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小羊の沈黙
(イザヤ書第53章からの説教、その八)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE SILENCE OF THE LAMB
(SERMON NUMBER 8 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年3月11日、主の日の晩の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, March 11, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).


殉教者の最後の言葉を聞くのは常に感動させられます。 彼らの死の間際の言葉を聞くことは、私達の心を高揚させます。 彼は、2世紀初頭の説教者でした。 彼の名前は、英語でポリカープ(Polycarp)と呼ばれ、ラテン語ではポリカープス(Polycarpus )と呼ばれました。 ポリカープは使徒ヨハネの生徒でした。 ある日、彼は異教徒の裁判官の前に立ちました。 裁判官は、“あなたは年老いた者だ。 死ぬ必要はない・・・。 誓いをたてればあなたを自由の身にしよう。 ‘主カイザーよ’と言い、香を捧げる事が何の害になるであろうか? あなたがカイザーに対して誓うだけで、私は喜んであなたを自由の身にしよう。 キリストを拒否すれば、あなたは生きながらえるであろう”、と言いました。 

ポリカープスは、“86年もの間、私はキリストに奉仕して来ました。 そしてまた、キリストは私に何の害も授けられませんでした。 どうして私を救って下さった私の神を冒涜できるでしょうか?”、と答えました。 その裁判官は、“私はあなたを火で焼き尽くそう”、と言いました。 ポリカープスはそれに答えて、“あなたの脅している火は一時間ほどで燃え尽きてしまう。 不信者達の為に用意されている裁きと永遠なる罰の火について知っていますか? 遅らす事はないであろう? さあ、しようとしている事をしなさい”、と言いました。 

これに対して、地方総督は群集に大声で宣言する為に伝令官を競技場に送り、“ポリカープはクリスチャンである事を告白した!”と大声で宣言させ、そこで“彼を燃やし尽くせ!”と不信心の群集達は叫んだ。 火が用意され、火刑柱に釘付けする為に、死刑執行人はポリカープに近づきました。 その犠牲者は穏やかに、“私をゆだねます。 私をその火に耐えさせてくださる方は、あなた方が望んでいる釘付けをすることなく、積み薪の上でじっと留まらせて下さるでしょう”、と言いました。

そこでその説教者は声を張り上げて祈り、自分は“死にふさわしいとみなされた”、と神をたたえました。 火はつけられ、炎の広がりが彼の周りへと放ちました。 彼の身体が火の中で燃え砕けなかったので、執行人は彼をやりで突き刺しました。 そうしてスミルナ(Smyrna)の牧師であり、使徒ヨハネの弟子であったポリカープスの生涯は尽きました。(James C. Hefley, Heroes of the Faith,Moody Press, 1963, pp 12-14を参照).

スポルジョン(Spurgeon)は、“我々のすばらしいバプテストの殉教者ジェーン・ボウシエ(Jane Bouchier)について、彼女がクランマー(Cranmer)とリドレイ(Ridley)の前に差し出された時”の事を語っています。 このバプテスト信者を火刑にするように裁いたアングリカン教会(英国々教会)の二人の主教は、火刑は楽な死に方であると彼女に言った。 彼女は彼らに、“私はあなた方と同様に真のキリストの僕です;そして、もしあなた方が、あなた方の哀れな姉妹を殺すならば、神がローマのオオカミをあなた方に向かって解放されないように用心しなさい。 そしてあなた方も神の為に苦しまなければなりません。” なんと彼女は正しかった事か。 なぜならその後まもなく、これら二人は殉教者として殺されたからである!(C. H. Spurgeon, “All-Sufficiency Magnified,” The New Park Street Pulpit, volume VI, pp. 481-482を参照).

何世紀も隔ててはいますが、ポリカープとジェーン・ボウシエは、火刑にされた時、信仰の強い主張をしました。  しかし、主イエス・キリストは拷問や死で脅された時、そうされませんでした! そうです、彼は大祭司に話かけられました。 そうです、彼はローマ総督ポンテオ・ピラトにも話かけられました。 しかし、彼が死に至るまでむちで打たれ、そして十字架に釘づけされた時、預言者イザヤの言葉は、彼が黙っておられたという驚くべき事実を説明しています。

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).

