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伝道に欠けている要素-ローカルの教会内での愛

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE MISSING ELEMENT IN EVANGELISM-
LOVE IN THE LOCAL CHURCH!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年10月8日、主の日の晩に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, October 8, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章34‐35節)


過越しの祝いの食事が終わりました。 しかし、イエスは主の聖餐を始められる前に、一息つかれました。 彼はタオルを取り、たらいに水を満たされ、そして、弟子たちの足を洗い始められました。 彼は、イエスを裏切ろうとしているユダを含め皆の足を洗い、乾かされました。 その後、このように言われました、

“わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。”(ヨハネによる福音書第13章15節)

イエスは何を示されたのでしょうか? それは象徴的な行いで、私たちのテキストの意味を表しています。

“わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章34‐35節)

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい」とキリストは言われました。 彼の戒めに関して何が新しい事だったのでしょうか? 旧約 聖書のレビ記第19章18節に、“あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。”と書かれています。 では、これはどうなのでしょう、新しい戒めですか? 旧約聖書では、“あなた自身のように”あなたの隣人を愛せ、と言っています。 新約聖書は、 “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互に愛し合いなさい。”と言っています。 スポルジョンは、「それ(旧約聖書)は、善意(または慈悲)なる愛のことであり、これ(新約聖書)は、親近的な(つながりのある)そして身近な関係の愛を表している。」 と言っています。 (C.H. Spurgeon, “Christ’s New Commandment,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, number 2,936, volume 51, p.242) 更にキリストの“新しい”戒めは、世間一般の人達に優しくするようにではなく、“互いに愛し合うこと”を表しています。 それは、ローカルの教会内での互いに愛し合うクリスチャンを示しています。

結局のところ、これら十二の弟子たちは、最初の新約聖書の教会にある、まさに中心となる人達ではなかったのでしょうか? もちろんそうでした。 ですからキリストの“新しい”戒めは、“わたしが愛したように;互に愛し合いなさい”、とローカルの教会内のクリスチャンに対して告げられているのです。 ローカルの信徒の集いの兄弟そして姉妹たちは、キリストが弟子たちを愛されたと同じ様に互に愛し合うように、とキリストにより告げられているのです。 弟子たちへのキリストの愛は、ほんのつかの間の感情的なものではなかったのです。 それは真実なものでした。 キリストは御自分を彼らに貢献されました。 彼らの事に気を配られ、彼らの足をもお洗いになりました。 キリストは彼らの為に御自分の命さえもお与えになりました。 そうして、私たちに「わたしがあなたを愛したように、互に愛し合いなさい」、と告げられたのです。 

私たちは、キリストの新しい戒めに従ってローカル教会のために奉仕し、そして祈ります。 私たちは、自分たちを互いに分かち合い、気使い、そして互いに奉仕しようと心から努めています。 

新しくこの教会に来て救われた人には、私たちは、その人を兄弟姉妹として喜んで応対すべきです。 彼らは大切にされ、気を配られ、そして心から愛されるべきです。 

私たちの教会に非常に年のいった男性がいます。 今週、彼の95歳の誕生日を祝いました。 プレゼント、バースデー・ケーキ そして大きなお祝いの催しなので、とてもよく彼にふさわしいものでした。 ある人は、“彼はたいした事もできない、ただの年寄りではないか。 なぜ そのような大げさな事をするのか?”などと言うかも知れません。 それはなぜなら、彼はこの教会で何年も通して大いに主に奉仕してきたキリストの内なる兄弟だからです。 彼が大切に扱われ、気を配られ、そして心から愛されることは正しくふさわしい事であり-そのように私たちの愛を、彼に表現すべきです。

二週間前の私たちの結婚記念日のお祝いに、妻と私はあなた方から何とも非常に意義のある贈り物や感謝の気持ちをいただきました。 その晩教会で、妻と私にあなた方の愛を示してくれた事は、あなた方にとって正当な事だったでしょうが、私にとってもほぼ二日間かかって、私たちに愛を示してくれたあなた方の一人一人に、短い感謝の手紙を書くことは正当であり当然の事だったのです。 それらの手紙を書くことが二日間かかったとしても、妻と私にとって、あなた方がどんなに大切であるかをあなた方の各自に伝える事は正当な事なのです。

私たちの間で、家族の死に遭遇した仲間が3人いました。 それらの兄弟や姉妹達にお悔やみのカードや花束、そして電話などをかけ、励ましや祈りの言葉をかけてやるのは正当な事です。

幾人かの兄弟そして姉妹は、学業で奮闘している学生たちを自分たちの家に住まわせ、彼らが学校でよい成績を収めるよう援助し、自分たちの子供達同然のように世話をしています。 そういう事もまたキリストの新しい戒めを守るということから来ています。

