Print Sermon

これらの説教文書は、毎月221か国以上の約11万6千台のコンピューターへwww.sermonsfortheworld.com から送られています。他に数百人の人々がユーチューブのビデオを視聴していますが、各々のビデオは、直接私達のウェッブサイトを紹介していますので、すぐにユーチューブを離れ、私達のウェッブサイトにやって来ます。 説教文書は40カ国語で毎月何十万人もの人々へ送られています。また、説教文書は著作権で守られていませんので、説教者の方々は、私達の許可なく使用することが出来ます。 イスラム教圏やヒンズー教圏を含む世界中へ福音を広めているこのすばらしい奉仕への支援に御関心のある方は、 月々の寄付金の送金方法をお知らせしますので、ここをクリックして下さい

ハイマーズ博士に電子メールを送られる際は、どこの国にお住まいかをいつもお知らせ下さい。そうでありませんと、先生はお答えすることができません。ハイマーズ博士の電子メール住所は rlhymersjr@sbcglobal.netです。




見えるものを越えた目標を目ざせよ!

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

AIM BEYOND THE VISIBLE!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年10月22日、主の日の夜に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, October 22, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”(コリント人への第二の手紙第4章18節)


この節は非常にすばらしく貴重な言葉です。 なぜならその中に、私たちはクリスチャンとして成功する秘訣を見出すからです。 使徒パウロは何が彼を持続させていったのかを私たちに説明してくれています。 パウロの生涯を考慮して見て下さい。 最初は、彼はよく名の知れた立身主世した身分の人でした。 しかし、彼がクリスチャンになった時、彼は評判を失い、苦悩や困窮の生活へと変わっていきました。彼は石を投げられ置き去りにされました。 彼は五回ほどむち打ちをされ、三回ほど死ぬほどまでに打ちたたかれました。 彼は強奪にも出会いました。 彼は木の断片にしがみつき一日半も海上で過ごしたこともありました。 友人達、皆にも彼は見捨られました。 彼には帰る家もありませんでした。 彼は生涯の最後を牢獄で過ごし、最終的にネロによって打ち首にされたのです。 使徒パウロは激しい奮闘、苦痛、そして苦難を生き抜きました。 - 何が彼をそうも(クリスチャンとして)持続させたのでしょうか? 何が彼をこれほどの暴力行為や苦難を受けながらも、そんなにも穏やかで満足させたのでしょうか? 

もしあなた方がその答えを見出すならば、それはクリスチャンになる事だけではなく、更に、クリスチャンとしての生活をしていく上でも手助けとなる事でしょう。 彼はこのような事を内心ひそかに留めてはいませんでした。 そして、率直な方法で彼の嵐のような人生の中での自分の穏やかさや耐久力の秘訣を教えてくれています。 

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

私たちが最初に知るべき事は「目を注ぐ」と言う意味です。 私たちが、「目を注ぐ」と訳されたギリシャ語の言葉の本来の意味を知れば、後に続く節は比較的に容易に理解できます。

“わたしたちは、見えるものにではなく・・・目を注ぐ”

その「目を注ぐ」と言う本来の意味は、「ねらいを定める」という事です。 (Strong #4648) 「目を注ぐ」は「ねらいを定める」を意味するという事に関して、私たちもジョン・トラップに同意出来ると私は思います。 (John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, Tanski Publications, 1997 reprint, volume 5, p.559) ですから、使徒パウロは、見えるものに「ねらいを定める」のではなく、「見えないものにねらいを定める」ように私達に告げているのです。

もしあなた方がクリスチャンになる事を、そしてクリスチャンとしての生活を続けていくよう望むならば、一時的な事ではなく、永遠に続く事にねらいを定めなければなりません。 ですから、ここで私たちのテキストは二つの要点に分けられる事ができます。

Ⅰ 最初に、見えるものから見えないものへねらいを定める。

あなたの配慮や人生の目標を、実際に目で見える事以上のものに向けなさい。

“見えるものにではなく、見えないものに・・・。”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

これはコロサイ人への手紙第3章1‐2節で使徒パウロが私たちに語っている言葉です。

“上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。”(コロサイ人への手紙3章1‐2節)

“見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

あなたの心と人生のねらいを、物質的な見る事のできる世界ではなく、それを超えたところに定めなさい。 あなたの心と人生の目標、そしてあなたの心中の願望を、“見えるものにではなく、見えないものに”向けなさい。

ほとんどの人達はそういうことはしません。 私たちはコリント人への第二の手紙の中の前の方で、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、と語られています。

“この世の神(悪魔)が不信の者たちのおもいをくらませて” (コリント人への第二の手紙第4章4節)

改心していない男性または女性は、彼らが“神の御霊の賜物を受け入れない”(コリント人への第一の手紙第2章14節)ように、悪魔によって盲目にされているのです。 ですから、使徒パウロは彼らを生まれながらの人と呼んでいるのです。

