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キリストの傷 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 THE WOUNDS OF CHRIST ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “こう言って、手と足とをお見せになった” |
キリストは十字架に釘付けされました。 彼は苦しみ、そして血を流され、そこで死なれました。 キリストが死なれた後、“しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た”(ヨハネによる福音書第19章34節)。 使徒ヨハネは、十字架の脇にいました。 彼は、釘がキリストの手足を貫くのを見ました。 彼はイエスの死に直面しました。 彼は、兵士達がイエスのわき腹をやりで突き刺すのを見ました。 ヨハネは、イエスのわき腹の傷口から血と水が流れ出るのを見ました。 ヨハネは、“それを見た者があかしをした”(ヨハネによる福音書第19章35節)と言いました。 彼はローマの兵卒達が、“まだだれも葬られたことのない新しい墓”(ヨハネによる福音書第19章41節)に、イエスの体を葬ったのを見とどけました。
翌朝早くに、マグダラのマリアが走っていって、ペテロとヨハネにイエスの墓の入り口をふさいでいた大きな石が“とりのけてある”(ヨハネによる福音書第20章1節)事を告げました。 ペテロとヨハネは、墓へ向かって出て行きました、そしてヨハネが先にそこへたどり着きました。 彼は、墓を覗き込み、“身をかがめてみると、(イエスの体を取り巻いていた)亜麻布がそこに置いてあるのを見”ました(ヨハネによる福音書第20章5節)。 ペテロはヨハネに追いつき、“墓の中にはいった。 彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった”(ヨハネによる福音書第20章6, 7節)。 そこでヨハネも中に入ってきてその亜麻布を見、空の墓を見ました。 彼らは混乱状態でした、そして、“しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった”(ヨハネによる福音書第20章9節)。 これらの事は全て日曜日の朝に起こりました。
後に“その日”、弟子達は、イエスを十字架にかけたユダヤ人の権威者達を“おそれて”隠れていました(ヨハネによる福音書第20章19節)。 突然、死からよみがえられたイエスが入って来ました! イエスは彼らに、“「安かれ」”と言われました(ヨハネによる福音書第20章19節)。
“彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕”
(ルカによる福音書第24章37-40節)。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
イエスの復活を彼らが知るように、イエスの手と足を突き貫いた釘の傷がありました。 彼らは兵卒が槍で突き刺した、彼のわき腹の切り傷も見ました。イエスはトマスにこのように語られました、
“「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」” (ヨハネによる福音書第20章27節)。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
キリストは、簡単にそれらの傷を彼の体から消す事が出来たでしょう。 キリストが墓からよみがえられた時、御自分の全ての傷跡を消す事も出来たでしょう。 しかし、キリストはそうしないで、彼の手と足の、釘による傷と彼の脇腹の傷口の裂け目は残されていました。 これに何か理由があるのでしょうか? なぜキリストは、彼らに御自身の傷を見せたのでしょうか? 私は三つの理由を挙げてみます。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
I. 最初に、 十字架に付けられた同じ方であることを私達が知るように、イエスは、弟子達に彼の傷をお見せになった。
グノーシス主義派は、イエスは実際には十字架で死んでいないと主張しました。 イスラム教の聖典、コーランでは、イエスは十字架で死んでいないと書いています。 今日、神を信じない多くの人達は、神が御自分の御子に、そのような恐ろしい死に方をさせることは無いと言っています。 イエスは、彼の十字架での死に関して、不信が生じる事を知っていました。 それが最初の理由です。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
御自身が実際に苦しみ、そして十字架に付けられて死んだ事を、イエスは、全ての人々が知るように望んでいました。 目撃者である、使徒ヨハネは、“初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について・・・”(ヨハネの第一の手紙第1章1節)と言いました。 ワッツ博士はこのように語りました、
十字架にかかりし
主イエスをあおげば
たからもほまれも
あくたとかわらず
(「十字架にかかりし」by Isaac Watts, D.D., 1674-1748) 。
おらせたまえ
このみを主よ
十字架のかげに
とこしえまで
(「十字架のかげに」by Fanny J. Crosby, 1820-1915)。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
II. 次に、イエスは、私達の罪の為に身代わりとして苦しまれた事を、私達が知るように、御自分の傷を彼らにお見せになった。
バプテスマのヨハネはこのように言いました、
“その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊” (ヨハネによる福音書第1章29節)。
しかしヨハネは、正にどのようにイエスが私達の罪を取り除かれるかは、明らかにしませんでした。 イエスが死からよみがえり、弟子たちがそれを理解するまでは明らかにされませんでした。 イエスは、
“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた”
(ペテロの第一の手紙第2章 24節)。
次の聖句の意味を知ったのは、彼らがイエスの手と足とに出来た釘後を見た後のことでした。
“キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた”
(ペテロの第一の手紙第3章18節)。
それが二番目の理由です。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
私達が、罪からそして地獄から救われるように、イエスが、私達の罪の代価を支払う為に苦しまれ、十字架に付けられて死なれた事を、確かに私達が知る事をイエスは望まれました。 そして,
“キリスト・イエスによるあがない・・・神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがない・・・”
(ローマ人への手紙第3章24, 25節)。
を知るように、イエスは私達が彼の手と足の釘による傷跡を見る事を望まれました。
ですから、
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
ワッツ博士による賛美歌を歌って下さい!