これらのクリスチャンの愛の表現はみな、“わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互に愛し合いなさい”というキリストの新しい戒めを果たす事に、より近ずいています。 

しかも、ローカルの教会内でのこのようなクリスチャンの愛の表現は、失われている人にとって非常に大きな効果を及ぼします。 ここで、伝道によって私たちの教会に来られた無信者たち、すなわち改心していない人達にとっての教会での三つの愛の効果を上げてみましょう。

I. 最初に、ローカルの教会内でのクリスチャンの愛は、この無信の世の中で私達がキリストの弟子である事を表してます。      

テキストの35節を注視し、立って声を上げて読んでください。

“互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章35節)

着席してください。 私たちのお互いへの愛は、私たちがキリスト・イエスの弟子でありそして従う者であることを、この世が知ることの出来る最も偉大なしるしなのです。

私たちは教えに則った説教、完璧に正統であり、聞こえがよく強固で伝道的な説教をすることは出来ます。 しかしもし、私たちの礼拝に来る失われた人たちが、私たちの教会内に感銘深いあふれるようなクリスチャンの愛を見なければ、彼らは私たちの中に何か変わったことを知ることもなく、そして、ここではあえて重要な事は何も行われてはいない、と彼らは思うことでしょう。 しかし、彼らが礼拝に来てそしてその後のフェローシップの時、実際に私たちがお互いに愛し合っていることを知れば-その時に“この人達は神の民である。 この人達はイエスを知っており彼に従っている人達である”と言うような印象を受けるでしょう。

“互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章35節)

スポルジョンは、「このような非常に注目すべき実例を上げてみよう。 キリスト教の初期の時代に、恐ろしい(疫病)がアレクサンドリアに起こった。 その病気にかかった人に近ずく事は非常に危険であり、そのような人に触るだけでもほぼ確かな死を意味した。 その(疫病)が起こった時、アレクサンドリアに住む異教徒達は、その疫病のあらわれがほんの少しでも見られるような人すべてを彼らの家から追い出し、彼らを飢えさせ、感染の恐れのため、彼らの死体を埋める事さえもしなかった。 しかし、クリスチャンがその疫病にかかった時、彼らは互いに訪ね合い、そのクリスチャンたちは死ぬまで一人で放っておかれることはなかった。 彼らは多分にその疫病に感染しうる事も承知の上で、熱心に出ていき、そして互いに訪ね合い(そして気を配り)あった;そのように、アレクサンドリアの外壁に放らされた死体の中にはクリスチャンの(埋められていない)死体はひとつも見当たらなかった。・・・そこで異教徒達は「これはいったいどう言う事なのか?」と不思議に思った。 その答えは、「これはナザレのイエスの宗教である、なぜならこれらのクリスチャンは互いに愛し合っているからだ。」とエジプト中に広がって行った。 どのような説教も、このキリストの愛の真の表れほど、この世で(すばらしく聞かれる)ことはない;そして、神が御自身の教会を誠実な、心暖かい、そして偽りのない愛へと復興させられる時・・・その時、この世は現在の状態以上に福音によって感銘を受けるであろう。」 (同著,pp.249‐250)

大いなる愛で互いに愛し合う事を私たちの教会の目標としましょう。

“互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう”。 (ヨハネによる福音書第13章35節)   

ドイツの偉大な神学者であるジョン・ピーター・ランゲ(John Peter Lange)は、キリスト教の初期の時代に、「異教徒たちは、『見よ、どんなにもこれらのクリスチャンが互いに愛し合っているのか、そしてお互いの為には死ぬ事さえも覚悟している。』と[しばしば]驚き叫んだ。 ルシアン(Lucian)[異教徒である著者]は、あざけってこう言った。 『彼らの立法者[キリスト]は、彼らはみな[兄弟、姉妹]であるように説得したのだ。』」と指摘しています。( Lange’s commentary on the Holy Scriptures, John, p.427)

今日でも、中国、東南アジア、インド、アフリカ、そして中南米などのような後進国では、しばしば非常に困難な状況の中で-かなりの驚くべき行いにより-このようなクリスチャンのお互いへの愛を何度も見ます。 これらは多くの西洋のクリスチャン達を恥じさせるべきです。 どうか神が、私たちの教会が初期のクリスチャンそして後進国のクリスチャン達のようになるよう助けてくださいますように。 キリストの言葉を思い出しましょう。

“互に愛し合えば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章35節)

ローカルの教会内で、クリスチャンたちが互いに愛し合う事は、無信心の世に対して私達がイエス・キリストの真の弟子である、ということの力強い証となります!

