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ゲッセマネでの不可解な出来事の解明

ロバート ハイマース 神学博士 著

SOLVING THE MYSTERY OF GETHSEMANE
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年4月9日、主の日の朝に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, April 9, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)


あなた方のような多くの若者達は、メル・ギブソンの「キリストの受難」のビデオ(又は映画)をみていることと思います。 私はその映画について短い本を書きました。 その本は、私達のブックストアーで入手できますし、私達のインターネットを通してでも購入できます。 その映画には、ローマ・カトリックの伝統からきたような、私は同意できないシーンも含まれていましたが、全般的な描写はほとんど聖書に基づいていました。 ユダヤ教の司祭や兵士達の偽善や残酷な行為などは、聖書に忠実であり、キリストがむち打たれた場面も、とてもひどいものであったけれども、聖書に忠実に表されていました。 キリストのはりつけ(の場面)は、身の毛が立つほど恐ろしいようなものでしたが、聖書が教えている通りでした。

“彼の顔だち[彼の容姿]は、そこなわれて[醜くされ]人と異なり”(イザヤ書第52章14節)

キリストは、地面につくまで殴られた。

“わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。”(イザヤ書第50章6節)

映画でのキリストの苦しみはとても生々と描かれていました。 十字架のはりつけの場面もそうでした。 ある人が私達にこのように言いました。 “むち打ちや十字架のはりつけは今まで見たもので、一番リアルでした。” 私も彼に同意します。 私にとって一番失望した映画の場面は、ゲッセマネでした。 そして、そういう事は予想されることです。 なぜなら、多くの点からして、そこでキリストに起こったことは人間の想像以上のことだからです。

ジョセフ・ハート(1712-1768)は、「汝の知られざる苦しみ」と題して、ゲッセマネについての讃美歌を書いています。 確かにその園でのキリストの多くのことは知られていません。

だれが公平に悟るであろうか
それらの(苦しみの)始まり もしくはそれらの(苦しみの)終末?
それは 神 神のみが
それらの重荷をすべて悟られる
   (“Thine Unknown Sufferings”, by Joseph Hart, 1712-1768)

私達の考えでは、どんなに人が堕落、冷酷になれるかということは想像できます。 私達は、彼らがイエスをむちで打ったことを読みます。 そういうことは想像できます。 私達は彼らがイエスを十字架にはりつけにしたことも読みます。 そういうことも私達は想像できます。 しかし、ゲッセマネはそうではありません。

メル・ギブソンは、その園にサタンを置きました。 彼ら悪魔が、へびが草の中を這い、キリストが祈っているところへすべるように近づいているように描いています。 しかし、聖書ではサタンがゲッセマネにいたということは一言も言っていません。 彼(サタン)がそこにいたかもしれません。 たぶんいたでしょう。 しかし、聖書は言及していません。 ですから、私達はキリストの苦しみを悪魔に帰せることはできません。 それは単に聖書には書かれていないのです。

そして、私達はその園でのキリストの苦しみを、いかなる人間の権力にも帰することもできません。 確かに、大祭司や他の指導者達が彼につばを吐き、彼を殴りました。 しかし、それは次の日のことです。 確かに、ローマの兵士達は、彼の背中を血のかたまりが地面に流れ落ちるほどにむちを打ちました。 しかし、それも何時間後まで起こりませんでした。 確かに、彼らはイエスを十字架にはりつけました。 しかし、翌日の午前中まではそういうことはされなかったのです。 ではどのようにゲッセマネでの苦しみを説明しますか? 人間は、その園では彼を非難していません。 悪魔の力も彼の苦しみの原因にはなっていません。 それでもなおかつ彼は、暗闇の中にひざまずいて、彼は、

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。”(ルカによる福音書第22章44節)

そこで私達は、この不可解な場面に近づくにつれ、キリストの口から理解することのできないような祈りを聞きます。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

“この杯”とは何なのでしょうか? どういう意味があるのでしょうか? 私は多少なりともこの杯について、そしてなぜそれが取りのけられるように祈られたのか、そして、どのように神がイエスの祈りに答えられたのか、ということなどを知らない限り、ゲッセマネで起こったことをよく理解することができるとは信じられません。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

Ⅰ 最初に、“この杯”の意味。

多くの注解者は、“この杯”は翌日の十字架でのイエスの死を表していると言っています。 私自身何年もそう思っていました。 しかし、私は過去二年間あまりゲッセマネでのキリストの苦しい体験に関してずいぶん考えていました。 そして、今では“この杯”は、十字架を示しているとは明確には言えないと信じています。 私は現在、“この杯”はゲッセマネを表していると確信させられました。

私は、“この杯”はゲッセマネでの苦しみを表しているが、ヨハネによる福音書第18章11節にある“この杯”は、十字架での彼の死を表していると思います。 それは、イエスがペテロにこのように言われたのはイエスがゲッセマネでの苦しみの体験をされた後のことでした。

“すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さったは、飲むべきではないか」。”(ヨハネによる福音書第18章11節)

キリストは十字架での“この杯”からしりごみされるようなことはけっしてなさらなかったのです。 しかし、彼はゲッセマネでの杯、“この杯”が彼から取り除けられるように“一時間”ほど祈られました。 彼が一時間ほど“この杯”が取りのけられるように祈られたことが、マタイによる福音書第26章40節で明らかです。 なぜならイエスがこのようにペテロに言われているからです。

“あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。”(マタイによる福音書第26章40節)

このひどい苦しみの間、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネは眠ってしまっており、キリストは三回ほどお一人で祈りを捧げられました。 一人で祈られたその時、何を祈られたのでしょうか? 私達のテキストが彼の祈りの内容を語っています。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

イエスがその間-三度に分けて-三回ほど“この杯”が取り除けられるように祈られたことを、マタイとマルコが告げています。 マタイは、このように、イエスがこのような三度の祈りに関して詳しく語っています。

“わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。”(マタイによる福音書第26章39節)

そして、二度目に

“わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行なわれますように。”(マタイによる福音書第26章42節)

そして、マタイは告げています。 彼は、

“それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。”(マタイによる福音書第26章44節)

ギリシャ語で、“この杯”は  touto to poterion(マタイによる福音書第26章42節)と言います。 “この杯”は  to poterion(ヨハネによる福音書第18章11節)です。 私は最初の杯はゲッセマネでの苦しみを表しており、二度目の杯は、十字架での彼の死を表していると思います。 そして、私はヘブル人への手紙第5章7節で話されているのは、ゲッセマネでの最初の杯であると思います。

“キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。”(ヘブル人への手紙第5章7節)

二人の人がこのことに気がついています。 最初は、フィートン大学(Wheaton College)の元の学長であり、そしてカバナント大学(Covenant College)そして神学校の大学院の教職員部長でもあったジェイ・オリバー・バスウェル博士(Dr. J. Oliver Buswell)です。 彼はフェイス神学校(Faith Theological Seminary)でもしばらくの間、組織的宗教学を教えていました。 かれの書物、「組織的キリスト教宗教学、 A Systematic Theology of the Christian Religion」(Zondervan, 1971 edition)の中で、バスウェル博士は、ヘブル人への手紙第5章7節で、“激しい叫びと涙”と言っていることは、

ゲッセマネでのキリストの体験のことを表しており・・・私は個人的にゲッセマネで救い出してくださるよう祈られたその“杯”は、彼が十字架に到達される以前の、その園での肉体の挫折や死について表していると悟らされた・・・この解釈はヘブル人への手紙第5章7節と一致するであろう。 そして、それがそのように一致する唯一の解釈のように私には思われる。(同著、volume 2, p.62)

ジョン・R・ライス博士(Dr. John R. Rice)がこの見解を指示しているもう一人の解釈者です。 ライス博士は、よく知られている伝道者、教育学者、そして聖書研究者です。 マタイによる福音書についての彼の解釈書の中で、ライス博士はこのように語られています。

イエスはその園で死ぬ寸前であられた。 そこでふれている杯とは、死の杯のことであり、ゲッセマネの園でのその夜の死のことである。 これはヘブル人への手紙第5章7節で、特に明らかにされている。 ゲッセマネの園で死ぬことについては、イエスはその夜、彼からその死の杯が見送られることを祈られ、そうすれば彼が翌日十字架の上で死ぬときまで、生き延びられるからである。 聖書では、“聞き入れられた”と言っており、神がイエスの祈りを聞かれたのである。(John R. Rice, D.D., The Gospel According to Matthew, Sword of the Lord Publishers, 1980 edition, p.441)

私は、それが“この杯”を意味していると信じます。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

しかし、そこで私達はこのように質問し、“なぜ、彼はその園で死とのせと際だったのか?”  それが、私達を次のポイントにたどらせます。

Ⅱ 次に、“この杯”の理由。

キリストがゲッセマネの園で、死のせと際であられたという背後は、私達の考えで理解することは困難です。 私達は人がしばしば冷酷であるあることは想像できると言いました。 ですから、彼らがイエスを殴り、そして十字架にはりつけたことを聞くとき、私達は容易に人間の邪悪、人の完全なる悪行などのせいにします。 十字架の本意が真に深いものであるにもかかわらず、私達は、思いの中で肩をすくめ、そして、世の中には不正な人達がいるものだと自分達に言い聞かせます。 しかし、ゲッセマネに関して、そのように軽視することは、それほど容易なことではありません。 なぜなら、そこには誰も彼に害を加えるほど怒った人達はいないからです。 彼は一人で祈っておられました。 悪魔(サタン)がこの苦しみの原因となっていることも、聖書では伝えられていません。 ですから私達は、キリストの苦しみの“この杯”となった理由は、イエスと神だけの間に起こった-私達の罪に関してのことであるように、完全に霊的な水準で把握しなければなりません。

