! フィニー(Finney)に従う決断主義者やローマ・カトリックが教えているように、私達は自分達を義とする事は出来ません! まったくそうではありません!

“神は彼らを義とされるのである” (ローマ人への手紙第8章33節)。  

“人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による・・・”(ガラテヤ人への手紙第2章16節)。

“このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである” (ガラテヤ人への手紙第3章24節)。

多くの人を義とする神の“義なるわがしもべ”はキリストです。

しかし、それはどのようにして起こるのでしょうか? キリストはどのように“多くの人を義とする”のでしょうか? 彼は、彼らが教会へ来る事によって彼らを義としますか? そうではありません! それはカトリックや決断主義の教えです! 彼は、彼ら自身の罪を止めることで、彼らを義としますか? そうではありません! それはカトリックや決断主義の教えです! 彼は、“罪人の祈り”をしたから、あるいは“前方へ出て”いって“祭壇”で泣いたから、彼らを義とするのでしょうか? そうではありません! それもカトリックや決断主義の教えです! 彼は、彼らが“救の計画”を学び、ヨハネによる福音書第3章16節を暗記し祈ったから、彼らを義とするのでしょうか? そうではありません! それもまた カトリックや決断主義の教えです! 

それでは、どのようにして人は義とされるのでしょうか? 人はどのようにしたら神の目に清くそして義とされるでしょうか? それはとめどもない質問です! それはヨブ記にあるビルダデのおおいなる質問です!

“それで人はどうして神の前に正しくありえようか。 女から生れた者がどうして清くありえようか”(ヨブ記第25章4節)。

そして、私達のテキストの言葉の中で、その答えは私達に鳴り響くように戻ってきまっす。

“義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし”
      (イザヤ書第53章11節)。

もしくは、“義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし”をスポルジョンが以下のように解釈しているように(C, H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1980 reprint, volume 63, p. 117)。 そこで、スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、

私の、キリストの犠牲の成果を得る完全なるやり方は、知る事そして信じる事によってで-行うことによってではない・・・“人の義とされるのは律法の行いによるのではなく”、“律法は罪の認識をうみ”、“恵と平安がイエス・キリストにより来”、そして、それらは信じる事により、あるいは知る事によって来る-彼を知る事によって・・・彼を通して・・・我々は義とされる(同著)。

“しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである”
      (ローマ人への手紙第4章5節)。

“主イエスを信じなさい。そうしたらあなたも・・・救われます”
       (使徒行伝第16章31節)。

“義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし”
       (イザヤ書第53章11節)。

キリストの苦悩は神の正義を満足させます。 キリストの知識は多くの人に義をもたらします。 そして―

Ⅲ 最後に、罪を負われるキリストは、罪人の為に完全なる償いをもたらす。

立ってそのテキストをもう一度、最後の6つの言葉に注意を払って読んで下さい。

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う” (イザヤ書第53章11節)。

着席してください。

キリストは、“多くの人を義とし、また彼らの不義を負う”。 それは、彼は彼らの罪を負うことなのです。 私達の義とされること、私達の贖いと救いの完全な基本は、これらの言葉、“彼らの不義を負う”の中に明らかにされています。 

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ” (イザヤ書第53章5節)。

“主はわれわれのすべての者の不義を、彼の上におかれた”
      (イザヤ書第53章6節)。

“彼はわが民のとがのために打たれて”(イザヤ初代53章8節)。

“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた”
      (ペテロの第一の手紙第2章24節)。

“また彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。

明白にそして簡潔に言い表された―キリストの福音があなた方に提示されました。 キリストの苦悩は神の正義を満たしました。 キリストの知識は義をもたらします。 不義を負われたキリストは、キリストを知る者、すなわち信仰でもって彼を知る者に、完全なる救いをもたらします。 驚くべき福音! 驚くべきあがない! かって歴史を通して、先にも後にもこのようなことは起こらなかったのです!

“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う” (イザヤ書第53章11節)。

あなたはキリストを知っていますか? 彼は世界中の罪を取り除く神の小羊です。 しかし、救いを得るためには、あなたは彼に来て、彼に平安をもたなければなりません。 あなたは、信仰でもって彼に来ましたか? あなたは、彼に改心をしましたか? もしそうでなければ、神の小羊を仰ぎ見ませんか? 信仰でもって彼に来て、彼の御血と正義でもって救われませんか? グリフィス氏が先ほど歌った歌詞です。

もしあなたが、罪からの自由を望んでいるならば、
   神の小羊を仰ぎ見よ;
彼は、あなたの罪の購いのためにカルバリーで死なれた、
   神の小羊を仰ぎ見よ。
神の小羊を仰ぎ見よ、
   神の小羊を仰ぎ見よ、
なぜなら、彼のみがあなたを救うことができるから、
   神の小羊を仰ぎ見よ。
("Look to the Lamb of God” by H. G. Jackson, 1838-1914).

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第5章1-10節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Look to the Lamb of God” (by H. G. Jackson, 1838-1914).


要 綱

キリストにより得られた-贖罪と義認
(イザヤ書第53章からの説教、その十三)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。

I.   最初に、キリストの苦しみは神の正義を満たす。 イザヤ書第53章11甲節;
 コリント人への第二の手紙第5章21節;ヨハネの第一の手紙第2章2節;
 ローマ人への手紙第3章25節。

II.  次に、キリストの知識は、多くの人達を義とする。 イザヤ書第53章11乙節;
 52章13節;コリント人への第二の手紙第5章21節;ローマ人への手紙
 第3章20節;8章33節;ガラテヤ人への手紙第2章16節;3章24節;
 ヨブ記第25章4節;ローマ人への手紙第4章5節;使徒行伝第16章31節。

III. 最後に、罪を負われるキリストは、罪人の為に完全なる償いをもたらす。
 イザヤ書第53章11丙節;イザヤ書第53章5, 6, 8節;ペテロの第一の手紙
 第2章24節。