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あなたの心を捕らえなければならないテキスト!
(イザヤ書第53章からの説教、その六)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

A TEXT THAT MUST GRIP YOUR HEART!
(SERMON NUMBER 6 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年3月4日、主の日の晩の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, March 4, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書第53章5節).


ローマ人への手紙第1章の中に使われている二つのギリシャ語は、何かについて知る事と、その何かの完全なる知識を持つ事、との違いを表すのに使う事がおそらく出来るでしょう。 私達はローマ人への手紙第1章21節で、古代の人達は“神を知っていた”という事を知らされています。 “知っていた”に等しいギリシャ語の言葉は、“グノウシス(gnosis)”です。 それは、彼らは神について知っていたという意味です。 しかし、ローマ人への手紙第1章28節は、彼らは“神を認めること”、もしくは“神を自らの認識の内に保持すること”をしなかったと言っています。 ここの“知識”に対等する言葉は“エピグノシス(epignosis)”です。  それはグノウシス[知ること]の強調した型を意味し、より強い影響を含む完全なる知識を示しています。(参照:W. E. Vine, An Expository Dictionary of New Testament Words,Revell, 1966, volume II, p .301). 古代の人々は神について知って[gnosis]はいたけれども、彼らは、神の完全なる知識[epignosis]は持っていませんでした。

私達は先ほど主の晩餐の儀式を行いました。 ローマ人への手紙の最初の章にあるそれらの二つのギリシャ語の言葉は、あなた方、すなわち主の晩餐を受けた私達を見たが、その儀式に参加できなかったあなた方のことを表しているのではないかと思います。 あなた方は、主の晩餐の意味を外観的にそして知的には知っていますが、それが何を表しているのかを体験的には知っていません。 あなた方はそれについての“知識”はあります(それについて“知る事”)、しかしあなた方はその完全なる知識(epignosis)を持っていません。

そして、私達のテキストに関しても同じ事が言えるのです。 それはあなた方の何人かにとってはそのテキストはなじみのある節かも知れません。 なじみがあるが為にあなたはそれを“知っている”のです。 しかしながら、あなたのその知識は、単に“思考的な知識”なのです。 なぜなら、あなたにはその事についての“完全なる知識”がないからです。(Vine, 同著) あなたは“(物知りのごとく)知ること”でそのテキストを読んでいますが、“完全なる知識”を持ってではありません。 あなたはその意味を理解していると思っています。 しかし、あなたにはその“完全なる知識、認識、識別”がないのです。(同著) あなたはその言葉そしてその意味を外観的に知ってはいますが、あなたに“強く影響を与える”ような、その深い意味そして完全なる知識をあなたは把握していないのです。(同著)  ですから、そのテキストのより深い意味にあなたの注意を引きつけ、願わくば、あなたのその知的な知識を、完全なる知識まで深め、大いにあなたを救い主へと動かすことが、私の目的です。 救い主についてこのように聖書は語っています。

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書53章5節).

これはあなた方の心を捕らえるべき一節です。 私は、それが思考的な知識からあなた方の人生の上で大いに影響を与えるものへと、あなた方を動かしていくよう願っています。 このテキストには三つの主要なポイントが含まれています。

Ⅰ 最初に、キリストは私達のとがの為に傷つけられ、私達の不義の為に
   砕かれました。

立って私達のテキストの最初の部分を声を上げて読みましょう。

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。・・・”(イザヤ書53章5節).

着席してください。

最初の言葉“しかし”は、その章の4節で、キリストは御自分の罪と不正の結末として死なれたと表されている誤った思考と、彼は私達の罪を償う為に死なれたという真実との対比を示しています。 ヤング博士(Dr. Young)は、“という代名詞が最初に置かれている事により、ほかの強調点が見い出せる、すなわち、真に罰に値する者達の対比として、彼は非難されるべき罪を負われた、という事である。”(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah,William B. Eerdmans Publishing Company, 1972, volume 3, p. 347).