II. 次に、ローカルの教会内でのクリスチャンの愛と和合は、無信心の世の中に対して、私達の信仰が真実であるという事の偉大な証となります。

ヨハネによる福音書第17章21節を開いて、立って声を上げて読んでください。

“父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。 すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。”(ヨハネによる福音書第17章21節)  

着席してください。

これは、私たちを次の段階へと導きます。 ヨハネによる福音書第13章35節で、イエスは私たちが“互いに愛し合う”ならば、私たちがキリストの弟子であることをこの世が知るであろうと言われました。 しかし、ここヨハネによる福音書第17章21節で、キリストはもっと深い意味を述べられています。 イエスは、私たちのお互いへの愛によって、この世に感銘を与える事以上の事を伝えていらしゃるのです。 屋上の間を出て、ゲツセマネの方に行かれる時、イエスは天の父にこう祈られました、“みんなの者が一つとなるためであります:あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。”(ヨハネによる福音書第17章21節)

この節は今日“世界教会主義運動”の多くの人達によって誤用されています。 この節を世界教会主義に応用することは馬鹿げた事であり、彼らは、多くが異端者であり無信心者で満ちいる全ての教派が、共に集まらなければならない、という事を言っています。 キリストはそのような事はない、と言っいます。 キリストは“みんなの者が一つとなるためであります”と言っています。 誰のために祈っておられたのでしょうか? キリストは最初のローカルの教会の中心的信者のために祈っておられたのです! ローカルの教会が一致し、そして愛と和合で満ちる、その時に、“あなたがわたしをおつかわしになったことを”この世が信じるでしょう。

しかし、キリストは23節でさらに続けて言われました。 立って声を上げてそれを読んでください。

“わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、かれらをお愛しになったことを、世が知るためであります。“ (ヨハネによる福音書第17章23節)

着席してください。

ヨハネによる福音書第13章35節で、イエスは“互いに愛し合うならば、”この世は私たちが御自分の弟子であることを認めるであろう、と語られました。 ヨハネによる福音書第17章21節では、私たちの和合と愛が、この世に、神がイエスを彼らの罪の為に死に至らせ、そして彼らに命を与える為に死からよみがえらされた事を、納得させるであろう、とイエスは言われました。 ローカルの教会内でのクリスチャンの和合と愛がこのような教えを無信心者たちに納得させるでしょう。

しかし、教えそれ自体は人を救うことは出来ません。 そのようにもう一度、ヨハネによる福音書第17章23節で、キリストはローカルの教会内での和合と愛について戻られ、この時はこの失われた世が彼ら自身のために福音を知る事について言おうとされています。 注意してもう一度聞いてください。

“彼ら(クリスチャン達)が完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、・・・彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。”(ヨハネによる福音書第17章23節)

私たちは、顔が真っ青になるまで説教を続ける事が出来ます。 私たちは、靴が完全にすれてしまうまで伝道し続ける事も出来ます。 しかし、失われた人達が私達の教会に入って来た時に、彼らがクリスチャンの和合と愛を見なければ、彼らは福音が真実であることを“知る”ことがないでしょう。 彼らはキリストが“彼らをお愛しになったこと”を知ることがないでしょう。 

もし、その逆に、失われた人が私たちの教会に入って来て、私たちの一つの心となったお互いへの愛を見るならば、彼らが“あなたがわたしをつかわし、そして彼らをお愛しになったことを知る”(ヨハネによる福音書第17章23節)でしょう。

私は、通常、ジョン・スコット(John R. W. Scott)の著作は好みませんが、先週、彼が書いている事柄(それは深くそして聖書に則って真実である)に感銘を受けました。 スコット氏はこのように述べています、

もし、私たちがお互いに愛し合うならば、かつて御自身をイエスを通して目に見える方とされた、この同じ方である目には見えない神が、今、クリスチャン(教会)の内で御自身を見える方とされるのである。 そして、福音の、言葉で言い表された宣言は、[愛に満ちた教会]により具現されない限り、価値はないのである。 伝道は個人を通してよりもむしろ、特に教会、そこの地域社会を通して成されるものである、と私は信じる。 教会は神の国の目に見える明らかな具現で、新しい交流の場となるべきである。 (Dr. John R. W. Scott, Christianity Today, October 2006, pp.97-98)

失われた人たちは神を知ることが出来ない、とスコット氏は指摘しています。 彼らは神が存在するものであるかどうか不思議に思っています。 しかしクリスチャンの人たちが“ローカルの教会”[彼の言葉]で熱心にお互いに愛し合う時、彼らは“別世界での交際 の場”におり、失われた人たちはその交流に交わる事を望むでしょう-そして、彼らは教会を通して神の愛と実在を感じて来るでしょう。 彼は英国国教会派ですが-これに関しては、昔ながらのよきバプテストのようにも感じ取られます-そして、それに関して、彼はまったく正当であると思います!