十字架にかかりし
主イエスをあおげば
たからもほまれも
あくたとかわらず。
「十字架のかげに」を歌って下さい!
おらせたまえ
このみを主よ
十字架のかげに
とこしえまで。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
III. 最後に、御自分が全ての時代を通しての救い主である事を、私達が知るように、イエスは御自分の傷を彼らにお見せになった。
キリストは御自身の傷そして御血を共にもって、私達の為に永遠なる贖いを備えられました。
“しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである”(ヘブル人への手紙第9章11, 12節)。
“キリストは・・・手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである”
(ヘブル人への手紙第9章24節)。
天国の神の右座に座られ、イエスの傷跡は、神と御使い達に、常に、そして永遠に次の聖句の言葉を思い起こさせているのです。
“彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである”
(ヨハネの第一の手紙 第2章 2節)。
にもかかわらず、今日この世の多くの人々は、イエスを拒否しています。 ほとんどの人々は、自分達の正当な行い、そして彼ら自らの信仰によって救われる事を望んでいます。 ですから、彼らは神が救いの為に備えられたイエスを拒否しているのです。 私自身の言葉ではありません、イエス御自身がそのように語られたのです、
“だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない”
(ヨハネによる福音書第14章6節)。
イエスは、神への唯一の道なのです、なぜなら、彼御自身のみが私達の罪を贖うために苦しまれ、そして死なれたからです。 他のどの宗教の先導者達、孔子、仏陀、モハメッド、ジョセフ・スミスなど、誰一人としてそのような事はしていません! イエス・キリストついてのみ、こう語られているのです、
“彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”
(イザヤ書第53章5節)。
イエスについてのみに、このように語られたのです、
“キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった”
(テモテへの第一の手紙 第1章15節)。
イエスについてのみに、このように語られたのです、
“まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう”
(ローマ人への手紙第5章8, 9節)。
これがその理由です。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
ワッツ博士による賛美歌をもう一度歌って下さい。
十字架にかかりし
主イエスをあおげば
たからもほまれも
あくたとかわらず。
「十字架のかげに」を歌って下さい!
おらせたまえ
このみを主よ
十字架のかげに
とこしえまで。
イエスが二度目に戻って来られる時も、イエスは御自身の手ろ足に、十字架の傷を身につけて来られるでしょう。 キリストは、予言者ゼカリアの言葉を通してこのう告げられました、
“彼らはその刺した者を見る時、・・・彼のためにいたく悲しむ”
(ゼカリヤ書第12章10節)。
生きている内に、キリストを信じない人達は地獄で永遠に悲しむでしょう。 偉大な説教者スポルジョンは、“それらの手、そして槍でさされたわき腹が、あなた方に向けて、そして更に、あなた方に不利な立証となるであろう。もしあなた方がイエスを拒否したまま死んだとしたら、あなた方の邪悪な行いのために、永遠にキリストの敵となるであろう”(C. H. Spurgeon, “The Wounds of Jesus,” The New Park Street Pulpit, Pilgrim Publications, volume V, p. 237)。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
更にスポルジョンは、このように書いています。
哀れな罪人たちよ・・・あなた方は[キリスト]に来る事を恐れているのですか? では、キリストの手を見なさい、彼の足を見なさい。 それはあなた方を信じさせませんか? 彼のわき腹は開いている。 彼のわき腹は[あなた方に向けて]開いている・・・罪人よ、彼の傷によって、あなた方が信じさせられますように!それらはあなた方を失望させない、キリストの傷は、彼を信頼する者を癒す(同著、240ページ参照)。
“こう言って、手と足とをお見せになった”
(ルカによる福音書第24章40節)。
昔の救世軍のエバンジェリン・ブース(Evangeline Booth)は、それをすばらしく言い表しています、
キリストの傷跡は開け、
罪びとよ、その傷口はあなたのためにつくられた;
キリストの傷跡は開け、
そこへ逃避する。
(“The Wounds of Christ” by Evangeline Booth, 1865-1950).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ヨハネによる福音書第20章24-29節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“The Wounds of Christ” (by Evangeline Booth, 1865-1950).
要 綱 キリストの傷 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “こう言って、手と足とをお見せになった。” (ヨハネによる福音書第19章34, 35, 41節;第20章1, 5, 6-7, 9, 19節; I. 最初に、十字架に付けられた同じ方であることを私達が知るように、 II. 次に、イエスは、私達の罪の為に身代わりとして苦しまれた事を、私 III. 最後に、御自分が全ての時代を通しての救い主である事を、私達が知 |