なぜイエスは、彼がその園で祈られた時に、そのように苦闘されたのでしょうか? ジョセフ・ハート以上にそれをよく説明している人はいません。 彼の改心についての話は、とても関心を引きよせるものです。 彼の両親はクリスチャンでした。 しかし、彼は救われていませんでした。 彼は長い間の罪の自覚を経て来たにもかかわらず、救われていませんでした。 そして、彼はキリストに背を向けました。 彼が29歳の時、最初のクリスチャンの大覚醒が起こっている最中に、彼は、“宗教の道理のなさに注意せよ;ジョン・ウェスリー牧師のローマ人への手紙第8章32節についての説教に注意する[反対する]こと”と題して、書や小冊子を発行しました。

“ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかた”(ローマ人への手紙第8章32節)

ハートは、その小冊子でウェスリーの説教に対して非難しました。 彼は5年間もの間暗闇の状況の中にいました。 それから、彼はまた深い罪の自覚におちいり、1757年45歳で最終的に改心しました。 彼は賛美歌を書きはじめ、多くのものは私達の罪のためのキリストの苦しみについて非常に深く語っています。 そして、1760年に彼は思いがけなくバプテストの聖職者となり、8年後の55歳で死に至るまで、ロンドンのジューイン・ストリート・バプテスト教会(Jewin Street Baptist Church)の牧師を勤めました。 ロンドンのある牧師が、ハートが説教をし始めたのを聞き、“いったい全体、どういうことだ?”と言いました。 しかし、ジョセフ・ハートは堅実に改心していました。 彼は、「正当化された信者: The Justified Believer」(Sprinkle Publications, 1971 reprint)と題した本を書きました。 彼は第一、そして第二大覚醒でよく歌われた多くの意味深い賛美歌を書きました。 実際、“ゲッセマネ”と題して、この説教の前にグリフィス氏が歌った賛美歌も含めて、自分の歌をまとめた讃美歌集を作成しています。 “罪人たちよ来なさい(Come, Ye Sinners)”と題した彼の一つの賛美歌は、現在でもほとんどの賛美歌集の中にあります。 私達も今朝それを歌いました。

哀れで心の貧しい、か弱くそして傷ついている
困り果て 心の痛んでいる 罪人たちよ 来なさい
哀れみ、愛そして力に満ちたイエスは
あなたを救うために待っておられる
   (”Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768)

私自身、多くの彼の賛美歌が私達の教会などに再び紹介されることを願っています。 浅はかなコーラスのなされる今日に、ハートの賛美歌が、満ちた教えと復興したキリスト教の真の経験に基づいた活気が、再び私達に紹介されるでしょう。 彼の賛美歌集、「ハートの賛美歌(Hart’s Hymns)」は今でも出版されており、Old Paths Gospel Press, P.O. Box 318, Choteau, MT 59422、 電話・ファックス(406)466-2311からオーダーすることができます。

“罪人たちよ、来なさい(Come, Ye Sinners)”のメロディーを歌われたハートの賛美歌“彼の耐えられた多くの苦悩/悲哀”から、歌詞の3番目までを聞いてください。 これらの3つの歌詞は、他のどの賛美歌以上に、なぜイエスがゲッセマネでの恐怖や苦しみを耐えてこられたのか、という不可解を解明しています。

そこで、我が神 我が罪 を負うて;
これは恵みを通して知られ;
されど 彼の触れし恐れ
とてつもなく はかり知られじ
何人も 汝を悲しみに満ちた暗闇のゲッセマネを
見抜くことなし!

聖なる神に反する罪;
神の義なる掟(おきて)に反する罪;
彼の愛、彼の御血に反する罪;
彼の御名と動機に反する罪;
海のように果てしなく大きい罪
ゲッセマネよ、我を隠し給え!

