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ダヴィンチ・コードに想う

ロバート ハイマース 神学博士 著

THOUGHTS ON THE DA VINCI CODE
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年5月21日、主の日の朝に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, May 21, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“(パウロは)市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。”(使徒行伝第17章16節)


私は今朝、ダヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)について話をします。 ほとんど全ての人達がそれを話題にしているので、他の意見と同様、私の意見を述べることは妥当なことのように思います。 ここで勘違いをしないで下さい―ダヴィンチ・コードは、キリスト教への攻撃です。 あなた方はその本の著者である、ダン・ブラウン(Dan Brown)は、全力投球でもって、キリスト、聖書、そしてキリスト教全般を攻撃していることを悟ることなく、その本を読むことはできないでしょう。 (私はリサーチしながら、その本とこの主題について語っている他の二つの説教を読みました。)

リチャード・アバネスは、 The Truth Behind the Da Vinci Code (Richard Abanes, Harvest House Publishers, 2004)と題する、私が思うには、この主題に関して最適な書物の一つである本を書きました。 この本は、ダン・ブラウンが取り上げている主要な事柄に答えています。 この本はインターネットのAmazon.comで取り寄せることができます。 そして、もしあなたがダン・ブラウンの小説についてまだ疑問があるならば、彼の本を購入して読むことを薦めます。

リチャード・アバネスは、ダヴィンチ・コードをばらばらに引き裂いており、それをへたにリサーチされた、クリスチャン批判の駄作に過ぎない、と記しています。 私は、大学や神学校に通っていたころ、歴史や美術に関しての書物を多く学んだ経験があり、ダヴィンチ・コードの本を読みながら実際何度も大笑いをしました。 もしあなたがこの本が取り上げている事柄を学んだことがあるならば、あなたにとってこの本はまさに“馬鹿げた冗談”にしかすぎないでしょう。 しかし、平均的な人はこの本の背後にある真相を調べる時間や、またそうする意図もありません。 キリスト教の歴史を時間をかけて考慮する私達には、その本が曲解に満ちた、ある部分は真実であり、他の部分はあからさまな偽りであることが分かります。 リチャード・アバネスはこのように言っています。

多くの人達は、ダヴィンチ・コードの主張のために憤りを感じている、と言っても言い過ぎではない。 読み出したらやめられないようなスリラー物を上回り、ブラウンのこの本は、よく策略され巧みに書かれた、454ページのキリスト教批判本以上の何ものでもない・・・。 その本はクリスチャンの信仰、聖書、そして初期のクリスチャン指導者を、何度も繰り返し攻撃をしている。 そして、それがすべてのクリスチャンの教えの中でもっとも神聖な教え-イエスに関すること-に達すると、ブラウンは、“われわれの先祖が、キリストについてわれわれに教えたほとんどすべてのことは間違いである。”と書いている。(同書9ページ)  

あるキリスト教の神学者はこのように述べています。 “もしそのような偽りや間違いがコーランやホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に向けられたならば、当然それらは世界的な批判を駆り立てたことであろう。”(U.S. News and World Report, May 22, 2006, p. 46) その点では彼は正当だと思います。 あるデンマークの風刺絵画家が、数ヶ月前にモハメッドの風刺絵をいくつか描いた時、教会は焼かれ、多くの人々はイスラム過激派によって虐殺されました。 ある人によって、メル・ギブソンの年のいった父親が、かってホロコースト(ユダヤ人大虐殺)はけっして起こらなかった[もちろん彼は間違っています]というコメントをしたことが知られた時、ギブソンの『キリストの受難』が上映される直前、そのことに対して、ユダヤ人コミュニティーにより抗議の旋風が巻き起こりました。 しかし、今日、私達は根本的な土台となるキリスト教の真実に対する、ダン・ブラウンの攻撃を受けているにもかかわらず、それに対する抗議はほとんどありません。 アメリカ並びに西洋のクリスチャンは、歯ぎしりし、この映画が多くの人達をあまり困惑させないことを望んでいるだけにしか過ぎません。