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。・・・”(イザヤ書53章5節).

その“傷つけられ”という言葉は、非常に関心を引き起こさせ、そして重要な言葉です。 ヤング博士(Dr. Young)は、そのへブライ語は、“突き抜ける、そしてそこには通常、死に至るまで突き抜ける、という思考を伴う”という意味である。(Young, 同著)。 そのへブライ語は“突き抜ける”“突き通される”という意味である。(同著) その言葉はまた、ゼカリヤ書第12章10節の中にも現れています。

“彼らはその刺した者を見る時、”(ゼカリヤ書第12章10節).

これは、とげの冠で頭皮を突き通された、十字架の上で釘で手足を突き通された、ローマ兵卒のやりでわき腹を突き刺された、キリストについての明白な預言です。 使徒ヨハネはこのように私達に伝えています。

“ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。・・・との聖書の言葉が、成就するためである。・・・彼らは自分が刺し通した者を見るであろうとある。”(ヨハネによる福音書第19章34, 36, 37節).

そして、私達のテキストは、“(彼は)われわれの不義のために砕かれたのだ”(イザヤ書第53章5節)と言っています。 ヘブライ語の“砕かれた”の言葉は、“押しつぶす”と言う意味である。(Young, 同著) キリストの砕かれる事そして押しつぶされる事は、ゲツセマネの園で始まりました。 それは彼が捕らわれる前の晩、キリストが、

“苦しみもだえて、・・そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。“(ルカによる福音書第22章44節).

キリストは、十字架に釘付けされる直前にたたかれそしてむち打たれた事によって、砕かれそして押しつぶされ、そして、やりで突き刺されました。 しかし、使徒ペテロが言ったように砕かれた事の深い意味は、彼の上に置かれた私達の罪の重荷なのです。

“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた・・・”(ペテロの第一の手紙第2章24節).

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。・・・”(イザヤ書第53章5節).

アイゼック・ワッツ(Isaac Watts)は彼のよく知られた賛美歌の中でその事を明白にしました。

我の成した罪のゆえに
   彼は十字架の上で苦しまれたのか?
驚くべき哀れみ! 知られざる恵み! 
   そして、計り知れぬ愛よ!      

大いなる創造主キリストが
   人、人間の罪のゆえに死なれるとき、
太陽は暗闇にまさに隠れ
   そして、彼の栄光を閉ざす。
(“Alas! And Did My Saviour Bleed?” by Isaac Watts, D.D., 1674-1748).

Ⅱ 次に、キリストは私達の代わりとして懲らしめられた。

私達のテキストの三番目の句に注目してください。  

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、・・・“(イザヤ書第53章5節).

私はそれがどういう意味であるかはっきりしないまま何年もその節を読んできました。 デリッツシュ博士(Dr. Delitzsch)は、それを“我々の平安へと導く懲らしめ”と解釈しています。 (C.F. Keil and F. Delitzsch, Commentary on the Old Testament, Eerdmans Publishing Company, 1973 reprint, volume VII, p. 319).  “それは、これらの苦悩・・・が確保した、我々の平安・・・我々の幸福、我々の祝福であった。”(同著) “懲らしめ”と言う言葉は”罰せられる事”という意味です。 ヤング博士は、“もしある人が、[キリスト]の上に下された懲らしめ[罰]が、なだめの目的であったと主張するならば、その人はそのテキストをよく読んでいない。”(Young, 同著, p. 349) 神の報いはキリストへ下されました。 すなわち、罪に対しての神の怒りをなだめ、そして鎮める為でした。 ギル博士(Dr. Gill)は、近代の注解者達が踏み込む事を恐れている領域へ入り込みました。 そして、彼がそうしたことは、正しいことでした。 彼はこのように述べています。

我々の平安の為の懲らしめはキリストの上に下された;それは、我々の罪に対する罰が彼に負わされたと言う事であり、そこで我々の平安と神との和解は彼によって成され、・・・それによって、神の神聖な怒りは現れ、公正が満たされ、そして平和がもたらされた。(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament、The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, vol. I, p, 312).

