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大学生の信仰告白

ロバート ハイマース 神学博士 著

COLLEGE STUDENTS GIVE THEIR TESTIMONIES
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年1月29日、主の日に
前半分は朝に、そして後半分は晩に説かれた説教

Half of this sermon was preached in the morning, and the other half in the evening,
Lord’s Day, January 29, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。 また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。”(ペテロの第一の手紙第3章15節)


このテキストは、全ての真実のクリスチャンはイエス・キリストに抱いている望みの証(あかし)が出来るはずである、と私達に語っています。 “心の中でキリストを主とあがめなさい”とは、キリストを心から尊敬し、栄光を与え、敬愛しなさいの意味です。 言葉を変えれば、キリストを愛し敬(うやま)う、ということです。 “心の中でキリストを主とあがめなさい。 また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。” あなたがキリストに抱いている望みは、それについて説明を求める人達に熱心に説明されるべきである。 この節に関して、W. A. クリスウェル博士(Dr. W. A. Criswell)はこう言っています。 「クリスチャンはいつでも[キリストにある]望みについて、[それを尋ねる者]に答える用意をしているべきである。」(The Criswell Study Bible, note on I Peter 3:15)。 “また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。” ヘンリー・モーリス博士(Dr. Henry M. Morris)は、不信者への私達の弁明は「得意になって自慢するようにではなく、[やさしく慎み深く]されなければならない・・・クリスチャンは自分の弁明に無礼であってはならず、横柄であってもいけない」(The Defender’s Study Bible, note on I Peter 3:15)。    

ですから、クリスチャンは皆、いつでも答えを、すなわちキリストに抱いている望みの証を与える用意をしているべきである。 そして、クリスチャンはその答えをやさしく慎み深く与えるべきで-救いに関して自分の主張を横柄なやり方で論争すべきではありません。

“あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。”(ペテロの第一の手紙第3章15節)

各々のクリスチャンは、どのように自分が救われたのか、そして自分は何を信じているのかの証をする用意をすべきです。 最初に、クリスチャンはなぜ自分はキリストを信じ、どのように自分は改心したのかを、身近な教会の牧師や執事の人に尋ねられます。 そして後に、なぜあなたはクリスチャンになったのかを尋ねる、同意をしない人達に対しても弁明しなければなりません。 置かれている立場はどうであれ、クリスチャンは明確な改心の証、すなわちなぜ自分はクリスチャンになったのか、なぜ自分はキリストに信仰をもっているのかを弁明できる用意をすべきなのです。    

今朝と今晩、私はここ数ヶ月間の内に、クリスチャンになった大学に通う年代の若者が書面にした信仰告白文をいくつか読んでみます。 これらの証をすることによって、彼らはちょうど使徒ペテロがするようにと語ったそのことをしたのです。    

注意をしてこれらの信仰告白文を聞いてください。 それらを聞く事によって、多くのことをあなた方に学んでほしいと思います。 彼らが経験したのと同様な基本的な経験をあなた方にももってもらいたいのです。 そして、なぜクリスチャンになったのかを尋ねてくる人に対して、聡明にその質問に答えられるようになることを願っています。 これらの信仰告白文から学べるだけ学び、キリストに来て救われなさい。 そして、あなた方は同じような証を、“あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人に”対してできることでしょう。    

どのようにしてこれらの若者が救われたのかを注意して聞き、彼らが言ったことをあなた自身に当てはめてみなさい。 そして、同様な経験をキリストにもちなさい。

信仰告白 一

2004年3月20日、それは日曜日の朝でした。 私はいつものように起き、歯をみがき、着替えて教会へ運転しながら、短いお祈りをしました。 朝の説教の話題がメル・ギブソンの映画「キリストの受難」についての話であることはよく知っていたけれども、この説教がキリストの敵に対する愛について私の目を開かれるとは思ってもいませんでした。 ヨハネの福音書第3章16節が、私にとって全く新しい真実になりました。 そして、ローマの兵士がイエスの手を十字架に釘づけにした受難の場面が私の頭の中に浮かんできました。    

ハイマース先生が、キリストの愛について説教を続けられている時、イエスの手を釘が通り抜けていくことを目に浮かべると、まるでそれらの釘が私の心に突き抜けているように感じました。 私の頭の中に浮かんだ釘槌の一振りごとの打撃は、私をひどく罪の自覚に導きましたが、同時にキリストが私のためになされなければならなかったことに対して、深い悲しみを覚えました。    

ケイガン先生よりカウンセリングの部屋へ導かれ、私は、自分が犯した罪に対する罪悪感の状態に置かれているのを感じました。 私は自分が犯した最悪の罪をはっきりと思い出し、それは疑いもなく自分がとてもひどい罪人であるということを私に証明しました。    

