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血の汗

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2016年3月6日、主の日の晩の説教

THE BLOODY SWEAT
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, March 6, 2016

“イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた”。
     (ルカの福音書第22章44節、新改訳)

この説教は、C・H・スポルジョンの二つのすばらしい説教、『ゲツセマネの園でのキリストの苦悩』(1874年10月18日)と『ゲツセマネの園』(1863年2月8日)に基づいたものです。 私は、説教のプリンス、C・H・スポルジョンの、これら二つの最高傑作の要点を取り上げて話します。 この説教は全くオリジナルではありませんが、私は読み書きの劣る現代人の為にこれらの説教を簡略にしました。 これらの草稿は、この偉大な説教者の説教から収集され、私はゲツセマネの園でのキリストの描写があなた方の心を捕らえ、あなた方の永遠なる運命を変えるようにと願いながら、あなた方にそれらを提供します。

イエスは弟子達と共に過ぎ越しの食事をし、最後の晩餐を祝いました。 そして、イエスは彼らと共にゲツセマネの園へ行きました。 なぜイエスはご自分の苦悩の始まりにゲツセマネの園を選んだのでしょうか? それはエデンの園と呼ばれる園で、アダムの罪が私達を堕落させ、最後のアダムがゲツセマネの園という他の園で、私達が回復する事を願ったからでしょうか?

キリストは祈る為にしばしばゲツセマネの園に来ました。 そこは彼が以前に何度も来た場所です。 イエスは、私達の罪がご自身の全てを悲しみに変えた事を、私達が知るようにと意図されました。

あるいは、キリストは以前祈りにそこで過ごした事を、彼ご自身に思い起こさせるので、ゲツセマネの園を選んだのかもしれません。 その園は、神が彼の祈りを聞かれた場所でした。 多分に彼を助けるために、神が祈りを聞かれた回想が、苦悩に差し迫った今、彼には必要と感じたのかもしれません。

おそらく、イエスがゲツセマネの園に祈る為に行かれた主な理由は、彼がそこに行く事を常とされ、皆そのことを知っていたからでしょう。 聖書は、“イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。 イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである”(ヨハネ18:2)と語っています。 イエスを捕らえる故、彼らが知っている場所へ故意に出向いたのです。 イエスが裏切られる時刻になると、彼は“ほふり場に引かれていく羊のように”(イザヤ53:7)行かれました。 彼は、祭司長の兵卒達から隠れる事はしませんでした。 彼は、こそ泥の様に追いつめられ、あるいはスパイによって捜索されるような必要は無かったのです。 イエスは裏切り者や彼を捕られる敵達が、容易に彼を見つけられる所へ自ら出て行かれたのです。

さて、私達はゲツセマネの園へ入って行きます。 何と暗く、恐ろしい夜でしょうか。 私達は、“この場所はなんとおそれおおいことだろう”(創世記28:17)と言ったヤコブに同意する事でしょう。 ゲツセマネの園を瞑想するならば、私達はキリストの苦悩について考えるでしょう。 私はここでイエスのゲツセマネの園での苦悩について、三つの疑問に答えたいと思います。

I. 最初に、キリストのゲツセマネの園での悲痛と苦悩は、何が原因であったか?

聖書は、イエスは“悲しみの人で病を知っていた”(イザヤ53:3) と語っています。 しかし彼ご自身は、落ち込んだような性格はなかったのです。 イエスご自身の内には、大いなる平安があり、“私はあなたがたに私の平安をあたえます”(ヨハネ14:27)と言われるほどでした。 イエスは、穏やかな、満足された方であったという事は、間違いであると私は思いません。

しかしゲツセマネの園で、全てが変化します。 彼の内なる平安は無くなり、喜びは不安な悲しみへと変ります。 ケデロンの川筋の向こう側のエルサレムから通じる険しい斜面を下り、ゲツセマネの園へ行かれ、救い主は祈り、そして快活に話されました(ヨハネ15:17)。

“イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた”(ヨハネ18:1) 。

 

イエスは生涯を通し、悲しみ、落ち込んだことについてほとんど口に出しませんでした。 しかしここゲツセマネの園で、全てが変わりました。 彼は、“できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください”(マタイ26:39)と口に出しました。 ご自身の生涯、イエスはほとんど悲しみや落胆を言い表しませんでしたが、ここでイエスはため息をつき、血の汗を流され、“わたしは悲しみのあまり死ぬほどです”(マタイ26:38)と言われました。 主イエスよ、どうされたのですか、そんなにも深く苦しまれるとは?

