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見る事、あるいは信じる事?

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2018年2月4日、主の日の晩の説教

SEEING OR BELIEVING?
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, February 4, 2018

“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”
     (ペテロの手紙第一第1章8, 9節、新改訳)

ペテロは、イエスを見た事のない人々に話したのです。 彼らは、イエスがこの世にご臨在されていた時、イエスを一度も見た事がありませんでした。 それであるにもかかわらず、彼らはイエスによって救われたのです。 イエスがこの世にご臨在された時、他の多くの人達はイエスを見ました。 それであるにもかかわらず、彼らは救われませんでした。 スポルジョンが―「見る事は信じる事では無い、しかし、信じる事は見る事である」と言った事は確かです。 それは、スポルジョンの説教の主題でした。 それは、私達のテキストに基づいた説教でした。 ここで、私はスポルジョンの説教を簡単明白に話します。

I. 最初に、見る事は、信じる事では無い。

あなた方はそれを知るのに、聖書の多くを知る必要はないのです。 四つの福音書には、イエスを見た人達がいました。 彼らはイエスを見ましたが、イエスを信じませんでした。 イスカリオテのユダはイエスの弟子の一人でした。 しかし、ユダはイエスを信じていませんでした。 ユダは三年間イエスに従いました。 彼はイエスと暮らしました。 彼はイエスと共に食事をしました。 彼はイエスの名によって悪霊を追い出しました。 彼はイエスについて説教しました。 ユダは、イエスを親密に、そして密接に知っていました。 イエスはユダをご自分の友とも呼ばれました。 しかし、ユダはイエスを信じませんでした。 だから、彼は銀三十枚の為にイエスを裏切ったのです。 そうして彼は外へ出て行き、自分を吊り、地獄に行きました。 他の弟子達もまたイエスを信じていませんでした。 イエスは、苦しみ、死ぬ為にエルサレムに行くと彼らに告げられました。 “しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。 彼らには、・・・話された事が理解できなかった。”(ルカ18:34) イエスが彼らに息を吹きかけられるまで、彼らはイエスを信じませんでした(ヨハネ20:22)。 弟子のトマスも、それまでイエスを信じていませんでした! 彼らは三年間イエスと共に暮らしました。 しかし、彼らはイエスを信じていなかったのです。 ヘロデ王はイエスを見ました。 しかし、イエスを信じませんでした。 ピラトはイエスを見ましたが、彼を信じませんでした。 パリサイ人は、イエスが奇跡を行われたのを見ました。 しかし、彼を信じませんでした。 サドカイ派とヘロデ派はイエスと話しましたが、彼を信じませんでした。 イエスは大勢の人達に食べる物を与え、イエスが奇跡を行われるのを目にしました。 しかし、彼らのほとんどはイエスを信じませんでした。 イエスがこの世の地上におられた間、イエスを見た人達のほとんどは、彼を信じませんでした! ほとんど誰も! 何とも驚くべき事です! ですから、使徒ヨハネがその事について告げた事は、驚くべきです。 ヨハネは、“この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。”(ヨハネ1:11)と言いました。 この世の地上でイエスを見た人々のほんの数人だけがイエスを信じたのです。

ですから、私達は、「見る事は信じる事では無い」という事を理解します。 そうであるにもかかわらず、今夜ここにいる人達の中には、自分はイエスを見ることが出来るならば、彼を信じるだろうと思っています。 あなた方はそれを認めないでしょうが、それは真実です。 ですから、あなた方は、イエスが真実である事を証明する何かの「フィーリング」を望んでいるのです。 あなた方は「フィーリング」もしくは、そのフィーリングを約束する聖句を求めています。 あなた方はフィーリングを共感する事が出来ます。 あなた方は聖書の約束を知る事が出来ます。 しかし、あなた方はイエスを見る事は出来ません。 それはイエスを信じない、あなた方の言い訳です。 それは彼を信頼しない、あなた方の言い訳です。 それは彼を信じない、あなた方の言い訳です。 それは救われない、あなた方の言い訳です。 しかし、私はあなた方に、「見ているのは信じていない」と語るのです。 何かを感じることは、信じていることではありません。 聖書の約束を繰り返すことは、信じていることではありません。 奇跡を見ることは、信じていることではありません。 私が取り上げた不信者達は皆、聖書を知っていました。 彼らは皆イエスを見ました。 彼らのほとんどが、イエスの奇跡を目にしました。 しかし、彼らはイエスを信じませんでした。 彼らのほとんどは死んで地獄に行きました、なぜなら、何度もイエスを見たけれども、彼らはイエスを全く信じていなかったからです!