ケイガン先生とハイマース先生はカウンセリングを続けてくださいました。 私はイエスに対する悲しみ、恐れ、そして罪の意識で激しく泣いている間でも、彼らが私に話されたことは、私には何も理解できないように思われました。 私の心の中にいろいろな考えや思いが浮かび上がり、心を落ち着かせて考えることができませんでした。 しかし、以前数人の方が私に話された事をはっきりと思い出しました。 マツサカさんが一度、「ここにいる皆が君の改心を指示しているよ」と言ってくれました。 そして、ケイガン先生はいつも私に「イエス様はあなたを愛しているし、イエス様はあなたに対して怒ってはいない」、と言ってくださったこともよく覚えています。 私は、イエス様は私の事を怒ってしかるべきだと思っていました。 ウォードリップ先生は、「‘偶然の一致’などということはありえない。 すべてには、神の御心を通して道理がある」、と私に言われました。 私はそこでどのようにしてこの教会に来てしまったのだろうかと考えました。 それは神の深いあわれみと愛を明確にする証明だったのです。 ハイマース先生は「神の要求に応じることは、イエスの必要性を認めることである」(ヨセフ・ハートの賛美歌にて)、と話されました。 今回、私は確かにイエス様を必要としていることを悟りました。 私は常に自分自身「解決法などはない!」、と思い込んでいました。 私がひざまずき祈る時、私の心の中にはいろいろな雑念が浮かんできました。 今にしてみると、悪魔自身が、私がイエス様を信頼する機会を遠ざけようとしていたことに気づきました。 私はそこで、「イエス様を信じよう」と思いました。 なぜかしら、その錯乱した思いは消え、私はイエス様に飛びつきました。 単なる主イエス・キリストへの信仰と彼の、罪を帳消しにする血でもって私は救われました。 私には何ら違いは見えませんでした。 私は感情とかフィーリングなど体験しませんでした。 大事なことは、天国で起こっている奇跡であり、イエス様が彼の尊い血によって、私の罪を消してくださったことなのです。    

幾日も私は、朝起きた瞬間から夜寝床に入る前に神に祈る時まで、キリストのことを思いました。  私は、私の救い主の非常な愛に対して自分自身を吟味しました。 しかし、私がイエス様を信頼したその日以来、何度も自分の救いについて疑問をもちました。 私はイエス様の血にふさわしくない、ということは知っていました。 私は、食事の前に祈る事を忘れたり、罪を犯したこともありました。 自分がまだ救われていないとほぼ確信をしていた頃、ハイマース先生は「全ての人は神の栄光に達することはできない」、と私に話されました。 この永遠の命の賜物に対して、その感謝の気持ちは、何かの行いによってあるいは言葉によって表すことはできません。    

主イエス・キリストのような英雄に対して、感謝をする可能な術はないし、イエス様が私のためになされた事に対して、少しもお返しを彼にすることはできません。 ちょうど、子猫が木の上から救助してくれた消防士に対して感謝を表すことが出来ないのと同じようなことです。 イエス様のなされた事は、そのような事以上に尊いことです。 イエス様は私の罪を洗い流されただけでなく、イエス様は御自分の命までをもそうなさるためになくされたのです。 そして、私のような罪人のために御自身の命を捧げられたのです。     

主イエス・キリストが私のためになされたことに対して、ただの言葉で感謝の意を表すことは困難ですが、私が以前読んだ聖書の中に、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネの福音書第15章13節)とありました。 どのようにしてそのような尊い犠牲に対して、報いることができるのでしょうか? 私はキリストの計り知れない愛について思うほど、私には畏敬の念が起こります。 私の主は、私のために御自分の命を捨てられただけでなく、私が彼の敵であった時でも、私のために御自分を捨てられたのです。 そして、イエス様は私の不治の心の病をも癒し、同時に永遠の命をくださいました! そのような愛にふさわしい人はいません。 そして、イエス様が私に望んでいらっしゃった事は、ただ彼を信頼することだけでした。 どんなに感謝を捧げても、私がいくら伝道をしても、また、私がどんなにお金を捧げても、イエス様への私が負っている負債を償うことはほど遠いのです。

信仰告白 二     

私は2002年8月13日、水曜日の朝に改心しました。 8月のある月曜日に私は帰宅の途に急いでいました。 仕事と罪の重荷でたいへんに疲れていました。 歩いて家に向かっていると、「もううんざりだ、これ以上たえることはできない」、と自分自身につぶやいていたことを覚えています。 私はその日曜日の夜、ハイマース先生の説教を聞いて非常に心が悩まされました。 その日曜日に説教された多くの言葉が、月曜日の夜私の心に浮かんできました。 説教は「トーマスが彼の不信から解き放された」と「チック・ハーンの死」(長い間プロのバスケットボールチーム・レイカーズのアナウンサー)でした。 また、以前聞いた説教の多くの言葉も浮かんできました。    

