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神の裁き‐恐ろしき事

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2013年11月17日、主の日の晩の説教

GOD’S JUDGMENT – A FEARFUL THING
(Japanese)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord’s Day Evening, November 17, 2013

グリフィス氏が先ほど歌った歌は、ジョン・R・ライス博士によって書かれました。 それは、今日の教会が必要とする歌です。 今日、裁きに関する賛美歌はほとんど見当たりません、そして地獄に関する賛美歌は、私が知っている限りでは見当たりません。 清教徒達は地獄についての歌を歌いました。 しかし今日の福音主義達は、その様な歌を歌うには、あまりにも賢く、洗練されすぎていると思っています。 シェイクスピアに登場するいたずらな妖精は、“これらの人間どもは何と愚かになったものか?”と言いました。 彼は多くの漸進主義達や新福音主義達に対して、このように言えたことでしょう。 彼らは、俗世間の一時的流行から通常ほぼ40年あまり遅れた状態です。 不信者達の間で、40年前にバン・ダイクのあごひげが流行しました。 現在、多くの“漸進”福音主義派の説教者達はそのあごひげを生やしています―ただ彼らはそれを“バン・ダイクのもの”と呼んではいないだけです。 彼らの見せ掛けの洗練さは、それらのひげを無知にも“ヤギひげ”と呼んでいるのです。     

ほぼ40年前に、世間では禁煙のキャンペーンが始まりました。 聡明な人達はタバコを止めました。 思った通り、新福音“漸進主義派達”は、あたかもタバコを吸う事がインテリで洗練さのマークであるかのように、最近喫煙を始めました。 ビリー・グラハムが卒業し、ジョン・R・ライス博士の六人の娘さん達が卒業したウィートン大学は、現在、全教職員達や学生達に喫煙を許可しています。 そしてシカゴのムーディー・バイブル・神学校は、先月の訴訟に随行して、禁煙を破棄した事を知っていましたか?  最近の『Christianity Today』マガジンは―パイプを吸っていたC・S・ルイスの様に―喫煙がクールでインテリの証拠であるかのように、大きなスモークパイプの絵を表紙に載せました。 洗練さという名を借り、俗世間が40年前に禁煙し始めた後で、新福音主義派達は、喫煙を許可したのです!

今日、教会で賛美歌を歌う事は、流行遅れなのです。 彼らは、皆が幾分催眠術に掛かったようになるまで、浅はかな意味のコーラスを何度も何度も繰り返し歌っています。 それが説教の前に、人々の心を“準備”させるようなものでしょうか? それはおそらく彼らを眠りに誘うでしょう。 そしてその後に伴う耳ざわりよい“バイブル・スタディー”の間に、彼らの多くは居眠りをするのです。 今日アメリカの教会では、地獄に関しての歌を歌う人は見当たりません。 地獄に対する警告は、聖書を通して示されています。 しかし、俗的な福音主義派達は人々への警告の歌を歌おうともせず、ましてや、それを説教しようともしないのです! ですから、ライス博士は、最後の審判に関しての賛美歌を書く事によって、すばらしいご奉公を成したのです。 

あなたは その時 イエスに何を言うだろうか
   あなたの過去の仕業に対し
救い主を拒絶してきた日々に対し
   その時、あなたはどのように弁明するか
神の恐るべき裁きの時に
   あなたは涙をもって弁明しなければならない
あなたは何を言うだろうか あなたは何を言うだろうか
   もしゆるされていないならば その日にあなたは神の御前に立ち
あなたは何を言うだろうか あなたは何を言うだろうか
   その日、嘲弄してきた主を前に
(“What Will You Say Then?” by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

聖書のヘブル人への手紙第10章31節を開いてください。 では立って神の御言を朗読して下さい。 

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

着席してください。

特に今日、それは非常に重要なテキストです。 聖書は、“彼らの目の前には、神に対する恐れがない”(ローマ3:18)と語っています。 私達は、神を恐れる人に会ったことがありません。 決して、例外なくです! “彼らの目の前には、神に対する恐れがない”。 しかし私達のテキストは、“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです”(へブル10:31)と言っています。 よって聖書は、現代人と、その斬新で無知な神の認識を否認しています。 聖書は明白に声高くこう語っています、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