“生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない” (コリント人への第一の手紙第2章14節)

悪魔の、盲目にする力から解放された男性または女性のみが、パウロがこのように言った事について理解する事が出来るのです。

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ(ねらいを定める)”(コリント人への第二の手紙4章18節)

ヘンリー・アルフォードは、この世に属する物を私たちの人生の目標と定めてはならない、と云う事を明確に語った初期のクリスチャンの説教者クリソストムについて言及しました。 その古代の説教者クリソストムがはっきりと“ある事によって我々が苦しめられようが、気楽にさせられようが、また他の事に我々が押し下されようと、全てのものは見える事である。”(Henry Alford, The New Testament for English Readers, Baker Book House, 1983 reprint, volume III, p. 1111). 再び、クリソストムは、“彼(クリスチャン)はある事によって思いとどまらされてはならず、また他の事によって励まされてもならない。”(同著)

私たちは自分達の思いを向上させ、また、

“見えるものにではなく、見えないものに”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

目を注がなければなりません。 簡単な言葉に言い換えれば、その使徒は私たちの思いや生き方を実際に目で見えるものを越して見えないものへと目指し、また目標とするように語っているのです。 あなた自身を見えるものから見えないものへと向かせ、また目標として定めなさい!

中国や東南アジア、インドやアフリカそして南アメリカの地域のような、多くの後進国では、アメリカやヨーロッパなどよりもこのテキストに関しては遥かに理解を持っています。 中国やほかの困難な国などのクリスチャン達は、これを理解するのによりよい立場に置かれているのです。 このような困難や迫害の中で、もし彼らが神から御恵みや助けを授けられるよう期待しているならば、彼らはパウロが私たちのテキストの中で語っているような状態にもどるように“強いられている”とも言えるでしょう。 もし彼らがそうしなかったならば、非常な困難の迫害の下で続けていく事は不可能なことでしょう。 しかし神の御恵みにより、彼らは持続して来ており、“勝利者以上の者たち”なのです。 彼らの秘訣は、

“見えるものにではなく、見えないものに・・・”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

焦点を置き彼らの人生を定めています。

では、何が私たちの人生の目標と定めるべきではない“見えるもの”なのでしょうか? ギル博士は“見えるもの”を目指し、奮闘するべきではない、と私達に語っています。 それらは目に見えるものであり(金銭)、名誉、楽しみ、利益、といったこの世に属するもので、生まれながらの(改心していない)人間の良識に打撃を与えるものである。(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume II, p. 783).

あなた方は金銭、名誉、楽しみ、そして利益などのような、この世に属するものを見、そして触れる事が出来ます。 これらのものは、ほとんどの人達が彼らの人生の中での目標とする目に見えるものです。 しかし、クリスチャンになりたいと望む人、もしくはクリスチャンとしての生活の成果をあげようと努める人は、これらの“目に見えるもの”を目標と定めてはなりません。 彼の目標や目的はこの世にある目標や目的などよりも遥かに高貴な、そしてよりよいものでなければなりません。 もし、彼がクリスチャンの生活のなかで成果を挙げる事を望むならば、使徒パウロがしたように、目で見えるものを超えて見えない世界に目を向けなければなりません。

“見えるものにではなく、(それらの事を心に留めず、それらのものをあなたの人生の目標とせず)、見えないものに目を注ぐ(目標を定める)”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

そうすれば、まさに、パウロが彼の全ての困難、苦しみ、そして、彼の生活や奉仕の中で直面した偉大な難問の中で成果を挙げたように、あなたもクリスチャンとして成功するでしょう。

正教徒の注解者であるジョン・トラップは、“冬の夜に、裸にされ次の日に(不信者によって)燃やされようとしている殉教者達が、どんなにもこれらの言葉で互いに、自分達を慰めあっていたか。(彼らは互いにこう言い合った)冷たさは厳しくとも、天国は快いもの;困難は(キリストの為に生きるのには)付きもの、しかし、我々の旅の行き先には楽しい事があるであろう;少しの間冷たさに耐えよう、そうすれば(アブラハムの)ふところが我々をすぐに暖めてくれるであろう;しばらくの間、(不信者につけられた炎によって)我々の足を燃やそうではないか、そうすれば天の御身使い達と永遠に踊れるであろう;(不信者達につけられた)炎の中に我々の手を下そうではないか、そうすれば、それが永遠の命にとどまるであろう、などと私たちに教えてくれた。”(古代のクリスチャンの作家)バジル(Basil)について書いています(John Trapp, ibid., p. 559).