その月曜日の晩、私が働いている時、同僚が私の体調の具合について聞いてきましたが、私は答えませんでした。 マネージャーに、「だいじょうぶかい? 何か問題があるみたいだけれど」と聞かれた時、一度だけ答えました。 私のマネージャーへの答えは、自分はだいじょうぶです、でしたが、実際にはそれはうそで、私を戸惑いさせました。 私が彼にそう答えたとき、何も考えていませんでした。 私の答えは彼にはとげとげしかったが、会話を避けるためにそう答えました。 私のその時の状態を表現することは困難であったかもしれない、なぜなら自分はひどく動乱していて、罪悪の意識のために、他のすべてがたいしたものではなかったのです。 私を笑わせることは何もなかったし、この問題を忘れさせることの出来るものは何もなかったのです。 私には手におえないように思いました。 このような罪の意識下で、仕事を終えて家に辿り着いたのは、まさに奇跡であった言わねばなりません。 また、思い出すのは、仕事場には自分をこのような考えからそらせようとした人が、たくさんいたということです。 私が欲したことはただ一人になることだけでした。    

その晩、家に歩いて帰る途中、過去に聞いた説教の多くの言葉が頭に浮かびました。 たとえば、金持ちが黄泉で「目を上げ苦しんでいる姿」、「あなたが若い時、あなたの創造主を思い出しなさい」、そして「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており:彼らは価なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである」。 それらの言葉が、歩いて家に向かっていた時に、頭に浮かんできました。 また、それらの聖書の章節は、罪の意識と共になんどもくり返し浮かんできました。 私は、その晩歩いて帰る途中、通り過ぎていく車や人を見ていた事を覚えています。 ある人の顔は、何も心配事がないように見え、また他の人の顔は失望で満ちているように見えました。 私は命と死、そして命とはどんなにもろいものであるか、などを考え始めました。 日曜日の朝の説教で語られたチック・ハーンの死について考えさせられ、その朝ハイマース先生が語られた死についてのいくつかの考えを自分にも当てはめてみました。 私がそのように考えていると、私の中に何か恐れを感じました。 私は自分に問いました、「もし自分が今しぬとしたら?」。 「今は死ねない、このような状態では」、と私は言いました。 そして、また私は通りすがりの一人一人の表情を見続けていたら、ハイマース先生が説教の中で、彼が、人々が自分達の魂に対して何の関心もなく、まるで死体のように歩いている、と言われたことが思い出されました。    

私が家に着いたのは夜中の1時でした。 私は疲れていましたが、寝たくはなかったので、机に行き、カウンセリングの部屋でもらったジョン・アンジェル・ジェームズの本、「不安なる探求者」(The Anxious Enquirer, John Angell James)を開きました。 最初に、章を次から次へと読み始めました。 それから、ハイマース先生のプリントされた説教を取り出して、読んだのも覚えています。 ある時は、私は跪(ひざまず)き、神様に許してくださいと祈りました。 たとえば、「私は罪人です。 私は罪人です。 私を許してください、イエス様。」と言ったことも覚えています。 私は誰に向かって祈ってよいのか、また、どのように祈ってよいのか知りませんでした。 私はただ祈りました。 しかし、私が祈ったことは何の慰めにもなりませんでした。 私は、「私は失われている。 私は罪に定められている。」と自分自身に言ったことを覚えています。    

その後、私はベッドに横たわり、そこで、ハイマース先生がある説教の最後に、「イエスを仰ぎ見なさい。 イエスを仰ぎ見なさい。 イエスはあなたを愛しておられ、あなたを救おうと願っていられるのです。 イエスはあなたのような罪人を救うために来られたのです。 イエスはあなたの罪を償うために十字架の上で亡くなられました。 イエスは今天国で神の右座にいらっしゃいます。 もしあなたがイエスに来れば、彼の御血でもって、あなたの罪を洗い流してくださいます。」、と言われたことを思い出しました。 突然、私は自分を救うことはできない、と悟りました。 なぜなら、私は罪人だからです。 それでも、私はまだ救われていませんでした。 イエス様が私を救ってくださるまで、なお私の心には奮闘がありました。 私が今までに教わった教えを信じようとしましたが、それもできませんでした。 そのようなことが、私がイエス様を信頼する前の体験でした。 私は自分を救うことをやめ、イエス様に救ってもらいました。 確かに、イエス様は救いました。 イエス様はそのとき私を救ってくださいました! その後、私は「イエス様を信頼した。 イエス様が私を救ってくださった。 私は救われた。 イエス様が私のために亡くなられ、私の罪を許してくださった。」と言いました。 これらのすべての体験が同時に起こりました。 ある瞬間から次の瞬間へとイエス様が全てをなさいました。 イエス様は、私の罪の贖いのために十字架で亡くなられたのです。 私のすることは何もありませんでした。 このことが起こった瞬間を説明するのは困難です。 私が知っていることは、イエス様が私を救ってくださったことです。

