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絶望の世代にいる盲人に手をさし伸べる

ロバート ハイマース 神学博士 著

REACHING THE BLIND IN AN AGE OF DESPAIR
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年4月23日、主の日の朝に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, April 23, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“そのうちに、彼らはベッサイダに着いた。 すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。 木のように見えます。 歩いているようです」。 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。”(マルコによる福音書第8章22-26節)


『クリスチャン・センチュリー(The Christian Century)』は、“アメリカの13歳から17歳の十代の若者達は孤独であり、霊的に飢え・・・今日、十代の若者達は精神的圧力や孤独な感情を表しており・・・このような感情は非常に強くなりうるといえる。 リーダー格の学生達は、普通の学生の三倍ほどの孤独さを表明する傾向にある。”、といった最近のギャラップ世論調査の結果を取り上げています。(The Christian Century Foundation, 2003, findaricles.com/ p/ articles /mi_m1058 /is_20_120/ ai_109132353 )

この調査によると、ほとんどの高校や大学に通う年頃の若者が、“非常な孤独を感じている”、ということを暗示しています-そして、ほとんどの教会でこの問題に関しての援助がまれにしかなされていません。 ジョシュ・マクドウェル(Josh McDowell)は、教会の若者達の94パーセントが脱会していることを報告しています。 南部バプテストでは、88パーセントの若者達を失っている、とも伝えています。 これらの数字は信じがたいほどです。 ほとんどの私達の教会は、自分達の子供達でさえつなぎとめることができず、その上、教会外の子供を救いに導くことに関しても、悲惨な役目をしている、と私は感じます。 私自身にとって、こういうことはまったく容認できないことなのです! 私達はどうにかすべきです。 私達の改心している若者達を奮い立たせ、教会外の若者達を連れてくるよう、今すべきです。 そして、彼らをも救いに導くことです。 私達の現在のやり方は役にたっていません。 私達は何か異なった事をすべきです-そして、今-手遅れにならないうちにすべきです!

さらに、私は何かを“ひねり”あるいは“たわごと”のような多少の変革がものごとを変えるとは思いません。 私達は、若者達に手をさし伸べて、つなぎとめるための私達の今までの方針を大胆に改め変えなければならないと思います。 若者達に手をさし伸べてつなぎとめるための私達のやり方に完全なる革命がなければなりません!

私は新約聖書に書かれており、私達のテキストでとても完璧に描かれているやり方に戻るべきであると勧めます。 もし私達が教会のそして教会外の失われている若者達をキリストへの真の改心へと導きたいならば、私達は聖書のこの節にある全般的な行動の基準に従うべきです。 これらの行動の基準とは何でしょうか? それらは、今日しばしば軽視されていますが。

Ⅰ 最初に、彼らはこの若者を連れてきました。    

起立して、マルコによる福音書第8章22節を読んでください。

“そのうちに、彼らはベッサイダに着いた。 すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、”(マルコによる福音書第8章22節)

ここで止めて、着席してください。    

彼は老いた人のように書かれていないので、私達は彼が若者であったとさしつかえなく想定できるでしょう。 その当時は、少数の人が現在でいう中年にまで達しました。 しかしながら、彼は盲目でした。 それが彼の状態であったというわけで、彼がどのように盲目になったか告げられてはいません。    

私達は、22節で、“人々”が、一人の盲人を連れてきたと告げられています。 古典派の注釈者、マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)は、このような意見を述べています:    

ここに友人によってひとりの盲人が、イエスに彼を触っていただきたいと願って、イエスに連れてこられました。(22節) ここで、彼を連れてきた人達の信仰があらわれており-キリストが、一度触られただけで、彼の視力がもどってくる事を疑いもせず;しかし、彼自身(盲人)、本気でなく、キリストに助けられて治された他の盲目達のようになれることなど期待もしていませんでした。 もし霊的に盲目である人達であったなら同じように自分達のために祈りはせず、彼らの友人や家族はキリストが喜んで触れて下さることを祈るであろう。 (Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible,Hendrickson Publishers, 1996 reprint, volume 5, page 406)

“すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、”(マルコによる福音書第8章22節)

スポルジョン(Spurgeon)はこう言っています。

彼らの信仰は実用的なものであった。 彼らはキリストがこの人を治すことができることを信じるだけにとどまるだけでは満足しなかった。 真の信仰は効力のある信仰であり、それゆえ、これらの人々の信じている救い主に、その盲人を連れてきたのである。 だれの救いに関して祈ろうとも、あなたは結果をもたらすために一番役に立つ手段を使うように気を払うことである。 もし、人々の改心のために、神が特に祝福されるような手段があれば、神が祝福される事を望みつつ、その手段の基で、あなたが友人を連れてくることに努力することである。(C.H. Spurgeon, “The Free Agency of Christ,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1978 reprint, volume 50, p.337)

