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彼らには、このことばは隠されていた。

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2018年3月11日、主の日の晩の説教

THIS SAYING WAS HID FROM THEM
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, March 11, 2018

“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカの福音書第18章34節、新改訳)

ルカの福音書で、イエスが、ご自身が死なれる事を十二の弟子達に告げられたのは、これで三度目です(ルカ9:22;9:44)。 ルカの福音書第18章31節から33節にかけて、イエスはこのように告げ、そのことを明白にされました。

“さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。”(ルカ18:31-33)

これ以上明白に出来るでしょうか? 且つ、“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。 彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34) マルコの福音書第9章32節は、“しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。 また、イエスに尋ねるのを恐れていた”と語っています。 A・T・ロバートソン博士は、このマルコの聖句に、このようなコメントを書いています。 「彼らは、理解できないままであった。 彼らは、キリストの死と復活の主題に間して不可知論者(不信者)であった。」(A. T. Robertson, Litt.D., Word Pictures in the New Testament, Broadman Press, 1930, volume I, p. 344; note on Mark 9:32)

キリストの福音は、使徒パウロによって簡潔に、そして明白に述べられました。

“キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、”(コリント第一15:3-4)

且つ、この時も、十二の弟子達は福音を理解出来ず、また信じませんでした。

“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34)

A・T・ロバートソン博士は、こう言いました、「彼らは、キリストの死と復活の主題に関して不可知論者(不信者)であった。」(同著) 十二使徒達は、それでも福音を信じなかったのです! マルコの福音書第9章30節から32節について、バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)は、「イエスが御自分の死と復活を彼らに公表されたのは、それが初めてでは無かった。 それでも彼らは理解出来なかった」( J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p. 201; note on Mark 9:30-32)。

“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34)

このテキストからの言葉は、彼らの福音の不信について告げています。

I. 最初に、彼らには福音が理解できなかった。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。” 「わかる」と訳されたギリシャ語の語源は、「知的に[理解する]」(ストロング注解書)という意味です。 キリストは明白に、また、文字通り話されたけれども、弟子達は彼の言われたことを把握することが出来なかったのです。 このテキストは、“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった”と言っています。 マチュ―・プール(Matthew Poole)は、「それを理解し易い言葉である」(A Commentary on the Whole Bible, The Banner of Truth Trust, 1990 reprint, volume 3, p. 258; note on Luke 18:34)と書いています。 且つ、弟子たちには、これらのことが何一つわからなかったのです!。 弟子達は、キリストが“異邦人に引き渡され”、という言葉が理解できませんでした。 彼らは、イエスが“あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ”、という言葉が理解出来ませんでした。 彼らは、イエスが“むち打たれ”、すなわちイエスが背中の骨まで打たれるであろうという事が理解できませんでした。 彼らは、イエスが十字架で“殺される”であろうという事を理解しませんでした。 彼らは、イエスが「三日目に」死からよみがえるであろうという事が理解できませんでした。 マルコの福音書はこのように告げています、

“人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。”(マルコ9:31-32)

彼らの無知に対する一般の反応は、ウィリアム・マクドナルドによって以下のように説明されます。

彼らの思いは、ローマの支配下から彼らを自由にし、直ちに王国を造り上げる現世の救い主という考えで満ちており、それゆえ彼らがその他の過程を信じる事を拒否した(William MacDonald, Believer’s Bible Commentary, Thomas Nelson Publishers, 1989 edition, p. 1440; note on Luke 18:34)。

