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その血にある特徴

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE CHARACTER OF THE BLOOD
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年11月26日、主の日の晩の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, November 26, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)


マーティン・ロイド‐ジョーンズ博士は、真のリバイバルなしには西洋の国々のキリスト教には望みはない、としばしば言っていました。 北アメリカやヨーロッパの教会について語った彼の言葉を注意深く聞いてください。 

もし、あなた方が1830年もしくは1840年以前の教会の歴史書を読むならば、多くの国々で、ほぼ10年余りに一度は定期的な宗教のリバイブルがあった事を見出すであろう。 最近ではそうではなくなっている。 1859年以来、一度だけ偉大なリバイバルがあっただけである。 それ以降、我々は何事も起っていない時代を越してきた・・・。 そして、我々は長い教会の歴史の中でも最悪な時代のうちの一つの時代を越して来ている。 我々は、畑で豚と無駄な時間を過ごし、いなご豆だけで生活をしていた放蕩息子のようである。 その通り、我々は束縛された状態におり、恐れの中におり、迫害や嘲笑される事で苦しみ、そして今でもそのような状態にいる。 我々はいまだにそのような不幸な状態にいる。 我々はそういう状態から抜け出ている、と言うような言葉を信じてはならない、そうではない。 教会はいまだにそのような荒廃した状態にいる・・・。 キリスト教会はいまだに非常に不健全な状態におり、自分達自身に大そうな確信を持っており、教会はもう一つの編成をし、また何らかの活動を必要としているだけであると強く確信をもっている。(D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., Revival , Crossway Books, 1987,pp.129-130)

一方では、私達は、聖霊についての強調、感情的なフィーリング等の強調、、そして動揺し、動悸している会衆に叫ぶ “賛美”とみなされたような事、そして、多彩な要素を含んだ偽りの教えなどを強調しており、その反面、私達は教義、また聖書研究なども強調しています。 教義は教えの為、聖書研究は聖書の研究の目的であり、学んではいても、実際、真実に近づく事が出来ず、決して個人的な真の知識に達する事も出来ず、決してリバイブルを知る事もなく、リバイブルの理論は把握しても、リバイブル自体を体験する事はないのです! まったく無味乾燥な理論であり、教えられても得る事が出来ないのです。 学んではいても熱望する事がない! 教えてはいるが説教しない! 知識を与えるが改心しない! そして他では、方法論的な事が優位を占めているのもあります。 もし私達が、多くの人達を集める為の教会いの拡張、“漸進的”、目的にかられた社会学的な扱い、ロックミュージックの効力そして可能性を信じる思考、そして肯定的な思考である通俗的な心理学などによる推進などと、このような方法を正しく取り入れることが出来れば、私達の必要性は満たされると言う様なことを私達は教えられています。 しかしながら、悲しい事に、私達はロイド・ジョーンズ博士が、「我々はいまだにそのような荒廃した状態にいる。 我々はそういう状態から抜け出ている、と言うような言葉を信じてはならない」と言った事を認めなければなりません。

真のリバイバルがついにやって来る時、わたしはそれがやってくる事を確信していますが、それは人による方法ではなく、また“新しい思いつき”等によってでもなく、そして“漸進的な”メッセージや正しいながらも無味乾燥な理論等によって来る事はないでしょう。 真のリバイバルがついにやって来る時には、時代を超えて起こった全ての真のリバイバルに付随した、同じ古からのメッセージに先導されて来るのです。

“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)

使徒行伝にある彼らの教会で、使徒たちは偉大なリバイバルの主題であるキリストの血、に幾度も幾度も戻ってきました! 使徒たちはこう言いました。

キリストの血によって今は義とされているのだから(ローマ人への手紙第5章9節)

使徒たちは言いました。

その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた
       (ローマ人への手紙第3章25節)

使徒たちは言いました。

わたしたちは、・・・その血によるあがない・・・受けたのである。
      (エペソ人への手紙第1章7節)

使徒たちは言いました。

(御子は)十字架の血によって平和をつくり
      (コロサイ人への手紙第1章20節)

使徒たちは言いました。

キリストの尊い血によったのである(ペテロの第一の手紙第1章19節)

使徒たちは言いました。

御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである
      (ヨハネの第一の手紙第1章7節)

使徒たちは言いました。

その血によって私たちを罪から解放し(ヨハネの黙示録第1章5節)

それがリバイバルのメッセージなのです! それが人の心を動かす説教の典型なのです! それが盲目を見開き失われた者達を改心させるような論説なのです。 そして、それは、私達の神の御霊によりかきたたれる時、かたくなで最悪な罪人にそのような事をなしうる唯一のメッセージなのです!