信仰告白 三    

私は神と神の一人子の犠牲を長い間拒絶していました。 私はたいへん悪く、そして、汚れているように感じ始めました。 全ての説教が私の魂を通りすぎて行きました。 私の大きな問題点は、学校の友達と時間を無駄にし、遊びまわることでした。 私がカウンセリングの部屋に行っても、説教からは何の影響もなく、だんだんと聖霊が私から遠ざかっているように思えました。     

私は私の魂のために、そして神様が私の罪を示してくださるよう祈り始めました。 なぜなら、神様が私を裁かれる待っていらっしゃることを知っていたからです。 私は神を恐れ始め、今までに犯してきた罪が見えてきました。 少しずつ救われるだろうと考えていた私は愚かでした。 私の問題点は、罪をし続けたいということでした。     

私が聞いた説教が心にしみ込んできました。 そして、やっと私は罪はそれをする価値がないことに気づきました。 今までのように続けていても、何の得になるのだろうか? これが私の最後の機会になるかもしれない。    

1月の伝道集会の時に、教会のリーダーの一人が私の改心のために祈ってくれているのを聞きました。 そこで、私は「何をまっているのか?」と自分に問いました。 イエス様が十字架でされた以上に偉大な招きはない。 そういう想いで家に帰りました。    

やっと2005年の2月27日に私は改心しました。 その夜、説教とカウンセリングの間、私は自分の魂と罪について考えていた事を覚えています。 私は、自分が罪人であり、私の罪は神の御前にとても悪いことだと確信させられました。 そして、もし私が死んだら、黄泉にまっさかさまに落ちていくことも知りました。 そこで、私の心に槍(やり)が刺すように感じました。 私にはイエス・キリストと彼の血が必要だったのです。     

この時点で、イエスの私への愛は真実となりました。 私は何度も以前に聞いていましたが、パリサイ人(偽善者)のように私は心を頑なにしていたのです。 神の言葉によって、最終的に私の心が砕かれた時でした。 イエス様が私の罪の犠牲となられ、そしてイエスの流された血によって私の罪は清められたのを知りました。 それ以上何を求めることができるでしょうか? 私が必要としていたのはイエス様ご自身だったのです。    

私がカウンセリングされている時、ケイガン先生は、自分の全ての罪を離れるのか、と私に問いました。 私は彼の質問の対し、「はい」と答えました。 そしてまた、イエス様と彼の血を信じるか、と問われ、「はい」と答えました。 私は自分が罪人であることは知っていました。 そして、私を癒すことが出来るのはイエス様の血であることも知っていました。 その血のみが私の薬なのです。 私の信仰は、その薬を受け入れることだけでした。 イエス様は、両手を開き私を受け入れるのを待っていらしたのです。 私のしなければならなかったことは、イエス様に来ることだったのです。 そして、跪(ひざまず)きイエス様を受け入れました。 私がしたことはとても簡単なことでした。 私は全ての罪を捨て、イエスに来ました。 私は自分をイエス様に投げかけ、完全に彼の血の上に横たわりました。 これは言葉では言い表せるような感情(フィーリング)ではありませんが、神様が私に哀れみをかけてくださったことや、イエス様の血により私の罪が償われたことを確信できること、などに対して、私は心を打たれ、感謝をしました。    

さて、イエス様を信じ、そして、イエス様の血によって洗い流されたからには、私が外を歩くときでも、私には強い確信があります。 もし私が死んだとしても、神の御前に正しくされ、清く立つことができます。 イエス様の血は私にとって真実です。 私に哀れみをかけてくださったことに、私は毎日神様に感謝しています。 また、私の魂にそれほどまでに心配してくださり、力強い説教をしていただいたことに、ハイマース先生にも感謝しています。 そして、ケイガン先生にも、私を心配してくださり、私が先生を必要としたときに、いつもそこにいてくださったことに感謝しています。 私は神の国へのパスポートとして神の御子の血をもって、神の御前に立つことができます。 イエス様は十字架の上で遂げられた犠牲によって、御自身の愛を私に注いでくださいました。 私はそのことに対して、イエス様に感謝します。