そして、スポルジョンは有名な説教者であるローランド・ヒル(Rowland Hill, 174-1833)を聞きに一人の失われている人を連れてきた二人のクリスチャンに告げました。 ヒル氏の説教は真剣で福音伝道的でした。 スポルジョンはローランド・ヒルの説教は“キリストに彼の救い主としてしっかりと導く手段であった・・・それらの二人の男性は盲人をキリストに連れてきたこれらの人々のように、彼らの友人をキリストに連れてきて、「そして、さわってやっていただきたいとお願いした。」”(同書、p.340) 聖書はこう言っています。

“不法な者は人の命をとる。”(箴言第11章30節)

私達はこれらの人達が盲人をイエスに連れてきたような伝道の効果を信じます!    

ですから、あなた達は今朝ここの教会へ連れてこられたのです。 私達はあなた方を招待しました。 あなた方に福音を聞いてもらうために連れてきました。 そして、私達はキリストがあなた方に触れて下さるよう、そして神のことについて目が開くように祈っています。 私達は祈り、あなた方がキリストに改心するよう嘆願しているのです!

Ⅱ 次に、キリストは彼を村の外に連れだされました。

23節を見てください。

“イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、・・・”(マルコによる福音書第8章23節)

マチュー・ヘンリーは、これについていくつかの有益な事を述べています。 私はキリストが彼をベッサイダの外に連れ出された主な理由は、その神を信じない村の不正によるものだと思います。 キリストは言われています。

“わざわいだ、ベッサイダよ。”(マタイによる福音書第11章21節)

キリストはその村で多くの奇跡を行われました。 しかし、そこの人々は彼を拒絶したのです。 スコーフィールド(Scofield)はこのように言っています。 “イエスはけっしてその村を治すこともされず、また、そこで証がなされることもされなかった。(26節)”(The Scofield Study Bible, note on Mark 8:23) 私はキリストがこの人にベッサイダにもどらないように言われたのは、そこは“俗世間”というように表されたからだと思います。 26節に気をつけて下さい。 その人の目が見えたとき、キリストは彼に言われました、「村にはいってはいけない」(マルコによる福音書第8章22-26節)と。    

聖書はこう言っています。

“だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。 ・・・そしてわたしは、あなた方の父となり・・・」”(コリント人への第二の手紙第6章17-18節)

イエスは言われました。

“わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。”(ヨハネによる福音書第15章19節)

神はあなた方に“この俗世間から出る”ように呼ばわれています。 ベッサイダから出なさい。 この町の罪から出てきなさい。 キリストは“村の外に連れ出し”(マルコによる福音書第8章23節)、神があなた方をこの世から連れ出し、このバプテスト教会へ、そしてキリスト御自身へ導いていらっしゃるのだと私は思います。 ですから、私達はこう言っているのです。 “なぜ一人孤独でいるのですか? 教会の家へ来なさい! なぜ失われているのですか? 神の御子イエス・キリストへ来なさい!”

Ⅲ 最後に、キリストは彼の視力を回復させて下さいました。    

起立して、23節から25節を通して声を上げて読んで下さい。 

“イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。 木のように見えます。 歩いているようです」。 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。”(マルコによる福音書第8章22-25節)

着席して下さい。    

J バーノン・マギー博士は(Dr. J. Vernon McGee)、こう言われました。

確かにつばきの中には、薬のような効果はありません。 しかし、主はこの人の信仰をさらに増すためにこれを使われました。・・・なぜこのような方法をとられたのでしょうか? 彼は他の場合になされたように、この人の目を開くことができなかったのでしょうか? もちろんおできになったはずです。 彼は最初からこの人の目をはっきりと見開くことはおできになったのです。 しかし、そこにはその人へのそして私達への教訓があります。(J. Vernon McGee, Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p.195)

これがその教訓です。 スポルジョンはほとんどの改心はいくつかの段階を通して起こると言っています。  

一見して信仰を持つというようなこともあるかもしれない;しかし、通常私達は段階ごとに救いの信仰へと達していくものである: 私達は興味を持ち、[私たちが学んだことを考え]検討し、根拠を聞き、そして、そのように信じるように導かれる。(C.H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Pilgrim Publications, n.d., p.57)