使徒パウロはここでキリストが神の怒りを“あがなう”事について言っています。

“キリスト・イエスによるあがないによって義とされるである・” (ローマ人への手紙第3章24-25節).

アルバート・ミドレイン(Albert Midlane)は、この説教の前にグリフィス氏(Mr. Griffith)が歌った賛美歌の歌詞の中で使徒が意図した事を説明しています。

誰も彼が負われた怒りを表す事は出来ず、
   我への公正なる怒り;
罪は当然の報い;罪人を解放するために
   彼はすべてそれを負われた。
    
いまなお、一つ残らず
   “すべては終わった”と彼は叫ばれ、
彼の取られた効果なるひと飲みで
   怒りの杯は正に乾き。
(“The Cup of Wrath”by Albert Midlane, 1825-1909).

キリストはあなたの代わりに懲らしめられ、それゆえあなたの罪に対する神の怒りを鎮められました。

“彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、” (イザヤ書第53章5節).

III 最後に、打たれた傷によって、キリストは罪をいやされた。

立って、このテキストを声を上げて読んで下さい。 最後の部分“彼の打たれた傷によってわれわれはいやされた”のところに十分注意を払ってください。

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書53章5節).

着席して下さい。

へブライ語でその“打たれた傷”に等しい言葉は、“傷”です。( Strong) 使徒ペテロは、ペテロの第一の手紙第2章24節でこの句を引用しています。 ペテロの用いたそのギリシャ語は、“傷”と訳されています。 それは“強打による傷”の意味です。( Strong) 私は、イザヤ書の第53章5節の“打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”、とペテロの第一の手紙第2章24節は、主にイエスのむち打ちに言及していると信じます。 しかし、それらは一般的な意味合いでキリストの苦しみを表してはいますが。 私はそれらの言葉はキリストが十字架につけられた少し前に、ユダヤを支配するローマ人の総督ポンテ・ピラトの命令により、兵卒達によってなされたキリストのむち打ちを特に表している言葉であると確信しています。 聖書はこのように言っています。

“そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。” (ヨハネによる福音書第19章1節).

“そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。”(マタイによる福音書第27章26節).

“むち打ち”と訳されたギリシャ語の注解として、バイン(W. E. Vine )は、それは“キリストの耐えた、ピラトの命令によって施されたむち打ちのことである。 ローマ人のむち打ちのやり方によると、人は服をはぎ取られ[裸にされ]、体を曲げられた状態で柱に縛られた。・・・[そのむち]は、背中と胸の両方の肉を引き裂くように、骨または鉛のとがったもので重みをつけられた皮ひもで出来ていた。 イウセビウス(Eusebius:年代記)は、このような扱いのもとで死んだ殉教者の苦しみを目撃した、と記録している。”(W. E. Vine, An Expository Dictionary of New Testament Words,Fleming H. Revell Company, 1966 reprint, volume III, pp. 327, 328). その“むち打ち”という言葉は、イエスの来たるべき苦しみについて言及している彼の預言の中でも、イエスはまた用いています。 彼はこのように言われました。

“「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。 彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。・・・」”(マタイによる福音書第20章18-19節).

スポルジョン(Spurgeon)は、キリストのむち打ちに関してこのような注解をしています。

じっと立って、古代ローマの円柱に縛られ、痛ましくむち打たれた[イエス]を見よ。 [むち打ちによる]猛烈な打撃を聞け、血の流れでる傷に注目せよ。 そして、彼の神聖なる体でさえも、どのように彼が傷みの集合体となったかを見よ。 そうして、彼の魂もまたどのようにむち打たれたかに注目せよ。 彼の心の内奥が拷問によって傷つけられるまで、どんなにか彼の上にそのむち打ちが下ったかに心を傾けよ。 耐えられないほどに、我々の為に彼は貫かれたのだ。・・・思いをまったくさまよわす事なく、このような厳粛なる主題に関して黙想してみよ、我々の心が彼に対する感謝の愛でやわらぐまで、イエスの無比なる苦悩に関して、あなた方そして私が共に思い描く事が出来るように祈る。(C. H. Spurgeon, “Christopathy,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit,Pilgrim Publications, 1976 reprint, volume XLIII, p. 13).

