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三番目の手段-危機なる回心

そしてイアン・ムライによる“解説的説教への警告”

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2014年3月9日、主の日の晩の説教

THE THIRD WAY – CRISIS CONVERSION
and “A Caution For Expository Preaching” by Iain H. Murray
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, March 9, 2014

“またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました”(ルカの福音書第15章11-19節、新改訳)。

今日、救われていない人々に福音を説教する手段が二つあります。 最初の手段は通常“イージー・ビリービズム(簡単な信仰)”と呼ばれています。 二番めの手段は、“ロードシップ・サルベーション”と呼ばれています。 言うまでもなく、これらの両方の手段には、何かが誤っているのです、なぜなら、1859年当時のリバイバル以来、英語圏の国々において、神はこれらのどちらをも大規模な覚醒に用いられなかったからです。 

また、先駆者的な説教者達は、今日多くの教会員達は回心していないと言っています。 私達の著作、『Preaching to a Dying Nation』の中で、ケイガン先生と私は、日曜学校の教師、教会の執事、牧師の妻、そして更に牧師自身も含めた、多くの福音主義者とファンダメンタリストは失われている、と指摘した先駆者の発言を引用しています。 トーザー博士は、“福音主義派の教会の中の、多分十人に一人が、経験を通しての新生について全く理解していないであろう”と言いました。 テキサス州ダラス市のファースト・バプテスト教会の牧師、クリスウェル博士は、“天国で、自分の教会の4人に一人の会員に会うならば、驚きであろう”と言いました。 1940年に若きビリー・グラハムは、85パーセントの教会員は、“新たに生まれていない”と断言しました。 モンロー“モンク”パーカー博士は、ファンダメンタリスト派教会に対して、“もし私達が教会の半数の会員達を救わせる事が可能ならば、私達は偉大なリバイバルを目にするであろう。  実際、もし私達がアメリカの説教者の半数をも救わせる事が可能ならば、私達は大いなるリバイバルを目にするであろう”(Monroe “Monk” Parker, Through Sunshine and Shadows, Sword of the Lord Publishers, 1987, pp. 61, 72)と言いました。 

それらの全ての数字は私達の著作『Preaching to a Dying Nation』(pp. 42, 43)に書かれた情報の出所も補足されています。 トーザー博士、クリスウェル博士、若きビリー・グラハム、そしてモンロー“モンク”パーカー博士によって挙げられた数字はもちろん推定です。 しかしそれらは、これらの先駆者達が、アメリカにおける伝道のやり方に大きな問題があると考えている事を示しています。 そして先に私が述べたように、今日、福音の宣言に用いられる二つの手段は、“イージー・ビリービズム”と“ロードシップ・サルベイション”なのです。 神は、それらのどちらの手段も回心を生み出す事のためには用いていないのです。 

最初の手段は通常“イージー・ビリービズム”と呼ばれています。 それは今日、福音主義派とファンダメンタル派の大半に用いられている手段です。 それは、失われた人がイエスに、“彼らの心に入ってもらう”ように祈る、いわゆる“罪人の祈り”を唱える事によるのです。 そうしてそれらの失われた人達は、何の変化の様子も見せず、罪に深入りした生活を続け、そして教会に毎週出席する事を拒否しながらも、“救われた”と見なされているのです。 文字どうりこのような状態の人々が、数百万人英語圏の国々にいるのです。 

