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キリストの贖罪の描写
(イザヤ書第53章からの説教、その九)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

DESCRIPTIONS OF THE ATONEMENT
(SERMON NUMBER 9 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年3月18日、主の日の朝の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, March 18, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).


イザヤは、キリストの沈黙についてこう語っています、

“主はわれわれすべてのものの[不義]を、彼の上におかれた。” (イザヤ書第53章6節).

この預言者は私達にこのようにも語っています、

“ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に[黙っている]羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).  

エドワード・ヤング博士(Dr. Edward J. Young)は、“キリストの苦悩において、彼の沈黙なる忍耐を強調することにより、この預言者はここでその苦悩についてより詳しい描写を与えている。”(Edward J. Young, Ph. D., The Book of Isaiah, Eerdmans, 1972, volume 3, p.351).

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

この節は当然のごとく、次の三つの描写に分かれます。(1)キリストの苦悩、(2)キリストの世代、そして(3)キリストによる私達の罪の為の身代わり。

Ⅰ 最初に、キリストの苦悩の描写を取り上げている。

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた・・・生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

キリストはゲツセマネの園で捕らわれました。 彼は大祭司に送られた人達によって連れて行かれました。 彼らは大祭司カヤパの前に、そしてユダヤの最高裁判所の全議会の前に引き出されました。 彼は偽証者達によってこの裁判所で有罪と判決されました。 イエスはこう言われました、 

“あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。”(マタイによる福音書第26章64節).

すると、大祭司はこう言いました、      

“あなたがたの意見はどうか。 すると、[議会の]彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、” (マタイによる福音書第26章66-67節).

“夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、”(マタイによる福音書第27章1節).

しかし、ローマ法の支配下でこのような行いをする権威は、彼らにはありませんでした。 ですから、

“イエスを縛って引き出し、[ローマの]総督ピラトに渡した。” (マタイによる福音書第27章2節).

ピラトはイエスに尋問し、

“イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。” (マタイによる福音書第27章26節).

よって、私達のテキストのこの部分は成就したのです。

“[大祭司そしてピラトの前に]彼は暴虐なさばきによって取り去られた・・・[十字架での彼の死によって]生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

ユダヤ人達とピラトにより、イエスが捕らわれたことは、“彼は暴虐なさばきによって取り去られた”という言葉を成就したのです。 カヤパの前そしてピラトの前での裁判は、“さばきによって”とある句を成就したのです。 彼は暴虐な裁きによって、彼が十字架につけられ死なれたカルバリーと呼ばれる丘へと取り去られ、そのように、この“いけるものの地から断たれたのだと”いう句は、成就しているのです。

ギル博士(Dr. Gill)はこのように述べています。

彼は苦痛と裁きによって取り去られた;それは裁判の不当な要求の下で彼の命が乱暴なふるまいによって取り去られたのである;しかるに、[実際に]彼になされたその[最悪なる]不法は;彼に対し不当な宣告を下したのである。 偽りを言った証人達は[誤った宣誓をするよう買収され、そのようにイエスに対して偽証を犯したのである]、そして、使徒行伝第8章32節で[“彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、[黙々として]、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない”]と[描写されているように]彼の命は邪悪な者達の手によって取り去られたのである.。 屈辱の中の判決で、彼は取り去られた:彼には並の公正な裁きは成されなかった。(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume V, p. 314).

私達のテキストが述べているように、

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた・・・生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

Ⅱ 次に、そのテキストはキリストの世代の描写を描いている。

このテキストの中ほどは説明することが幾分困難なフレーズです。

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

“その代の人のうち、だれが思ったであろうか” ギル博士(Dr. Gill)はこのフレーズについて、“その時代[もしくは彼が生きた世代]、そして彼が生きた時代の、彼に対して残虐行為を行った人達、そして彼らの非難すべき邪悪さは、[完全に]口に出して言明する事も、または人の手によって[完全に]書き表す事も出来ないような事である”と述べています。(Gill, 同著) 私達が彼らの、罪のない神の御子に対して投げかけたそのような残酷さ、そして不正行為について読む時、それは私達を恐怖に陥らせ、また私達の心に悲しみをもたらします。 ジョセフ・ハート(Joseph Hart)が彼の悲嘆なる讃美歌で表現しているように、