マギー博士は、人間の改心を描写して、その盲目の人が通過してきた三段階を取り上げています。 私は彼の主な点だけを上げて、私自身の意見をそれに付け加えました。 マギー博士は、三つの段階があると言っています。

1.  盲目
2.  部分的な視力(見えること)
3.  完全なる視力(見えること)
     (McGee, 同書p.195)

そのように、通常人々は改心させられます。 実際、それがはるかに一般的です。 あなた方が初めて教会に来たとき、あなた方は神のことに関して盲目です。 聖書ではあなた方の思いは、“鈍くなっていた。”(コリント人への第二の手紙第3章14節;4章4節) あなた方が聖書を説教されるのを聞いているときでさえもそうです。

“彼らの思いは鈍くなっていた。”(コリント人への第二の手紙第3章14節)

ここで、“鈍くなって(盲目)”と訳されている言葉は、ギリシャ語で、“(ひふ)が硬くなって”という意味です。-あたかも何かきめの荒い物が目の中でこすられ、それがだんだん硬いものになってしまい、目が見えなくなってしまうようなことです。 そして、コリント人への第二の手紙第4章4節では、悪魔が、不信の者達の思いをくらませて、

“見えなくしているのである。”

ここでは、“目をくらませて”とある言葉はギリシャ語で、“薄皮でおおわれた”という意味です。 あなた方は白い薄皮でおおわれた盲目の人の目を見たことがありますか? そのようなものです。 ですから、あなた方の心は薄皮でおおわれており、硬くおおわれ、そして、神に関しての事柄はあなた方にとってまったく関連性が泣く重要ではないのです。 あなた方は神についての事柄に対して感受性がないのです。 あなた方は、そのような状態で残りの人生を続けていくことはできます。 ほとんどの人達がそうでしょう。    

とは言え、神の恵みにより、ある人達は自覚させられます。 彼らは“部分的に見えること”の状態に来ています。 彼らは多少理解できるようになったのです。 彼らは神に対して無関心であり、神に対立していることに気がつき始めたのです。彼らは自分達の生涯の中で支配している最も重要な事は自己中心であること、そして利己主義であることに気がついたのです。 彼らは、まず自分を中心にしていることは正しくない-彼らの思いは当てにならないこと;彼らの知性は悪く邪悪な思いを抱いていること;彼らは神に対して親密な愛がないこと;彼らは神に対して盲目であり、罪の中に死んでいること、などに気がつきます。 こういうことが、彼らは自分達を救うことはどうしてもできない、そして、彼らの唯一の望みは、自分達以外のものに、彼らを救わせる、ということに置かれている、という見解にたどりつきます。    

そうして、人を改心の三番目の段階へと導きます-彼の霊的な目が大きく開き、そして、信仰によりキリストへ来るのです。

“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。”(ヨハネによる福音書第17章3節)    

これが私達のプログラムであり、目標なのです。 私達は福音の説教を聞いてもらうようにあなたを連れてきました。 そして、あなたに罪の世界から抜け出し、ローカルの教会へ来るように、と呼びかけています。 あなたが自分の思いを調べ、そしてあなたの不義や罪を知るよう、また、あなたが心の中の、そして生涯の罪からの救いのためにキリストのみに来ることを、私達は強く勧めます。 それが私達のプログラムです。 絶望や寂しさの世代にいる霊的に盲目な人に手をさし伸べる-これが私達の目標です。 そういうわけで、私達はこう呼びかけるのです、“なぜ一人孤独でいるのですか? 教会の家へ来なさい! なぜ失われているのですか? 神の御子イエス・キリストに来なさい!”

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
マルコによる福音書第8章22-26節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱           “Open My Eyes, That I May See”
作詞by Clara H. Scott, 1841-1897)


要 綱

絶望の世代にいる盲人に手をさし伸べる

ロバート ハイマース 神学博士 著


“そのうちに、彼らはベッサイダに着いた。 すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。 木のように見えます。 歩いているようです」。 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。”(マルコによる福音書第8章22-26節)

I.   最初に、彼らはこの若者を連れてきました。マルコによる福音書第8章22節;
 箴言第11章30節

II.  次に、キリストは彼を村の外に連れだされました。マルコによる福音書第
8章23節;マタイによる福音書第11章21節;マルコによる福音書第8章26節;
コリント人への第二の手紙第6章17-18節;ヨハネによる福音書第15章19節

III. 最後に、キリストは彼の視力を回復させて下さいました。マルコによる福音書
第8章23-25節;コリント人への第二の手紙第3章14節;コリント人への第二
の手紙第4章4節;ヨハネによる福音書第17章3節