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神の小羊をを見よ-ジョン・ウェスリー師による注解を用いて。

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

BEHOLD THE LAMB OF GOD –
WITH COMMENTS BY THE REV. JOHN WESLEY, M.A.
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年1月21日、主の日の朝の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, January 21, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)


バプテスマのヨハネの唯一の目的は‐キリストについて証言をする事でした。 彼の人生の全焦点は罪人を救い主へと指摘する事でした! 同じ事を行う事が私達の目的ともなりますように。 私達が通りや垣根へ出て行き、このように宣言しますように。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

ヨハネはイエスの事をよく知っていました。 彼は私達の主について多くの事を指摘する事が出来たでしょう。 彼はキリストを偉大な教師、もしくは偉大な模範者と呼ぶ事も出来ました。 しかし、そうはせず、ヨハネはキリストが罪の贖いとなる為にこの世に来られた事を宣言しました。 彼は、“見よ、偉大な教師”とは呼びませんでした。 また、“見よ、偉大な模範者”とも呼びませんでした。 このように彼は呼びました。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

ある人は、ヨハネは悔い改めの説教をしたと言うかもしれません。 確かです。ヨハネほど悔い改めについての説教を熱心にした人はいませんでした。 それであっても、ヨハネの説教は教訓的な試みではありませんでした。 彼は罪人を神の小羊であるキリストへ向かせない限り、彼らを助ける事の出来る物は何も無い事を知っていました。 彼は、何も、そして誰も彼らの罪を取り除く事が出来ないことを知っていたからです。

もし、あなたが自分の罪を決して悟らされたことがないのでしたら、あなたは自分の善良な行いによって天国へ入る事が出来ると思っているかもしれません。 また、あなたは神の小羊イエスによってあなたの罪を取り除く必要があるなどとは思っていないかもしれません。 しかし、もしあなたが、ヨハネが向かって話していた人達のように、自分の罪を重荷と感じてくるならば、あなたは、聖なる神の御前に、あなたの罪悪感を取り除く事が出来るのはイエス以外におられない、という事に気がつくでしょう。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

これは福音の伝道者達に好まれたテキストです。 なぜなら、その節なしには彼らは、悩んだ罪人達に言う事があまり無いからです。

私自身、バプテスマのヨハネのようになれる事を望んでいます。 私は自分の説教をキリストの死による贖いについて専念されるように望んでいます。 私の説教のテーマがこのようである事を望んでいます。

“イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト”(コリント人への第一の手紙第2章2節)

私は、この教会に訪れる失われた罪人達に福音の最初の要点を明白に聞いてほしいと願っています。

“キリストが・・・わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節)

ですから、私達のテーマを、バプテスマのヨハネのものと同じようなものにしようではありませんか。  

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

他の人達は、“ヤギにえさを与えるように”一つの節ごとに聖書を教え、羊へと変えていくように試みるかもしれません。 しかし、身代わりなしには救いは有り得ない、そして、十字架につけられたキリストのほかに身代わりは無いと言う事を、私は知っています。

“まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。”(イザヤ書第53章4節)

私の生涯の任務は、バプテスマのヨハネと同じくこのように宣言する事です。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

では、私達のテキストを注視して、あなたが幾つかの事に気がつくように望みます。

Ⅰ. 最初に、ヨハネは彼自身この真実に気が付いた。

31節で、ヨハネは“わたしはこの人を知らなかった”と言っています。 ある人はこの二人は決して出会った事がなかったと言っています。 しかし、私には信じ難い事です。 ヨハネは生涯を通してイエスを知っていました。 ですから、ヨハネが“わたしはこの人を知らなかった”と言った事に、私は他の意味が受け取れます。 ヨハネはイエスを知っていました。 しかし、イエスが罪を負われる方とは知りませんでした。 ヨハネはイエスの親戚でした。 ですから、彼はイエスを幼児の頃から知っていたはずです。 しかし彼は、イエスが罪を負われる方、神の小羊であるとは知らなかったのです。 

そして、ヨルダン川の水でヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき、神が天から“これはわたしの愛する子、”(マタイによる福音書第3章17節)と言われたのを聞いたとき、彼はイエスが誰であるかを確かに知りました。 その瞬間から、ヨハネは大胆に“この方を見よ”、自分自身で見なさい!。 これは世の罪を取り除かれる神の小羊”と説教しました。