その理由が何であったとしても、北米のクリスチャン達は、キリストや聖書に対する抗議に対してほとんど何の抗議もしなかったのです。 後進国のクリスチャンの反応はそうではありませんでした。 CNNの報告によると、

インドでは、政府は火曜日、苦情が出たため一時的に上映禁止を発表した。 共同通信は報告している。 韓国では、韓国クリスチャン協議会(63の韓国プロテスタント教派を傘下)は、イエス・キリストの神聖の冒涜並びに[キリスト教に関しての]事実の歪曲であると言われている、この映画のボイコットを検討中。インドでは、「一人のキリスト教の指導者」は、「ガンディーがしばしば行ったように」ハンストを開始した。 他の人々にも参加するよう勧めている。 “私達は、「インドに於いては」その映画の上映が禁止されることを望む。”と彼は発言した。 インド放送局大臣である、プリバ・ランハン・ダスムシ(Priva Ranjan Dasmshi)は、[数百に上る]苦情を受けた後、その映画の一時上映禁止を発表した。 タイでは、政府はその映画の最後の十分間を削除「上映中止」することを発表した。 シンガポールの国家宗教会議も上映中止を要請した。 「シンガポールの」検閲審議会は、その映画にNC16の格付けをし、16歳以下の視聴を禁止した。 (www.cnn.com/2006/ Showbiz/Movies/05/17/da.vinci/index.html ).

このようなダヴィンチ・コードに反対する運動は、キリスト教が新たなる活力と復興で生き返っている後進国ですべて行われています。 しかし、アメリカや他の西洋諸国では、その映画や本に対してクリスチャン達は何をしていますか? 意義あることはさほどもなされていません。 アメリカや西洋諸国のクリスチャン“指導者達”は、主イエス・キリストがマグダラのマリアと関係をもち、イエスの処刑の後子供が産まれたという、明らかに偽り、そして非難をしているような本や映画に対して、ほぼ沈黙を保っています。 そしてまた、その本や映画では、イエスが神の一人子、すなわち三位一体の二番目の方ではないともいっています。

オックスフォード大学のケリー(J. N. D. Kelly)教授は、イエスが人であり神であるという確信は、西暦325年の二ケーア会議以前から何百年もの間“普遍概念”であったと言っています。(U.S. News and World Report, May 22, 2006) ケリー教授は、もちろん、正しいけれども、西洋諸国のクリスチャンの指導者達は、その本や映画がクリスチャンの信仰に対して不条理な非難であることを、はるかにより明確に伝えることができたのでは、と私には思えます。 南部バプテスト派の人達はどこにいるのでしょうか? 彼らの無力な応答は何ら目新しいことではありません。

西洋のクリスチャン指導者達が、おおかた沈黙を保っている中、インド、韓国、タイやシンガポールの国々は、このまさに冒涜極まりない本や映画に対して、国際規模で答えているのです。

なぜアメリカや西洋諸国の保守的なクリスチャン指導者達からの応答は、無力で弱々しいのでしょうか? 数年前に亡くなられた著名な近代福音主義神学者であったヘンリー博士(Dr. F. H. Henry)がそれに答えています。

福音主義クリスチャン達が、彼らの文化的な孤立を破らない限り、また、私達が現代の世に新たな進行を見出さない限り、私達はほとんど死海の洞窟の世界[クムランにある洞窟に住んでいたユダヤ人の小さな集団で、彼らの文化生活から遮断された]にいるように、近代の歴史の主流から[外れた]ところに自分達を見出すであろう。 私達の本当ならばあるべき霊的な活力は、私達の間だけで知られ、公には私達は過去の古風な残存者として物笑いされるであろう。(Carl F. H. Henry, Ph.D., Twilight of a Great Civilization, Crossway Books, 1988, p. 19)

