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神の御霊の、枯れさせる働き

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2017年3月12日、主の日の晩の説教

THE WITHERING WORK OF GOD’S SPIRIT
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, March 12, 2017

彼らは、二つのイザヤ書があった、とリベラル主義の神学校で教えています。 しかし彼らは間違っています。 初めの39章は、イスラエルの民の罪と、後の虜の状態について語っています。 しかし、40章から最終の章に掛けて、イザヤは彼らの贖いについて語っています。 後半に、キリストの苦悩を通しての救いについて、彼はこう告げています。

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」”(イザヤ40:6-8)。

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。” その預言者に語った声は何だったのでしょうか? それは、第5節で告げている“主の御口”でした。 ヘブライ語で、“呼ばわれ”は、qârâです。 それは“呼ばわる”―出会った人に、“立ちはだかって”―呼ばわるということです(ストロング#7121)。 それは、イザヤ書第58章1節で使われているヘブライ語と同じ言葉です。

“せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。”(イザヤ58:1)。

バプテスマのヨハネは、そのように説教しました。 バプテスマのヨハネは、イザヤ書第40章3節を参照しました。 彼は“私は、・・・荒野で叫んでいる者の声です”(ヨハネ1:23;イザヤ40:3)と言いました。 “呼ばわる”と訳されたギリシャ語は、bǒaōです。 それは「大声で呼びかける」(ストロング)といった意味です。 ヘブライ語とギリシャ語は、それを“大声で叫べ”(イザヤ58:1)と言っています。 それは、説教者は神の代弁者として大声で呼ばわらなければならない、という意味です。 ・・・失われ、そして戸惑う人達に対して“大声で呼ばわる”という意味なのです! 説教者達は、神の御言葉を聴衆者に向かって大声で呼ばわるべきなのです。 残念ながら、それは現在、ポピュラーな説教法ではありません。 現代の聖書の説教に不従順が見られます。 今の牧師達は、昔ながらの説教者が言う、「説教を止めて教義の教えをしている」のです。 それらの今日の牧師達は神に従っていません。 神はイザヤに、“せいいっぱい大声で叫べ”と言われました。 今日の説教は、イエスの模範に従っていません。 イエスは“宮で・・・大声で”(ヨハネ7:28)と言われました。 そして彼らは、イエスがヨハネの福音書第7章37節で、“立って、大声で”と言われた時のようでもありません。 また、ペンテコストの日のペテロのようでもありません。 ペテロは、“声を張り上”、そして神が彼に示された言葉を呼ばわりました(使徒2:14)。 ジョン・ギル博士は、「そして声を上げよ、すべての聴衆者達はあなたに聞き入るだろう・・・あなたの霊的な熱意と熱情、そして不屈の精神は知られるであろう。 なぜなら、天上から下された御霊によって耐えさせられ、大胆不敵となったからである」(An Exposition of the New Testament; note on Acts 2:14)と言いました。 ですから私は、今日の説教壇には、神に対する根本的な不従順があり、説教の方法と様式にひどく不従順がある、と私は再度繰り返して語らなければなりません。 使徒パウロはこれを、最後の日の背教の前兆として挙げています。 彼は、“みことばを宣べ伝えなさい。・・・というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め”(テモテ第二4:2, 3)と言いました。 私達の時代には常に、「教え」が為されていますが、説教は忘れられています。 私達が耳にするのは全て教え―切迫感と熱意のない「教え」です! 今日の神学校で彼らが学ぶのはそれだけです! 無味乾燥な、一節毎の教えです! 誰も福音に直面されていません、そして、誰も彼らの「教え」によっては、霊的な眠りから目覚めさせられません。 あなた方は、羊になるようにヤギに「教える」事は出来ません。 彼らの罪と堕落さから、説教を通して目覚めさせなければなりません! “呼ばわれという者の声がする”(イザヤ40:6)。 これが、真の福音の説教様式です! 説教のみが、死んだ心と堕落な思いから振るい起こし、神によって用いられるでしょう! 魂を揺さぶるような説教のみがそれを為す事が出来ます! ブライアン・H・エドワードは、「リバイバルの説教は、人々の心と良心に神の御言葉をハンマーのように用いる力と権威がある。 これは正に今日のほとんどのアメリカの説教に欠けている。 リバイバルで説教する説教者は、常に恐れる事なく、そして差し迫って説教する」(Revival! A People Saturated With God, Evangelical Press, 1997 edition, p. 103)。 ロイド‐ジョーンズ博士は、二十世紀に於ける最も偉大な説教者の一人でした。 彼は、「説教とは何であろうか? 熱意のこもった論理である! そして熱意のこもっていない論理は、不完全な理論である・・・説教とは、熱意のある人を通して語られる論理である・・・私は、熱意なくしてこれらの論理について語れる人は、説教壇に立つ権利はない;そして、決してその場に置かれるべきではないと考える」(Preaching and Preachers, p. 97)と言われました。