どんなにかイエスは耐えて立たれたかを見よ、
   (このようなひどい立場で)侮辱され!
罪人は全能なる方の手を縛りつけ、
   そして、彼らの創造主の御顔につばを吐き。

とげにより彼のこめかみは血のりし深く傷つき、
   血の流れがあらゆる部分にほとばしり
彼の背は結び目のあるむちで打たれ
   されど、より鋭いむち打ちは彼の心を引き裂く事なり。

裸にされのろわれた木に釘付けされ、
   天と地にさらされた。
傷と血による哀れな光景、
   不当なる愛の驚くべきことなり!
(”His Passion” by Joseph Hart, 1712-1768;
   to the tune of “’Tis Midnight, and on Olive’s Brow”)、

なぜに、愛する救い主よ、教えてください、なぜ
   あなたは血を流され苦しむ人となられたか?
どのような並はずれた動機があなたの心を動かせたか?
   あなたの動機は明白である―それはすべて愛のため!

誰に対する愛? あなたの血を嘲笑し踏みにじる
   そして神の受けられた[傷を大いに楽しんだ]
卑劣な罪人達、冷酷なる群集、
   反抗的な集団のため 
(”Gethsemane” by Joseph Hart, 1759;
   to the tune of “’Tis Midnight and on Olive’s Brow”).

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

ジョン・トラップ(John Trapp)は、“誰が彼の世代について表現または描写出来るであろうか? すなわち、彼の生きていたそのようの時代の人々の邪悪について”(John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, Transki Publications,1997 reprint ,volume 3, p. 410).  ギル博士(Dr. Gill)は、同様な見解を持っていた、すなわち“その代の人のうち、だれが思ったであろうか”の意味は、その時代、そして彼が生きた時代の、彼に対して残虐行為を行った人達、そして彼らの非難すべき邪悪さは、口に出して言明する事も、または人の手によって書き表す事も出来ないような事である”と述べています(Gill, 同著).

ユダヤ人の指導者たちが、イエスを十字架につける事を望んだ理由、そしてローマの兵卒が“葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ・・・イエスを十字架につけるために引き出した。”(マルコにる福音書第15章19-20節)ことを人の言葉で説明する事は困難な事です。 イエス御自身がこう言われました、

“それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。”(ヨハネによる福音書第15章25節).

これは、詩篇第69章4節 の“ゆえなく、わたしを憎む者はわたしの頭の毛よりも多く、”に言及しています。 ジョン・トラップ(John Trapp)が“誰が彼の世代について表現または描写出来るであろうか? すなわち、彼の生きていたそのようの時代の人々の邪悪について”といっているように、

“また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。”(使徒行伝第13章28節).

ヤング博士(Dr. Young)は、“その動詞は、黙考もしくは何かについて真剣に思う事を[表している]暗示している・・・彼らは[イエスの死の意図]を考察すべきであったが、彼らはしなかった。”(Young, 同著、p. 352).

今日と何の変わりがあるでしょうか? 多くの人達は真剣に考察する事なしに、十字架でのイエスの死について聞いています。 “彼らは考察すべきであったが、彼らはしなかった。” 誰かキリストの死について深く考えるでしょうか? あなたはどうですか? あなたはキリストの死について、そしてそれがあなたにとって何の意味があるか、などを考えた事がありますか?

