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なぜ今日、ゲッセマネについての説教がほとんどされないのか?

ロバート ハイマース 神学博士 著

WHY SO LITTLE PREACHING ON GETHSEMANE TODAY?
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年4月2日、主の日の晩に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, April 2, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。 そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。”(マタイによる福音書第26章36節)


私は、ゲッセマネについての説教を聞いたことがありません。 私が52年前にバプテスト教会へ行き始めて以来、何百もの説教を聞きました。 しかし、ゲッセマネについての説教を聞いたことは、私には一度もありません。 私は、天国についての説教、黄泉についての説教、救いへの導きについての説教、キリストのなされた奇跡についての説教、使徒達による解説的な説教、ヨハネの黙示録からの多くの説教、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、聖書の歴史録、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、大預言者そして小預言者についての説教、神学、霊的な賜物、伝道、教会の成長、自助、モティヴェーション(動機づけ)、クリスマス、復活祭、過ぎ越しの祭りについての説教、ならびに他の多くの主題についての説教を聞いたことはありますが、だれかがゲッセマネについて説教をしたことを、私は聞いたことがありません。

ある晩その事を考えたとき、私は奇妙に感じました。 結局のところ、聖書はゲッセマネについてかなり多く語っているのです。 四つのすべての福音書の中でそれは言及されています。 マタイによる福音書の場合、21の節がそれに充てられています。マルコでは、別の21の節がそれについて語っています。 ルカでは、15の節がそれを記述しています。 そして、四つの福音書の中で、最も少なく記述されているヨハネでさえ、11の節が充てられているのです。 ですから、ゲッセマネについての説教があまりされないのは、聖書の題材がないからでは決してないのです。 また、過去にされた説教の資料が欠けているわけでもありません。 説教者達のプリンスと呼ばれた、スポルジョン(Spurgeon)は、この主題について少なくとも五つのまとまった説教をし、他の説教の中で何度もそれについて触れました。 スポルジョンのこの主題のみに充てた説教は、「ゲッセマネでのキリスト」、「ゲッセマネ」、「熱情の園」、「園での苦しみ」、そして、「裏切り」と題されており、多くの彼のすばらしい説教の中で、しばしば時間を割いて彼はそれについて話しました。 スポルジョンは、この主題について何度も触れており、もし、彼の五つの完結した説教とそのすべての引用文を一緒にまとめれば、一冊の完全な本ができるでしょう。 私はいつかそうするかもしれません。 それは、「スポルジョン、ゲッセマネについて話す」とでも呼ばれるでしょう。 そのような本が、私達には必要である、と思います。

しかし、聖書の中ではそのように重要なところに記述され、多くの説教が過去にそれに関してなされたにもかかわらず、どうして今日この主題についての説教がそんなにも少ないのでしょうか? なぜ今日ほとんどされていないのでしょうか? 私は、三つの理由を上げてみます。

Ⅰ. 最初に、今日の説教は浅はかな傾向にあるが、ゲッセマネは深遠である。

今日、それは聖書の一つないし二つの節と二、三の話し程度で、さほど魂をとらえることもなく、だれかをかき乱すということもなく、また、だれかの感情を覆(くつがえ)すこともないのです。 “羊は食物を与えられなければならない”、と彼らは言います。 しかし多くの場合、味気のないパブラム(幼児用食品)を与えられているのです。 あなたが小さい頃食べさせられたパブラムの味が、実際にどのような味だったか覚えていますか?  そう、それはまったく味がなかったのです。 今日のほとんどの説教がそれと同じようなものです-味がなく、深みがなく、精神を緊張させることもなく-あるいは心に響くこともないのです。