主よ、今まことに我は見つけ
   汝の力、汝のみによりて 
らい病の斑点を変えてくださり、
   そうして頑なな心をやわらいで下さる
イエスはすべてを償われ、我はすべてイエスに恩義あり
   罪はくれないのしみをのこし
イエスはそれを雪のように白く洗われた。
   (”Jesus Paid It All ” by Elvina M. Hall, 1820-1889)

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)

彼らがエジプトでの苦役を去る前の晩に、神は全てのイスラエル人に小羊の血を皿に取り、ヒソプの葉をその血に浸し、その血を彼らの家の入り口のかもいの上と柱の両側に塗るように語られました。 そして、神は言われました。

“その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。 わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。”(出エジプト記第12章13節)

私は、今朝、「過越しの血」という説教の主題でそのテキストについて話しました(2006年11月26日、主の日の朝の礼拝)。 しかし、時間切れになってしまったので、今晩、続きの説教としてこのとても大切な説教をしています。 これらが、今朝、終わらすことの出来なかった四つの要点です。

Ⅰ 最初に、それは汚れのない小羊の血であった。

神は彼らが過ぎ越しの為に殺す小羊について語られました。

“小羊は傷のないもの”(出エジプト記第12章5節)

私達は、主イエス・キリストが“傷のない”、まったく欠陥もない、少しの汚れもない小羊であった事を、何度も何度も、広め、また宣言しなければなりません。 

“世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネによる福音書1章29節)

傷のない小羊とは、すなわち神の真の小羊であるイエス・キリストのみを指します。 その通りです。 イエスは試練に会われました。 しかし聖書では、このようにも書かれています。

罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。”(へブル人への手紙第4章15節)

“罪は犯されなかったが”という言葉、傷のない小羊と全てのアダムの罪なる子孫達の違いに注目してください!

この世で生きた全ての人々の中で、人であり神でおありになるキリストだけが一度も罪を犯されなかったのです。 使徒パウロが言っているように、   

“罪を知らないかた”(コリント人への第二の手紙第5章21節)

キリストは“罪を知らない”、“罪は犯されなかった”、神であり人である方です。 また、使徒ペテロが言っているように、

“キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。”(ペテロの第一の手紙第2章22節)

“傷のない小羊”、罪のない神の御子を見なさい! イエスは義なるかたであるのに不義なる人のために、死なれました! キリストはあなたの全ての罪を洗い流す事ができます、なぜなら罪のない血だからです! 他のどのような血もあなたを清める事は出来ません! それは“傷のない”小羊、神であり人である方の血によってでなければなりません。 それが唯一の罪を清める主イエス・キリストの血なのです。

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”
      (出エジプト記第12章13節)

Ⅱ 次に、それは神の怒りを回避した血であった。

“主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。”(出エジプト記第12章23節)

それは典型的に次の節を指しています。

“神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。”(ローマ人への手紙第3章25節)

“供え物”は神の義を満たすこと、私達の罪の償い、神の怒りの譲歩などを表現しているのです。

それらの家に住んでいたイスラエル人達は、エジプト人と同様罪人でした。

“すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており”
      (ローマ人への手紙第3章23節)

では、どうしてエジプト人には神の怒りが下り、彼らには下らなかったのでしょうか? その唯一の理由はこれです-それらのイスラエル人の罪は、その血によって、許されており、宥和され償われたのです!

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”
      〈出エジプト記第12章13節〉

マーチン・ルーテルはこう言いました。

永遠の存在にある神は、我々の罪の供え物として、キリストを定め、そして置かれた。 しかし、それはキリストを信じる者達だけの為にである。(Martin Luther, Th.D., Commentary on Romans 3: 25)

あなたはキリストに来て彼を信じなさい。 なぜなら、神が言われたからです。

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”
      (出エジプト記第12章13節)

Ⅲ 三番目に、それは一つの条件の上で効果のあった血であった。

スポルジョンは尋ねられました。

“条件付の救いを説教するか?”と尋ねられ、その通り,私はそうする。 それには一つの条件が伴う、“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。” なんともすばらしい条件であろうか! それはあなたがその血を見る時とは言っておらず、私はその血を見て、とある。 あなたの信仰の目はかすんでいるゆえ、キリストの血を見る事が出来ないであろう。 それは正しい、しかし神の目はかすんではおらず、神は見る事がおできになる。 その通り、神は御覧にならなければならない。 なぜならば、天におられるキリストは父の御前で常に御自分の血を示さなければならないからである。 イスラエル人はその血を見る事が出来なかった;しかし神は御覧になった。 それゆえこれが唯一の罪人への条件である。- 神がその血を御覧になる事:あなたがそれを見る事ではなく。・・・疑いを持つ者達よ、ひざまづき、祈りなさい。 これをあなたの嘆願とせよ。- “主よ。その血のゆえに、私を哀れんで下さい、わたしが望む事が出来るほども見る事をは出来ない、しかし、神よ、あなたは御覧になる。 そして、あなたは言われた、”わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう“と。 主よ、どうか、あなたが今日、それを御覧になり、わたしの罪を過ぎ越してくださるように、そしてわたしの罪の故にお許しください。”(C. H. Spurgeon,“ The Blood,” The New Park Street Pulpit, volume V, Pilgrim Publications, 1981 reprint,p.31)