あなた方の一人一人が、あなた方の罪の犠牲となられたイエスを、自分自身で知る事が出来ますように私は願っています。 あなた方の何人かは幼少の頃からキリストが神の小羊である事を学んできました。 しかし、あなたが聖書から学んだ事は、あなたの心に明白にされなければなりません。 そうでなければ、あなたは自分自身で、イエスがあなたの罪を取り除いてくださる事を知る事が無いでしょう。 

私は、あなたが罪を負われた神の小羊、キリストを確かに体験し、そしてそれを心に刻み込むよう懇願します。 そうすれば、何事もあなたをキリストから振り放す事が出来ないからです。 人々が、キリストを通して彼ら自身の罪悪感からの開放を見出す時、そこで初めて、この真実がこの内心の体験の一部となり、そしてそれは決して、彼らから取られる事はありません。 

そして、キリストがあなたの罪を十字架の上でキリスト御自身の体に負い、そして彼によって、あなたは神と和解された事を疑い始めるより、あなた自身の存在さえ疑うようになるでしょう。 それがヨハネによる個人的な体験であって、それはあなたにとっても同じようでなければなりません。

Ⅱ. 次に、ヨハネはキリストを“唯一の”犠牲と説いている。

彼はこう言いました。

“見よ、世の罪を取り除く(唯一の)神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

ヨハネは旧約聖書にある犠牲として引き裂かれた小羊についてよく知っていました。 彼は神の宮で毎日のように小羊が引き裂かれるのを見ました。 しかし、ヨハネはキリストを指し、“見よ、(唯一の)神の小羊”と言いました。 “これが(唯一の)小羊である。” ユダヤ人達が神の宮で犠牲にした全ての小羊は、典型に過ぎず、キリストを予想されたものです。 “見よ、(唯一の)神の小羊”。

私達の信仰告白をこの一つの点-すなわち(唯一の)小羊、に焦点をおいてできる事はすばらしい事です。 今日の多くの“信仰告白”は他の事柄に焦点をおいています。 人々は神の小羊以外のあらゆる事に関して告白します。 今日、ほとんどの事がキリスト教徒の信仰告白として通用しているように思えます。 私は多くのこれらの信仰告白を疑います。 私は、人が“世の罪を取り除く神の小羊”について話す事があるかを知りたいです。 もし人が神の小羊、キリストについて少ししか、もしくは全く話す事が無かったならば、彼が改心しているとは私は思いません。 なぜでしょうか? なぜなら世の罪を取り除く神の小羊、キリスト以外に救いは無いからです‐だからなのです! 

“この人による以外に救いはない。 わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。”(使徒行伝第4章12節)

“見よ、世の罪を取り除く(唯一の)神の小羊”

Ⅲ. 三番目に、ヨハネは“神の”犠牲としてキリストを説いた。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

“見よ、神の小羊。” これらの言葉には深い意味があります。

神の小羊を犠牲としたのは誰だったのでしょうか? 十字架の上でキリストを痛めつけたのは誰だったのでしょうか? キリストを悲嘆にさせたのは誰だったのでしょうか? 十字架でキリストが叫んだ時に、誰が彼にそのような最悪の苦しみをもたらしたのでしょうか? 

“どうしてわたしをお見捨てになったのですか。”(マタイによる福音書第27章46節)

それは、御自身の“定めた計画”によって、キリストを“十字架につけて殺した”(使徒行伝第2章23節)神でした。

“主は彼を悩まされた。”(イザヤ書第53章10節)  

イエスは“神の小羊”です。 あなたがキリストを信じる時、あなたは神御自身による罪の犠牲を信じるのです。 あなたが神御自身による罪の犠牲を信じる時、神はあなたを拒否することができません。 キリストの犠牲はあなたの罪を覆い、神の御前にあなたを清めるのです。

“見よ、・・・神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

Ⅳ. 四番目に、ヨハネは私達の罪を負いそして取り除くキリストを説いた。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

“取り除く”と訳されたギリシャ語は、“負う、運び去る”といった意味です。 (Fritz Rienecker, A Linguistic Key to the Greek New Testament, Zondervan, 1980, p.220)  両方の意味がここにはあります。 主イエスは私達の罪を負い、そして、彼はそれらを運び去ったのです。 聖書にはこの事について多く書かれています。 

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。”(イザヤ書第53章6節)

“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。”(ペテロの第一の手紙第2章24節)

キリストは十字架の上で世の罪を負われたのです。

しかし、何よりも、キリストは罪の重荷を負われただけではなく、彼は、それを取り去られたのです! 