しかし、ゲッセマネは深遠で-そして暗いのです。 私達の主が上階の部屋で彼の十二使徒と一緒に過ぎ越しの食事をされた後、彼は聖晩餐式を彼らと執り行いました。 そして、それからユダは彼を裏切るために外へ出て行き、“時は夜であった。”(ヨハネによる福音書第13章30節) イエスは残りの十一の使徒を部屋から連れ出し、エルサレムの東にある山際を下りて行き、セドロン川を横切り、オリブ山を登られ、ゲッセマネの園のオリブの木々の中に入られた。 彼は八人の使徒を園の入り口の近くに残し、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネをより奥の方へ、彼が祈りを捧げる場所近くに連れて行かれました。 彼は一人で、その園のより暗い奥の方へ行かれました。 彼が祈りの中で苦しみ奮闘されている時、彼は非常な断末魔の苦しみに合ったのです。

おそらく、それはゲッセマネについての説教が欠けている二つの理由を私達に教えていると思います-それは、苦しみと祈りについてです。 人々は苦しみについて聞きたがりません-それが、自分のであろうと他人のであろうと。 そして、彼らは祈りに関しても聞きたくないのです。 それは、すべて忘れられた話題だからです。 今日のほとんどの教会では、少数の人達しか祈とう会には出席しません-もしそれがあったとしても。 もし日曜の朝の礼拝に千人の人が出席していれば、祈とう会に30人もしくは40人の人達が来ればいい方でしょう。 ほとんどの教会は祈とう会ですらもたないのです。 彼らが行なっているのは、もしあるとしたら、おそらく週日の聖書研究のようなものでしょう。 

苦しみ? 彼らはそれを聞きたがらないのです。 今日の世界で、最も感動させられることの一つが、後進国で苦しみ悩むクリスチャンの間で起こっているのです。 あなた方も、www.persecution.com でそのことについて読むことができます。 しかし、だれがそういうことに興味を持つのでしょうか? ほとんどいないでしょう。 説教は今日では浅はかなものになりつつあります。 ゲッセマネは暗く-そして深遠なのです。  それが、私達がそれについてほとんど聞かない最初の理由です。 使徒パウロが次のことを予告したように。

“人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め”(テモテへの第二の手紙第4章3節)

アメリカで、そして西洋の世界で、その境遇まで来てしまったのだと、私は信じます。

Ⅱ. 次に、説教は今日動機づけ的なものになりつつあるが、ゲッセマネは神学的である。

あなたは、キリストが五千人もの人々に食べ物を与えられたり、水の上を歩かれたことを、浅はかな話し方で人々の動機を起こさせることができるかもしれません-しかし、ゲッセマネの話で、どのように人々の動機を起こさせるのでしょうか? ほとんどの人達は、苦しみについて考えることさえしたくないので、そのように話を進めることはできません。 あなたは使徒達が眠りに陥ったように、聴衆も寝てほしくないので、それも使えません。 それには、自助的なメッセージに応用できるようなことは含まれていません。 それは、忘れられているのです。

ゲッセマネのメッセージは人間からのメッセージではありません。 それには、人とのつながりはありません。 それは神学上のものであり、人を動機づけるようなものではないのです。 それは、神そしてキリストについてのことであって、あなた方と私についてのことではありません。 マタイによる福音書第26章37-38節を見てください。 彼は、

“悲しみを催しまた悩みはじめられた。 そのとき、彼らにいわれた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」。”(マタイによる福音書第26章37-38節)

“悩み”-スポルジョンは言いました、“キリストの心は悲観し、弱々しく・・・深い悲しみで制圧されていた。” では、マルコによる福音書第14章33節を開いてください。 ここで、彼は

“恐れおののき、また悩みはじめて”(マルコによる福音書第14章33節)

“恐れおののき”という意味は、“彼は突然びっくりし、驚かれ、[そして]彼の驚愕は身の毛が立つほど身がふるえる状態に落ち込む人のような、恐怖の極度に達した。”

それから、マルコによる福音書第14章34節を読んでください。

“わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。”(マルコによる福音書第14章34節)

彼は、死に至るほど-非常な悲嘆におちいられました。 スポルジョンは、“彼の心の激痛や苦悩は・・・死の寸前のほんのためらいであった”、と言っています。

さて、ルカによる福音書第22章44節を開いてください。 起立して声を出してその節を読んでみましょう。

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。”(ルカによる福音書第22章44節)