福音主義派による二番目の手段は、“ロードシップ・サルベーション”と呼ばれています。 この方法は、“イージー・ビリービズム”に対する反発として起りました。 しかし“ロードシップ・サルベーション”は、“イージー・ビリービズム”を正す事はできませんでした。 この見解を支持している人達は、“イージー・ビリービズム”よりももっと悟り深く見えますが、彼らの手段は全く伝統的なリバイバルには用いられておらず、アメリカの教会へ回心者を加えることの為には用いられていません。 “ロードシップ”を支持する説教者達は、強固に、そして繰り返し教義といわゆる“悔い改め”を強調する事によって“イージー・ビリービズム”による不法と罪を正そうとしています。 それは通常、不信者が“サンデマン主義”の形式を支持する結果と生じるのです。 “サンデマン主義”は、イエス・キリストご自身にではなく、むしろ聖書の御言と教えに依託しています。 それはイエス・キリストご自身を信頼するのではなく、聖書の御言と教えを信頼しているのです。 一人の説教者が、“私達は神の成さった事を信じ、もしくは信頼しなければならない”と言いました。 彼は気がついていないかも知れませんが、それが“サンデマン主義”の定義です。 それは罪人に、イエス・キリストご自身を信頼するのでは無く、聖書の言葉を信頼する事によって彼は救われると告げているのです。  マーティン・ロイド・ジョーンズ博士の著作『The Puritans: Their Origins and Successors』(Banner of Truth, 2002 edition, pp. 170-190)を調べてください。

キリストの時代におけるパリサイ人達は、“イージー・ビリービズム”の形式には頼っていませんでした。 彼らは、外見的には清い生活を営んでいました。 彼らは、常に御言を学び、それらを信じました。 彼らの生活に何が不足していたのでしょうか? 一つだけです-イエス・キリストご自身です! イエスはこのように彼に告げられました、

“あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません”(ヨハネ5:39, 40)。

スポルジョンは、“魂を救う信仰は一人の方を信じる事、すなわちイエスに頼る事である”(“The Warrant of Faith,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, volume 9, Pilgrim Publications, 1979, p. 530)と言いました。 

その同じ説教の中でスポルジョンは、“我々が、真に、そして我々の魂を救い主の手に委ねない限り、それらの(聖書の中の)事柄の単なる知識は、我々を救わない”(同著)と言いました。

私達が今日のテキストで理解するように、放蕩息子は、“父親のところには、パンのあり余っている”(ルカ15:17)事を知っていました。しかし、それらの単なる知識は彼を空腹から救いませんでした。 彼はパンを得る為に、直接“父親”の所に来なければなりませんでした。 聖書への信仰、それを真に信じる事さえも、それらは決して誰も救いません。 人は救われていなくても、聖書と偉大なウェストミンスターの教義要覧のような信条を信じる事が出来ます。 使徒パウロは聖書について、“あなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです”(テモテ第二3:15)と告げています。 

聖書、そして聖書に基づいた信条を信じる事は誰も救いません。 聖書はイエス・キリストへと私達を向けさせるのです。 私達は、“キリスト・イエスへの信仰を通して”救われれるのです!  私達は、“罪人の祈り”の言葉を唱える事によって救いを得る事はできません。 私達は、イエスについて聖書が告げている事を信じる事によって救いを得ません。 私達は、主なるキリストを従う事によっては救われません。 私達は、“キリスト・イエスに対する信仰により”(テモテ第二3:15)のみに救われるのです。 聖書は、“恵みのゆえに、信仰によって救われたのです”(エペソ2:8)と言ってそれを明確にしています。 そして、その信仰はイエスだけが中心とならなくてはなりません。 私の同僚のケイガン先生は、“実に、これらのものよりもさらに偉大な―‘御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています’(コロサイ1:17)―キリストを‘直接’信頼する事によって私達は救われる”(Preaching to a Dying Nation, p. 220)と言いました。 この一つの根本的な真実を信じる事が、全ての“イージー・ビリービズム”と“ロードシップ・サルベーション”の形式を取り除くでしょう。 

私がここで説教していることは、“三番目の手段―危機なる回心”と題した説教をしています。 最初の手段は“罪人の祈り”を唱える事による救いです。 二番目の手段は、完全に邪悪な罪人には出来るはずの無い事―イエスを主とする事による手段です!  しかし、“三番目の手段―危機なる回心”は、聖書による真の回心による手段です。 私は“危機なる回心”という言葉を作り出しました―しかしそれは、“古き学派的”な見解の単なる呼び名です。 それは古典的なプロテスタントとバプテストによる回心の単なる新しい呼び名です。 “危機なる回心”は、ルターが体験した事です。 “危機なる回心”は、ジョン・バニアン、ジョージ・ホィットフィールド、ジョン・ウェスリー、そしてスポルジョンが体験し、そして全ての“罪人の祈り”と“ロードシップ・サルベーション”が大衆的になり、私達のバプテストとプロテスタントの先駆者達の古くからの“危機なる回心”の観念を破壊した全ての教え以前に、真に回心した人達が体験した事です。 ここで私は“堕落”を説明し、それから“覚醒”を説明します。