ここに、我が要求あり ここにのみ;
救い主より他に 誰ぞ必要とせず;
正義の行いも より頼めず;
かすかな望みも 我になし;
ただゲッセマネのみにあれ!
   (”Many Woes Had He Endured” by Joseph Hart, 1712-1768)

“そこで、我が神 我が罪 を負うて” あなたの罪悪感や罪のすべてがゲッセマネの園でイエスの上に置かれ、そして翌日、暗いところから十字架へと持たされました。 “されど 彼の触れし恐れ とてつもなく はかり知られじ” 私達、人間の考えでは、イエスが私達の罪を負うてその夜貫かれたことは、完全に理解することはできません。 

何の罪? あなたの“聖なる神に反する罪”。 あなたの“神の義なる掟(おきて)に反する罪”。 あなたの“彼の愛、彼の御血に反する罪”。 あなたの“彼の御名と動機に反する罪”。 あなたの“海のように果てしなく大きい罪”。 あなたはただ叫び求めることです。 “ゲッセマネよ、我を隠し給え!”。 神の怒りと裁きから私を隠してください、と。

その園で血を流された救い主イエスに隠されますように! イエスがあなたの罪の償いを始められた。

   イザヤ書第53章4節を開き、この説教を終えましょう。 立って声を出して読んでください。 これがゲッセマネで飲まれた“この杯”の明白な描写を表しています。

“まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。 しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。”(イザヤ書第53章4節)

“神にたたかれ、苦しめられたのだと。” 確かに、私達の罪が彼の上に置かれたように、彼が“われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった”時、確かに、ゲッセマネでこのことが起こりました。 誰が私達の悲しみや病、そして罪をイエスに負わせたのでしょうか? 彼は、“神にたたかれ、苦しめられた”のです。

神ご自身が、その園でイエスにあなた方の罪を負わせられたのです。 そして、神ご自身が、彼の怒りをあなた方の身代わりとしてイエスに注がれたのです。 私の友人である、ある牧師がそれに対してためらいましたが、私はイエスが使徒達にこのように言われたことを彼に思い出させました。

“今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。 『わたしは羊飼いを打つ。 そして、羊の群れは散らされるであろう』”(マタイによる福音書第26章31節)

その夜、使徒達は散らされました。 その夜、神はこう言われました、「わたしは羊飼いを打つ」と。 ゲッセマネでイエスが半ば死んだのは当然なことです! 彼は、あなた方のすべての罪を負いました。 しかし、それ以上にあなた方の罪のために、彼は、“打たれ、神にたたかれ、苦しめられ”(イザヤ書第53章4節)始めました。 ちょうどその夜、神は言われました、“わたしは羊飼いを打つ”(マタイによる福音書第26章31節)と。 これは、ジョセフ・ハートが書いた他の賛美歌、彼はキリストの苦悩と呼んだ“汝の知られざる受難”に私達を誘います。

苦しまれる神の御子をみよ
あえぎながら、苦しみうめき、血まみれの汗を!
とこしえのない、完全なる愛の深さ!
イエス様 何というあなたさまの愛であろうか!
   (”Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768)

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネの福音書第3章16節)

そうです、神は翌日罪の罰からあなた方を救われるために、十字架の上に彼の御子を捧げられました。 しかし、神はその日の前の晩に、あなた方の罪、そしてあなた方への怒りをイエスに負わせ始めたのです。 そして、注がれたあなた方の罪の重みのために、そして、神の罪への怒りのために、イエスは死ぬほどでした。

“そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。”(ルカによる福音書第22章44節) そして、彼はその恐ろしいほどの時間を通して祈られました。

“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

彼は、ご自身が肉体的にゲッセマネの園で死なないように祈られました。 そして、神は彼の祈りを聞かれました。 天の使いが彼を力づけるために彼の御もとに送られたので、彼は十字架の上で、あなた方のために完璧な贖いとなられ、神の怒りから、そして、黄泉それ自体からあなた方をお救いになられたのです。

   あなた方がすべきことは何もありません。 ただ、イエス様の御もとに来て、彼を信頼し、あなた方の思いと心を尽くして、彼を愛することです。 ジョセフ・ハートが彼の賛美歌の中で言っているように、

哀れで心の貧しい、か弱くそして傷ついている、
困り果て 心の痛んでいる 罪人たちよ 来なさい
哀れみ、愛そして力に満ちたイエスは、
あなたを救うために待っておられる。

イエス様に来なさい。 今、彼に来なさい。 彼は慈愛に満ちた腕を広げてあなた方を呼んでいます。 あなた方の罪は赦され、あなた方は永久に彼の愛の中で生きるでしょう。 あなた方が救い主に来た、その瞬間にあなた方は救われるでしょう。

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
マタイによる福音書第26章36-44節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱: “Gethsemane”(作詞by Joseph Hart, 1712-1768)


要 綱

ゲッセマネでの不可解な出来事の解明

ロバート ハイマース 神学博士 著


“父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。”(ルカによる福音書第22章42節)

(イザヤ書第52章14節;第50章6節;ルカによる福音書第22章44節)

I.   最初に、“この杯”の意味。ヨハネによる福音書第18章11節;
マタイによる福音書第26章:40節、39節、42節、44節;
へブル人への手紙第5章7節。

II.  次に、“この杯”の理由。ローマ人への手紙第8章32節;
イザヤ書第53章4節;マタイによる福音書第 26 章31 節;
ヨハネによる福音書第3章16;ルカによる福音書第22章44節。