このような悲しみと苦悩は、身体の苦痛によるものでは無かった事は明白です。 イエスは、身体的な苦痛を口に出された事は一度も無かったのです。 彼は友人のナザロが死んだ時に悲しまれました。 ご自身の敵が大酒家といった時、そして悪魔の力によって悪霊を出したと彼を非難した時、イエスは疑いも無く悲しまれた事でしょう。 しかし、彼はそれら全てに対して勇敢であり、貫かれました。 それらの事は眼中に無かったのです。 この時に、救い主を掴んだのは、苦痛よりも激しい、恥辱よりも痛烈な、死刑よりも酷い、何かだったに違いありません。 そして、それは彼を“悲しみもだえ始められた”(マタイ26:37)のです。

それは死への恐れと受難への怯えだったとあなた方は思いますか? 多くの殉教者達は、彼らの信仰に対して勇敢に死んで行きました。 彼らよりも勇敢で無かったと考える事は、キリストを侮辱する事です。 私達の主は、死に至るまで、キリストに従ったご自分の殉教者達に劣ると考えてはなりません! また聖書は、“・・・ご自身の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、・・・”(へブル12:2)と語っています。 イエス以上に死の苦痛に挑む事が出来る人はいません。 それがゲツセマネの園での彼の苦しみの理由であるわけがありません。

また、ゲツセマネの園での苦痛は、悪魔からのまれな攻撃によるものであるとも私は思いません。 キリストのご奉仕の初期に、彼は荒野で悪魔との激しい対決を体験されました。 しかし、イエスが荒野で、“苦痛の中に置かれた”とは書かれていません。 荒野で試練をお受けになった時、ゲツセマネの園で流されたような血の汗を、流されるようなことはありませんでした。 御使い達の主が悪魔と直面した時、彼は大声を上げず、涙を地に落とさず、父なる神に懇願することもありませんでした。 これに比べて見ると、キリストの悪魔との対決は容易なものでした。 しかし、このゲツセマネの園での苦悩は、イエスの魂そのものを傷つけ、そして彼は殺されかけたのです。

では、何が彼の苦痛の原因だったのでしょうか? これは、神がイエスを私達の為に悲しみとされた時でした。 イエスが天にいられる父からある杯を受け取らなければならなかったのはその時でした。 彼は非常に恐れました。 ですからあなた方は、彼がしり込みされなかった事からして、それが身体的な苦痛よりもひどいものであった事が確信出来るでしょう。 それは彼が打ち勝った悪魔からの誘惑よりもひどいものでした。 それは、父なる神によって彼に置かれた、想像もつかないほどひどく、驚くほどに恐ろしいものでした。

これは、彼の苦痛の原因についての疑いを完全に取り除きます。

“主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた” (イザヤ53:6)。

 

彼はここで、罪人に下るべき呪いを負われました。 彼は立ち、罪人の代わりとなって苦しまれたのです。 それが、私が説明する事が全く不可能である苦痛の謎なのです。 人の思いは、この苦痛を完全に理解する事は出来ません。

それは神に、神のみに
彼の悲しみは十分に知られ
   (“Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768).

神の小羊は、ご自分の身に人の罪を負われ、私達の罪の重荷が彼の魂に置かれたのです。

“そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです”(ペテロ第一2:24)。

 

私は、私達の全ての罪はゲツセマネの園で、“その身に”置かれ、その翌日彼は十字架で、私達の罪を負われたという事を私は信じます。

ゲツセマネの園でキリストは、罪を負う者となる事がどういうことであるかを、完璧に理解されました。 彼は頭にイスラエルの罪を負い、捕らわれ、罪の供え物とされて、身代わりとなられたのです。 私達罪人の代わりに神の御前に立つ事は、キリストにとって驚くべきことだったのです。 イエスがこの世の全ての罪人と出会ったように、神からそうみられるように、とルターは言いました。 彼はここで神の全てのあだ討ちと怒りの中心となられるのです。 彼は罪人に下るべき裁きをご自分に負われるのです。 この立場になる事は、キリストにとって非常に恐ろしい事であったに違いありません。

それからまた罪の裁きが、ゲツセマネの園でイエスに落ち始めました。 最初に罪自体が彼に落ち、そして罪の裁きが落ちました。 人の罪の為に神からの報いを受ける裁きは、些細な苦悩ではありませんでした。 私達の主が耐えられた事を誇張する事を私は決して恐れません。 彼の飲まれる杯に地獄が注がれました。