I. 最初に、“危機なる回心”の三番目の手段を説明するに当たり必要な人の“堕落”をここで説明します。

“罪人の祈り”と“ロードシップ・サルベーション”に取り代えられ始める前の、 昔ながらの“危機なる回心”の意味を描写する為に、私は、放蕩息子の話を選びました。

放蕩息子は罪人を表しました。 彼は自分の財産を求め、家を去り、そして遠くの国へと出て行きました。 そして、そこで彼は“遠い国に旅立った。 そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった”(ルカ15:13)。 それを私達は様々な方で体験します。 私達はキリストに背を向け、罪なる状態でキリスト無しに生きています。 放蕩息子が彼の父親を拒否したように、私達はキリストを拒否しました。 実際に、私達の回心のない状態で、私達は救い主を蔑み、そして拒否しました。 放蕩息子のように、彼の行動によって、どんなに彼の父を蔑み、そして拒否したかを示しています。 

“彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった”(イザヤ53:3)。

心の中では、私達は神と神の御子の敵でした。 放蕩息子が彼の父親の律法に服従しなかったように、私達は神の律法に服従していませんでした。 

“というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです”(ローマ8:7)

私達の心は、救い主に対して手に負えないほど反抗的でした。 実に私達は、全く正義感の無い、全く完全に堕落した罪人なのです。 使徒パウロは、“あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、”(エペソ2:1)と言っています。

もしあなた方が救われていないならば、あなた方の描写は美しいものではありません。 使徒パウロは、“すべての人が罪の下にあると責めたのです。 それは、次のように書いてあるとおりです。 「義人はいない。 ひとりもいない”(ローマ3:9, 10)。 預言者イザヤは、このようにあなた方の霊的な状態に関して述べています、

“頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。・・・” (イザヤ1:5,6)。

これが放蕩息子の状態でした。 聖書は、“それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった”(ルカ15:15, 16)と書いています。 そしてそれが正にあなた方の状態でもあるのです。 “その国のある人”は、あなた方の思いを支配する、悪魔を表しています。 “不従順の子らの中に働いている霊”は、悪魔です。 あなた方は、サタンの奴隷、サタンに捕らわれた身として生きている、“罪過の中に死んでいる”(エペソ2:5)、このようなひどい状態に捕らえられているのです。 それは完全な堕落として知られています。 これが放蕩息子の状態でした。 彼の父親は、この息子は、“死んでおり”、そして“いなくなっていた”と言いました。 “この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから”(ルカ 15:24)。

あなた方のキリストに対する反抗によって、あなた方は自由の身であると思っています。 しかしあなた方は、実に奴隷であり、罪に巻き込まれ、神の事柄に対して死んだ状態であり、サタンによって支配され、捕らわれた状態なのです。 あなた方は非常にも悪魔に支配され、あなた方は、罪に縛られた状態は解放であるように実際には考えているのです! あなた方は、罪に捕らわれた、希望も無い状態へと落ちていった放蕩息子のように、望みも無く、完全に堕落した状態なのです。

II.次に、これが“危機なる回心”の三番目の手段に示される、罪人の“目覚めた”状態の描写である。

“しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ”(ルカ15:17)。

“我に返ったとき”。 それは彼が悟った時、すなわち罪への昏睡状態、罪に当惑し、死んだ状態から目覚めた時を表しています。 “我に返ったとき”;彼が死んだ昏睡状態から目覚めた時、その時に彼は“死にしそうだ”と自覚しました。 それが、罪の生活による、哀れ、苦しみ、悲しみを感じる失われた罪人の覚醒です。 このような覚醒は聖霊によってのみに生じさせられるのです。 このテキストに関してスポルジョンはこのように述べています、