信仰告白 四    

私が改心した前の晩に、私は自分の罪そして魂の状態を自覚させられました。 罪の意識の多い少ないで私を救うのではなく、またそれが全くないとしても、イエス様の血によって罪を洗い流してほしいと願う人を、イエス様は救われるという事を、私は話されました。 そのようなことを私は知らなかったけれども、聖霊はすでに私に罪を悟らせていました。    

ハイマース先生は、こんどの夜の説教は私の事を思いながら説教をする、と私に話されました。 その晩、家に帰る途中に、突然私はとても重々しく罪の自覚を感じました。 「わたしの罪はいつもわたしの前にあります」(詩篇第51章3節)、この節がその時、私にとってとても真実となりました。 私の思いにあったことは、聖なる全能の神に対して、なんと罪を犯してきたことか、ということでした。 私が罪人であることだけでなく、私自体が罪であり、神の御前に何ら正しいことをすることが不可能だったのです。 私が行った全てのことは、神の目には汚い布のようなものだったのです。 私はいつもカウンセリングでは、正しい答えを探して、応対しようとしていたことを覚えています。 ただ「パス」され、私は救われた、と言ってもらえることを望んでいました。 天国にある神の書に記録されている私の罪などどうでもよかったのです。 ただ教会に受け入れられることだけを望んでいました。    

私の罪による自覚は相当なものでした。 天国の書に記録されている自分の罪以外のことは、考えることさえ困難でした。 私は全能の神をあざけり、人間と同様のレベルまでへりくだられた救い主をさげすんでいました。     

翌晩ハイマース先生は「あなたも救われることができる」という主題で説教をされました。 その説教の間、彼は私に失われた状態でいる理由は何もないと言われました。 人が自分の罪を取り除くには、イエス様に来ることだけだったのです。 ただイエス様を一目見るだけで、そうすれば天国にある書から私の罪の記録は消されるのです。 私は何百回もハイマース先生がこのことを語られたのを聞いたけれども、私は今それを聞き、初めて実際に耳を傾けました。     

この時になると、私の罪の自覚は非常に大きく、私の考えられることは、自分の罪から救われなければならない、ということだけでした。 私はその夜救われるまでは、教会から去らないと決心をしました。 カウンセリングの部屋で、ハイマース先生は私に跪(ひざまず)き、イエス様に来るよう、そして、イエス様を見なさいと言われました。 その瞬間顔を涙を流しながら、イエス様に身を投げました。 私は全く盲目の信仰でイエス様を信じ、そしてイエス様は私を救ってくださいました。 その時、私はイエス様に来ました。 私はただイエス様に目を向けました。 そこで、イエス様は私の罪から救ってくださいました。     

それだけを、イエス様はなされたのです。 私を罪から、そして黄泉への永遠の罰から救ってくださいました。 天国の書に記録されている私の罪はすべて、今ではイエス・キリストの尊い御血によって洗い流されました。 イエス様がカルバリーで流された血は、今天国で私の罪をも清くされるのです。 今、私はイエス・キリストの内に新しい命をもちました。 苦しまれ、血を流され、そして私のために死なれたイエス様。     

イエス様は天国にいらっしゃる父なる神の右座にすわっておられる私の救い主、そして主となられました。 カルバリーで私の償いをされた報酬は、私がけっして完全には報いることのできるものではありません。 私ができることは、イエス様を崇め、彼に仕え、そしてかれの栄光をたたえることです。 私が罪を悟り、イエス・キリストに導かれたのは、神の哀れみと恵みによるものです。 私は信心深い牧師、両親、信頼できる助言者、そして友達のいる、仕えることのできる教会に置いてくださったこと、そして私がキリストに私が望むことは、私や他の若い人達がこの教会を保持していき、そして築き上げるために奉仕することです。 私は私の救い主である、イエス・キリストと顔を会わせることを楽しみにしています。

信仰告白 五    

私が改心した前の週に、ハイマース先生は私を困惑させるような説教をされました。 それはその週を通して毎日のように私の頭の中につきまといました。 彼が説教をしたのは、ヨナ書第2章9節の後半の部分で、「救いは主のものである。」というものでした。 そこでは、救いの働きはイエス様を通して神のみによるもので、この奇跡には人は何も貢献することはできない、ということを明白にしたものです。     

この説教が私を困惑させた理由は、私が自分の努力で救われようとしていたからです。 私は何度もカウンセリングに行っていましたが、自分の邪悪な状態に関して、少しも不安を感じていませんでした。 私が何をしてもどうにもならなかったのです。 私がしていたことは、イエス様を、そして彼の私のために流された血を拒絶することにより、罪を罪の上に重ねていました。    