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

もしあなたがイエスを信じるなら、“どこに私の罪はあるのですか?”と尋ねる必要はありません。 イエスがそれを取り去ってくれたのです。 イエスが、あなたの罪を負い、取り去ってくださったのです! それは永遠に取り除けられ‐まったく破棄されたのです。 これが信じる価値のある、生きる価値のある、そして、その為に死ぬ価値のある福音なのです。 それに反対するすべての説教が、非難されますように。 これが、地獄へ落ちていくような罪人への救いなのです。 あなたの罪は取り除かれることが出来ます、なぜなら、イエスが、

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

“御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)

であられるからです。

昔の賛美歌にあったように、

なんと! 我を雪のように清めてくれるその流れは尊い事よ。
イエスの御血以外には何も我は知らない。    
(“Nothing but the Blood” by Robert Lowry,1826-1899).

Ⅴ. 五番目に、ヨハネは絶えず罪を取り除いてくださるイエスを説いた。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

ヨハネは過去時制としては話してはおらず、また未来時制としても話していません。 彼は現在時制で話しています。 まさに今現在、“彼は世の罪を取り除く”のです。 キリストによる犠牲は一度だけであったけれども、そのままの状態で永遠にその犠牲は続くのです。 キリストは、ある一定の時に死なれたけれども、今でもキリストは罪を取り除いてくださいます。 罪を清められる大いなる方、キリストは世の罪を持続して取り除かれており、そして絶えず取り除かれます。

しかし、あなたは自分自身で神の小羊を信頼しなければなりません。 あなた自身の為にキリストを知らなければなりません。 あなた自身がキリストを信じなければなりません。 その後、今重荷であり、あなたが悟らされた罪を、キリストは確かに取り除いてくださいます。 そして、あなたは、

“キリストの血によって今は義とされている”(ローマ人への手紙第5章9節)

キリストはあなたの罪を取ってくださいます。 それは神の御前にもう存在する事はありません。 あなたは永遠にそれから解放されるでしょう。 私が伝えているキリスト・イエスを信頼するよう神があなたを助けてくださいますように!

Ⅵ. 六番目に、ヨハネはキリストによる犠牲の完璧さを説いた。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)  

キリストが取り除くことの出来ない罪はありません。 十字架での彼の犠牲には限界はありません。 彼は世の罪を取り除かれます。 あなたの罪を取り除ける人は誰もいません。 他による贖いもしくは犠牲などはありません。 “浄罪界”での治療的な苦しみなどは罪を取り除くことは出来ません。 苦しさや後悔なども罪を取り除くことは出来ません。 キリストだけが、世の罪を取り除くことが出来ます。 彼の他には誰もいません。 キリストが、世の罪を取り除くことを可能にしました。 しかし、あなた自身がキリストを受け入れなければなりません。

“いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。”(ヨハネの黙示録第22章17節)  

しかし、忘れないでください。

“不信仰の者は罪に定められる”。(マルコによる福音書第16章16節)

あなた自身、キリストに身を投げかける事が必要です。 そうすれば、このテキストは完全にあなたのものになるでしょう。

“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

ここまでは、私はスポルジョン(Spurgeon)の偉大な説教“見よ、世の罪を取り除く神の小羊”(The Metropolitan Tabernacle Pulpit ,Pilgrim Publications,1974 reprint from October 16,1887,volume XXXIII,pp.565-576)を要約し簡潔にしたものをあなた方に伝えました。  しかし、私はもう一つの要点を加えます。

Ⅶ. 七番目に、ヨハネはキリストによる犠牲の恩典を受ける方法を説いた。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

この“見よ”の言葉は、“見向く”という意味です。 ギリシャ語では“ideh”です。 それは命令的な意味を含みます。 すなわち、ヨハネは、あなた方にキリストに目を向けるように急き立てるつもりで言っています。 それが罪からの救いを受け入れる方法です。 キリストを信仰を通して見なさい! 信仰によって彼に目を向けなさい!