再び、スポルジョン(Spurgeon)は、キリストがむち打ちと十字架上の処刑を苦しまれたのは、私達の罪の為であったと言っています。 イエスがむち打たれた時に、そして十字架の上で釘が彼の手足を打ち抜けた時に、彼がそのような傷を体験されたのはあなたと私の為でした。 スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています。

われわれは確かに彼の悲しみを分け合った。 ああ、我々は“打たれた傷によって我々はいやされたのだ”という事が同様に確かであれば。 あなたは彼を殴った[彼を打った]、そして、愛する友よ、あなたは彼を傷つけた;それゆえ、あなたが“打たれた傷によって我々はいやされたのだ”と言えるまで休息してはならない。 もし、我々が彼の傷によって[罪から]癒されようとするならば、我々はこの苦しまれている方[イエス]の個人的な[知識]がなくてはならない。 我々はこの偉大な犠牲の上に我々自身の手を置かねばならない、そして、それを[我々のためにされた]ものとして受け入れなければならない。 というのは、キリストがむち打たれたことを知ることは、ぞっとすようなことだが、“打たれた傷によって我々はいやされたのだ”ということはそうではない。 もし、罪が病として、神にとって関心のないものであるならば、癒しについて語る必要はない。(同著、p14) “打たれた傷によって我々はいやされたのだ。” これは、一時的な治療薬ではない;それは、あなた魂を完璧なまでによくする薬である。 そうであるがために、天国の神の御座の前で、救われた者達と一緒に“打たれた傷によって我々はいやされたのだ”と人は歌う。 血にまみれたキリストに栄光を! すべての名誉、威厳、支配、そして賞賛を末永く彼に。 そして、罪から癒されたすべての者は、“アーメン、アーメン”と唱えよ。(同著、p. 21).

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書第53章5節).

しかし、単にこのような事柄を知っているだけではあなたを救いません! このテキストでのキリストの苦しみの真実があなたの心を捕らえない限り、あなたは改心しないでしょう! そのテキストがあなたの心を捕えますように。 それらの言葉があなたの魂を動かしますように。

“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書第53章5節).

これらの言葉が信仰によってあなたをキリストに来るように動かしますように、そして彼の御前に伏し、そしてすべての罪からいやされますように、そうすることであなた方が“打たれた傷によって、今そして永久に、私は罪の苦しみからいやされた”ということが言えますように。 アーメン

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第3章21-26節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“The Cup of Wrath” (by Albert Midlane, 1825-1909).


要 綱

あなたの心を捕らえなければならないテキスト!
(イザヤ書第53章からの説教、その六)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”(イザヤ書第53章5節)

(ローマ人への手紙第1章21, 28節)

I.   最初に、キリストは私達のとがの為に傷つけられ、私達の不義の為に
 砕かれました。 イザヤ書第53章5甲節;ゼカリヤ書第12章10節;
 ヨハネによる福音書第19章34, 36, 37節;ルカによる福音書第22章
 44節;ペテロの第一の手紙第2章24節。

II.  次に、キリストは私達の代わりとして懲らしめられた。 イザヤ書第53
 章5乙節;ローマ人への手紙第3章24‐25節。

III. 最後に、打たれた傷によって、キリストは罪をいやされた。 イザヤ書
 第53章5丙節;ヨハネによる福音書第19章1節;マタイによる
 福音書第27章26節;20章18‐19節。