現代人は、“彼らの目の前には、神に対する恐れがない”、しかし、彼は非常に誤っています―完全に誤っています。 ですから私は今晩、この数分間で道理にかなった考えで、正に、“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいこと”である事を証明します。 私は、あなた方の感情にアピールするような事はしません。 この説教は、“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいこと”について、論理的に、道理にかなった論拠を挙げます。

I. 最初に、それは、誰が神であるかによって証明される。

このテキストが、“生きた神”の手の中に陥ることは“恐ろしいこと”と言っている事に注目してください。 私達は皆、“死んだ”神がいることを知っています。 私の妻と一緒に、エジプトのカルナックの神殿を歩いて通り抜けました。 それは今日でさえも見事な建物で威風堂々としています。 しかし、その古代の神殿の壁に描かれた神の絵は、死んだ神のものである事をすべての人達は知っています。 リベラル主義のプロテスタント教派の“神”もまた死んだ神です。 エドワード・ジョン・カーネル博士(Dr. Edward John Carnell)は、フラー神学校の有名な教授でした。 彼はフラーの学長も務め、その後に教授となりました。 1959年にカーネル博士は、『The Case for Orthodox Theology』(オーソドックス神学論の実情)と題した本を書きました。 彼の本は、フラー神学校は1959年にはすでに衰えていた事を示唆しています。 彼の本は、ある種から他の種へと変化する進化論を教えています。 それは聖書の全ての箇所は、同等に神の霊感によるものでは無いと言う事を教えています。 それはキリストの千年王国前の再臨を非難しています。 そして、弱々しく、誤訳されたリベラル主義のRSV( Revised Standard Version)の聖書を普及させてもいます。

一年半後に、私はチャールズ・ウッドブリッジ博士(Dr. Charles Woodbridge)による説教を聞きました。 ウッドブリッジ博士は、カーネルの聖書に対するリベラル主義への非難をめぐって、フラー神学校の教職を去った直後でした。 ウッドブリッジ博士は、カーネルのリベラル主義的な見解に対して説教しました。 私は、彼のその説教を聞いて救われました。 私はその時、エドワード・ジョン・カーネルの“神”は、私の神ではない事を悟りました。 カーネル博士は、その数年後に、カリフォルニア州のオークランド市のとあるホテルで自殺しました。 彼の“神”は、私の神ではありませんでした! 私の神は、“生ける神”です。 

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

フラー神学校の教える死んだ神の手に陥ることは恐ろしいことではありません! その通り! ロブ・ベル(Rob Bell)は、フラー神学校を卒業しました―そして彼が、『Love Wins 』(HarperOne, 2011)を書いたその人です。 その本の中で彼は、永遠なる“地獄での裁き”の教義は、“誤った聖書的概念であり有害である”(p. viii)と言いました。 彼はそれをフラー神学校で学んだのです。 彼の神は、私の神ではありません。 彼の神は、“生ける神”ではないのです。

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

II. 二番めに、これは過去に神の成された事によって証明される。

 

生ける神の特質は、神の過去になされた裁きによって明示されます。 スポルジョンは、“旧約聖書の中で明示されているように、アブラハムの神は、アポロやバッカスのような[リベラル主義者による]近代の理想なる普遍的な父とは異なる”(C. H. Spurgeon, “Future Punishment a Fearful Thing”)と言いました。  

聖書における“生ける神”は、大洪水によってすべての罪なる人類を滅ぼされました。 聖書はこう語ります、 

“主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた”(創世記6:5, 7)。 

再び、使徒ペテロは、神はソドムとゴモラを滅ぼされた事を告げています。 そして神は、一晩でエジプト全土の最初に生まれた子供達を殺されました。 そして更に、神はパロと彼の全ての兵卒達を紅海の真っただ中で滅ぼされました。 また、ヒビ人、エブス人、そして他の国々は、神の命令をもって刀で倒れました。 モーセはこのように言いました、