2006年1月28日、イスラエルの主要なラビの一人であるイツハク・カドリ(Yitzhak Kaduri)が死んだ時に、死後に開くようにと一筆のメモを残しました。 中世のラビ達は―ヨセフが兄弟の罪のために苦しみ、エジプトから彼らを救い出したように、彼らの罪の為に苦しむ目的で現れるメシア・ベン・ヨセフ、そうして、彼らの敵を征服し、王として彼らを支配するようになるメシア・ベン・ダビデの二人のメシアがいた事を信じました。 しかし、ラビ・カドリのメモが彼の死後開かれた時、そのメモに彼は、一人のメシアを信じていたと書いていました。 メシアについてのヘブライ語の文章の最初の文字は、彼の名前―ヨシュアを示している事を示しています。 英語で、その名前はイエスです! これはイスラエルの宗教学者達を悩ませました。 苦しむメシアと支配するメシアは一人なのです! それらの「二人のメシア」は最初の、そして再臨される方、キリストです―二人のメシアではありません!

弟子達は、メシア・ベン・ヨセフでは無く、メシア・ベン・ダビデを求めていました! その時代のほとんどのユダヤ人は、ローマの支配から彼らを解放するメシア(メシア・ベン・ダビデ)を求めていたので、彼らの思いは、苦しむメシア(メシア・ベン・ヨセフ)を信じることに対して、偏見を抱いていたのです。 彼らは、二人のメシアが実際一人である事を理解していませんでした。 私の説教 『弟子の恐れ』をご覧ください―ここをクリックして読んで下さい(弟子たちの恐れ)。 しかし、福音に対する彼らの無知には、もう一つの理由があるのです。

一人のある青年がこう言いました、「何度も福音を聞き、それを再び毎週日曜日に聞く事は、私の心を更にもっと頑なにさせるように思えました。 福音の簡素さは、私に不満を抱かせました。 ・・・私は何も起こらないと思い続けていました。 ・・・私は自分のフィーリング、そして自分自身を信頼しようとしていました。 [彼は心理分析医、そして自分のフィーリングを癒してくれるメシア・ベン・ダビデを求めていたのです。] ハイマーズ先生は、何度も何度も、イエスは私を愛していると私に語られました。 最終的に、私は何かを為そうとしました。 私はハイマーズ先生が言われた事を為しました。 私はイエスを信頼しました、なぜなら、私のフィーリングでは無く、イエスが十字架につけられたからです。 [彼は自分に心の癒しが得られるように、メシア・ベン・ダビデを置留めていたのです。] そして、イエスは私の罪を御自分の血で洗い流して下さいました。」 彼は、自分の罪の為に死なれたイエスについて何度も聞きましたが、それを信じなかったのです。 彼は罪の赦しでは無く、心の癒しを求めていたのです。 今晩、あなた方の数人は、正に彼と同様です。

II. 二番目に、福音は彼らに隠されていた。

“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、…”(ルカ18:34)。

“隠されて”という言葉は、 「潜められた、隠された」というギリシャ語から訳されています。 それは、ヨハネの福音書第8章59節の“イエスは身を隠して”に見られる、正に同じギリシャ語です。 ですから私達のテキスト、“彼らには、このことばは隠されていて”も同様です。 彼らが宮にいるキリストに石を投げようとし(ヨハネの福音書第8章59節)、イエスが御自身を隠された時、神業が見られます。 ルカの福音書第18章34節からの言葉について、フランク・ゲイビレン博士の注解書は、「ルカは弟子達の無知さを、明らかに神による理解の差し控えに帰している」(Frank E. Gaebelein, D.D., general editor, The Expositor’s Bible Commentary, Zondervan Publishing House, 1984 edition, volume 8, p. 1005; note on Luke 18:34)。 それは正にこのテキストの意図であると、私が考慮している点です。 神による理解の留めだったのです。 “彼らには、この言葉(福音)は隠されていて。”

サタンはあなた方の目をくらまします。 聖書は、“それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。”(コリント第二4:3-4)と告げています。 ですから、あなた方は、イエスを信頼するのではなく、自分のフィーリングを求めているのです。