着席してください。 スポルジョンは、“聖書のこの表現は、そのようなもの、というのではなく、まさにそのもの自体を述べているのである。 それから、私達は、キリストは本当に血の汗を流されことを信じる。・・・もし気をつければ、彼はただ単に血の汗を流されたのではなく、大きなしずくとなった血の汗を流された。;その血は凝固され、血まみれとなった。 ‘地に落ちた’と言われるとき、それを‘凝血’-大きな、重いしたたり、という言葉以外に、よりよく説明をする術がない-それは、多量であることを示しており、彼の血は、衣服の表面だけについているのではなく、彼が、その場で殺された赤く染まった子牛のようになるまで、彼の衣服に染み込んだのだ。 しかし、したたりのように地に落ちた。 ここで、彼は、無敵のように立つ。 彼は健康な男性であったが、たかだか30歳あまり・・・精神的な圧迫は・・・非常に大きく、彼の体を不自然な興奮へとしむけ、彼の毛穴からは血が大きなしずくとなって地に落ちた。(The Metropolitan Tabernacle Pulpit, number 493)

さて、私達は、このことすべては、彼が捕まるにキリストに起こったことを覚えておくべきです。 人間の手は、彼にはまだ置かれていなかったのです。 それゆへ、ゲッセマネの彼の苦悩を、肉体からくる苦しみととらえることはできません。 また、それは、悪魔との争いから来ているのでもありません。興味深いことに、悪魔は福音書のゲッセマネに関連するところには現れてきません。 いいえ、彼の苦悩、血の汗、そして、死に際の体験は、悪魔的な攻撃には表されません。

私達が、ゲッセマネについての説教をほとんど聞かない理由の一つに、キリストの体験は人間の考えでは完全には理解できない、ということがあると私は思います。 清教徒の賛美歌の作者であるジョセフ・ハートがこのように描いているように、

イエスの御血について多く語られし、
されど、理解されること少なし!
彼の苦悩は はるかに激しく、
御使いたちさえ 悟り少なし。
   ("Thine Unknown Sufferings" by Joseph Hart, 1712-1768)

今日、私達の説教壇でゲッセマネのことをほとんど聞かないのは、キリストの苦しみについての考慮がほとんどされていないからです。 なぜキリストは、明らかに悪魔に触れられることもなく、人間の手によって捕まり拷問を受ける前に、そのようなひどい体験を経なければならなかったのかを、自分自身に尋ねる時間を私達は持たないのです。 唯一聖書だけが、なぜ人の子がそんなにも激しい、ほとんど悟られていない、人間の判断力では理解し難いような苦しみを通り抜けられなければならなかったのか、ということに答えることができます。

Ⅲ. 最後に、今日の説教は人の行いに焦点を置く傾向があるが、ゲッセマネはキリスト   の行いに焦点を置いている。

私は、ゲッセマネの説教を聞くことが稀であること(あるいは、キリストの受難それ自体の説教)の一つの理由は、説教が“決断主義”の影響を強く受けているからだと思います。 古い説教者たちは、私達を救うためのキリストの行いに焦点を置きました。 しかし、フィニー(Finney)に始まり、その焦点がキリストの行いから、人の行いへと変わっていきました。 今では、イエスが私達を救われるために何をなされるのかを話す代わりに、私達は、私達が“救われるために”何をしなければならないのかを話しています。 ですから、説教の全体の焦点は変わりました-イエスが私達が救われるために何をなされたのかから、私達は自分を救うために何をする必要があるのかへと!