“主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる”(申命記7:10)。

更にまた、聖書はこのように教えています、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

III. 三番目に、それはイエス御自身の言葉によって証明される。

聖書は、イエス・キリストは肉体を備えた神、人間の姿をされた神である事を教えています。 聖書の中で、誰一人として、主イエス・キリストが告げられたように、地獄に関してその様な恐るべき事を語った人はいないのは真実です。 これらが、イエスが永遠なる罰に関して告げられた幾つかの言葉です、

“たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい”(マタイ10:28)。

更に、イエスはこのように言われました。

“この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです(マタイ13:49-50)。

また、マタイによる福音書第22章で、イエスは神[王]が言われる事を告げられました、

“そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った”(マタイ22:13)。

そうしてマルコによる福音書第9章で、イエスは三回ほど、地獄がこのような場所である事を警告されました、

“そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません”(マルコ9:44)。

更に、

“そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません”(マルコ9:46)。

再び

“そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません”(マルコ9:48)。

次の聖句が事実であることを確認するように、私は地獄についてイエスが告げられた幾つかの聖句を挙げます、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

イエスは、ルカによる福音書第16章で、金持ちとラザロの話を挙げて、そのことを非常に明白にされました。 金持ちが死に、

“ハデスで苦しみながら目を上げると”(ルカ16:23)。

そして再び、イエスは金持ちがこのように叫んで言った事を告げられました、

“私はこの炎の中で、苦しくてたまりません” (ルカ16:24)。

イエスは優しく、寛大で、そして愛情に満ちた方であった事を、私はあなた方に知ってほしいと思います。 ですから、イエスは地獄についてその様な強くきつい警告をされたのです。 イエスが後に起る裁きを私達に警告されるのは、哀れみと愛によるものであったのです、なぜなら、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

IV.  四番目に、それは、罪人の目覚めた良心によって証明される。

大多数の人々は、神の裁きについて聖書が警告している事を拒否しています。 彼らは神の過去の裁きについて語る聖書の言葉をも拒否しています。 そして、彼らは神の裁きについてイエス・キリストが告げられている事をも拒否しているのです。 

生まれながらの状態の人々は、全ての証明と警告を拒否している事は真実です。 神の御霊が来て、彼らの良心が目覚め始めるまで、彼らに変化は無いでしょう! その時まで、罪人の良心は適切には働きません。 聖書はこのように告げています。

“それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、・・・”(テモテ第一4:2)。

罪は彼らの良心を何度も何度も焼きつけました。 それが何度も深く焼きつけられ、今やそれは瘢痕で覆われたように、適切に作用しなくなったのです。 

従って、彼らは、自らの罪に対して弁明をするのす。 彼らは、心理学的そして社会学的な口実の背後に隠れているのです。 彼らは、自分達の罪に対して、自分達の両親を責めます。 彼らは自分達の罪に対して、彼らの周りの環境を責めます。 彼らは裁きの場で、神の書物に記録されているひどい罪から免れようと、考えつく限りの口実を得ようとしているのです。   

しかし、もし神が彼らを選ばれているなら、神は彼らの罪を悟らせる為に聖霊を送られるでしょう。 そうして神の御霊は、“世にその誤りを認めさせます”(ヨハネ16:8)。 そうして彼らは、今朝私が引用した若い女性のように感じ始めるのです。 彼女はこのように言いました。 自分の罪は、

それらの罪は私を苦しませ、それらの思いから逃れる事が出来ませんでした。“何とも、自分はその様な罪を犯してこれたのか?・・・と私は感じ始めました。・・・全てをご覧になられる神、すなわち、私の思いともくろみを知っておられる神、私が成した全て、教会での奉仕さえもが、自己本位なる罪によるものであった事を知っておられた神の御前に自分が下劣な生物のように感じました。教会へ行くたびに、私は清いクリスチャンの間の一人のらい病患者のように感じました。・・・私は、キリストに対して無情な反感を抱いていました。

