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偉大な神―力強く、恐ろしい神!

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2015年1月11日、主の日の朝の説教

A GREAT GOD – MIGHTY AND TERRIBLE!
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord's Day Morning, January 11, 2015

“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です”。 (テモテへの手紙第二第3章16節、新改訳)

私達が聖書を開く時、神の自己啓示を知るのです。 私はW ・A・クリスウェル博士(W. A. Criswell, 1909-2002)の言葉を言い換えて話してみます―我々が研究し観察する事によって、多くの学べる事柄がある。 我々は土と種、木と果物、水とミネラル、魚と家畜、重力と星の動き、について学ぶ事が出来る。 研究や観察によって、我々は自然界の多くの事柄を学ぶ事が出来る。 しかし、その現実の背後には何があるのか? 我々がこの世で研究し、観察出来る事柄の背後にある現実性とは何であるか? 人生の意義と目的は何であるか? 研究、また観察によって我々が学ぶ事が出来ない事柄もある。 この世と星と、そして宇宙を創造された方は一体何方なのか? 根拠、観察、そして研究には限界がある。 ましてや我々は、表面的また物質的な事柄の背後を知る事は出来ないであろう。 我々が目で見て感じ、鼻で嗅ぎ、そして耳で聞く事の向こう側に横たわる意義―それは、我々には学ぶ事が出来ないであろう。 我々は、永遠と星を眺め、それらを創造された方は偉大で、万能な方であったろうという結論にたどり着くであろう。 しかし、この方の名前は何であろうか? どのような方なのであろうか? その方は我々を知っておられるのであろうか? その方は我々を名前で呼ぶ事がお出来になるのであろうか? 我々はその方を知らずして星を限りなく学ぶ事が出来るであろう。 

我々は美しい夕映え、公園の美しい木々、土から生える花々を研究する事が出来る。 我々は自然の美しさを研究する事が出来る。 我々は、それらを創造された方が、美と調和、そして色彩を愛される方であるという結論にたどり着くであろう。 しかし、この方は一体何方なのか? どういう方なのか? 我々は、グランドキャニオンの虹、雲とその色合い、そしてアリゾナ州の夕映えのまばゆいばかりの美しさを研究する事も出来るであろう。 我々はその方を全く知らずして、それを限りなく研究出来るであろう。

我々は自分自身を眺める事が出来る。 我々は、世界の文明を研究する事も出来る。 社会学と道徳を学ぶ事で、人類を創造された方は、秩序と道徳的感覚をお持ちであるという結論にたどり着くであろう。 しかし、その方は何方で、その方の名前は何なのか? 我々を知っておられるのであろか? なぜ神は、このように我々を創造されたのであろうか? その事は全く人から隠され、神の自己開示と自己啓示によってのみ知りうるのである。 もし神が、御自身を啓示されないならば、我々は決して神を知る事は出来ないのである(“The Self-Revelation of God” by W. A. Criswell, Ph.Dからの編集)。

しかし、神は聖書を通して私達に御自身を現されました。 聖書はこの不信な世の中への神の自己啓示なのです。 聖書は、“暗い所を照らすともしび”(ペテロ第二1:19)なのです。 五十年以上、私は宗教を研究してきました。 世界には六百余りの宗教があると言われています。 どれが真実な宗教なのでしょうか? どうしたら私達はそれを知る事が出来るでしょうか? 私達は限りなくこの世の宗教を学ぶ事が出来ますが、それでも神を知る事はないでしょう。 神は、私達に御自身を現さなければなりませんでした。 そうし神はそのようになさったのです。 神は、“神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です”(テモテ第二3:16)と、聖書を通して人に御自分を示されました。 聖書のみが神について信頼できる知識の情報源です。 聖書なしには、私達は神を知る事はないでしょう。 また私達には、神は三位一体である事を理解できないでしょう。 私達は、聖書なしには神の特性―神の遍在、神の全知、神の全能、神の神聖、神の義、神の公正、神の善、神の真実―を知る事はないでしょう。 もし神が聖書を通して私達にそれらを表されなかったならば、私達は神について、それらの事を知る事は全くなかったでしょう。 真の神について私達が知っている全ての事は、聖書によるものです、なぜなら、 

“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です” (テモテ第二3:16)。

では、罪に対して裁きを行われる神について、私達は何と告げるべきでしょうか? 『The Interpreter’s Bible』を拒否する編集長、ジョージ・バットリック博士(Dr. George Buttrick)は、“神は私の悪魔である”と言いました。 彼は、聖書の神は“悪魔”であると言ったのです。 ロバート・インゲルソル(Robert Ingersoll)は、聖書の神を、“この残忍な神”、そして、“私は神を嫌悪する”と言いました。 罪を罰せられる神への嫌悪は、しばしば大学生などが彼らの教授達から耳にする事です。 しかし、ジョージ・バットリックには、彼自身の偏見以外に、神の裁きを拒否する根拠はありません。 インゲルソルには、彼自身の偏見以外に、神を“残忍”と呼ぶ根拠はありません。 そうしてあなた方の大学の教授達も、彼ら自身の偏見以外に、罪を裁かれる神を拒否する根拠はないのです。  