イザヤは、“と呼ばわりましょう”(イザヤ40:6)と言いました。 ある若者が、神学校の一人の教授が、六カ月先の説教の計画を前もって準備すべきである、と教えたことを私に話しました。 私はそのようなことをしている人の見解を嫌悪します。 そのようなことをする説教者が、神から与えられた真の御言葉を宣べ伝える事は不可能です! スポルジョンは、史上最も偉大なバプテストの説教者でした。 彼は決してそのような説教はしませんでした。 真の説教者は、神に自分のすべき説教を問い尋ね、神がそれを彼に与えて下さるのを待たなければなりません。 “何と呼ばわりましょうか。” 私は、神が私に説教するよう与えて下さるメッセージを呼ばわらなければなりません。 ある人が、私はヒットラーのように説教すると言いました。 ある意味ではその通りです。 ヒットラーは熱狂的に偽りを説きましたが。 私達は、大いなる情熱をもって、真実を話すべきです! 情熱のこもった説教だけが、人を行動に移します。 一句一句の聖書の教えは、聴衆者を眠りに誘います! ロイド‐ジョーンズ博士は、「今日の説教は、人々を救いに導かない。 それは、彼らをイライラさせようともしない、また、それは、ほんの邪魔さえすることなく、彼らを正にそのままの状態にさせて置く」と言われました。 今日の説教は間違っています! 彼らは、邪魔される必要があるのです!

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。…草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」” (イザヤ40:6, 8)。

I. 最初に、私は命の短さについて呼ばわなければならない。

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。…草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」” (イザヤ40:6, 8)。

一生はすぐに過ぎ去ります。 それは、ほんのつかの間のことです。 あなた方の若さは永久に続くように見えます―しかし、それは非常に早く過ぎ去ります。 私は自伝を書いています。 息子のロバートが、私にそうするように言いました。 私はあと数週間で76歳になります。 私が若かったのはほんの数カ月前だったように思えます! あなた方もいずれはそのように感じるでしょう! 夏に日差しが照り、雑草は枯れ、花は萎れて枯れます。 人生は一時で、儚く、一時的で、短く、短期に過ぎ去ります。 使徒ヤコブはこのことについて、こう語りました。

“富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです”(ヤコブ1:10-11)。

ほんのわずかな人達がそれを理解します。 多くの人達は、生涯は考えることよりも直ぐに過ぎ去って行くことを理解する事なく、この世で必死になって働き、この世の昇進を求めます! C・T・スタッド(C. T. Studd, 1860-1931)は、その事を理解した、稀の裕福な人達の一人でした。 彼は大きな財産を相続しましたが、全てを手放し、中国へ、そして後には、当時危険であったアフリカのど真中へ、宣教師として出て行きました。 彼はこのように言いました、

人生は一度だけ、
   それはすぐに過ぎ去る;
キリストのために成したことだけが、
   永遠に残る。

私は、全ての若者達がスタッドについて書かれた本を読み、彼を自分達のヒーローとする事を望みます。 あなた方に、彼の詩の真実を理解してもらえればと願います!

人生は一度だけ、
   それはすぐに過ぎ去る;
キリストのために成したことだけが、
   永遠に残る。

イエスはこう言われました、

“「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」” (マルコ8:36, 37)。

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。…草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」” (イザヤ40:6, 8) 。

ですから、私達は常に呼ばわって、命の短さについて、しばしば宣べ伝えるべきなのです! そうしてあなた方は、自分の生涯の短さについて考えるべきです。 聖書は、“それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。 そうして私たちに知恵の心を得させてください”(詩篇90:12)と告げています。

II. 次に、私は魂を枯れさせる神の御霊の働きについて呼ばわらなければなりません。

“枯れる”という言葉は、しぼむ、乾く、そして、新鮮さを失うという意味です。 イザヤは第40章7節でこのように語っています、

“主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ”(イザヤ40:7)。

スポルジョンは、「神の御霊は風のようで、あなた方の魂なる野原を吹き過ぎなければならない。 そして[あなたの]美徳をしぼんだ花のごとくさせる。 彼は罪について[あなたを]悟らせなければならない・・・そうして[あなたは][自分の]堕落した本性が、罪そのものである事を知るであろう。 そうして肉に属する者達は、神を喜ばせる事は出来ない。 [そうして我々は]死の判決が自分達の肉に属する命の上に感じるであろう・・・医者を必要とするのは病人である。・・・目覚めた罪人は、神に憐みを請う時に、即座の心の平和ではなく、彼の魂が神の怒りを感じ、己の頭を垂らす事を見出し驚かされる。・・・なぜなら、あなた方がまず自分達が汚れた者である事に嘆き悲しまされないならば、あなた方は決して[キリストの血]の価値を理解しないからである」(The Withering Work of the Spirit,” pp. 375, 376)。