ですから、その時点では、弟子達は偉大な聖徒ではなかった事が理解できます。 彼らは単なる人に過ぎませんでした。 彼らは、私達のようなアダムの子孫でした。 従って、彼らは、私が救われる前の、七年間の状態であったように、そして未だ救われていないあなた方のように、“自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・罪過の中に死んでいた。”(エペソ2:1, 5) アダムの子孫として彼らの肉の思いは、“神に対して反抗するものだからです。”(ローマ8:7) アダムの子孫として、彼らは生まれながらの人間であり、それ故、“生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。”(コリント第一2:14) アダムの子孫として、“十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”(コリント第一1:18) キリストがニコデモに、“あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。”(ヨハネ3:7)と告げられたように、弟子達も“新しく生まれなければならない”のです。 彼らは自分達の職業を捨て、キリストに従う事によって、新たに生まれる事は出来ませんでした。 それは行いによる救いとなるでしょう! それはローマ・カトリック教の解釈です! しかし聖書は、恵みによる救いを教えています。 ですから、彼らはイエスに従う事によって救われる事は不可能でした!

“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”(エペソ2:8-9)

ユダは十二弟子の一人でした。 彼は新たに生まれていたでしょうか? キリストは、ユダは“不信者”であり、“滅びの子”と呼びました(ヨハネ17:12)。 トマスは新たに生まれていたでしょうか? 復活の後トマスは断固として、“決して信じません。”(ヨハネ20:25)と言いました。 ペテロは神による幾らかの啓示があった事が判ります(マタイ16:17)。 しかし、しばらく後にイエスが、“殺され、そして三日目によみがえらなければならない”と彼らに告げられた事に対して、ペテロはイエスをいさめました(マタイ16:21-22)。 そうしてイエスはペテロに、“下がれ。 サタン。 あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。”(マタイ16:23)と言いました。 明らかにペテロは福音を拒否し、キリストの受難と復活を拒絶するよう、サタンから影響されました。 あなた方は、ペテロのような状態です。 あなた方は、(十字架であなた方のを贖う)メシア・ベン・ヨセフでは無く、(あなた方の気を楽にしてくれる、あなた方に良い生活を与えてくれる、あなた方を物質的に満たしてくれる)メシア・ベン・ダビデを求めているのです。

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34)

使徒パウロはこう言いました、

“それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、…。”(コリント第二4:3-4)

サタンは、あなた方の罪が赦されるのではなく、あなた方が物質的な物を求めるよう、あなた方の思いをくらませているのです。

そうです、「超自然的」に目をくらまし、弟子達の、サタンによる目くらまし、そして彼ら自身の肉による、アダムからの生まれつきの状態による、福音への目くらましがあるのです。 イエスは、“あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。”(マタイ18:3)と言われました。 彼は誰に対してそう言われたのでしょうか? 彼はそのことを“弟子たち”(マタイ18:1)に言われたのです。 マタイの福音書第18章1-3節に注目して下さい、

“そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。”(マタイ18:1-3)

弟子達は、彼らの中で誰が天国では一番偉いかを知りたかったのです(マタイ18:1)。 イエスは弟子達に、“あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。”(マタイ18:3)

“弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34)

III. 三番目に、彼らは福音を体験を通して知らなかった。

このテキストの後方で“話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34)とあります。 “理解”と訳されたギリシャ語の言語は、「気付く、確かにする、体験によって自覚させられる」(George Ricker Berry, A Greek-English Lexicon of New Testament Synonyms, coded to Strong, number 1097)と言った意味です。 同じ言葉が、ピリピ人への手紙第3章10節で使われています。 “私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って”、弟子達は、福音を体験を通して知っていなかったのです。 彼らはその言葉を聞きましたが、真実の福音を体験していませんでした。 彼らは、の赦しでは無く、御国における報酬を求めていたのです。 それでは、第18章31節から34節に耳を傾けて下さい。

“さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカ18:31-34)