ほとんど今日の説教が、キリストの行いではなく人の行いを語っているので、重要なキリストの贖罪の教えに、ほんのわずかだけ考慮が払われています。 そして、キリストの贖罪についてほとんど考えられていないので、キリストのゲッセマネの園での受難は、興味のあるお話程度にしかなっていないのです。 なぜ、それについての説教をすることに思い悩むのでしょう? それは、キリストの生涯の話の一部分にすぎないからです。 それが、多くの人達が考えていることです。

しかし、今晩私はあなた方にこういいましょう。 ゲッセマネでのイエスの受難は、クリスチャン・メッセージの心臓部に位置するのです。 ゲッセマネについてある程度の理解なくしては、あなたは福音を完全に悟ることはできません。 キリストのその園での苦悩と血の汗の中心的意味を、もし理解しないならば、キリストのはりつけと復活は、意味のない目的を失ったものになるのです。

私は、人の破滅が園(エデン)で始まり-人の救いがもう一つの園(ゲッセマネ)から始まったことは、単なる偶然ではなかったは思います。 キリストのゲッセマネの園でも受難は、エデンの園でのアダムの失墜への答えなのです。 そして、その声明は、ゲッセマネの中心的なメッセージとなっています。

なぜ、キリストはその園でそのような悲惨な苦しみに遭われたのでしょうか? それらは、悪魔によって負わされたのではありません。 それらはローマ帝国の兵士達またはユダヤ教の司祭達によって負わされたものでもありません。 それでは、なぜ彼はそれほど苦しまれたのでしょうか? スポルジョンに答えてもらいましょう。 彼はこう言っています。

私はこの偉大な葛藤[ゲッセマネでの]は、私達の敬愛する主の死の恐れにより出たことではなく、そして、また、彼が耐えようとされているすべての侮辱や恐れ、まだ経ておられない肉体的な苦痛のためでもない、と思う。 しかし、確かにゲッセマネでの苦しみは、御自分の民の身代わりとして、すでに彼の上に置かれていた大いなる重荷の一部なのであり、それがこのように、彼の魂を死にいたるまで倒したのである。 彼が十字架の上ですべての重荷を負うためだったのである。 しかし、キリストの受難は、ゲッセマネですでに始まっていた、と私は確信させられました。 ペテロが書いているのを知っているとおり、“その傷によってあなた方は癒されたのである。”と言うことに注意してください。 それらの傷は彼が十字架の上で負わされたものではなく、それはピラトの裁きの場で、彼が無慈悲にもむち打たれたときのものである。 私はイエスが私達の罪を負われたことを信じる。 彼が、オリブをプレスする所[ゲッセマネの]に来られた時、それら(罪)の重荷が七重となって彼を押し倒し始め、そして、そのすべての重荷の一つと集まったものが、計り知れない力となって彼にのしかかった。 彼が十字架にはりつけになった時、“わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?”と、このように彼の口から苦しみの叫びが出された。(C.H. Spurgeon, “Christ in Gethsemane,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1979 reprint, volume 56, p.145) 

ギル博士(Dr. Gill)も同じく、注目すべきそして非常に有益な解説書の中で、その園のキリストの苦しみは、そこで彼に置かれた人間の罪の重荷のためであったと明白に書いています。 キリストが“悲しみを催しまた悩みはじめられた”(マタイによる福音書第26章37節)とマタイの福音書の中でかかれたことについて、ギル博士はこのように解説しています。

彼の悲しみは今始まった。 なぜなら、それらはここでは終わらず、十字架の上で終わるからだ。 これは終わりでなく、彼の悲しみのまさにその始まりであった。 あるいは、これらは将来の悲しみと比べると軽いものであった。 なぜなら、それは大変重く、そしてすべての中で最も重いものように思われた・・・“悩みはじめられた”;彼の民の罪の重みでもって(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume 1, p.334)

再び、ルカによる福音書第22章44節で書かれている、キリストの血の汗について、ギル博士はこう言っています。

“それは単なる死の恐怖というものではなく、彼に負わされた、彼の民の罪を思うがため、彼が耐えねばならない、神の義の律法の呪いを思うがため、そして、彼の魂の中に入れられた、特に神の怒りを思うがための、我々の主に働かれた、混乱した精神というものでる。”(John Gill, D.D., 同著pp.711-712)