それが聖霊による、魂を枯れさせる働きである。 それは、あなた方の誤った望みを枯れさせ、あなた方の心が死んでいる事を示し、あなた方の思いから望みを取り去り、あなた方の唯一の望みが、あなた方を罪から救う為に、あなた方の身代わりとなって死なれたキリストにある事を知らせる、聖霊の働きなのです。 聖霊があなた方の魂を「枯らす」、その時に、あなた方は、あなた方のいわゆる「善良さ」が、汚い布にしか過ぎない、そして、今まで為して来た事は神に受け入れられないこと、そしてあなた方が為して来たことは、裁きと地獄からあなた方を救うことは出来ない事に気が付くでしょう。

ですから神は、あなた方に誤りの回心を体験させるのです。 神があなた方に平安を与えて下さる前に、多くの誤りの回心をあなた方に体験させられるかもしれません。 それは、神があなた方を放られたという事ではありません。 全くそうではありません! 神は、それらの誤りの回心を用いられます。 神は、それらを用いてあなた方に、“草は枯れ、花はしぼむ。 まことに、民は草だ”と嘆かせるのです。 神は、救おうとする行いと言葉により、あなた方の誤りの望みを枯れさせ、また乾かそうとしているのです。 ジョン・ニュートンはこう表現しています、

我が望みとは、好ましき時に
   一時に、我が願いに彼は答えられ、
彼の愛の制約の御力によって、
   我が罪を征服し、我に平安を与えんことなり

されど、その代わりに、彼は我にこう感じさせん
   我が心の中の隠れた罪悪
黄泉の怒り狂った力に
   全てに於いて、我が魂に暴れ報いん(直訳)

アヤコ に尋ねてみなさい! ダニーに尋ねてみなさい! ジョン・ケイガンに尋ねてみなさい! 私に尋ねなさい! 私達は皆、神に安らぎを与えて下さるよう切に求めました―しかし神は、そうされる代わりに、シーラ・ナンのように、私達を感じさせられたのです。 彼女は、「私は自分自身に、うんざりして来ました」と言いました。 もう一人の若い女性は、「自分に非常な不満を感じました」と言いました。 ケイガン先生と私は彼女に、「不満」以上のものを感じなければならないと語りました。 シーラのように、彼女は自分に「うんざり」してこなければなりません。 あなた方が、自分自身に完全に「うんざり」して来るまで、あなた方の魂が枯れ、真に回心した人達の間で通常見られるような体験はしないでしょう。

「枯れる」という言葉は非常に重要です。 あなた方は、自分に何が起こっているかを理解することの意味を知らなければなりません。 「枯れる」という言葉は、「恥じる事・・・乾ききる・・・恥を知る事、面食らう、そして枯れ果てる」といった意味です。

“主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ”(イザヤ40:7)。

その事があなた方のこころに起こらなければなりません。 聖霊は、あなた方の自己欺瞞を完全に枯れさせなければならないのです。 あなた方のこころがドライ・フラワーのようになるまで、あなた方が生まれながらの堕落した状態に恥じ入るまで。 シーラが回心する前に、“自分自身にうんざりした”と言ったように。 真の回心には、それが起こるのです。

“主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ”(イザヤ40:7)。

あなた方が自分自身にうんざりして来た時に、私達はあなた方にイエスを信頼する様に語ります。 イエスは御自身の血によって、あなた方を罪から清めて下さるでしょう、そして神の裁きから、あなた方を救って下さるでしょう。

偉大な伝道師ジョージ・ホウィットフィールドは、「神は、あなた方に信仰の無い事を示されたであろうか? あなた方は、『主よ、キリストをしっかりとつかめるように助けて下さい』と祈ったことがあるか? 神は、キリストへ来る事の無力さをあなた方に悟らせ、キリストへの信仰の為に、あなた方が切に祈るようし向かれたであろうか? そうでないならば、あなた方は決して心に平安を得る事は出来ない。 あなた方が死に、また、あなた方がその機会を失くす以前に、神があなた方に確かな平安をくださいますように」(恵みの方法)あなた方が、真に回心する前に、あなた方に罪と強意的な奮闘の体験がなければなりません。 あなた方は、キリストがゲツセマネの園で、あなた方の罪を御自身に負われた重荷を多少なりとも感じなければなりません。 あなた方はキリストが、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。・・・わが父よ。 できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:38, 39)と嘆かれた事を多少なりとも感じなければなりません。