ですから、私たちは、このローカルの教会での親交を通して、失はれた人たちが福音を聞けるように、そしてキリストの愛を体験するように、彼らを心温かい親交の場へ連れて来るのです。 そう言う訳で、私達は、“なぜ、孤独でいるのですか? 教会へ来なさい! なぜ、失われているのですか? 神の御子イエス・キリストへ来なさい!”と言っています。

私たちは、できる限りのことをして、互いに愛し合い、そして、祈り合い、助け合うために互いに一つの心をもつようになろうではありませんか。 人が私たちの教会に来られた、その時に、彼らは、“これらの人は、キリストに従う人たちである! 神が、イエスを送られたのに違いない! そうでなかったらこれらの人たちはそれ程までに愛情に満ちていないだろう!”、と言うでしょう。 そして、私の説教を聞き、私達の愛情に満ちた教会で過ごした後に、彼らは、“確かに神がイエスを送られたのだ。 確かにイエスは私を愛しておられる。”と知ることでしょう。 それ程、簡単な事なのです!

III. 最後に、ローカルの教会内にクリスチャンの愛が欠けていたとしても、それは、選ばれた人がキリストに来ることを妨げる事はないでしょう。

ヨハネによる福音書第13章27節に戻ってください。 ユダに関して書いてある言葉に注目してください。

“この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。 そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。”(ヨハネによる福音書第13章27節)

ヨハネによる福音書第13章30節にまで来て、それを立って読み上げてください。

“ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。 時は夜であった。”(ヨハネによる福音書第13章30節)

着席してください。 これは最初の教会の分裂です。 それは、キリストが彼らの足を洗い、主の聖餐を彼らに捧げられた直後の事でした。 その事は残りの弟子達が互いに愛する事を止めさせたのでしょうか? 短期の間だけそうでしたが、長くはありませんでした。 直ぐに彼らはユダが自分たちの間にいた正しからな不信心者であったのに気が付いたのです。 ユダが出て行った後、彼らは再び元の状態に戻り、互いに愛し合い、そのローカルの教会の思いやりのある、愛情のこもった交流へと失われた人達を連れて来ました。

最後に私は、教会内で育った若者たちへの警告でこの説教を終えましょう。 あなた方はユダのように混乱を起こしてきた人を見てきました。 彼らが教会を出て行くのを見てきました。 あなた方は彼らがキリストを裏切るのを見てきました。 しかし、それらの事にあなたがクリスチャンになる事を止めさせてはなりません。 ユダのような裏切る者がいても、ローカルの教会には他にも忠実なクリスチャン達はたくさんいます、そしてユダがいなくとも、教会は愛情のこもった親交を続けていけるのです! ユダが引き起こしたような事を、あなた方がクリスチャンになる事の障害としてはなりません。 あなた方は、そうさせないようにしなさい。 あなた方が、キリストに来るようにと勧められた時に、躊躇しないようにしなさい。 ユダはそうでした-彼は良くない模範です。 自分たちの教会のすばらしいクリスチャン達を見回しなさい。 神に対しての、そしてあなたへの彼らの思いやりを感じなさい。 彼らの祈りや勧めに耳を傾けなさい。 キリストに直ぐにでも来なさい。 長引かせてはなりません。 神の御国へ向かって努力しなさい。 そして、この死にかかっている都会の中で、いわゆるスコット氏が呼んでいる、“別世界の交際の場”、愛に満ちた教会、そして、統一のない文明社会の上に建てられた灯台のように、この教会を築き上げていくように私たちを援助してください。 神の御加護がありますように! アーメン! 

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医学博士による説教前の聖書の朗読:
ヨハネによる福音書第17章20‐23節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱:“The Love of God”(by Frederick M. Lehman, 1868-1953)


要 綱

伝道に欠けている要素-ローカルの教会内での愛

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著


“わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。” (ヨハネによる福音書第13章34‐35節)

(ヨハネによる福音書第13章15節;レビ記第19章18節)

I.   最初に、ローカルの教会内でのクリスチャンの愛は、
この無信の世の中で私達がキリストの弟子である事を表してます。 
ヨハネによる福音書第13章35節

II.  次に、ローカルの教会内でのクリスチャンの愛と和合は、
無信心の世の中に対して、
私達の信仰が真実であるという事の偉大な証となります。 
ヨハネによる福音書第17章21,23節

III. 最後に、ローカルの教会内にクリスチャンの愛が欠けていたとしても、
それは、選ば れた人がキリストに来ることを妨げる事はないでしょう。
ヨハネによる福音書第13章27,30節