私は、不信者の人達が、その様な陰気な思いは異常であり不自然であると思っているを知っています。 ある意味においては、彼らは正しいです。 “自然”で“ノーマル”な思いの状態では、人々はその様に決して感じません。 聖書は、“生まれつきの人”は罪に気がつかない、と言っています。 その様な人を目覚めさせるには、神業を要するのです! 罪を悟るという事は、神の恵みが心を開き、何とあなた方は罪深いかを自覚させて下さる時のみに起こるのです。 ジョン・ニュートンによる賛美歌“アメイジング・グレイス”の歌詞で、彼は、“私の心に恐れるよう思い知らせたのは、神の恵みであった(英語からの直訳)”と言っています。 リバイバル時のクリスチャンはそれを、“覚醒”と呼んでいます。 あなた方が心の邪悪さに目覚める時、あなた方の良心はこれに同意するでしょう、 

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

V. 最後に、それは罪の報いから私達を救う為のキリストの苦悩によって証明される。

偉大なスポルジョンは、“救い主の苦悩は、想像以上に激しいものであった。 神にとって、親愛なる御子の血が流される事、そして彼の死による以外に、我々が逃れる道はない事、それほどに、[ 罪]は恐ろしく・・・邪悪であったに違いない。 もしあなた方は地獄を軽率に見なすならば、あなた方は十字架をも軽率に見なすであろう。 もしあなた方が、失われた魂の苦悩を軽率に見なすならば、その苦悩からあなた方を救われる救い主に関しても軽率に見なすであろう”(C. H. Spurgeon, “Future Punishment a Fearful Thing,” Metropolitan Tabernacle Pulpit, number 682)。

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです”(ヘブル10:31)。

それは正に、イエスがあなた方を永遠なる罰から救われる為に、成された事ではありませんか? あなた方の身代わりとなって、十字架で恐ろしい裁きをイエスは負われたのではありませんか? 神は、あなた方の罪の為に、あなた方の身代わりとして、イエスを罰せられたのではありませんか? 罪人の身代わりとなられたキリストに関して、この偉大な御言について考えてください。 

“彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら”(イザヤ53:10)。

私達の罪の為に、イエスを供え物とするように、彼を“砕いて”そして“痛めること”は、神の御心だったのです。

これが、“なだめの供え物”の教義です。リフォメイション・スタディ・バイブルは、“十字架が神をなだめた。それは、神の怒りを取り消した・・・キリストの苦しみによって、彼は私達の身元を引き受け、私達に下るべき裁きを耐えてくださったのである、という事である”と書いています(p. 1617)。ジョン・パイパー(John Piper)は、キリストが私達の罪に対する“神の怒りを身に受けて下さった”と言いました。それは、他の何よりも強固であり、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

イエスは、ゲツセマネの園で神の手に陥り始めました。 神は、イエスを、あなた方の罪の重荷の為に―そして、全ての彼の民の罪の為に砕かれました。 それはあまりにもひどく、イエスは、大きな血のしずくの“ように”汗を流されました。 神は、イエスをあまりにも強固に罰せられた為に、イエスはゲツセマネの園でほぼ死に直面されました。 そうして、“神の定めた計画と神の予知とによって”(使徒2:23)、イエスは死に至るほどむち打たれ、神の怒りをなだめる為に、そして神の恐ろしい手に陥る事からあなた方を救う為に―手と足に釘が打ち抜かれ―神によって苦痛を与えられました。 神は、あなた方の身代わりとなって死ぬ為に、イエスを“送られました”。 聖書はこう語っています、

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである” (ヨハネ3:16)。

神はその様になさらなければならなかったのです、なぜなら、罪人の刑罰を償う方法はそれ以外に無かったからです。 

彼らがイエスの顔を打った時、彼らがイエスのひげをむしり抜いた時、彼らがイエスの背中を血まみれになるまでむち打った時、彼らがイエスの手足に釘を打ち通した時の、イエスの受けられた一つ一つの苦痛、キリストの受けられたそれぞれの苦痛は、あなた方に下る代わりに、キリストに下された神の怒りだったのです! それが神の怒りのなだめの供え物なのです! 最近の賛美歌はこのように言い表しています、

イエスが十字架で死なれた時、
   神の怒りは満たされた;
彼に置かれた全ての罪の為、
   今、キリストの死により、私は生きる
(“In Christ Alone” by Keith Getty and Stewart Townend, 2001).