どうしたら私達の西洋の教会がこのような悲惨な状態から抜け出すことができるでしょうか? 最近の著者のレオナルド・レイバンヒル(Leonard Ravenhill)は、“私達は聖なる怒りの洗礼が必要である!”と言いました。 使徒パウロがアテネにいた時、

“(パウロは)市内に偶像がおびただしくあるのを見て”(使徒行伝第17章16節)

聖書では、彼がそれを見た時“心に憤りを感じた”と言っています。 “憤りを感じた”という言葉は、“憤慨させられた、怒らされた”という意味のギリシャ語から訳されています。 彼は、“市内に偶像がおびただしくあるのを見て”憤りを感じました。 彼がその市内の偶像を見た時、彼は深く悲しみ、聖なる怒りを奮い立たせました。 レオナルド・レイバンヒルはこう言っています。

      パウロがその通りを[歩き]アテネの罪を[見た]時、なぜ彼の心が怒りへと駆り立てられたのかについて言及してみる。 パウロは人々を[欺く]ような虚偽の宗教の支配力に怒ったのである。 パウロは、信者達の無力な神々への向こう見ずな献身に怒ったのである。 パウロは、生まれ変わった[はず]の[実際にはそうではない]男性や女性から、キリストが受けるべき献身的な愛を騙し取ったことに怒ったのである。 パウロは、石のような心をもった[偽りの]神々に向かって無駄にも心から大声で呼びかける肉の心をもった人達に怒ったのである。 彼はキリストの償いの血が[アテネの人々によって]踏みにじられ、家畜の糞のようにさげすまされたことに怒ったのである。 パウロは知者達が神の御子の復活、そして昇天「天に戻る」に対して、嘲笑したことに怒ったのである。 パウロは、想像もつかないほどひどく、黄泉に向かっているような者達が「キリストに対する思いをまったくもたず」、飲み、食い、そして楽しみに耽っていることに怒ったのである。 パウロは、悪魔が、生きている者達を恐れと欲望の鎖につなげ、この人生の後にある[黄泉の]底知れない穴に彼らをとりこにしてしまうことに怒ったのである。 平均的な信者の、失われた状態にいる人達への無関心さは、まったく非情なものである。 私達信者は、今日パウロの持ったような聖なる怒りの洗礼をが必要である。 偽りの神々(誤ったカルト)のために、多様な国々の数多くの人達は、今日[彼らの誤った想い]を、年に一度とか一日に一度とかいうようなものではなく、毎日何度も証をしている。 「悪魔的」ギリシャの獣をはるかに求め、この黄泉を支配するカルトの化け物は、魂を食いつぶしている。 しかし、誰が「本当に」そういうことに気を払うであろうか? それは伝道のために私の家の扉をたたく熱心なバプテストの人ではありません。 それをするのは、惑わされた「困惑している」エホバの証人やまともなメッセージのないモルモン教徒なのである。 私達は、誤ったカルトの中で、失われた者達が、[他の]失われた[人々]を、失われた永遠の世界へと導いているような恐ろしい状況にいるのです。
      あなた方自身、このような魂を追及する質問をしてみなさい:なぜ私達は抵抗を「しようと」しないのか? 何を恐れているのか? なぜ躊躇っているのか? 私達の緊急性は「どこにあるのか」? [主張すること]は何もないのか? 「私達自身の」個人的な救いの確信に欠けているのか? 私達は、罪人が永遠の黄泉の危険な状態にいることを悟らないのか?
      おそらく、もし「現代の福音伝道者」が今日大通りを歩いて、[大きな建物]などが見知らぬ神々(誤ったカルト)に捧げられているならば、私達は冷静な思いで無関心にも肩をすくめてこう言うであろう、“彼らは判断力が無いので、あのようなことをするのは気の毒だ。” 繰り返して言う:私は、神の民である私達は、[聖なる]怒りの洗礼が必要なときが来ていると思う。 私達は、聖書の「記録」にあるように、イエスがユダヤ教の宮の律法と秩序に丹念に従っていた冷淡な心をもった人達に対し、怒られたことを忘れてはならない。(マルコによる福音書第3章5節) 
      私達の時代は、歴史上でもっとも絶えることなく不運で[孤立した]世の中である。 [何が]悪いかというと(私の意見では)、[人の罪を焦点においていない]説教やキリストが中心でない説教などによって、私達の周りにいる何億もの魂の飢えた人達をなだめようとする私達の試み、切羽詰った感情のない説教者、そして、[失われた]者に対する産みの苦しみや不安による涙を流すこともない、ということである。
      私達の状態は、[パウロ]が無知で迷信的な、そして奇妙な「偽りの」神々が、[人々を支配する力]をもっているアテネの大通りを歩いていた時のようなものではなく・・・、それよりはるかに悪くひどい状態である。 私達は古い祭壇を取り壊し、それをエホバの証人[の神]に渡し、それに代わって偶像崇拝のためにクロームメッキでできたような[教会]を建てた。
      滅びようとしている人達を救助するために、活気のない[教会のメンバー]を奮起させるには、私達は多少の黄泉の匂いに気づかせることが必要である。 ああ、そなたのように怒りをもつように、聖なる救い主よ―怒りを! かって今までになく私達はヘッド夫人(Mrs. B. P. Head)と[実際に祈りを]する必要があるのである。[Bessie P. Head, 1850-1936]