救い主の魂に押し寄せた悲しみ、彼の犠牲の死によって、救い主の魂に激しく大いなる計り知れないほどの、広大な言葉では表現不可能な苦悩は、想像を超えたもので、私はこれ以上口に出すべきではありません。 さもなくば、ある人は、表現不可能な事を表現したと非難するでしょう。 しかし、人間の罪の大いなる荒れ狂った深遠から、そのしぶきそのものが、キリストに落ちた時、彼を血の汗で浸したと、私は言わなければなりません。 罪人として扱われる事は、罪人として罰を受けるという事であり、イエスは罪を犯さなかったけれども―これが、私達のテキストが語る苦悩をイエスに生じさせたのです。

“イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた”(ルカ22:44)。

 

では、次の質問に移りましょう。

II. 二番目に、キリストの血の汗とは何であったか?

エリコットは、血の汗の真実性は、「一般的に受け入れられた見解である」(Charles John Ellicott, Commentary on the Whole Bible, volume VI, p. 351)と語っています。 更に彼は、「この『血の汗』という特定の表現は、アリストテレスによると、極度の疲労による症状として記されている」(同著)と指摘しています。 オーガスティンの時代から現代におけるまでのほとんどの注解者達は、それが実際に文字通りの血であった事を示す表現を支持しています。 私達もまた、キリストが実際に血の滴を流された事を信じます。 これは若干一般的ではないにしろ、歴史上さまざまな時代に、他の人々によって目撃されています。 古代のガレノスに書かれた医学書と幾つかの最近の医学書には、長期間病弱であった人達が血の汗を流した記録が記されています。

しかし、血の汗を流されたキリストのような実例は独特です。 彼は血の汗を流されただけでなく、大きなしずくのように、あるいは「塊」、大きな重いしずくでした。 このようなものはどの実例でも見られたものではありませんでした。 多少の血は病人の汗に現れますが、このような大きなしずくではありません。 そうして、このような大きな血の塊が、彼の衣に染み出ずに“地に落ちた”のです。 キリストの実例は、医学史の中で孤立しています。 彼は三十才ほどの健康な男性でした。 しかし、彼の負われた罪の重荷、重圧によって上昇した精神的な圧力は、彼の身体を不自然な刺激へと強い、彼の毛穴が開き、そして大きな血の滴が地に流れ落ちたのです。 それがどんなにも大いなる罪の重荷を、彼が負われたかを示しています。

ナイフなしで血が自然に流れ出たことは、キリストの苦悩の自発的性質を表明します。 医学博士は、ほとんどの人は非常な恐れで苦しむ時、血液が心臓内に急速に流れると言います。 頬は青ざめ、失神状態になり、血液が体内をめぐるのです。 しかし、私達の救い主が苦しんでいるのを見て下さい。 彼はご自分に気を取られる事なく、血液が彼を助長するよう、体内をめぐらずに体外へと押し出され、地に落ちたのです。 地に流れ落ちるキリストの血は、あなた方に惜しまず提供する救いの充足を描いています。 キリストの皮膚から血が惜しみなく流れ出るように、あなた方がイエスを信頼する時、あなた方は惜しみなく罪から清められるのです。

“イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた”(ルカ22:44)。

 

血の汗はキリストの魂の苦悩によって生じました。 心痛は最悪な痛みです。 悲痛と絶望感は最悪の苦悩です。 深い絶望感を体験した人達は、それは真実である、と語るでしょう。 マタイの福音書で、イエスは“悲しみもだえ”(マタイ26:37)と書いています。 “もだえ”―その表現は非常に意味深いのです。 それは他の全ての思いを除き、完全に悲しみで満たされている思いを表しています。 私達の罪を負う人としての彼の立場は、全てからの彼の思いを奪ったのです。 イエスは、精神的な苦難の荒海で前後にもまれました。 “人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった”(イザヤ53:4)のです。 “彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する”(イザヤ53:11)。 彼の心は落胆しました。 彼は恐れと不安感で満ちました。 彼は“もだえ”ました。 博学なトーマス・グッドウィン(Thomas Goodwin)は、「その言葉は、病気で気絶しそうな人に起こる、落胆、欠乏、そして意気消沈などを表す」と言っています。 死ぬほどの病気をもたらした「エパフロデト」の病気は、名前そのものの言葉で呼ばれました。 ですから私達は、キリストの心が衰え、そして落胆した事を理解します。 彼の汗は非常な疲労によって生じました。 死にかけた人達の冷たく湿っぽい汗は、彼らの身体の衰弱によって生じます。 しかしイエスの血の汗は、私達の罪の重荷の下で彼の魂の落胆から生じました。 イエスは気の遠くなる状態で、身体全体からの滴り落ちる血を伴い、非常な落胆を苦しまれたのです。