正当なクリスチャンであるがために、誰が私たちに対して落ち度を見つけようとも、それらの殉教者達が成したように、常にそして絶えず、このテキストを忘れないようにしましょう。

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

使徒パウロと共に唱えましょう。

“しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。”(ピリピ人への手紙第3章7‐8節

彼はキリストを通してこの世に打ち勝つ秘訣を知っていたからこそ、そう言う事が言え、それを私たちのテキストの最初の方で概説しています。     

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ(目標を定める)・・・”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

パウロの人生の目標や目的は見えるものを超えたものでした。 彼は、キリスト・イエスを通して、神の富を目標にしていました。 彼は、天国を-そして天の国で彼を待ち受ける永遠の栄光を目標にしていました!

Ⅱ 次に、一時的なものを越えて永遠のものへと目標を定めなさい。

私は、このテキストの最後の部分を除きしましたが、それが私たちの次の要点なので、ここでそれを戻しましょう。 立って、コリント人への第二の手紙第4章18節をもう一度、声を上げて読んでください。

“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ:見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

着席してください。

私達は目に見えないものを目標と定めてはなりません。 なぜなら、見えるものは“一時的”であり、それは“しばらくの間(だけつづく)つかの間”(Strong #4340) だからです。 目に見えるものはほんのつかの間だけの事です。

これがまさに信仰の主要なるものではないでしょうか?

“さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。”(へブル人への手紙第11章1節)

ジョン・ベンガルは、“今、実際に目で見えない多くのことは、私達の信仰の旅が終った時に、見る事ができるであろう。”(John Albert Bengel, Gnomon of the New Testament, Wipf and Stock Publishers, n.d., volume III, p. 374).  私達はいつか、イエスに出会うでしょう。 私達はいつか、新しいエルサレムの天国を見るでしょう。 そして、私達はいつか、悪魔が抑制され、キリストがこの地上の全てを支配されるのを見るでしょう。 これらは永遠に続く事柄のいくつかです。 これらは私たちが目標とし、そして期待し、そして信仰により求めるべき事のいくつかです。

“信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。 彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。”(ヘブル人への手紙第12章2節)

“信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。 なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。”(へブル人への手紙第11章6節)。

“わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。”(コリント人への第二の手紙第5章7節)

それゆえ、スポルジョン(Spurgeon)はこう言いました、

永遠のものを、思いを一つにして追い求めなさい。 あなたは、競争を勝ち抜き栄冠を獲得するために、その競技のゴールを見据えなければならない。 競技者は、右や左によそ見をしたりはしない、また路上に咲き誇る花などに目をくれたりはしない、ただ、待ち受けている栄冠に思いを置くのである。 そして、そのことが競技者を走り通させるのである。 彼は、ゴールに向けて全身全霊をそそぎ、栄冠を勝ち取る・・・いつでも永遠のものをあなたの人生の目標にしなさい・・・あなたの人生の計画設定をそのためにしなさい・・・あなたが思い、考慮することをそのためにしなさい・・・そして、あなたはそのために生き行動をとりなさい。 あなたの全てを永遠のものに注ぎなさい。(C.H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1996 reprint, volume 23, p. 599).

あなた方の中の数人の人は、このためにキリストに来ることを妨げられているのではないでしょうか?  あなたの思いは、永遠のものにではなく、この世の一時的なものに置かれているのではないでしょうか? もし、それらが真実であれば、あなたは自分の思いをこの過ぎ去るものから離れさせ、信仰でもってキリストに来ることを祈ります。 そして、あなたは私たちと一緒に心からこう歌えるでしょう、

我は、約束の地に向かう、
我は、約束の地に向かう、
我と共に来るものはいったい誰か?
我は、約束の地に向かう。
   (”On Jordan’s Stormy Banks” by Samuel Stennett, 1727-1795).

賛美歌の7番(”I Am Bound for the Promised Land”)を開いてください。 ソング・シートを上げて、“On Jordan’s Stormy Banks”を力いっぱいの声で歌いましょう。 そして、まだ改心していないあなた方にとって、私たちの“我と共に来るものはいったい誰か?”の歌詞があなた方の心に訴えて、“見えないもの[それらのみ]は永遠である”のために、私たちに加わるように。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
住所:www.realconversion.com (Sermon Manuscripts) をクリックしてください。

クレイトン L. チャン医学博士による説教前の聖書の朗読:
コリント人への第二の手紙第4章8‐18節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱: “My Faith Looks Up to Thee” (by Ray Palmer, 1808-1887)


要 綱

見えるものを越えた目標を目ざせよ!

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”(コリント人への第二の手紙第4章18節)

I.   最初に、見えるものから見えないものへねらいを定める。
コリント人への第二の手紙第4章18甲節;コロサイ人へ
の手紙第3章1‐2 節; コリント人への第二の手紙第4章4節;
コリント人への第一の手紙第2 章14節;
ピリピ人への手紙第3章7‐8節。

II.  次に、一時的なものを越えて永遠のものへと目標を定めなさい。
コリント人への第二の手紙第4章18乙節;へブル人への手紙第11章1節;
 12章2節;11章6節;コリント人への第二の手紙第5章7節.