預言者イザヤはイエスについてこう告げています。 彼は、“彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ”(イザヤ53:3)と言いました。 バーン注解書はこのように説明しています、

彼はさげすまれ…救い主は、パリサイ派、サドカイ派、そしてローマ人からの蔑視と冷笑の対象であった。イエスの地上での生涯は、そのようのものであった。彼の死に於いても同じであった;そして

それ以来、彼の名と人格は、大々的に軽蔑の対象となった。

人々からのけ者にされ…この言葉は意味深い、そしてこの言葉は、救い主への扱いに関する人間の全歴史を伝えている。“人々からのけ者にされ”と云う名称は、全ての悲観と憂鬱的な歴史を表現している;ユダヤ人から;富者、要人、そして教養のある人物から;あらゆるレベル、年齢、そしてランクの人々からの拒絶。

プルピット注解書(Pulpit Commentary)はこのように説明しています、

彼はさげすまれ。人による軽蔑は、一つには、彼らがイエスの教えを軽視する事によって、また一つには、彼の受難の前日と晩の、彼らのイエスに対する扱いによって表された。人からのけ者にされた、むしろ人によって見捨てられた。…我々の主は「わずかな群衆」しか引き連れなかった…しかし、それでも「多くは後戻りし、彼から去って行った。」 ある者達は、こっそりと夜に彼に会いにやって来る。全ての「支配者」、そして偉い者達は、彼から遠ざかった。最後には、弟子達でさえも「彼を見捨て、逃げた。」

イエスがこの世の地上にご臨在の際、イエスを見たほとんどの人達は、彼を軽蔑し拒否しました。 あなた方は、彼らと異なっているでしょうか? あなた方が回心していないならば、正に彼らと同様です! あなた方は彼をさげすみ、のけ者にします。 あなた方は彼から顔を隠しています。 あなた方は、この世の地上でイエスを見た時、彼を拒んだ人達と正に同様です! 彼らはイエスを見ました。 彼らは、彼の声を聞きました。 しかし、彼らはイエスを信じませんでした。 見る事は信じる事ではないのです。

II. 次に、信じる事は、見る事である!

“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”(ぺテル第一1:8, 9)

私達のテキストで、ペテロが話した人達はイエスを実際に見ていませんでした。 しかし、彼らはイエスを信頼し、彼によって救われました! なぜ、彼らはイエスを見てもおらず、彼の声を聞いてもおらず、触れてもいないのに、彼を信じたのでしょうか? 偉大な改革者カルバンがそれに答えています。 カルバンは、「聖霊によって、彼の御霊を通して、主が[人を]正し、新たにされるまで、自分の知性によってでは、誰も為す事は、決して出来ない」と言いました。

その聖霊が現在でもイエスへの信仰を与えて下さいます。 今でも―あなた方が自分の目でイエスを見なくとも。 その同じ聖霊が、今でも、イエスの身体に実際に触れる事が出来なくとも、彼に触れるように導びく事が出来るのです。

イエスへの最初の接触点は愛です。 私達のテキストは、“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、”と語っています。 “あなた方はイエスを見てはいないけれど、彼を愛しています。” イエスの愛は様々な形で私達に伝わります。 私が教会に来始めた頃、私の親戚は私をからかいました。 そして彼らは、イエスをも嘲笑しました。 彼らは、「どうしてイエスを信じられるかい? イエスはあなたの為に何をしてくれたの?」と言いました。 しかし、彼らが私をからかえばからかうほど、私はイエスを益々愛しました。 私の教会にも、悪い子供達がいました。 彼らはイエスの母マリアが処女ではない事について、みだらな冗談を口にしました。 彼らはイエスをあざ笑いました。 しかし、彼らがイエスを嘲笑うほど、私はイエスを益々愛しました。 復活祭の頃に、イエスについて考た時、私は彼を増々愛しました。 彼が十字架で苦しまれた事を思い、私は彼を愛しました。 釘が彼の手と足に突き通される事を考えるのを私は嫌いました。 なぜ、彼らがイエスに対してそうするのか理解出来ませんでした。 そうして、私はイエスに対して非常な憐れみと悲しみ抱きました。