ここでそれを理解出来るでしょう。 “彼らには、このことばは隠されていて、話された事が[体験によって]理解できなかった。”のです。

スポルジョン(C. H. Spurgeon)の信仰告白に耳を傾けて下さい。 彼は、福音説教者であった父親の下で育ちました。 彼は、福音説教者であった彼の祖父の家で夏を過ごしました。 彼は、毎週日曜日に福音の説教を聞きました。 且つ、イエスの復活前の弟子達のように、彼は回心していませんでした。 スポルジョンはこのように書いています、

私は若い時からイエスの犠牲による救いの計画を聞いていた。しかし、私は自分が[異教徒の国で]生まれていたかのように、それについて心底から知らなかった。それは新たな啓示として、あたかも聖書を全く読んだ事が無いかのように、自分に示された…。[そして]私は、信仰により、神の御子である方が人となり、十字架で御自分の神聖なる身体に、私の罪を負われた事を理解し悟った。あなた方はそれを理解したであろうか?(C. H. Spurgeon, How Can a Just God Justify Guilty Man?, Chapel Library, Pensacola, Florida)。

スポルジョンはキリストについて知っていました。 彼は救いの計画を聞きました。 しかし彼は、「[福音についての]これらのことが何一つわからなかった。 [彼]には、このことばは隠されていて、話された事が[体験によって]理解できなかった」のです。 福音が突如として彼に示され、彼に、「それは新たな啓示として、あたかも聖書を全く読んだ事が無かったかのように」示されたのです。 この新たな啓示とは何だったのでしょうか? キリストが罪を赦される事です! スポルジョンは、以後彼の生涯、罪からの救いを説教しました。

あなた方が自分の罪によって悩まされるまで、 あなた方は救われないでしょう。 その時のみに、あなた方はイエスによって救わるでしょう。 それが真の回心です。 あなた方が罪の重荷を感じさせられる時に、あなた方は復活されたキリストに引き寄せられるのです。 ある人が私に、「聖書のどこに、弟子達が、復活されたキリストに出会った事によって回心したと、書かれているのですか?」と尋ねました。 答えは明白です。 四つの福音書の後方に―マタイの福音書第28章、マルコの福音書第16章、ルカの福音書第24章(特に、36節から45節)、そしてヨハネの福音書第20章19-22節に記されています。 アメリカで最も有名な聖書の教師であるバーノン・マックギー博士は、ヨハネの福音書第20章22節について、「私は個人的に、我々の主が彼らに息を吹きかけられ、『聖霊を受けよ』と言われた時に、これらの弟子達は再生されました。 彼らが外見的な利益を求める事を止めた後のみに、彼らがキリストを見捨て自分達が罪人であった事を自覚した時のみに、彼らは新たに生まれたのです。 あなた方が自分の罪によって悩まされるまで、 あなた方は救われないでしょう。その時のみにあなた方はイエスによって救わるでしょう。」(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, volume IV, p. 498; note on John 20:21)。 このウェッブサイト www.thruthebible.orgで、マックギー博士の説教が聴けます。 .

聖霊によって、あなた方が自分の罪を悟らされ、御霊があなた方の心を開き、復活された神の御子イエス・キリストへとあなた方を引き寄せ、イエスの血によって罪から清められますようにお祈りします。

私達の 教会のある若い女性が、「私は自己主義で、妬みに満ち、他の人達に対して怒りの感情を抱いていました。 しかし、私はこれ以上我慢が出来ませんでした。 私の生まれもった邪悪な本性で、私はイエスを拒否しました。 私は誤った回心をしていました、なぜなら、私はイエスご自身では無く、自分自身の思いを信頼していたからです。 [彼女は外見的な事を求め、最終的に罪から彼女を救う為に、キリストの苦悩の重要さを知る、回心していない弟子達と正に同様だったのです。] 私は、自分自身を救おうとしていました。 自分を救おうとすればするほど、自分が失われている事を感じました。 そうして、イエスが私の為に十字架で極度の苦痛を貫かれた事を悟りました。 私へのイエスの愛をどうしたら拒否する事が出来るでしょうか。 今、誰よりも私を愛して下さるイエスを知っています。 ・・・私は一生涯イエスを信頼します。」と言いました。