狂気の人は、自分か狂っていることに気づいていない。しかし彼が自分自身に戻ると、逃避からの状態に痛々しくも気がつく。そこで放蕩息子は、正しい理性とまともな判断にもどるのである(C.H. Spurgeon, MTP, Pilgrim Publications, 1977 reprint, volume 17, p. 385)。

この覚醒は、睡眠術にかけたれた状態の人が、再び正気に戻ったようなものです。 ギリシャ神話のキルケーの中で、魔女が人を豚に変えましたが、ウリッセースは彼の友人を元の人間の状態に戻すよう魔女を強制しました。 その様に神の御霊は放蕩息子を覚醒させました。 その時のみ、彼は自分が望みの無い、そして哀れな状態である事を自覚したのです。 パウロは、このように“覚醒”について語っています、

“「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる” (エペソ5:14)。

しかし、失われた罪人の“覚醒”した状態は穏やかなものではありません。 そしてそれが、真の回心なる三番目の手段にあるべき、危機なる状態が起こる時点です。 清教徒のリチャード・バックスター(Richard Baxter, 1615-1691)がしばしば指摘したように、最も一般的に人が覚醒されるのは、説教を通してです。 多くの説教者は、福音を説教する時にローマ人への手紙第10章13節を引用します。 しかし彼らのほとんどは、“宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう”とある、その次の節に関して考慮していません。 

ですから、私達は教会で福音的な説教をしなければならないのです。“宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう”。 そうして説教者は失われた人達に向けて福音を説教する事を学ばなくてなりません。 今日、非常に数少ない説教者が福音のを説教を準備し、伝える事を知っています―正にそれは少数なのです! 私は長い間、正しく福音を宣べ伝える説教者を耳にしていません! それは過去のものとなっています。 それが、多くの人々が今日教会に出席しながらも救われていない大きな理由なのです! “宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう”。 

福音の説教は、罪人に、イエスに来ない限り、彼は死に運命づけられている事を知らさなければなりません。 それは彼に、罪が正に彼の根元にある事を知らさなければなりません。 “多くの罪”ではなく、“罪”自体が彼を神から引き離すのです。 罪は、反抗と自己主義を特徴としています。 罪人は放蕩息子のように、彼は神に対して非常に反抗的であり、何とも自己主義であるという事に、直面し立ちはだからなければなりません。 失われた罪人は、彼の心に徹底した変化がなければならない事を知るまで、説教壇からそれを聞かなくてはなりません。 それは、罪人が彼の心を変えようと努め始めるまで、強調されなければなりません。 彼の心を変えようとする努力は、常に彼を失望させるでしょう。 そしてそれが、彼の失われた状態に対していたたまれない失望と真実へと、罪人を更に覚醒させるのです。 彼は自分が失われている事を何度も告げられなければなりません。 彼はキリストを見出すために励まなければならない、と告げられなければなりません。 彼は“努力して狭い門から入りなさい。・・・”(ルカ13:24)と告げなければなりません。 罪人が努力し、失望し、また努力し、失望し、そして更に努力し、失望する時、遂には自分が完全に望みも無く失われている事を感じるでしょう。 それが正に罪人が感じなければならない手段なのです、そうでなければ彼はイエスに安息を見出す事は無いでしょう。  

これは“律法の説教”と呼ばれています―それは古くからの、伝統的な、多くの説教者が、罪人が自分自身を変える全ての望みを放棄するまで、説教した事なのです! それが、御言が“律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです”(ローマ3:20)と言う意味なのです。 何度も清い人になろうと努力することによって失望させられ、神との和解を見出す事に失望し、そして特に、何度もイエスに来ようとする努力に失望させられ、遂に罪人は、“自分は正に失われている!”と自覚し始めます。 それが、彼に必要とされる覚醒なのです! 