彼らが誤っているという事がどうして分かるのでしょうか? そして、どうして私達が彼等よりも神について理解していると分かるのでしょうか? その答えは、私達のテキストに書かれています、

“聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です” (テモテ第二3:16)。

聖書のヘブライ語とギリシャ語は全て、‘神に息を吹きかけられた(theopneustos)’、 霊感によるもので、教え(didaskalian―指導、教義)に有益(ōphĕlímos―役立つ)なのです。 ドイツの学者フリッツ・レインニッカー博士(Dr. Fritz Rienecker)は、“[聖書の]書物は、神によって息を吹きかけられた。・・・ラビによる教えは、神の霊が預言者達に、また内に留まり、彼らを通して話された。 故に、彼らの言葉は、彼ら自身のものではなく、神の口によるもので、彼らは聖霊によって告げ、そして書いた。 初期の教会は、全体的に[完全に]その見解に同意した”(Fritz Rienecker, Ph.D., A Linguistic Key to the Greek New Testament, translated from the German by Cleon L. Rogers, Jr.; note on II Timothy 3:16)と言いました。

ですから、聖書は、神によって啓示された、ヘブライ語とギリシャ語による完全なる言葉の貴重な書物なのです! 神について何であれ、私達が知りたい事は、どこからでもというのではなく、聖書からのみ来るものでなければなりません。 ルターが言ったように―“聖書だけ”が、私達の信仰と教えの根拠なのです。 マーティン・ロイド‐ジョーンズ博士は、“二つの見解のみが根本的に存在する;我々が、聖書を信頼すべきものとして見なす事、さもなければ、我々が人の考えを信頼する事。・・・聖書全体における出来事は、神の特有な啓示なのである”(Fellowship with God, Crossway Books, 1993, p. 104)と言いました。 ですから、人々が、“それはあなたの意見である”と言う時、私は、“いいえ、それは私の意見ではありません。 それは聖書の意見であり、神の言葉による明白な教義の教えです”と言います。 そうして彼らは、“しかし、あなたはそれをどのように解釈しますか?”と尋ねます。 私は、“新聞を読むように―すなわち、書いてある通りにです”と答えます。

不信者達はそれを嫌います。 なぜでしょう? なぜなら、彼らは悪魔の言う事を聞いているからです。 悪魔は私達の最初の母親に、神が告げる事は文字通りの意味ではない(創世記3:1-5)と言って、彼女を混乱させました。 あなた方が、神の御言葉を信頼できないという考えは、人の堕落、そして人類の破滅をもたらしました! 神よ、お助け下さい! 真実なる神について私達が理解する全ての事は、聖書のみによるものです。 “真実なる神について私達が理解する全ての事”は、聖書のみによるものです、と私が言った事に注目して下さい。 イスラム教の経典コーランからではありません。 モルモン教の書籍からでもありません。 メアリー・ベイカー・エディの『Science and Health』からでもありません。 不備な、故意に誤訳されているエホバの証人の聖書からでもありません。 真実なる神について私達が理解する全ての事は、聖書のみによるのです。 では、神について聖書は何と告げているのでしょうか? 神について聖書が告げている事は、今日、人々が神について語っている事とは非常に異なっています。 世間一般の人が神について考えている事は、次の二つの内のどちらかです。 今日の人々はこれらのどちらかを信じています、


1. 神は存在しない、という事。 あるいは、

2. 神は愛だけの神で、決して罪を罰しない方である、という事。


しかし、それらのどちらの考えも聖書からは出ていません。両方とも人の考えであり、真実なる神について説明していません。 

そうです、聖書は、神は愛の神であると教えています(ヨハネ第一4:16)。 しかし、神は裁かれる神でもあるのです。 神の怒りと裁きについては、神の愛よりもはるかに多く聖書は告げています。 ロイド‐ジョーンズ博士は、“聖書から裁きについての見解を取り除くならば、ほんの少ししか残らないであろう”(The Heart of the Gospel, Crossway Books, 1991, p. 98)と言いました。 他の箇所でロイド‐ジョーンズ博士は、“神の怒りについての教義を信じない人々の根本的な問題点は、彼らが聖書の神の啓示を信じないという事である。 彼らには、彼ら自身の造った神がある”(God’s Sovereign Purpose (Romans 9), The Banner of Truth Trust, 1991, p. 212)と言いました。