ある一人の女の子が、“キリストの受難”の映画を見て、“イエスに彼らが成した事は、何ともひどかった”と言うのを私は耳にしました。 しかしそれは、正しくありません。 実際は、がイエスに成された事は、とてつもない事だったのです! 神はイエスを恐ろしいほどに罰せられました―なぜなら、あなた方の罪に対する神の怒りを“和らげる”―怒りを静める―為には、あなた方に代えてイエスに怒りを向ける以外、他に方法は無かったのです。 そうです、

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです” (ヘブル10:31)。

それは、私達の罪を償う為に、神がイエスに注がれた罰によって明白にされます。 私が引用している若い女性はこのように言い表しています。

私が以前常にした様な、自分自身を見つめ、自分のフィーリングを確かめる事[をしないで]、私は信仰を通してキリストを見つめました。そこにキリストはおられました!生きておられるキリスト!彼は私を救ってくださいました。キリストは、私の罪を彼の尊い血でもって完全に浸され;彼は私の罪の重荷を取り去ってくださいました!・・・私の罪の前科は彼ご自身の血によって“無罪”と証印されました。・・・私は今、全ての、特に私のように苦しんでいる人達が、イエスによる許しを体験する事が出来るように望みます!イエスは私の罪に対する非難を容認してくださいました。イエスは全てを償ってくださいました!

そうです! アァメン! 古き讃美歌が歌っているように、

我に何の 勲(いさお)しあらん
   ただ主の血に 清くせらる
主によりて 贖(あがな)わる
   我が身の幸(さち)は みな主にあり
死の床より 起くるその日
   勇み歌わん 主の御勲
主によりて 贖(あがな)わる
   我が身の幸(さち)は みな主にあり
(『弱き者よ』“Jesus Paid It All” by Elvina M. Hall, 1820-1899).

真のクリスチャンになる事に興味がありますか? もし私達と話をし、一緒に祈りをあげたいのでしたら、今、席を立ってこの集会所の後方へ出て行ってください。 あなた方の相談にのり、祈りに導くようにケイガン先生が他の部屋へ案内します。 チャン先生、誰かがイエスを信頼するようお祈りしてください。 アァメン。

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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これらの説教文書はコピー権で守られていませんので、ハイマーズ博士の許可無く使用
できますが、ハイマーズ博士の全てのビデオメッセージはコピー権で守られており、許
可無く複製・使用はできません。

アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:へブル人への手紙第10章28-31節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“What Will You Say Then?” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

要 綱

神の裁き‐恐ろしき事

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです”
(へブル人への手紙第10章31節、新改訳)。

(ローマ人への手紙第3章18節)

I.   最初に、それは、誰が神であるかによって証明される。
へブル人への手紙10:31; ヨハネの手紙第一1:7。

II.  二番目に、これは過去に神の成された事によって証明される。
創世記6:5, 7; 申命記7:10。

III. 三番目に、それはイエス御自身の言葉によって証明される。
マタイの福音書10:28;13:49-50;22:13;
マルコの福音書9:44, 46, 48;ルカの福音書16:23, 24。

IV.  四番目に、それは、罪人の目覚めた良心によって証明される。
テモテへの手紙第一4:2; ヨハネの福音書16:8。

V.   最後に、それは罪の報いから私達を救う為のキリストの苦悩によって証明される。 イザヤ書53:10; 使徒の働き2:23; ヨハネの福音書3:16。