“しかし、我に返ったとき彼は、私はここで、飢え死にしそうだ”(ルカ15:17-18)。

この時点で、すなわち、罪人は“正しくさせる事”もしくは“正しいことをする事”の全ての望を諦める時―彼は自分自身を救う事は出来ないゆえに、彼は“我に返り”―覚醒し、そしてイエスに安息を得なければならない事を悟るでしょう!

“しかし、我に返ったとき彼は”。 放蕩息子は、“我に返る”前に、彼の心が真の悔い改めによって変化する前に、彼は非常に困難な、バニアンが貫いたような心の苦悩を貫かなければなりませんでした。 ギリシャ語の“悔い改め”は、“心の変化”と言う意味です。 これが“三番目の手段”です。 これが“危機なる回心”です。  “自分は偽善者で反抗的な罪人に他ならない!”。 “自分には、何の望みも無い”。 “自分は危機なる状態にいる! 自分は変らなければならない―しかし、自分には出来ない! 出来ない! 出来ない! 自分は試みた! 試みた! 自分が試みれば試みるほど、不可能だ! 悔い改める事が出来ない! 自分を変えられない! 自分を変えられない! 自分の心を変える事が出来ない! 自分は失われている! 失われている! 失われている! それが、正にルター、バニアン、ジョン・ウェスリー、ホィットフィールド、スポルジョン、そしてジョン・ソング―そして他の真の回心者達に生じた事では無いですか? この主題の詳細した論じ方を考察したいならば、トーマス・フッカーズ(Thomas Hooker’s, 1586-1647)のすばらしい本『The Soul’s Preparation for Christ』を読むべきです。 短い現代的な論じ方では、イアン・ムライの『The Old Evangelicalism: Old Truths for a New Awakening』(The Banner of Truth Trust, 2005)を調べて見て下さい。 

全ての回心が、皆同様では無い事を理解する事は重要です。 ある人達は他の人よりも罪の意識を感じる期間は短いでしょう。 ある人達は長い期間罪の意識を感じ続ける反面、他の人達は短く鋭く心を刺されたような体験をするかも知れません。 私の妻は初めて福音を聞いた時に回心しました。 私のアシスタントの医学博士クレイトン・チャン先生も同様でした。 神は主権を有され、ご自分のやり方で罪人の回心に働かれます。 多くの人達は、罪の意識を感じる時泣きます、実に多くの人達がそうです。 しかし、私の母は涙も流す事無く生活を一転させる回心を体験しました。 しかしながら全ての回心において、これら二つの要点、すなわち、罪の意識とイエス・キリストによる信仰を通しての罪からの解放、は必要です! これらの二つは全ての回心において生じます。 これらの二つの事柄は、ルター、バニアン、ジョン・ウェスリー、ジョージ・ホィットフィールド、そしてスポルジョンの回心のように、私の妻とチャン先生の回心においても―短い期間ではあったが、真実となったのです。 そうして彼らが救い主を信頼する前に、彼らの良心は突き刺されました。 罪を弁解し、また軽率に扱う人達は、真の回心を体験しません。

私は、あなた方が彼らのように感じている事が嬉しいです! ならばあなた方はひょっとしてイエスに安息を見出すかも知れません。 ことによるとあなた方は、あなた方を救う為に十字架へと至らせたイエスの愛を感じるかも知れません。 なぜなら、あなた方は自分を救う事が出来ないからです。 あなた方の身代わりとなって、全ての罪からあなた方を清める為にご自分の血を流されたゆえに、あなた方は、イエスに対して感謝の気持ちを持つでしょう! そうして、真の“危機なる回心”―あなた方の心を変え、神の怒りからあなた方を救う唯一の道を通して、あなた方がイエスの恵み、愛、そして彼の救いを体験するゆえに、あなた方は一生涯イエスに感謝するでしょう! これが“イージー・ビリービズム”、そして“ロードシップ・サルベーション”とは異なる事を、あなた方が理解するように私は願います。 そして、あなた方がイエスを信頼し、イエスの尊き血によって清められる時、あなた方がそのような体験する事を祈ります! そうして、あなた方がチャールズ・ウェスリーと共に、この歌を歌う事が出来るよう、私は祈りします、

あいするイエスよ かくまいたまえ
   あらしのなかの かよわきわれを
なみかぜやみて あまつみなとに
   ついにやすらに おちつくまでは

ほかにかくれが もたぬわがみは
   ただなれひとり たのみとぞなす
よるべのなきみ おきざりにせず
   おおいたまえや ながつばさもて
(『あいするイエスよ』“Jesus, Lover of My Soul”
      by Charles Wesley, 1707-1788).