Ⅲ 最後に、このテキストはキリストの苦悩の深い意味を描写している。        

立ってイザヤ書第53章8節の最後の“彼はわが民のとがのために打たれ て”の部分に注意を払って、声を上げて読んでください。

“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

着席してください。

“彼はわが民のとがのために打たれて、” メリル・アンガー博士(Dr.Merrill F. Unger)によると、古代のユダヤ教のタルムード(教えを集大成した本)は、彼らはイエスを偽りの預言者と信じたが為に、イエスは彼自身の罪により罰せられたと教えています。 アンガー博士(Dr. Unger)はこう述べています、

タルムードの中に、ナザレのイエスは、タイタス(Titus)[紀元後70年にエルサレムを滅ぼしたローマの長官]そしてバラム[旧約聖書の中の偽りの預言者]と並行して地獄に追放される。 これらの邪悪な者達と共にキリストはもっとも厳格なそして位を落とすような罰[地獄での]を受ける、とある。(Merrill F. Unger, Ph.D., Unger’s Commentary on the Old Testament, Moody Press, 1981, page 1297).

しかしアンガー博士(Dr. Unger)は続けて述べています、

キリストの[来臨]の際、イスラエルが彼らの救世主であり最高の友を十字架につけた事に関して、悪意あるこの過ち、そして罪に気がつく時、なんと言う悔いなる泣き叫びが生ずるであろうか。(同著)

そして、アンガー博士(Dr. Unger)はこのような声明をしています。

17世紀の間、[その救世主に関しての解釈]は、キリストに於ける注目すべき成就の為に、クリスチャン[そして]この章の見解を故意に取り除いたユダヤ教の権威者達の間では、唯一の解釈であった。(Unger, 同著, p.1293).

今日、多くのユダヤ教の学者たちは、この章全体は、キリストではなくユダヤ人の苦しみに言及していると言っています。 しかし、これは私達のテキストの本当の意味であるはずはありません。 なぜなら、“彼はわが民のとが[罪]のために打たれて”(イザヤ書第53章8節)と明白に言っているからです。 この部分の“彼はわが民のとがのために打たれて”に関して、ヘンリー・モリス博士(Dr. Henry M Morris)は、“彼は‘私の民’-イスラエルのこと-のために死なれたで、この一節の[キリスト]は、多くの人達が断言しているようなイスラエルではない。”(Henry M. Morris, Ph.D., The Defender’s Study Bible, Word Publishing, 1995, p. 767).すから、真の意味はユダヤ人が打たれたのではなく、むしろキリストが彼らの罪の為に、彼らの罪に対する報いを償う為に、身代わりとして打たれたのです。

しかし、ダラス神学校で長い間に渡り教授であったアンガー博士(Dr. Unger)は、“彼はわが民のとがのために打たれて”の一説には、より深い応用があると明白に語っています。 アンガー博士(Dr. Unger)はこのように述べています、

私の[契約の]民は、イスラエルである。 すなわち、キリストの[来臨]の時点で、恵みにより選ばれた、主が彼の民と呼ばれている改心した残存者イスラエル人である。 しかし、その預言は[キリストの]救いを受け入れ、新しい契約の下に来る全ての者達と見て取る。(Unger, 同著, p.1299).

ギル博士(Dr. Gill)は似たような解釈をしています。 その言葉、“彼はわが民のとがのために打たれて”をユダヤ人そして選ばれたクリスチャンに応用し-キリストはイスラエルの罪の為、そしてクリスチャンである“彼の民”の罪の為に打たれたという事を表している。(Gill, 同著、p. 314) 私は個人的にアンガー博士(Dr. Unger)とギル博士(Dr. Gill)は、この言葉に関して正しい意味を持ち出していると思います。

“彼はわが民のとがのために打たれて、”(イザヤ書第53章8節).

そして、ヤング博士(Dr. Young)はこのように述べています。

神が語られます。 [刑罰と死の]打撃は、全ての人に代わってではなく、わたしの民に代わって、向けられたのである。 そしてまた、彼の死について語る時、イザヤはその死の理由、すなわちその代用なる、なだめの特徴を挙げなければならない。(Young, 同著、p. 352).