私は孤独な少年でした。 私には、自分を保護し、楽しませてくれる両親はいませんでした。 そして私は、慰めてくれる友人も無く、孤独で、イエスについて考えました―そして、私は彼を慕いました。 「他に誰もあなたを愛する人がいなくとも、私はあなたを愛します!」と思いました。 そして私の魂を勝ち取ったのはイエスの愛でした。 私が救われた日、彼らはチャールズ・ウェズリーの賛美歌を歌いました。 それらの各スタンザは、私の心を打ち砕いた言葉で終わりました。 「Amazing love, how can it be, that Thou, my God, shouldst die for me.」

イエスは肉体を持つ神であられました。 彼らは、私の神を粗い木の十字架に付けました。 「驚くべき愛」。 それは私の心を砕きました。 私は彼を信頼しました。 私へのイエスの愛を通して―そして、イエスへの私の愛を通して、私は彼に触れました。

誰もジョン・ケイガンを臆病者と呼ぶ人はいないと思います。 あなた方は彼の性格の強さに敬意を払っています。 ジョンは、全力を尽くしてキリストに抵抗しました。 カウンセリングルームで彼に話した私の言葉は一言として、彼を動揺させませんでした。 彼は、「私がイエスに対して断念しなければならないという思いは、非常に自分を悩み苦しませ、それが永遠に続くように思われた。 イエスは私の為に御自分の命を与えられた。 イエスが私の敵であり、彼に屈服しない時に、イエスは私の為に十字架に行かれたのである。」

「その思いは私の心を砕いた。 これ以上自分は固持する事が出来なかった。 私にはイエスが無くてはならなかった。 その瞬間、私は彼に降伏し、信仰によってイエスに来た。・・・私にはフィーリングなど必要無かった。 私はキリストを得た! 赦しに値しない最悪な罪人の私を赦して下さるとは、イエスはどんなに私を愛して下さった事であろうか・・・キリストは私のために御自分の命を捧げて下さったのである。 それゆえ、私は全てを彼に捧げる・・・イエスは憎しみと怒りを私から取り、それだけで無く、私を愛して下さったのである。」

偉大なスポルジョンは、ジョン・ケイガンに出会う事はありませんでした。 しかし、彼はジョンをあたかも知っているかの如く書いています。 スポルジョンは、「それは見る事では無い―それは外見的な事である。 それはイエスについて考え、理解する事、それによって影響される事である。 それが真の接点である。 従って、触れる事よりも、キリストへの愛が真実のつながり、強いきずなの手段となる・・・、愛は救い主を、正に真実とさせる・・・したがって、キリストとあなた方の魂の間に、愛が為すつながりは、あなた方が実際に触れ、もしくは感じる事よりも更に真実なのである。」 「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども、彼を愛している。」

しかしこのテキストは、“いま見てはいないけれども信じている”という、イエスとのもう一つの接点を挙げています。 “けれどもあなた方は彼を信じており”、ここで再び、あなた方は見る事無くイエスを信じる事が出来るという事を私達は気付かされます。 “いま見てはいないけれども信じており、・・・喜びにおどっています。” けれども信じている! けれども信じている! ペテロが手紙を送った人達は、イエスを一度も見ていませんでした! 彼らはイエスに触れた事もありません。 彼らはイエスの声も聞いた事が一度もありません。 しかし、彼らはイエスを知ったのです!。 「いま見てはいないけれども信じており、・・・喜びにおどっています。」 「あなた方は見てはいないけれども、イエスを信じているのです。」 

ヘレン・ケラーは、生まれつきの盲目で聴覚障害者でした。 アニー・サリバンという女性が、ヘレン・ケラーに話す方法を教えました。 それは驚くべき実話です。 私が幼少の頃、ラジオでヘレン・ケラーが語るのを聞きました。 彼女は完全に生まれつきの盲目で聴覚障害者でしたが、ヘレン・ケラーは、イエスを信じていました! あなた方は、イエスを見る事も、聞く事も出来なくても、彼を信じる事が出来るのです。