私がこの説教を聞いた後、聖霊が私の罪に関して私を悟らせ始めました。 私は自分の悪行を知り始めました。 私は失われた罪人であり、神様に関しても無知であり、そして神様の本性に反していました。 私は黄泉へ落とされる身でした。 当然のごとく、そして私にはそれを防ぐ術はなかったのです。 私は神様がいつ私を打ち倒されるかを恐れていました。 裁きに直面する覚悟もないまま私は死んでしまうのです。 このような真実が、毎日のようにつきまといました。    

私のような罪人は、神様にもそして神様の恵みも値するわけがないと思いました。 何度も何度も神の御子を拒絶した後、神様が私の事を諦められるのは確かでした。 だから、次の説教がされた時、私は神経を集中させて聞きました。 それは土曜日の夜でした。 その説教の最後の言葉は、「キリストを仰ぎ見なさい-アダムではない」、というものでした。 これらの言葉は罪からの救いはイエス様によるもので、人ではない、ということでした。 それでもなおかつ、私はキリストを信頼しませんでした。    

次の朝、私の罪は私には耐えられないものとなってきました。 ユダに関しての説教がされている時、私の罪が次第に重くなっていくのを感じました。 ユダのように私は自分の内を見つめており、キリストではなかったのです。 その時、神様が私に自分の魂の救いのためには自分の内から目を離し、キリストへ目を向けることが必要だと知らされました。 私は自分の罪を許してもらうために、必死にイエス様を求めました。    

説教の後、カウンセリングを受けるために二階へ上がって行く間、イエス様が私のためになされた事を考え始めました。 イエス様は恥をかかされ、つばを身にかけられました。 そして、鞭打たれ、ひどく苦しめられました。 イエス様は私の全ての罪を御自分の体に負われたのです。 そして、破滅した私のような罪人のために血を流されました。 イエス様は私の罪のために刑罰を受け苦しまれました。 私の身代わりとなって死なれたのです。 イエス様は私に永遠の命をくださるために、死から体をよみがえられました。 私を愛するがためにこれらの全ての事をされたのです。 それまでは、私はイエス様の私への愛について、知っていませんでした。 そのような愛の表示は全く知りませんでした。    

その朝、神様の恵みにより私はキリストに来ました。 神様が私にキリストを信じる信仰をくださったのです。 イエス様が私の救いへの働きを全てしてくださいました。 私の邪悪な性質がイエス様を信頼することを遠ざけていたのです。 神様が私を御自分の御子に近づけてくださいました。 神様はひじょうな哀れみと私への同情を示されました。 私はそのようなことには少しも値しないのですが、神様はイエス様を通して救いの賜物をくださいました。 私がイエス様に来た瞬間、私は彼の尊い、そして力強い血によって清められたのです。 私の罪はイエス様によって許されました。 彼の血により全ての神の書の中に記録されている私の罪は清められました。 私は、今生きておられる神の目に正しい者とされました。 イエス様の正義が私を負ってくださったのです。    

私はイエス様が私にしてくださった事に対して、けっして恩を報いることはできません。 私は黄泉と裁きから逃れられました。 もう罪に召えるものではありません。 むしろキリストに召えるものとなりました。 私は全ての賛美と感謝をキリストに捧げます。

信仰告白 六    

神の、私達の罪のための犠牲は、私達の罪を清くするために流された御自分の一人子、イエス・キリストの血によるものです。 これは私が何度も聞いた真実です。 子供の頃、私は神に対して全く非現実的で浅はかな考えを持っていました。 神の御子いえす・キリストについても同じように思っていました。 そのようなことは、知性で達するにはほど遠いと思い、神そして福音に関する真剣な思いを避けていました。 以前、神が私に語りかけ、救いについて考えるよう動かされたこともありました。 私はイエスによる救いに関する説教を聞いたときにもたされた緊張により、心の苦痛を深く感じたこともありました。 しかし、イエスとの真のつながりはなく、神に反する罪の意識もありませんでした。 罪に関する何の思いも私の魂には全く影響がありませんでした。 私の心は深く苦しむこともなかったのです。    

そのような状態が長く続き、そして偽りの改心が私を完全に鈍感な状態にしていきました。 イエスは私の罪を許してくださらず、充実感もなく、神のなされたことに、閉ざすかそれとも受け入れるかのどちらかです。 そして、私の魂の失われた状態について考えることもなく、神に反して罪を犯していることに直面させられた後、神は再び御自分の哀れみにより私に語られました。 小さい時に聞いた、子供の愚かさで退けてきた、神のひそかな声は今始めて理解できました。 私が神の律法を破り、神のことも思わず、自尊心が高く、そしておこがましい態度をふるまってきたことを、神は私に明白に示してくださいました。 説教やカウンセリング、そして過去に聞いた説教や聖書の描写などを通して知らされた、このような真実をも避けることはできません。 このような全てのものが私の思いに浮かんできました。     