救われる事に関して、もしあなた方が私達と話されたいならば、どうか席を立ってこの礼拝場の後方へ出て行ってください。 ケイガン先生が、私達と祈り、話ができる他の部屋へ案内して下さいます。 チャン先生、今晩誰かがイエス・キリストを信頼されますように祈ってください。 アァメン。

(説教終了)
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これらの説教文書はコピー権で守られていませんので、ハイマーズ博士の許可無く使用
できますが、ハイマーズ博士の全てのビデオメッセージはコピー権で守られており、許
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:ルカの福音書第15章14-19節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus, Lover of My Soul” (by Charles Wesley, 1707-1788).

解説的説教に対する警告

A CAUTION FOR EXPOSITORY PREACHING 

イアン・ムライ著
(バーナー・オブ・ツルース・トラス理事)

今日、“解説的説教”が多くの説教者達の間で流行しており、その説教の仕方が説教者達を急き立てている。 もしこれが、説教者の仕事の一つが、聖書のテキストに彼自身を釘づけ、他のものにそれを明白にすることであれば、それ以上話し合うことはない:聖書は神の御言葉であることを知らない人達を救うことに同意しないのである。

しかし、“解説的説教”はしばしばよりほかの意味を持つ。 それは、毎週ごとに、聖書の聖句や書を通して教会で連続して行われる説教として描写され、この仕方は、毎週日曜日ごとの各々のテキストと関連をもたない、個別のテキストを説教する方法と比較される。 後者の方法は、“解説的説教”に凌駕されている。

なぜ“解説的説教”の見解が比較的流行するようになったのであろうか? それにはいくつかの理由がある。 まず、その実践は説教者のレベルを上げる、と信じられている。 聖書の一連の対処によって、説教者は如何なる この話題から離れ、教会員達はより広範囲に渡る、より教養豊かな全ての聖書の聖句が与えられると信じられている。 説教者はまた、テキストのための絶え間ない調査から解放される―彼と教会員は前にしたことを知っている。 これらの理由はおそらく若い説教者に、我々の主要な会議やコンフェレンスで、著名なスピーカーが一つの聖句をもって手短に終える事実でもって、確認され得る。 そして、印刷されたものをもって、説教のための最善のモデルであると考える。 他のいかなる印刷された説教はまれで、印刷者は流行ゆえに、間違いなく“解説的”な説教を好む。¹ 

しかし、我々の見解では、この種の説教の不利な点は、少なくとも考察される時期に来ている。

1.  全ての説教者は、あらゆる点で効果的な説教をすることができる、と予期される。しかし、人は各々異なった才能をもつ。(スポルジョンは若かりし頃、へブル人への手紙が、彼ら自身への、彼らの書簡であることを願った、そのころの彼の説教に耳を傾けると)スポルジョンは、“解説的説教”に無知であったわけではない。そして、それは彼の才能に最も適していることではない、と彼は決断した。効果的な“解説的”説教者になることは、ある人が考えるような、よく見かける才能ではないと考える理由が、そこにある。ロイド‐ジョーンズ博士でさえ、緩やかに“解説的”シリーズを紹介するまでに、二十年間の聖職を経た。

2.  “解説的”方法が、聖書のほとんどをカバーするために最善の手段であるという議論は、説教の主要な目的が、聖書を可能な限り伝えることである、という考え方に大きく基因する。しかし、その考え方には議論の余地がある。説教は、教え授ける以上のものである必要がある。それは、感化し、覚醒させ、そして人を起こさせる。そうして、人は輝くクリスチャンになり、毎日の聖書の学徒となる。もし説教者が、自分の仕事の主要な目的が、刺激を与える代わりに教授する事であると抱くならば、大方、説教は週末に行われる“授業”のようなものに成り下がる。しかし真の説教は、話されていることを聴衆者に点火する必要がある。