彼らがイエスを打った時、彼は一言も言われませんでした! 彼らがイエスを十字架に釘づけにした時、彼は一言も言われませんでした! 私達のテキストを頭に浮かべ、そこから三つの事を問いかけ、そしてそれらに答えるという形で深く追求してみましょう。

Ⅰ 最初に、イエスと呼ばれるこの方は誰であろうか?

預言者がこのように告げている方は、誰の事だったのでしょうか?

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。・・・” (イザヤ書第53章7節).

聖書では、彼は栄光なる主、聖なる三位一体の二位の方、人となられた神の御子であったと語っています! 私達は、イエスを単なる人なる教師、または単なる預言者としてけっして見なしてはなりません! イエスはこれらの言い方で彼を見なすような可能性を私達に残されませんでした。 なぜならイエスはこう言われたからです。

“わたしと父とは一つである。”(ヨハネによる福音書第10章30節).  

再びイエスは言われました。

“わたしはよみがえりであり、命である。 わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。”(ヨハネによる福音書第11章25節).

もし他の誰かがこのような事を言ったならば、私達は、彼は妄想している、悪にとりつかれている、頭がおかしい、精神が錯乱している、混乱している、などと言うでしょう!  しかし、イエスが彼と父なる神とは一つであると言われた時、そして“わたしはよみがえりであり、命である”と言われた時、そしてそのような言葉に、私達は躊躇し、私達の間でもっとも最悪な者でも、彼は正しくないかもしれないと疑うでしょう!

私は、ルイス(C. S. Lewis)に常に同意しているわけではないけれども、誰がイエス・キリストについての彼のよく知られた言葉に同意しないでしょうか? ルイスはこのように述べています。

私はここで、誰かがイエスについて、人々がしばしば言っているようなまったく愚かな事を言うのを妨げようとしている。:すなわち、“私はイエスを偉大な道徳の教師として受け入れようとしている。 しかし神であるという彼の断言は受け入れない。” ということである。 われわれは決してその事だけは言うべきではない。 ただの人でイエスが言われたそのような事を言う人は、偉大な道徳の教師ではないであろう。 むしろその人は、低級なレベルの狂人であるか、もしくは地獄からの悪魔であるか、のどちらかである。 あなたは自分でそれを選択しければならない。 彼は神の御子であったか、そして、そうであるか:もしくは、狂った者あるいはそれ以上にひどい者であったか。 あなた方は彼を愚か者として締め出しす事も出来るし、彼につばを吐きかけ悪魔として殺すことも出来る;それとも、彼の足元にひれ伏し、彼を主そして神と呼ぶ事も出来る。 しかし、彼が偉大な道徳の教師であるというような恩着せがまし言い方をしてはならない。 彼は私達にそのようにはさせておられない。 彼はそのようにさせようともおられなかった。 (C. S. Lewis, Ph.D., Mere Christianity, Harper Collins, 2001, p. 52).

“彼につばを吐きかけ悪魔として殺すことも出来る;それとも、彼の足元にひれ伏し、彼を主そして神と呼ぶ事も出来る。・・あなた方は自分でそれを選択しなければならない。”

イエスはこう言われました。

“わたしは道であり、真理であり、命である。 だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(ヨハネによる福音書第14章6節).

そこに表されています! あなたは、イエスを仏教またはヒンズー教と混合してはなりません。 それは単に、イエスは、“彼は私達にそのようにはさせておられない。 彼はそのようにさせようともおられなかった”、からです。 私達には、選択の余地はないのです。 彼は、“だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない”、と言われました。 “彼につばを吐きかけ悪魔として殺すことも出来る;それとも、彼の足元にひれ伏し、彼を主そして神と呼ぶ事も出来る。・・・あなたは自分でそれを選択しなければならない。”

Ⅱ 次に、なぜこの方イエスは、彼に苦痛を与え、殺した者達の目前で、御自分を   防御できなかったのか? 