去年の教会のキャンプで、終わりに近づく数日間、私は自分の救いに関して、神の御心に自分自身を服従させることに苦労しました。 私は神を恐れるようになり、神の目に自分の罪がとてつもなく悪いことに気がつきました。 生まれて初めて、自分の罪に関して真実に感じただけでなく、神が私に定められた罰に自分は値することも知らされました。 私は、過酷さと直面させられて、神の哀れみを嘆願しました。 しかし、それはもっとひどい状態にしました。 なぜなら、神は私が受けるに値する以上に、すでに哀れんでくださったことを、私は知っていたからです。 神の恐れであおられ、神に対して多くの罪を犯してきた事を知り、イエスを見るように試みました。 私はイエスが罪そして正当性の答えであることは知っていましたが、自分自身の思いに注視しすぎて、再び誤った改心へと自分を欺きました。 許されていない、失われた魂、知っている限りのことで、神を喜ばせ、従おうと試みました。 しかし、私はまた完全に信頼していない、神であり人であるキリスト・イエスに直面させられました。 イエスが真実であるという事実は、私にとって明白でした。 私はまたイエスが御自分の意思で血を流され、そして私の罪を許すために、言葉では言い表せないような苦痛を体験された事実は、全く受け入れていました。 しかし、イエスとのつながりはありませんでした。 私の顔がまだイエスから隠れていたように感じました。    

7月17日の日曜の晩、ハイマース先生は「マーチン・ルターの正当化」を語られました。 この時、彼はキリストの血について、特に注意深く話し始められました。 その血は、私の思いの主題でもありました。 「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき贖いの供え物とされた」、と言われているローマ人への手紙第3章25節の、その部分がまさに私に的中しました。 その時、私はとてもイエスへの信仰と彼の血を欲しました。 しかし、私のような弱く、致命的な死んだ者にとって、それに達するにはほど遠いように思えました。 私は再び低くされました。 弱く、悲しく、イエス・キリストにある信仰を通して、神により正しい者とされるような、とても簡単に思えることさえ、私には及ばなかったのです。    

ハイマース先生とケイガン先生が私に相談してくださいました。 私は確かに救われていないし、イエスに信仰をもっていない、と彼らに言いました。 私は自分を哀れみ、慰めており、そこから抜け出すこともなく、キリストにある許しに対しても責任のある決心をしないことなどが、私を救いから妨げていると、告げられました。 そして、何年も神の霊、また説教を聞く事を拒否していることが私の思いを惑わせ、そして「正しく」または、好まない方法で、イエスに来る事をひねくれさせている。    

彼らは私にそのような事は忘れて、「どんな方法であっても」ただイエスに来るよう言われました。 私はその部屋で一人にされました。 その時点ではイエス以外何も、そして時間さえ関係なかったのです。 私はイエスが神により人ため、そして私のために置かれた血の贖いとなられたことを知りました。 私は跪(ひざまず)きイエスに私を救ってくださるよう泣き叫びました。 私はイエスに「救ってください。 どうかイエス様、救ってください。」と何度も言いました。 私は以前のように私が言うこと、そして思うことを前もって計画しませんでした。 その時、イエスの血による救いを願うほか、何の頼みをするものはなかったのです。    

私は完全にイエスそして彼が私に提供してくださった救いの恵みにゆだねました。 私の行いによるのではなく、また、私がしたこと、あるいはこれからしようとしていることでもなく、イエスそして彼にある信仰のみ、それ以外、何の余地もありません。 イエスのみが私を正しく神にあてがうことができます。 これは私を驚かせます。 イエスがどんなにも彼を探し求める者のために、成し遂げてくださることに私は驚嘆します。 私がイエスに来ようとしても、また失望するだけだと思いました。 しかし、自分の力、そして特性に頼らなかったとき、その代わりに、熱心にイエスを求め、彼に許しをより頼んだことが、神の真実の御心だったのです。    

その時が私のイエスを信じたときでした。 私の罪のために御自分の血を流されることによって、すでにイエスのなすべきことは完結されたのです。 今私が言えることは、御自分の御子による驚くべき救いの賜物でもって、全ての栄光は神のものであるということです。 私は今自分の罪が許されたとを自信をもって言えます。 イエスが私の罪のために十字架につけられて亡くなられたこと、そしてイエスにある信仰を通して、私が神の目に正しとされた、そのことに関して、私の自信はイエスと彼の血にあります。

