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伝道をやめようか?

ロバート ハイマース 神学博士 著

SHALL WE STOP SOUL-WINNING?
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年3月19日、主の日の晩に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, March 19, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。”(マタイによる福音書第28章19-20節)


使徒行伝は、その当時の初期の教会のクリスチャン達は、救われていない人達を地元の教会へ連れてくるために-すなわち、明瞭な福音の説教を聞かせるために、すべての役に立つ方法を使ったことを示しています。 私達はこれら初期のクリスチャンを模範として彼らに見習うべきです。 私達は主イエス・キリストの明瞭な教えに従うことが必要です!

Ⅰ. 最初に、初期の教会は失われた人達を救いに導くためにあらゆる限りの機会を用いた。

十二使徒は、伝道を重要視してはいけないと警告されました。 そして、家に帰り自宅謹慎をし、信仰は彼らだけのものにするよう脅されました。 多くの人達を救いに導こうと試みたため、彼らは非難され牢獄へ入れられました。

“彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち・・・サドカイ人たちが近寄ってきて、彼らが人々に教を説き、イエス自身に起こった死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。”(使徒行伝第4章1-3節)

そのような、彼らが伝道をしているのを好まない人達は、使徒達が非常な努力を費やしていることに“気をいら立て”ました。 彼らは人々をキリストへ導くための、福音伝道的、救いへの説教、そして彼らの働きのために、実際に捕えられました。

再び、宗教指導者達は、“嫉妬の念”に満たされました。(使徒行伝第5章17節)“[彼らは]使徒達に手をかけて捕え、公共の留置所に入れた。”(使徒行伝第5章18節) そして、役人達が使徒達を連れ出したとき、彼らは十二使徒にこう言いました。

“エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。”(使徒行伝第5章28節)

十二使徒は家に帰るように言われ、福音を彼らの間だけで保つように言い渡されました。

“これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。」”(使徒行伝第5章29節)

キリストは彼らに命じられました。

“いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい。”(ルカによる福音書第14章23節)

キリストはこのようにも彼らに命じられました。

“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として”(マタイによる福音書第28章19節)

彼らは“人間に従うよりは、神に従がわなければ”ならなかったのです。 サウロが、彼が改心する以前、教会を激しく迫害したとき、それらのクリスチャンは伝道をやめることを拒否しました。 サウロが彼らを迫害したとき、

“さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。”(使徒行伝第8章4節)

彼らは人を救いに導くための彼らの努力のために、けなされ非難されました。 その当時の宗教指導者達は、彼らを“党あるいは分裂-異端(ギリシャ語でそれ自体という言葉を意味する)という意味の、“宗派”と呼んだ(Strong’s Concordance #139, Greek Dictionary)。  彼らは“宗派”のラベルをはられたのです。 不信心な宗教指導者達はこう言いました。

“この宗派については、いたるところで反対のあること”(使徒行伝第28章22節)

初期のクリスチャンは“宗派”と呼ばれました。 なぜなら、彼らはその偉大な任務を真剣に受け取り、キリストが言われた事を文字どうりに従ったからです。

“道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。”(ルカによる福音書第14章23節)

その偉大な任務に従うことは、私達を宗派にするのでしょうか?  けっしてそうではありません! 私達は、イエス・キリストに従っている、ただそれだけを意味するのです。

Ⅱ. 次に、近代の新福音主義者達は全てを保持しているが、人を救いに導くことをやめている。

私は、デーヴィッド・ウェルズ博士(Dr. David Wells)の著書、 No Place For Truth: Or What Happened to Evangelical Theology?[真実の余地がない:または、福音主義の神学説に何が起こったのか?](Eerdmans, 1993)を読んでいます。  Time(タイム誌)は、この本を“福音主義の堕落について刺さすような告白状”と呼びました。 その表紙(裏面)にはこのように書かれてあります。 “デーヴィッド・F・ウェルズの徹底的な分析は、教会内での神学説の挫折を考察し・・・保守的プロテスタントの信仰の将来について重要な疑問を投げかけている。”

ウェルズは、新福音主義者達は、彼らの標準としている神学説や聖書を徐々に諦め、社会学や心理学に妥協降伏している、と言っています。 彼はこう言っています。

教義上の本質を取り除き、文化に対し熟考し批判することもなく、今日の神学説は“美徳”を、テクノロジーと富裕の世の中で成功を見出すための一連の日々の技(わざ)へと変えている。 どのようにして宗教的になるかを知ることは、現在では、・・・絶対的な道義に対して断固として敵対する、そして、・・・自己達成のためだけの価値を求めることに絡(から)まれている世の中では、どのようにして“成功する”かを知る、ということの意味になっている。 この新しく実用的な美徳の燃料は、聖書が源となっているのではなく、・・・富の豊かな世代での心理上の完全さと幸福感に携(たずさ)わる・・・心理学・・・から来ているのである。(同著、p.112)

神学説を伴わない福音主義の信仰の空虚感は、近代の生活の空虚感と反響している。 両方ともが、神の余地がない・・・神の言葉が不適切な世界に超えて行く事を選択しているのである。(同著、p.301)。 

私は、ウェルズ博士の声明に同意します。 今日では、新福音主義者達は、聖書と宗教教義は適切ではない-(すなわち)生活の唯一の手引きは、自己の感情や自己の個人的な平安と繁栄である、と言う傾向があります。

しかし、私達は、聖書は(今でも)適切であり、聖書、そして聖書のみがそれ自体、信仰と実践のための私達の規範である、と主張します。 それは正しく、古くからのバプテストの教えです。 そして、私自身、聖書を放棄し、その教義を社会学や心理学と置き換える意図は持ち合わせていません。