神の怒りと神の裁きは、旧約と新約聖書の両方を通して示されている教義です。 先週私は、大洪水による神の裁きについて読みました。

“そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう”(創世記6:7)。

“そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている”(創世記6:13)。

“こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った”(創世記7:23)。

それが裁きの神なのです! 更にまた私は、ソドムとゴモラの裁きについて読みました、

“そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた” (創世記19:24-25)。

それが裁きの神なのです! そうして私は、エジプト人に下った神の恐ろしい裁きについて読みました―彼らは、へブル人達を自由にする事を拒否した為に、神が彼らをどのように裁かれたかを。

“真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである” (出エジプト記12:29-30)。

それが裁きの神なのです! そうして私は、アロンの息子、ナダブとアビフへの裁きについて読みました、

“さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ”(レビ記10:1-2)。

それが裁きの神なのです! そうして私は、安息日に薪を集める事で律法に違反した人について読みました、

“すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した”(民数記15:35-36)。

それが裁きの神です! そうして更に私は、コラと、モーセに逆らってコラに従った者達について読みました、

“モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼に属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした” (民数記16:31-35)。

それが裁きの神なのです! そうして、私は申命記の次の一節を読みました、

“あなたがたの神、主は、神の神、主の主で、偉大で、力あり、恐ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず”(申命記10:17)。

そうしてまた、これを読みました、

“あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない”(申命記10:20)。

それもまた裁きの神です。

それらの全ては、モーセの五書の中で書かれました。 それらは聖書の最初の五つの書に挙げられた神の裁きの幾つかです! そこで主は、“神の神、主の主で、偉大で、力あり、恐ろしい神”(申命記10:17)と呼ばれました。

そうして神は預言者イザヤを通して、“わたしは怒って彼らを踏み”(イザヤ63:3)と言われました。 預言者ネヘミヤは主を、“大いなる、恐るべき神”(ネヘミヤ1:5)と呼びました。 預言者ダニエルは主を、“大いなる恐るべき神”(ダニエル9:4)と呼びました。 しかし或る人は、“それは旧約聖書の神です。 私は新約聖書の神を信じます”と言うかもしれません。 それは、あなた方が新約聖書を知らない事を表しています! 新約聖書を通して私達は、“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです”(へブル10:31)という事を理解します。 コリント人への手紙第二第5章で、使徒パウロは、“私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです”と言いました。 そして、主イエス・キリストは聖書の中の誰よりも、裁きと地獄について話されました。 キリストはこう言われました、

“この人たちは永遠の刑罰に入り”(マタイ25:46)。

キリストは、こう言われました、

“また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです” (マタイ18:9)。

キリストは、更にこう言われました、

“人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです”(マタイ13:41-42)。

キリストは、救われていない裕福な人は地獄に落とされた、と言いました、

“その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』”(ルカ16:23-24)。

そうして、新約聖書の最後の書物はこう語っています、

“そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない”(黙示録14:10-11)。

いいえ、あなた方は、新約聖書に逃避する場をもつ事は出来ません! 最初から最後まで、聖書を通して神は、“偉大で、力あり、恐ろしい神”(申命記10:17)と描写されているのです。

あなた方にある唯一の望みは、主イエス・キリストを信頼する事です。 神は、十字架で死ぬためにイエスを送られました―あなた方の罪の贖いをするため、すなわち、あなた方の罪を、御自分の血でもって清めるためにです。 神の怒りと裁きから逃れる道は他にはないのです! 使徒パウロは、“「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った”(使徒16:31)と言いました。 聖書は、“心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りにたよるな”(箴言3:5)とも言っています。 そうして主イエス・キリストはこう言われました、

“信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます”(マルコ16:16)

グリフィスさん、『When I See the Blood』の一番と二番、そしてコーラスの部分を歌って下さい。 

我々の贖い主、キリストは十字架で死なれた
   罪びとのすべての罰のために
あなたの魂に、小羊の血を撒きなさい
   私は、あなたを過ぎ越すであろう
私がその血をみるとき、私がその血をみるとき、
   私がその血をみるとき、私は、あなたを過ぎ越すであろう

最悪な罪びとをも、イエスは救われる
   約束されたすべてのことを、イエスはなされる
罪の清めのために備われた泉で洗われよ
   私は、あなたを過ぎ越すであろう
私がその血をみるとき、私がその血をみるとき、
   私がその血をみるとき、私は、あなたを過ぎ越すであろう
(“When I See the Blood” by John G. Foote, 19th century). (直訳)

チャン先生、私達を祈りに導いて下さい。アーメン。

(説教終了)
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可無く複製・使用はできません。

アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:ヨハネの黙示録14:9-11。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“When I See the Blood” (by John G. Foote, 19th century).