イエスを信じる事は、あなた方を彼に触れさせます。 愛と信仰は、イエスとの接点です。 愛と信仰が、私達を救い主と結ばせるのです。 “あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、・・・喜びにおどっています。” 「あなた方はイエスを見てはいないけれど、あなた方は彼を愛し、喜んでいます!」

私達の教会ピアニスト、エミ・ザバラガの言葉を聞いて下さい。 彼女は思慮深い女性です。 あなた方は彼女が語る言葉を信頼する事が出来るでしょう。

     私はキリストを信頼しようとしませんでした。「イエス」は、単なる言葉、教義、もしくは実際に存在した人、且つ自分とは懸け離れた人物でした。私は、キリストを追い求めず、フィーリングもしくは何ものかの体験を求めていました。
     ある晩遅くに、突如としてイエスがの為に死なれた事に気が付かされました。その晩に、自分の罪の重荷の下で嘆き、汗を落とされるゲツセマネの園のイエスについて、私は[考えました]。私は、十字架に付けられたイエスを[思い]浮びあげました。私は、彼の犠牲なる血を、そしてイエスが、自分の彼への拒否によって突き刺された事[について考えました。]しかしそれでも、私はイエスを信頼しませんでした。私は依然として、確信を感じる事の必要性に固執していました。
     ハイマーズ先生は、ソロモンの雅歌から、キリストの愛の素晴らしさについて説教を始められました。それを聞くうちに、キリストがますます素晴らしいものとなり始めました。私は彼への思いで心がうずき始めました。私は、“わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで”(雅歌2:10)という節を聞きました。私は、キリストが彼のもとに来るように語りかけているように感じました。
     何年間もの悲惨さ、人生への絶望、この世の冷淡な空しさ、罪による重荷などを通しての体験は、全て、神が私を愛し、そしてイエスへの必要性を私に悟らせる為であった事を理解しました。
私は、[説教の後、ハイマーズ先生に会い]に出て行きました。陰険な心、邪悪な思い、そして限りないイエスへの拒絶等の罪による壁が目の前にそそり立つように感じました。もう限界に尽きました。私には、イエスが無くてはなりませんでした。イエスの血が無くてはなりませんでした。私はひざまずいて…私が以前に何度も繰り返した、イエスへ来る事の躊躇、誤りの回心、間違いを恐れる事、自分自身を見つめる事、自分のフィーリングを探り、暗闇で手探りする事などを止めて、私は信仰を通して、イエスに目を向けました。…イエスは、ご自分の尊い血によって私の罪を洗い流して下さいました;イエスは、私の罪の重荷を取り去って下さいました! イエスは、私の全ての罪を赦して下さいました!
     イエスは、私のヒーロー、私の救い主、私の主です!その後私は、何度も助けを、力を、そして保護を求めてイエスのもとへ行きました。賛美歌が語るように、「神の憐れみは私の人生を書き直した、神の憐れみは私の人生を書き直した。かつて私は罪におり、しかし、イエスは私の人生を書き直して下さった。」他の人がイエスによって救われる時、私に非常な喜びが込み上げます。罪を赦される事の満足感と平安を、私は完全に言葉で表現する事が出来ません。私のように悪戦苦闘している全ての人達が、イエスによる赦しを体験出来るよう、私はどんなにか願っています!以前は、どんよりとした、活気の無い福音が、今では私を感動させ、イエスについての説教を聞く度に、私の心は喜びと感謝の思いで満たされます。私を神の御子イエスへと引き寄せて下さった神に感謝します。私はただ、使徒パウロと同様、“ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”(コリント第二9:15)と言えるのみです!