信仰告白 七    

私は2005年の1月26日に改心しました。 私はイエス様を受け入れ、私の罪は彼の血で洗い流されました。 私はイエス様の血を信ずる信仰でもって彼のところに来たのです。 私は、自分を信じることをやめイエス様を信じたその瞬間を正確に思い出せます。    

改心する前は、教会に来て良い人間になる努力をすれば、自分は改心するであろうと考えていました。 もし毎週日曜日に教会に来れば、良い人間になれ、神様は私を改心してくださる、と自分自身思っていました。 私は良い事をすればするほど、より改心することに近づくのではと考えていました。 なんと、自分はまちがった考えを持っていたのでしょうか。 良い事をすれば改心することが出来る、と信じれば信じるほど、私はキリストから遠ざかったのです。     

私はカトリック教徒のように考えていたのです。 私は小さかったころカトリック教会に行っていましたが、司祭が言ったことを本当に理解しませんでした。 しかし、カトリック教会では、人間の行いと罪の懺悔でもって天国へ行けることを信じるように教えていました。 私の心はすごく頑(かたく)なだったので、その教えを私のあたまから取り除けるのにずいぶんと時間がかかりました。 私はハイマース博士の説教を聞いた時、私の心はぼやけ、他のことを思うようになりました。 ハイマース博士がイエス様について説教をする時、その福音を真剣にはとりませんでした。    

そして、数ヶ月が過ぎ去り、私は説教を注意深く聞き始めました。 説教の後カウンセリングに行きました。 私は、ハイマース博士そしてケイガン博士の救いについてのアドバイスを注意して聞きました。 しかし、私はカトリック教徒のようにまだ考えていました。 カウンセリングは私に影響を及ぼしませんでした、なぜなら、私は、何かをして改心したかったからです。 私は、救われるためには、人の行いが必要である、とまだ考えていました。 私は間違った改心をあれこれともっていました。 改心にはフィーリングが必要であると、何度も何度も考えました。 神様は私に新しい心と精神を与えて下さると思い、そして私は異なったフィーリングを持つであろうとかんがえていました。 イエス様ではなく、この“フィーリング”を探していたのです。 間違った改心を持っていた時期は、私にとってぞっとするようなときでした。 私は自分が惨めな罪人であることを認めたくなかったし、イエス様の御もとに来たくもなかったのです。     

私は、自分の罪を自分で償おうと全ての考えられることは試みました。 また、二度と罪を犯すまいと決心をしたりしました。 神の助けなくしてなくして、自分の行動を清くしようと試みました。 なんと、私は間違ったことをまたしたのでしょうか。 私は大変自己中心的で、神の事を考えるなど思いつきもしませんでした。 自分の問題を自分で処理しようと試みました。 それが、私がイエス様を拒否した理由です。    

聖霊が罪の自覚に私を目覚めさせました。 自分の罪を悪いものと思うようになりました。 しかし、そのような感情は長くは続きませんでした。 説教の後、カウンセリングの部屋へ行ったとき、何を言おうかと、以前説教された話を思い出しながら、思いめぐらしました。 その言おうとすることは実際には私自身には起こったことではなく、ただ何かを言わなければ、といったことでした。 自分の罪に触れたくはなかったのですが、他のひとの罪とか他の人の改心とか。 自分自身見ずに他人を見ていました。    

そうした後、それが起こったのが、2005年の1月の伝道集会のときでした。 今回はちょっと以前とは違いました。 私は毎日祈りをしました。 自分一人になり、自分の罪について考えはじめました。 福音のメッセージは新鮮に明白に自分には聞こえました-救いは主であるイエス・キリストによるもので、無償である。 私は聖書は一語一語真実であることを知りました。 聖書に書いてあることは全て信じました。 イエス様は私の全ての罪の贖いのために十字架で死ぬためにこの世に来られました。 そして、三日目に彼の肉体はよみがえり、今神の右座に座っておられます。    

私は自分自身希望のない惨めな罪人として、しかしイエス・キリストに望みを持って、キリストに来ました。 神においては、全ては可能なのです。 私にとってもっとも大事なことはイエス様に来ることでした。 そして、彼の血でもって私の罪を洗い流してもらうことでした。 私は彼の血を信じます。 その瞬間、私は改心したのです。      

(説教終了)
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ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
 による説教前の独唱:
“Jesus is the Friend of Sinners” by John W. Peterson, 1971(朝);
“Oh, How He Loves You and Me” by Kurt Kaiser, 1975(晩)