これらの古いバプテストの説教者達、スポルジョンやギル博士は、ゲッセマネで何が起こったかを、現代の著者達よりもはるかに明白に描写をしています。 現代の著者達は、怯み私達の罪はその園でイエスに負われたこと、そして、彼はそこで我々の罪の運搬人となられ、翌日に十字架まで、ご自分のからだで運ばれたことを言う事を躊躇うのです。 私は、スポルジョンやギル博士の側に立ちます。 それが、ゲッセマネで彼の苦悩した暗い時間に、救い主に起こったことなのです。 さらに、我々の罪を負うこと意外に、何が、イエスをそのような絶望、そして恐怖へと追いやり、血の汗を流すところまで駆り立てることができるのでしょうか? ここで、ゲッセマネの園で、

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。”(イザヤ書第53章6節) 

次の数時間後に、彼はそれらの罪をゲッセマネから十字架へと運ばれる。

“まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。”(イザヤ書第53章4節)

ゲッセマネから、ピラトのむち打ちを通して、そして、はりつけそれ自体まで。

血でもって買われた罪人から、賛美歌の作者になったジョセフ・ハート(1712-1768)の他には、ゲッセマネでのキリストの“知られていない受難”をより感銘的に表現した人はかっていません。

イエスの御血について多く語られし、
されど、理解されること少なし!
彼の苦悩は はるかに激しく、
御使いたちさえ 悟り少なし。

だれが公平に悟れるか
それらの始まり、もしくはそれらの終末?
それは神、神のみが
それらの重荷をすべて悟られる

苦しまれる神の御子をみよ
あえぎながら、苦しみうめき、血まみれの汗を!
とこしえのない、完全なる愛の深さ!
イエス様 何というあなたさまの愛であろうか!
   (”Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768)

そこで、親愛なる友よ、あなた方が、何かを貢献するような浅はかな考えや、あなた方が神にふさわしくなることを助けるような、何かの“決断”などから、どんなにかゲッセマネから私達が遠ざかってきたかわかりますか? あなたが貢献できるようなことは何もありません。 あなたの“決断”そして“献身”などは、誠意のない、そして価値のない人間の行いにしか過ぎません。 このような近代化された人によって形付けられたことは避けなさい。 そして、イエスに身を投げることです。 彼はあなたの魂を償うために必要なすべての苦しみをなされました。 彼はあなたの罪のためにすべての代償を払われました。 イエスに来なさい。 そうすればあなたの内のすべての汚いことが、“世の罪を取り除く神の子羊”によって、直ちに取り除けられます。 今晩、単純な信仰でもって彼に来なさい。 そうすればあなたと神との間に和解ができるでしょう。 なぜなら、イエスはあなたを罪から救いへと、すべての代償を払われたからです。 今晩、イエスに来ませんか? 私達がこの建物を去る前にそうするよう願っています。 “世の罪を取り除く神の子羊”イエスへ来なさい。

(説教終了)
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クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
マタイによる福音書第26章36-39節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱:“Thine Unknown Sufferings”(作詞by Joseph Hart, 1712-1768)


要 綱

なぜ今日、ゲッセマネについての説教がほとんどされないのか?

ロバート ハイマース 神学博士 著


“それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。 そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。”(マタイによる福音書第26章36節)

I.   最初に、今日の説教は浅はかな傾向にあるが、ゲッセマネは深遠である。
ヨハネによる福音書第13章30節;テモテへの第二の手紙第4章3節。

II.  次に、説教は今日動機づけ的なものになりつつあるが、ゲッセマネは神学的である。マタイによる福音書第26 章37-38 節;マルコによる福音書第14章33-34 節;ルカによる福音書第22章44節。

III. 最後に、今日の説教は人の行いに焦点を置く傾向があるが、ゲッセマネはキリスト の行いに焦点を置いている。マタイによる福音書第26章37節;イザヤ書第53章 6節;ヨハネによる福音書第1章29節