なぜ、

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった”
      (イザヤ書第53章7節).

のでしょうか?

偉大な科学者であるアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)は、クリスチャンではなかったけれども、このように述べています。

誰もイエスの存在を感じる事無く四つの福音書を読まずにはいられない。 全ての言葉の中で、彼の人格は胸を打たされる。 そのような生き方に何の作り話はない。(Albert Einstein, Ph.D., The Saturday Evening Post, October 26, 1929).

それでも、彼がむち打たれ十字架につけられた時、彼は一言も口を開かれませんでした! なぜキリストは、彼に苦痛を与え、殺した者達に対してご自分を防御できなかったのでしょうか? おそらく、無神論者であるフランス人の哲学者ルソー(Rousseau)がこう言った時に、その疑問に対しかろうじて返答をしているでしょう。

もしソクラテスが哲学者として生きそして死んだのであれば、イエスは神のように生きそして死んだ。(Jean-Jacques Rousseau, French philosopher, 1712-1778).

イエスは御自分を防御出来なかったのではありません、なぜなら、彼のこの世に来られた真の目的は、苦しみそして死ぬ事だったからです。 彼が十字架にかけられる一年前に、彼はそれは明白にされました。

“この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。” (マタイによる福音書第16章21節).

実用新約聖書解説書(The Applied New Testament Commentary)はこのように書いています。

ペテロは、イエスは救世主、生きる神の子キリストであるとだけ告白した。[マルコによる福音書第8章29節]  しかし[ペテロ]はキリストが何のためにこの世に来られたのか理解できなかった。 彼は他のユダヤ人達が思っているようにイエスを思った。 すなわち、キリストはこの世の王になる為に来られたと。 それゆえ、イエスは多くのことで苦しみ、そして殺されなければならないとペテロに言われた時に、それを受け入れる事が出来なかった。 彼はそのような事を言われたイエスを非難した。 イエスは御自分が三日目に再びよみがえるとも言われた。 イエスは、ご自身が死なれるだけではなく、三日目に死からよみがえる事をも知っておられた。 弟子達は、この事をまっく理解出来なかった。(Thomas Hale, The Applied New Testament Commentary, Kingsway Publications, 1996, pp. 260-261).

しかし私達はそれを理解すべきです。

“キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった” (テモテへの第一の手紙第1章15節).

十字架で私達の罪のために死なれたことによって、そして、彼のよみがえりによって、私達に命を与えられるのです。 イエスは、むちで打たれ十字架にかけられた時、口を開きご自身を守られませんでした。 なぜなら、イエスがピラトに言ったように、“わたしは真理についてあかしをするために生まれ、また、そのためにこの世にきたのである。”(ヨハネによる福音書第18章37節).

Ⅲ 最後に、イエスの黙された苦しみについてテキストは何を語っているか?

立ってもう一度イザヤ書第53章7節を声を上げて読んで下さい。

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).

着席してください。 “彼はしえたげられ、苦しめられた。” ヤング博士(Dr. Young)は、これは“彼はご自分を苦しめられるように[された]”、と解訳する事が出来ると言います。 “苦しみの中へ彼は自ら進んで苦しまれ・・・彼の口から自己防御また抗議を発する事もなかった。 誰も、ピラトの裁きの前で、真の僕が一言も反論されなかった時の成就を思わずに[この預言]を読まずにはいられない。 ‘彼がののしられた時、彼はののしり返す事はされなかった’[彼が苦しまれた時、彼は脅すような事はなさらなかった]”(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah, Eerdmans, 1972, volume 3, pp. 348-349).

“するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに[非常に驚いた]ほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。”(マタイによる福音書第27章13-14節).

“そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。 ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。 見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。 しかし、イエスはピラトが不思議に思う[驚き、驚嘆した]ほどに、もう何もお答えにならなかった。”(マルコによる福音書第15章3-5節).

“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).