起立して、ソング・シートの10番の讃美歌『罪びとよ来たれ(“Come, Ye Sinners.”)』を歌って下さい。

罪びとよ来たれ、貧しく哀れな、か弱く傷つき、病に痛む罪びとよ;
   憐れみ深く、愛と力に満ちたイエスは、あなたを救う為に待たれる:
彼は成す、彼は成す、彼はそう成される、疑いを捨てよ;
   彼は成す、彼は成す、彼はそう成される、疑いを捨てよ。

疲れ、重荷を負い、傷つき、壊れた汝よ、来たれ;
   良くなるときを待つならば、あなたは決して来ないであろう:
義ではなく、義ではなく、イエスが呼ばれるのは罪びと;
   義ではなく、義ではなく、イエスが呼ばれるのは罪びと。

天に上げられた救い主を見よ、彼の尊い血の値を希え;
   完全に汝を彼に投げかけよ、決して他に拠りどころを持たず;
イエスだけ、イエスだけ、助けのない罪びとを正す;
   イエスだけ、イエスだけ、助けのない罪びとを正す。(直訳)
(“Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768; altered by the Pastor).

では、真に回心したと思われる人の言葉を聞いて下さい。 これはある若者の信仰告白です。

私は自分自身を救う方法を求めていました。私はプライドで満ちており、プライドに満ちている事を、自分自身が認めるほどに。私は、イエスを信頼しないよう、神とどんなにか争っていたかも、未だに脳裏に浮かびます。…私は聖書を読み始め、毎日祈るよう‘実践’し、教会の奉仕にもっともっと専念し始めました。…しかし、私の心の内には平和は見出されませんでした。心の底では、自分が未だ失われており、それを認めるには、あまりにもプライドがありすぎ、恐れていたのです。私は自分が罪人であるという思いを自分に隠しました。賢明に、その思いを取り除き、自分自身を反らせようとしました。私は、自分の邪悪な本性から自分を安易にさせようと、自分の信仰を正当化する為の弁明を求めました。その時に、神は天を裂き、リバイバルをこの教会に下されました。 しかし再び、私のプライドは、自分が救われる為にはイエスが必要である事を認めるには、あまりにも過剰だったのです。…その時に、私は精神的に疲れ果てて来ました。私が何をしようとも、自分の罪、イエスを信頼しない罪、そして自己欺瞞の罪から救われることは出来ない、その事を私は理解し始めました。私は絶望的でした。私は自分自身の内で、イエスを信頼しようと奮闘しました、しかし、私のプライドはそうさせませんでした。…私は自分の全ての望みを断念し、自分自身をも断念しました。自分の罪が私の全ての思いと全ての観念を打ち下したように感じました。私は生きていく事もいやになりました。そしてその瞬間に、奇跡の如く、イエスは私に来られました。そうして初めて私はイエスを信頼しました。私はイエスに来ようとしました、けれど出来ませんでした。そして自分は決して救われないだろうと思った時に、イエスが私に来てくださったのです。イエスが私に来られた時、彼を信頼する事は何とも容易でした。…イエスは私を受け入れて下さり、そして御自分の血で私を清めて下さいました。…私の内の全ての善は、イエスが私を救って下さったことです。私がイエスの事を思う時、私は涙を止める事が出来ません。イエスが私に為して下さった事への、歓喜の涙、感謝の涙です。私がイエスに十分に感謝する事は不可能です。イエスの私への愛に対して、私が十分にイエスを愛する事は不可能です。十分に感謝する事も不可能です。私に出来る事は、自分の最善を尽くし、そして自分の生涯を、私の救い主・イエスに捧げる事です。


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(説教終了)
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ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
“Come, Holy Spirit, Heavenly Dove” (by Dr. Isaac Watts, 1674-1748;
to the tune of “O Set Ye Open Unto Me”).

要 綱

神の御霊の、枯れさせる働き

THE WITHERING WORK OF GOD’S SPIRIT

R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著

“「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」” (イザヤ書第40章6-8節、新改訳)。

(イザヤ40:5;58:1;40:3;ヨハネ1:23;ヨハネ7:28, 37;
詩篇2:14;テモテ第二4:2, 3)

I. 最初に、私は命の短さについて呼ばわなければならない。
イザヤ40:6;ヤコブ1:10-11;マルコ8:36, 37;詩篇90:12。

II. 次に、私は魂を枯れさせる神の御霊の働きについて呼ばわらな
ければなりません。 イザヤ40:7;マタイ26:38, 39。