マルコによる福音書は、イエスが、“深く恐れもだえ始められた”(マルコ14:33)と語っています。 ギリシャ語は、人が身の毛がよだち、身震いする時のように、その人の驚きが極度の恐れを生じさせる、といった意味です。 律法の言い渡しは、モーセを恐れで震わせました。 そして、そのように私達の主は、ご自分に置かれた罪を見て、恐怖に襲われたのです。

救い主は、最初に悲しみを感じ、そして深く落ち込み、最後に、“深く恐れもだえ始められた”のです。 彼は顕著な驚きに満たされました。 彼が私達の罪を実際負う時になって、神がイエスを罪人の代わりとして立つ事に、彼は全く驚き面食らったのです。 イエスは、神が彼自身を罪人の代理としてご覧になる事に驚かれたのです。 彼は神に捨てられた事に驚かれました。 それは彼の神聖なる、情け深い、愛情深い本性を動揺させ、彼は、「深く恐れもだえ始められた」のです。

更に、イエスが“わたしは悲しみのあまり死ぬほどです”(マタイ26:38)と言われた、と話されています。 ギリシャ語の“perilupos”は、悲しみで包囲されたという意味です。 通常の苦痛ならば大抵の場合、何らかの抜け道、何らかの息つく場所といった望みがあります。 私達は通常、苦境な状態にいる人達に、彼らの状態は一層悪いであろうと言い聞かせる事が出来ます。 しかしイエスの場合は、一層悪くなる事は考えられないのです、なぜなら、彼はダビデに同意して“死の綱が私を取り巻き”(詩篇116:3)と言ったからです。 神の全てのうねりと大波が彼を超えたのです。 彼の上を、彼の下を、彼の周りを、彼の外側を、彼の内面を、全てが苦悩であり、彼の苦痛と悲痛からの逃避はなかったのです。 彼の心痛よりも先に行く心痛はなく、そして彼は言われました、“わたしは悲しみのあまり”、悲しみに取り巻かれ、“死ぬほどです”―死の瀬戸際までも!

彼はゲツセマネの園では死なれませんでした。 しかし、そこで死んだも同然の苦しみを味わられました。 彼は苦痛と心痛が死の端までも押し寄せ―そこで中止したのです。

私はそのような心の内の苦悩が、私達の主の落ちた血のしずくの汗を流れさせた事に驚きはしません。 私は、人間のとれる見地から、可能な限りそれを明白にしてきました。

それは神に、神のみに
彼の悲しみは十分に知られ

“イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた”(ルカ22:44)。

 

III. 三番めに、なぜキリストはこれら全てを貫かれたのか?

多くの人々は、なぜキリストはそのような苦痛と血の汗を流されなければならなかったのだろうか、と考えるだろうと思います。 彼らは、「彼がそのような事を貫かれた事は知っている、しかしなぜそうしなければならなかったのかが判らない」と言うかもしれません。 私は、イエスがこれらの体験をゲツセマネの園で貫かれた六つの理由を挙げます。

1. 最初に、彼が人間である事を私達に知らせています。あなたは彼を単に神であると考えてはなりません。彼は確かに神なる方ですが、彼はあなたと血縁であるように感じて見なさい、あなたの骨からの骨、あなたの肉からの肉と。どれほど徹底して彼はあなたに同情されるでしょうか!彼はあなたの全ての重荷を負われ、あなたの全ての悲痛を悲しまれたのです。あなたに起こった事で何もイエスが理解されない事はありません。ですから、彼はあなたを誘惑から連れ出す事が出来るのです。イエスをあなたの友としてしっかりつかみなさい。彼があなたを癒して下さり、あなたの生涯の全ての困難を、最後まで持ちこたえて下さるでしょう。