3.  教会、特にスコットランドは、かって“説教”と“講義”の間に違いをもっていた。“講義”いう言葉は、如何なる感覚においても使われなかった。 それは、今でいう“解説的説教”を意味し、聖書の聖句や書に対する連続的な対処である。エディンバラのブロウトン・プレイス(Broughton Place)のジョン・ブラウン(John Brown)の解説が、この方法の始まりである。 ロイド・ジョーンズのローマ人への手紙の説教もそのようにされ―彼はそれらを“講義”と呼んだ;説教と講義の違いは、彼の見解では、説教は全体を洗練した、違ったメッセージにし、完結させる―一方、聖書の講義は、何かより大きな継続しているものである。 彼のローマ人への手紙の説教に対して、ロイド‐ジョーンズは、彼の説教としてのエペソ人への手紙の内容を考慮し、これらの二つのシリーズ(最初のは金曜日の晩にされ、二番目のは日曜日の朝にされた)の中の彼の手順を比べることで、素早くその違いを知ることができる。これは彼のローマ人への手紙を低く見ることではない。 目的が違っているのである。

4.  日の終わりに、最善の説教は、ほとんどの聴衆者を手助けする説教のことで、それに関連して、一連の“解説的”手段では、印象を与えない。長い目で見て、それが流行っていることを決して証明はしなく、その理由は明白であると私は考える。説教は、記憶のできる説教のために、基調としてテキストが必要である。聴衆者の思いから他の全てが消え去るとき、そのテキストは思い出されるかもしれない。時々、それは真実で、テキストは節ではなく章であることもある―福音のたとえ話やナレーションなど―しかし、“解説的説教”にしばしばみられるように、一連の聖句が“テキスト”となる。 そうして、アイデアの全体像は、説教になり、(スポルジョンの説教に見るように)全体のレッスンは失われることは明白になる。教える者は解説者になっている。時々彼は、使用しようとして選んだ聖句からのテキストを使うことさえ止める。しかし、人々は一般的に言って、同じ手助けを得、そして、教えている同じ聖書の箇所を手に持つことにより、おそらくよりよい手助けを得る。しかし、こう聞かれるかもしれない、“ロイド‐ジョーンズのエペソ人への手紙の説教は、解説的な面と逐語的な面の両方を有しているのでは? 彼は、同時に、ニ、三の主だった考えを強く主張するが、引き続き進める―なぜ他の者は同じことをできないのか?” その答えは、ロイド‐ジョーンズは、彼のエペソ人への手紙の説教では、逐語的と解説的の両方をもってきている。しかしこれは、ほとんどの説教者が持つ才能の中には入らない、正に説教なのである。 あまりにも多くの説教者たちは、一句一句聖書の主要な書を通して説教しようと試みたが、結果は散々なものであった。これが、なぜ“リフォーム”された説教が、一か所以上で、“難しい”、あるいは、“退屈な”と批評されている理由の一つである、と考えるのは口論の余地がある。“解説的”モードを応用した熱心さに欠ける説教者が、自分の選んだテキストから一つの聖句さえも使用しようとしないのは、説教が一連の解説に簡単に変わる危険がある。

5.  福音主義的説教は“解説的”モードに適さない:事実、“解説”が独占的に使われるところでは、こころと良心への真の福音主義的説教は、一般的に言って、消えてしまう。もしこれが真実であるならば、それは人の失敗であり、聖句ではない、なぜなら、聖書はすべて、神の霊感によるもので、・・・有益ではない? もちろん、それには異議があり、神の御霊により、聖書はすべて、失われた人達を覚醒させるために使われる? おそらく。しかし、クリスチャンでない人達に話すために応用された特定の真実があることは、聖書から明らかである(我々の主の例えの証人)。過去において、罪びとの回心に使われたほとんどの説教者は、これらのテキストが何であるかを知っていた―ホィットフィールド、マックチェイニー、スポルジョン、ロイド‐ジョーンズ、そして他の面々は知っていたのである。今日、彼らを忘れることの危険がある。あなた方が最後に、“人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう”の説教を聞いたのはいつか?