親愛なる友人の方々、私自身、自分がキリストを知るまで、本当に“喜び”の意味を理解した事がありませんでした。 私は多くの試練と苦難を耐え抜いてきました。 私は信頼していた人達に失望させられもしました。 私は孤独を通して、悲痛な悲しみを体験してきました。 私は毎晩のように、夜半に何時間も歩きました。 私は友人もなく、一人でいる事に「穏やかながらも強烈な悲しみ」を抱いていました。 私は夜をなじみとしました。 しかし、常にイエスはこの悲しみの時を乗り超えさせて下さいました。 誰も自分を受け入れてくれないと感じた時でも、イエスは常に私を受け入れて下さいました。 「信仰を通して、私は血の流れを見た/あなたの傷口からの贖いを見た/贖いの愛は生涯の主題、我が命のある限り/我が命のある限り、/我が命のある限り/贖いの愛は生涯の主題、/我が命のある限り。」 もし、あなた方が未だ失われているなら、この素晴らしい歌に注意を払って耳を傾けて下さい。

我は無意味に数多くの試みを成した 、
我が恐れを鎮めるため、我が望みを起こすため、
しかし、我に必要なものは、
イエスだけと、聖書は告げる、

我が魂は暗く、我がこころは鋼のよう-
我は見ることなく、感じることもなく、
イエスへの素直な信仰でもって、
我は、光と命を求めん

イエスは死なれ、復活し、統べる;
彼の全ての言葉と行いには、愛がある;
罪深い罪人が必要なものは、全てそこにあり、
永遠に、イエスのもとにあり。
   (“In Jesus” by James Procter, 1913).  (直訳)

あなた方は、「私は確信が無い。 あなたは、信仰について告げています」と言うかもしれません。 あなた方は、「私はイエスへの愛はない」と言うでしょう。 「私はイエスを信じない。 あなたの論議は私を確信させない」と言うでしょう。

ならば、私はあなた方に警告しなければなりません。 信仰についての素晴らし言葉を聞く事のない日がやって来ます。 あなた方の耳は冷たく、そして無感覚になるでしょう。 あなた方へ語られる平安や赦しについての言葉を、あなた方は聞く事は無くなるでしょう。 地獄の永遠なる暗闇によって全てが飲み込まれるのです。

今、 私の言葉を聞きなさい! 神が、怒りと裁きでもって、あなた方に語られる前に。 そして、神があなた方に、「私はあなた方に呼び掛けたが、あなた方は拒絶した」と告げられるでしょう。

ただ私があなた方に言える事は、キリストを信頼しますか? 今、キリストを信頼しますか? 今晩にも? それ以上私の出来る事はありません。 神があなた方を救くわれるよう選んでいられないならば、私が出来る事は何もありません。 もし、あなた方が選民の一人でないならば、私に出来る事は、これ以上何もありません。

しかし、神があなた方の心に今晩語りかけているならば、キリストを受け入れなさい。 今、キリストを受け入れなさい。 あなた方のほとんどはイエスが必要です。 イエスに来て彼を信頼しなさい。 私が語った全ての事は、神の御霊があなた方の心に働きかけない限り、何の役にも立ちません。 ペテロがこのテキストで語った人達の様に、あなた方がイエスを信頼する様、私達は祈ります。 神が、ジョン・ケイガンやエミ・ザバラガ、そしてあなた方の周りにいる人達にされたように、あなた方にもされることを私達は祈ります。 神が、今晩私達の間で選民を選びますように。 あなた方がイエスに来て、彼を信頼し、彼の贖いの血によって救われますように。 アーメン。


ハイマーズ博士に電子メールを送られる際は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。そうでなければ、ハイマーズ博士はあなたの電子メールに答えられません。 もしあなたがこれらの説教で祝福されるのでしたら、ハイマーズ博士に電子メールを送って下さい。送られる時は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。 ハイマーズ博士の電子メールの住所はここをクリックしてくださいrlhymersjr@sbcglobal.net。 どんな言語でもかまいませんが、もし出来るのであれば、英語で書いてください。また、郵便で送りたい方は、P.O. Box 15308, Los Ángeles, CA 90015に送って下さい。 ハイマーズ博士の自宅電話番号は(818)352-0452です。

(説教終了)
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ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
     Solo Sung Before the Sermon by Mr. Benjamin Kincaid Griffith: “In Jesus” (by James Procter, 1913).

要 綱

見る事、あるいは信じる事?

SEEING OR BELIEVING?

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”
     (ペテロの手紙第一第1章8, 9節、新改訳)

I. 最初に、見る事は、信じる事では無い。
ルカ18:34;ヨハネ20:22;1:11;イザヤ53:3。

II. 次に、信じる事は、見る事である。
雅歌2:10;コリント第二9:15。