    マックギー博士のラジオ放送番組は毎回、この賛美歌「きたれ、なれを清むれば」(“Jesus Paid It All.”)で終了します、

「きたれ なれをきよむれば」
とのたもう みこえにききしたがわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

ゆくわがみの けがれとつみ
すこしものこさず あらいたまえ
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

まねくイエスは 信仰とあいと
のぞみとへいわを あたえたまわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ

すくいぬしは みめぐみもて
よせきたる つみにかたせたまわん
主よわれは いまぞゆく
十字架の血にて きよめたまえ
   (『きたれなれを清むれば』“Jesus Paid It All”
      by Elvina M. Hall, 1820-1889).

説教の前にグリフィス氏が、この素晴らしい賛美歌、『In Christ Alone』を歌いました。 米国長老教会は、彼らの賛美歌集からこの曲を取り抜きました、なぜなら、この賛美歌の著者が、二番の歌詞「神の怒りは満たされた」を変える事を拒否したからです。

キリストのみに、我が望あり
我が光、我が力、我が詩なり、
基いの盤石、硬き地の面
厳しき日照りと嵐にも揺ぐこと無し
高貴なる愛と深き平安、
恐れは静まり、戦いは終結せん
我が慰めは、隅々にわたり
ここキリストの愛の中に我は立つ

苦難を偲ばれしキリストのみに
神の成就は、寄る辺ない赤子に満たされん
愛と義の賜物,
救いに来られし群集に罵られ
イエスは十字架で死なれん。
神の怒りは満たされ、
イエスに置かれた人類の全ての罪のゆえ、
今、キリストの死のゆえに、我は生きる。

地面に横たわりし彼の屍
暗闇に呑まれし、世の光
栄光の日は放たれ
我が主、イエスは死からよみがえり!
彼は勝利の内に立ち
罪の呪いは、我が身から放たれん
イエスの貴い血でもって購われ、
我は、彼に、彼は、我に

罪の咎めなく、死の恐怖もなく
これが、我が内のキリストの力
産声の一声から、最後の一吐息まで
イエスは我が運命を定めん
黄泉の力、人の企ては、
我をイエスから引き抜くことはなく
彼の再臨、もしくは我が天に召されるまでに、
キリストの力の中に、我は立つなり   (直訳)
   (“In Christ Alone” by Keith Getty and Stuart Townend, 2001).

では、グリフィス氏が繰り返して歌う二番の歌詞に耳を傾けて下さい。

苦難を偲ばれしキリストのみに
神の成就は、寄る辺ない赤子に満たされん
愛と義の賜物,
救いに来られし群集に罵られ
イエスは十字架で死なれん。
神の怒りは満たされ、
イエスに置かれた人類の全ての罪のゆえ、
今、キリストの死のゆえに、我は生きる。

アーメン。


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(説教終了)
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ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
“In Christ Alone” (by Keith Getty and Stuart Townend, 2001).

要 綱

彼らには、このことばは隠されていた。

THIS SAYING WAS HID FROM THEM

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

“しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。”(ルカによる福音書第18章34節、新改訳)

(ルカ18:31-33;マルコ9:32;コリント第一15:3-4)

I.   最初に、彼らには福音が理解できなかった。ルカ18:34a;マルコ9:31-32。

II.  二番目に、福音は彼らに隠されていた。ルカ18:34b;ヨハネ8:59;コリント第二4:3-4;
エペソ2:1, 5;ローマ8:7;コリント第一2:14; 1:18;ヨハネ3:7;エペソ2:8-9;ヨハネ17:12; 20:25;マタイ16:17, 21-22, 23;マタイ18:1-3。

III. 三番目に、彼らは福音を体験を通して知らなかった。ルカ18:34c;ピリピ3:10。