キリストは、彼らがユダヤ人であろうと異邦人であろうと、彼の民の罪を償う為に十字架で“打たれた”のです。 彼の死は代用であり、キリストは私達の罪を償う為に死なれたのです。 それはなだめることであり、罪人から神の怒りをそむける事なのです。

しかしそれには条件が有ります。 キリストがあなたの罪を償うには、あなたが信仰によってキリストに来て改心しなければなりません。 キリストの十字架での罪の償いの罰は、真の改心において信仰によりイエスに来ることを怠るものは誰をも救う事はありません。 あなたが改心した時にのみ、あなたの罪はイエスの血によって神の記録から消されます。 

あなたは、この節の全ての事柄を知る事は出来ても、救われていません。 悪魔はこれらの事に関して完全な知識を持っていますが、それは彼を救いません。 使徒ヤコブは、“悪霊どもでさえ、信じておののいている”(ヤコブの手紙第2章19節)と言っています。 悪魔達は、キリストの償いなる死について“頭の中の知識”があるだけです。 あなたが救われる事を望むならば、それ以上の事をしなければなりません。 あなたは甦られたキリストに出会う体験をしなければなりません。 あなたは神の恵みによって改心しなければなりません。 さもなければ、あなたは彼の十字架での死について記憶した思いと共に地獄へ下っていくでしょう。

トーザー博士(Dr. A. W. Tozer)が“決断主義”に反対し、そして真実の改心を支持して述べている事に耳を傾けてください。

全体的な宗教的改心の取り扱いが、機械的にそして熱意の無いものとされてきた。 信仰は今では道徳的な生活と不一致することなく、そしてアダムのような自我に関して恥じる事も無く実習されている。 キリストを受け入れる者の心に、キリストに対する何の特別な愛も生じる事なく、キリストは“受け入れ”られているのである。(A. W. Tozer, D.D., The Best of A. W. Tozer, Baker Book House,1979, page 14).

“全体的な宗教的改心の取り扱いが、機械的にそして熱意の無いものとされてきた”―そして、それはしばしばキリストの存在しないものである、ことを私は付け加えます。 “決断主義”は単に、あなたが短い祈りをし、洗礼を受け、それで事足りたようにしたいのです。 しばしば、キリストの死そしてよみがえりはほとんど語られません。 時には、全く語られないのです! これは、聖書が教えていることとは全く違います。 聖書は、あなたは自分の罪に対して罪悪感を持たなければならないと教えています。 そして、キリストに来ること以外に、罪とその結果から逃れる術がないことを知り、彼の御前に頼るべきものがない自分自身を投げ出し、真摯にイエスを信頼(トラスト)すること、と教えています。 それから、唯一その後に、あなたは預言者イザヤが意味したことを経験によって知るでしょう。 イザヤはこう言いました、

“彼はわが民のとがのために打たれて、”(イザヤ書第53章8節)

あなたが信仰によってイエス・キリストを受け入れるとき、彼の御血はすべてのあなたの罪を洗い流し、あなたは改心するのです―今までにあなたに起こらなかったことです。 いいえ、それは今までにけっして起こらなかったのです! もし改心したいのであれば、あなたはイエス・キリストを受け入れなければなりません!

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マルコによる福音書第15章12-20節.
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“A Crown of Thorns” (by Ira F. Stanphill, 1914-1993).


要 綱

キリストの贖罪の描写
(イザヤ書第53章からの説教、その九)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。”(イザヤ書第53章8節).

(イザヤ書第53章6-7節)

I.   最初に、キリストの苦悩の描写を取り上げている。 イザヤ書第53章8甲節;
 マタイによる福音書第26章64節、66-67節;第27章1-2節、26節;
 使徒行伝第8章32節。

II.  次に、そのテキストはキリストの世代の描写を描いている。 イザヤ書第53章
 8乙節;マルコによる福音書第15章19-20節;ヨハネによる福音書第15章
25節;詩篇第69章4節;使徒行伝第13章28節。

III. 最後に、このテキストはキリストの苦悩の深い意味を描写している。
 イザヤ書第53章8丙説;ヤコブの手紙第2章19節。