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)

Ⅳ 最後に、彼らを容赦したのはその血のみであった。

どれほど度々、聖書はこの事について語っているのでしょうか? レビ記17章11節では、このように言っています。

“血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。”(レビ記第17章11節)

キリストは言われました。

“これは、罪のゆるし得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。”(マタイによる福音書第26章28節)

使徒パウロはこう言いました。

“神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるため”〈使徒行伝第20章28節〉

再び使徒パウロは言いました。

“血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない。”(へブル人への手紙第9章22節)

使徒ヨハネは言いました。

“御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。”〈ヨハネの第一の手紙第1章7節〉

再び使徒ヨハネは言いました。

“わたしたちを愛し、その血によって私たちを罪から解放し”(ヨハネの黙示録第1章5節)

そして、クリスウェル博士(Dr. W. A. Criswell)は、このように語っています。

これが神による私達の救いの為の手段である。 これが神の私達の罪に対する応答である。 これがヨブが“わたしは罪を犯した。 神よ、わたしはどうすべきであろうか?”と叫んで言った時に、主が応答された事である。 これが“この血がわたしの手を清めるように偉大なネプトゥーヌスの海は清めるであろうか?”と叫んだマクベスへの応答である。これが私達の祖先がよく歌った昔の賛美歌への応答である。

我が罪を洗い流せるのは何か?
イエスの御血以外にはなし;
再び我を完全にできるのは何か?
イエスの御血以外になし。

ああ、尊きは御血の流れ
それが我を雪のごとく白くなし;
他には知らず
イエスの御血以外になし。

(W.A. Criswell, Ph.D., With a Bible in My Hand, Braodman Press, 1978, pp 79-80)

“わたしはその血を見て、あなたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)

今晩、あなた方に質問したいのはこれです。 - 小羊の血でもって洗い流されましたか? イエスに来たことがありますか? イエスの尊い御血はあなたの罪を清めましたか? 起立をして、6番目の賛美歌を歌いましょう。 声を上げて、力強く歌いなさい。 そして、歌う歌の歌詞を考えてみなさい。

清めのために、イエスに来ましたか?
小羊の血で洗い清くされましたか?
今のとき、完全にイエスを信頼していますか?
小羊の血で洗い清くされましたか?
血で洗い清くされ、
魂の清めの小羊の血で?
あなたの衣類はしみがありませんか? 雪のように白いですか?
小羊の血で洗い清くされましたか?
   ("Are You Washed in the Blood?”
      by Elisha A. Hoffman, 1839-1929)

もし、執事のケイガン先生と私に、あなたの罪を洗い流すイエスの御血の必要性について話をしたいのでしたら、二階のフェロシップ・ホールに行く途中にある小さな休憩室に寄ってください。 神が、あなたの魂の永遠の救いのためにこの福音の説教を祝福してくださるように。 アーメン。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医士による説教前の聖書の朗読: 出エジプト記第12章1-13, 22-23節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱:
“When I See the Blood” (by John Foote, 19th century)


要 綱

その血にある特徴

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。”(出エジプト記第12章13節)

(ローマ人への手紙第5章9節;第3章25節;エペソ人への手紙第1章7節;
コロサイ人への手紙第1章20節;ペテロの第一の手紙第1章19節;
ヨハネの第一の手紙第1章7節;ヨハネの黙示録第1章5節)

I.   最初に、それは汚れのない小羊の血であった。
出エジプト記第12章5節;ヨハネによる福音書第1章29節;
へブル人への手紙第4章15節;コリント人への第二の手紙第5章21節;
ペテロの第一の手紙第2章22節。

II.  次に、それは神の怒りを回避した血であった。
出エジプト記第12章23節;ローマ人への手紙第3章24-25, 23節。

III. 番目に、それは一つの条件の上で効果のあった血であった。
出エジプト記第12章13節。

IV.  最後に、彼らを容赦したのはその血のみであった。
レビ記第17章11節;マタイによる福音書第26章28節;
使徒行伝第20章28節;へブル人への手紙第9章22節;
ヨハネの第一の手紙第1章7節;ヨハネの黙示録第1章5節。