近代の新福音主義者達は全てを保持していますが、個人的な伝道をやめています。 彼らはどこにいるのでしょうか? 私達は、大学のキャンパスやショッピング・モールなどに出て行き、福音を聞いてもらうために人々を教会に招待します。 しかし、新福音主義者達はどこにいるのでしょうか? 私達は、彼らが伝道をしているのに出会ったことがありません。 どうでしょう? 私は、以前、彼らは伝道をしたのを覚えています。 バイオラ神学校(Biola)がロスアンゼルスのダウンタウン、南・ホープ・ストリートの550番地(550 South Hope Street)にあった頃は、誰かにクリスチャンの小冊子を配られたり、オープン・ドア教会(Church of Open Door)でJ・バーノン・マギー博士(Dr. J. Vernon McGee)の説教を聞くよう招待されたりすることなく、ロスアンゼルスのダウンタウンを通り抜けることは出来ませんでした。 いったいどうしたのでしょうか? 新福音主義者達はどこに行ってしまったのでしょうか? 私達が最も必要としているときに、彼らはどこにいるのでしょうか? 彼らがどこにいるか教えましょう。 彼らは、キリストのために人を救いに導こうと聖書を真剣に受け取っている人の粗(あら)を探すために忙しいのです。 彼らは伝道ではなく粗探しに忙しいのです! 彼らは個人的な伝道ではなく、個人的な平安と繁栄を追い求めるのに忙しいのです! イエスはこう言われました。

“道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。”(ルカによる福音書第14章23節)

いつそのように変わってしまったのでしょうか? いつキリストに従わないことが許されるようになったのでしょうか? いつ伝道が、個人的な楽しみに取って代わってしまったのでしょうか? 私はこう言います。 けっしてそれは変わらなかった、と。 その任務は、かって真実であったように、今夜においてもそれは真実であると言えるでしょう。 伝道をすることを拒否する新福音主義者達は、聖書に対して忠実ではなく、キリストにも忠実ではなく、十二使徒にも忠実ではなく、そして、殉教者ならびに信仰のヒーローにも忠実ではなく-神その方にも忠実ではないのです。 私は、クリスチャンに伝道に行きなさい、と言うことをやめるよりは、バニヤン(Bunyan)やウォームブランド(Wurmbrand)等と一緒に牢獄に入りたい! けっして(やめません)! ジョン・R・ライス博士(Dr. John R. Rice)はこう言っています。

ルカによる福音書第14章16-24節のところで、盛大な晩餐会を準備し多くの者を招いた人のたとえ話しのなかで、私達にこのように語っています。 すなわち、その召使は最初に、すでに招かれている人達のところへ行きました。 彼らは来ませんでした。 そして、次に、彼は町の大通りや小道へ出て行き、“貧乏人、不具者、足なえ、盲人”を招きました。 それから、その人は道やかきねのあたりに出て行って、しきりに、そして、むりやりに人々に来るよう説得しました。 それは、福音の言葉が可能な限り届く範囲にいる全ての人達に、その福音を伝える義務のある地元の教会のクリスチャンに対して、主イエスが示唆されたことではないでしょうか? それが、全ての地元の教会のクリスチャンに与えられた伝道の義務のねらいなのです。(John R. Rice, D.D., Why Our Churches Do Not Win Souls, Sword of the Lord, 1966, pp. 22-23)

他の人達は、古くから行われている伝道を忘れているのかもしれません。 彼らは、スポルジョン(Spurgeon)やムーディー(Moody)、トーリー(Torrey)、ボブ・ジョン・シニア(Bob Jones, Sr.)、そしてジョン・R・ライスが伝道に関して語ったことを忘れているのかもしれません。 私達自信も彼らが言ったことを忘れているのかもしれません。 しかし、私達はけっしてキリストの言葉を忘れてはなりません。

“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として”(マタイによる福音書第28章19節)

彼は未だにこう言われています。

“全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。”(マルコによる福音書第16章15節)

また、彼はこうも言っています。

“この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。”(ルカによる福音書第14章23節)

私達は、この新約聖書(に則った)バプテスト教会に人々を連れて来なければなりません。 

“すべての民にあたえられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。”(ルカによる福音書第2章10節)

人々を裁きによる破滅から救うために、この罪の廃墟と化した世の中にイエスが来られたというよい知らせ。 人の罪の償いのために、イエスが十字架の上で亡くなられたというよい知らせ。 キリストは、墓から体ごとよみがえられ、神の右座に上げられたというよい知らせ。 イエス・キリストへの単純な信仰によって、あなたは、一度、そして永遠に救われるという大きな喜び。

それが私達のただ一つのメッセージです。 さあ、伝道を続けましょう。

“道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。”(ルカによる福音書第14章23節)

そうすれば、彼らは毎週日曜日の朝と晩に、この説教壇から説かれる栄光ある福音の言葉を聞くことでしょう!

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
住所:www.realconversion.com “Sermon Manuscripts”をクリックしてください。

クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
使徒行伝第8章1-4節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱:   “Bring Them In”(作詞Alexcenah Thomas, 19th century)


要 綱

伝道をやめようか?

ロバート ハイマース 神学博士 著


“それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。”(マタイによる福音書第28章19-20節)

I.   最初に、初期の教会は失われた人達を救いに導くためにあらゆ
る限りの機会を用いた。使徒行伝第4章1-3節;5章17-18節、28-29節;
ルカによる福音書第14章 23節;使徒行伝第8章4節;28章22節。

II.  次に、近代の新福音主義者達は全てを保持しているが、
人を救いに導くことをやめ ている。 ルカによる福音書第14章23節;
マルコによる福音書第16章15 節;ルカによる福音書第2章10節。