キリストは小羊にたとえられます。 旧約聖書では、人は神へのいけにえとして殺す為に羊を持ってきました。 いけにえとして羊を準備する為に、彼らはその毛を刈り、羊毛をすべて刈り取りました。 小羊は毛を刈られる時、静かに立ちました。 いけにえとされる小羊が毛を刈られ殺される時に黙っているように、“口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).

バプテスマのヨハネもまたこう言って、イエスをいけにえの小羊にたとえました。    

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。” (ヨハネによる福音書第15章29節).

あなたが信仰によりイエスに来る時、彼の十字架の上でのいけにえはあなたのすべての罪を償い、そしてあなたは神の御前に罪を感じることなく立ちます。 あなたの罪悪感は彼の十字架での死により取り除かれます。 

アメリカのインデアンへの有名な宣教師デイビッド・ブレイナード(David Brainerd)は、彼の宣教を通してこの真実を宣言しました。 彼がインデアンに向かって説教をしている時、彼は“私は決してイエスと彼の犠牲から離れる事は出来ない。 私はかつてこれらの人々が私達の為のキリストの犠牲の偉大な・・・重要性によって強く引きつけられ、私は彼らの習性を変える事に関して多くの指導を与える必要はなかった、という事を見い出した。”(Paul Lee Tan, Th.D., Encyclopedia of 7,700 Illustrations, Assurance Publishers, 1979, p. 238)。

私は今日でもそれが真実である事を知っています。 あなたが一度

“キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節).

を知り、そして、一度あなた方が信仰によって十字架につけられ、そしてよみがえられた救い主をつかめば、あなたはクリスチャンです。 後は説明する事、そして理解する事は比較的簡単です。 信仰によってキリストをつかみなさい、そうすればあなたは救われます!

スポルジョン(Spurgeon)が死の床についている時、彼は 、“私の神学説は―‘イエス私の為に死なれた(Jesus died for me)’という四つの短い言葉に基づいている。 もし、私がもう一度立ち上がるならば、これは私が説教をする全てだとは言わない、しかしそれは命を賭ける以上の事である。 イエス私の為に死なれた。”(Tan, 同著) あなたはそのように言えますか? もしそうでなかったら、今晩あなたもよみがえられたイエスに来て、彼に信頼を寄せませんか? “イエスは私の為に死なれました。 そして、私は彼の御血と正義による、完全なる救いの為に彼に来ます、と言いませんか?” 神があなたにそうするよう純真(シンプル)なる信仰を与えて下さいますように! アーメン。

立ってソングシートの賛美歌8番、チャールズ・ウェスリー(Charles Wesley)による“可能であろうか”(“And Can It Be ?”)を歌ってください。

救い主の御血に関心を得る事が
   可能であろうか?
彼の苦悩をもたらせた我が為に死なれた?
   彼を死へと追いやった我がために?
驚くべき愛! そなた、わが神、
   我がために死なれるとは、いかに可能であろうか?
驚くべき愛! そなた、わが神、
   我がために死なれるとは、いかに可能であろうか?
(“And Can It Be?” by Charles Wesley, 1707-1788).

(説教終了)
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レイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: 使徒行伝第8章26-33節.
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“A Crown of Thorns” (by Ira F. Stanphill, 1914-1993).


要 綱

小羊の沈黙
(イザヤ書第53章からの説教、その八)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。”(イザヤ書第53章7節).

I.   最初に、イエスと呼ばれるこの方は誰であろうか? ヨハネによる福
音書第10  章30節;11章25節;ヨハネによる福音書第14章6節。

II.  なぜこの方イエスは、彼に苦痛を与え、殺した者達の目前で、
御自分を防御でき  なかったのか? マタイによる福音書第16章21節;
テモテへの第一の手紙  第1章15節;ヨハネによる福音書第18章37節。

III. 最後に、イエスの黙された苦しみについてテキストは何を語っているか?  
マタイによる福音書第27章13-14節;マルコによる福音書第15章3-5節;  
ヨハネによる福音書第1章29節;コリント人への第一の手紙第15章3節。