ドイツの牧師、スパンゲンバーグ氏(Mr. Spangenberg)は、ジョン・ウェスリー(John Wesley)(かってのメソジスト教会の創設者)に、“イエス・キリストを知っていますか?”と尋ねました。 まだ改していなかったウェスリーは答え、“私はためらって言った、‘彼が世の救い主である事は知っている!’。 ‘もっとも’と彼は答え、‘では、あなたは彼があなたを救った事を知っているか?’と彼は尋ねた。 私は、‘彼が私を救う為に死なれた事を望んでいる。’と答えた。 そこで彼は、‘あなたは自分自身をわきまえているか?’とだけ言い加えた。 私は、‘知っている’と言った。 しかし、それらがむなしい[間違えの、想像上の]言葉であったと私は思う。”(John Wesley’s Journal, February7,1736)

二年と三ヶ月後、ウェスリーは未だに救いについて確かではなく、なおかつ救いについて奮闘していました。 彼が次のような事を日誌に書けるようになるために、二年と三ヶ月間におよぶ神に対する奮闘がありました。 

私の為に流されたキリストの血に完全に信頼する事を、彼に完全に信頼する事を・・・私は求めようと決意した。”(John Wesley’s Journal, May 14, 1738, emphasis his). 

その何日か後、1738年5月24日、午後8時45分、ウェスリーは聖書研究のグループにいました。

“その晩、私はまったく気の向かないまま、アルダーゲイト通り(Aldersgate Street)の集まりに出席した。 そこでは、ローマ人への手紙についてのルターによる序文が読まれていた。 8時45分ぐらいに、その人が、神はキリストによる信仰を通して心の中に働きかけられるという変化を語っていた時に・・・私はキリストを信頼した事、キリストのみによる救いを心に感じた。 そして、キリストが私の罪、私の罪でさえをも取り除いて下さり、罪と死の律法からを救って下さった、という確信が私に与えられた”(John Wesley’s Journal , May 24, 1738, emphasis his). 

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

バプテスマのヨハネがどんなにか確信をもって、そして何と自信を持って述べたかに注目してください。 彼は目の前で罪を負われたイエスをみました。 彼は他の人達にもイエスを見るように語っています。 信仰によって、イエスを見なさい、そうすればあなたは生きるでしょう! イエスはこう言われました。

“わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。”(イザヤ書第45章22節)

一度、あなたの罪の為に十字架につけられた、そして今、天の神の右座におられるキリストを見なさい。 キリストを見なさい、そうすればあなたは救われます。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

キリストを見る事は、彼に来る事と同じ事です! あなたは、“彼に来ることは出来ない”と言うかもしれません。 では、簡単な信仰によってキリストを見てください。

あなたはキリストに自らの信仰を持たなければなりません。 さもなければ、あなたの罪が取り除かれる体験をする事はないでしょう。 キリストを見なさい! 彼に来なさい! 彼は御自分の尊い血によって、あなたの罪を洗い流し、清めてくださるでしょう!

もし、あなたが罪から解かれたいならば、神の小羊を見よ;
キリストはあなたを贖うためにカルバリーで死なれた。 神の小羊を見よ。
神の小羊を見よ、神の小羊を見よ、
彼のみがあなたを救う事が出来る。神の小羊を見よ。
   (”Look to the Lamb of God “ by H.G. Jackson, 1838-1914)

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医士による説教前の聖書の朗読: ヨハネによる福音書第1章15-29節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱:
“A Crown of Thorns” (by Ira F. Stanphill, 1914-1993)


要 綱

神の小羊をを見よ-ジョン・ウェスリー師による注解を用いて。

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“見よ、世の罪を取り除く神の小羊。”(ヨハネによる福音書第1章29節)

(I Corinthians 2:2; 15:3; Isaiah 53:4)

I.   最初に、ヨハネは彼自身この真実に気が付いた。マタイによる福音書第3章17節。

II.  次に、ヨハネはキリストを“唯一の”犠牲と説いている。 使徒行伝第4章12節。

III. 三番目に、ヨハネは“神の”犠牲としてキリストを説いた。 マタイによる福音書
 第27章46節;使徒行伝第2章23節;イザヤ書第53章10節;ヨハネによる
 福音書第1章29節。

IV.  四番目に、ヨハネは私達の罪を負いそして取り除くキリストを説いた。 
イザヤ書 第53章6節;ペテロの第一の手紙第2章24節;ヨハネの第一
の手紙第1章7  節。

V.   五番目に、ヨハネは絶えず罪を取り除いてくださるイエスを説いた。 
ローマ人へ  の手紙第5章9節。

VI.  六番目に、ヨハネはキリストによる犠牲の完璧さを説いた。ヨハネの黙示録第22
 章17節;マルコによる福音書第16章16節。

VII. 七番目に、ヨハネはキリストによる犠牲の恩典を受ける方法を説いた。
イザヤ書  第45章22節。