2. 二番目に、私達に模範を残す為。使徒ペテロは、“キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました”(ペテロ第一2:21)と言いました。クリスチャンとしてのあなたの生活は、楽であろうという説教者達に、私は完全に不同意します! 使徒パウロは、“確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆、迫害を受けます”(テモテ第二3:12)と言いました。彼は、“キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください”(テモテ第二2:3)とも言いました。パウロはそれらを若い説教者に主張したのです。 神の奉仕は困難です。ほとんどの人はそれを為す事が出来ません。ジョージ・バーナ世論調査機関によると、今日35パーセントから40パーセントの牧師達がそれを止めてしまうと示しています。それはこの世における最も困難な召命の一つです。彼がキリストの兵士でない限り、誰もそれに耐える事は出来ません。牧師だけでなく、全てのクリスチャン達は、キリストに仕える為に苦しみを貫きます。聖書は、“弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った”(使徒14:22)と語ります。“十字架無しには・・・冠は無し”といったのはジョン・ソング博士だったと思います。

3. 三番目に、イエスのゲツセマネの園での体験は、罪の邪悪さを表しています。あなたは罪人です、しかしイエスはそうではありませんでした。ああ、罪人であるあなたの罪は、ひどいものです、それはキリストを苦しめました。私達のイエスに帰属した罪が、彼に血の汗を流させたのです。

4. 四番目に、イエスのゲツセマネの園での試練の時、彼の私達に対する愛が示されました。イエスは私達の代わりとなって罪人としての恐れを負われたのです。私達はイエスに、私達の代わりとなって苦しまれた事全てに対して恩を受けています。私達をそんなにも愛して下さるイエスを愛するべきです。

5. 五番目に、ゲツセマネの園でのイエスを頭に浮かべなさい、そして彼の偉大なる償いを知りなさい。神の御前に何と私は邪悪で、何と卑劣であろうか。私には地獄のみが値するであろう。神が私をそこに未だに落とされない事に驚かされる。しかし今、私はゲツセマネの園に行き、そしてオリーブの木の下に、私の救い主を見る。今私は苦しみに地にもがいているイエスを見、彼のうめきを聞く。私はイエスの血みどろの顔を見て、彼の周りの彼の血で赤く染まった地を見る。私はイエスに向かって“救い主イエス様、どうされたのですか?”と尋ねる。私は彼が答えて“私はあなたの為に苦しんでいる”と言われるのを聞く。そして私の為のイエスの犠牲を通して、神が私の罪をゆるす事がお出来になる事を理解する。ならば、イエスに来て彼を信じなさい。あなたの罪は彼の血によってゆるされるでしょう。 

6. 六番目に、イエスの償いの血を拒否する人達に起こる罰の恐れについて考えて見なさい。もしあなたがイエスを拒否するなら、いつかあなたは神の御前に立ち、あなたの罪に対して裁きを受けるでしょう。あなたが救い主イエス・キリストを拒否するなら、あなたに何が起こるかを、私は心を痛たませながらあなたに話します。美しい園では無く、ベッドで、あなたは予期せずして、死に襲われるでしょう。あなたの死とあなたの魂は裁きへと送られ、そして地獄へ落とされるでしょう。ゲツセマネの園にあなたを警告させなさい。イエスのうめき、涙、そして血の汗に、あなたが罪を悔い改め、イエスを信じるよう心を動揺させなさい。イエスに来なさい。イエスを信頼しなさい。彼は死からよみがえり、そして生きており、天の神の右の座にいます。手遅れになる前に、今、イエスに来てゆるされなさい。 アーメン。


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(説教終了)
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:ルカ22:39-44。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Thine Unknown Sufferings” (by Joseph Hart, 1712-1768).

要 綱

血の汗

THE BLOODY SWEAT

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

“イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた”。
     (ルカの福音書第22章44節、新改訳)

(ヨハネ18:2;イザヤ53:7;創世記28:17)

I.    最初に、キリストのゲツセマネの園での悲痛と苦悩は、何が原因であったか?
イザヤ53:3;ヨハネ14:27;18:1;マタイ26:39, 38, 37;
へブル12:2;イザヤ53:6;ペテロ第一2:24;ルカ22:44。

II.   二番目に、キリストの血の汗とは何であったか?
ルカ22:44;マタイ26:37;イザヤ53:4, 11;マルコ14:33;
マタイ26:38;詩篇116:3;ルカ22:44。

III.  三番目に、なぜキリストはこれら全てを貫かれたのか?
ペテロ第一2:21;テモテ第二3:12;使徒14:22。