ああ、生命の息が、われわれに吹き込まれるよう
   そなたの教会を 生命と力とで復活させよ。
ああ、生命の息が、清くし新たにしてたもう、
   そなたの教会が、今のときに立ち向かえるように。

(Leonard Ravenhill, Sodom Had No Bible, Ravenhill Books, 1971, pp. 36-39).

幸いにも、この映画は“失敗”でした。 それはほとんどすべての主要な映画評論家によって酷評されています。 例を上げると、 USA Todayの批評家のクラウディア・パッグ(Claudia Puig)は、トム・ハンクス(Tom Hanks)の演技を“以外にもぎこちない”とみなしており、この映画を“平凡で不意識にもこっけいである”ような、脚本による“誇張させすぎた小説映画”と名指ししています。(USA Today, May 18, 2006, p. 10) ロイターは、“ほとんどの批評家はそれを嫌っている”と言っており、“不愉快な”、“非現実的”、そして“歩調の遅い”映画などと言っています。(Reuters, May 17, 2006)

多くの人達はその映画を観るでしょう。 なぜなら、その本を読んだからです。 それ以外の人達は、この夏上映される他の映画はくだらなく、競合するような映画がないので、それを観るでしょう。 しかし、評論家達は最初の数週間後には“口コミ”で、この映画は打撃を受けるであろうと言っています。 人々が友人などに、その映画は“退屈である”と言えば、多くの人達は当然行くのを止めるでしょう。 私は、その映画やビデオそして本も薦めません。 私自身このことについて話した三つの説教の背景を知るために読んだだけです。 

聖書がキリストについて、そして救いに関しての知識の唯一の信頼できる源です。 聖書のみを信じれば間違いはないでしょう! 使徒パウロはこう言っています。

“上にあるものを求めなさい。 そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。” (コロサイ人への手紙第3章1-2節)

ですから、私はこのような映画を避け、チャンスがある時は常にこの教会に来るようあなた方に願っているのです。 あなたの人生をイエス・キリストに譲りなさい。 そしてこの教会へ来なさい。 キリストはあなたの罪の償いであるために、十字架の上で亡くなり、そしてあなたに生命を与えるために死からよみがえられました。 キリストを見つけるために、すべてを尽くして努力しなさい。 そして、あなた自身をこの教会の奉仕のために向けなさい。 神の祝福がありますように!

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医学博士による説教前の聖書の朗読:
テサロニケ人への第二の手紙第2章7-12節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱: “In Times Like These”(作詞by Ruth Cave Jones, 1944)