聖句を通しての一貫した説教の全体概念が誤っていることを語るのは、口論ではなく、単に、聖職にあってはならないことなのである。 真実を説教する方法が何であれ、各説教者に何が最善にできるかを見つけさせ、そのことを肝に命じさせるのである。 今の時に最も必要とされているのは、信仰と聖霊に満たされた説教者である。 正しい教えが必要である以上に、我々には、教会員を鼓舞し、そのコミュニティーさえにも影響を与える、説教が必要なのである。

少なくとも、上記の観察は小説であると考えるべきではない。 私は、二十世紀の偉大な説教者の一人である、クイッパー(R. B. Kuiper)の見解をもって締めくくる。 彼の伝記作家は、彼は、“解説”という用語が、聖書の章や聖句に関する一連の形の中で与えられる説教だけに応用されることに反対した、と指摘する。

“幾つかある正当な方法の一つであるように、解説的説教を推薦することは重大な過ちであり、多くの保守的な見解をみれば、解説的方法が最善であることを称賛することに、全ては満足しない。彼は、全ての説教は解説的でなければならない・・・また、聖句(多分に章)に関する延々と続く解説だけが、解説的説教と呼ばれる、という一般に持たれている意見に異議を唱えた。クイッパーによると、延々と続く解説的な説教は、誰にも分かる欠点を持つ。すなわち、多くの文献に触れなくてはならないため、その解説は中身を持たない傾向がある。そのような説教はしばしば統一性に欠け、そのため聴衆者は、説教が何について語られているかの明白な要点が掴めない” ²

説教者が使用する方法が何であろうとも、クイッパーの次の言葉はすべてに対して適切である。

“シンプルだが・・・尊敬と反応の両方を命じる、強制的な説教。熱中は鼓舞させる。合理は確信させ、不合理は困惑させる。説教者としてのこころを持とうではないか。聴衆者を飽きさせることを止めようではないか。我々の説教をきわめて興味のあるものにし、例え、子供たちでさえも、落書きを書くかわりに聞き入るような説教にし、子供たちに紙と鉛筆を持たせる親たちを恥じ入りさせるのである。しかし同様に、そのような説教の絶対的な必須事項は、労を惜しまない、最も入念なる準備であることを、我々は肝に銘じておくべきである” ³

脚注

1. これを私が説明する必要はない。なぜ、“解説的説教”が印刷物になるのかのよい理由がある。しかし、読み手に取って最善なことは、聞き手にとっても最善である、と結論づけるのは危険である。読むことと聞くことは二つの異なったことである。

2. エドワード・ヒーレマ(Edward Heerema, R.B.)『A Prophet in the Land』(Jordan Station, Ontario [Paideia, 1986]), pp. 138–9.

3. 同著, p. 204.

要 綱

三番目の手段-危機なる回心

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

“またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました”(ルカの福音書第15章11-19節、新改訳)。

(ヨハネの福音書5:39, 40;ルカの福音書15:17;
テモテへの手紙第二3:15;エペソ人への手紙2:8;
使徒の働き16:31;コロサイ人への手紙1:17

)

I.   最初に、“危機なる回心”の三番目の手段を説明するに当たり必要な人の“堕落”をここで説明します。 ルカの福音書15:13;イザヤ書53:3;
ローマ人への手紙8:7; エペソ人への手紙2:1;ローマ人への手紙3:9, 10;
イザヤ書1:5, 6; ルカの福音書15:15, 16;エペソ人への手紙2:2, 5;
ルカの福音書15:24。

II.  次に、これが“危機なる回心”の三番目の手段に示される、罪人の“目覚めた”状態の描写である。 ルカの福音書15:17;エペソ人への手紙5:14;
ローマ人への手紙10:14; ルカの福音書13:24;ローマ人への手紙3:20;
ルカの福音書15:17-18。