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まことなる回心の典型、アブラハム

(創世記からの説教、その六十二)

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

ABRAHAM – A TYPE OF REAL CONVERSION
(SERMON #62 ON THE BOOK OF GENESIS)

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年7月3日、主の日の晩の説教

“時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい”
(創世記第12章 1節)。

“アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた”
(創世記第15章6節)。

“アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ”(創世記第17章1節)。

シンプソン博士(Dr. A. B. Simpson 、1843-1919)は、“アブラハムの信仰は、正に・・・あらゆる時代における信仰の典型である。 それゆえ、イスラエル民族の祖先は、‘信じて義とされるに至るすべての人の父’、ローマ人への手紙第4章11節、と称した”(A. B. Simpson, D.D., The Christ in the Bible Commentary: Old Testament, Wing Spread Publishers, 2009 reprint, p. 78)と書いています。

この点に関して、私はシンプソン博士に同意します。 アブラハムは、“あらゆる時代における信仰の典型[主要なる典型で模範]”です。 使徒パウロは、“われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々”(ローマ人への手紙第4章 12節)について語っています。 それが今晩の私の主題“まことなる回心の典型、アブラハム”です。 “信仰の足跡”というのは、スポルジョンが述べた“我々は段階によって信仰に至る・・・通常我々は行程によって信仰に達する”(C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Pilgrim Publications, 1992 reprint, p. 57)という事です。

この説教で、私は、イスラエル民族の祖先アブラハムのまことの回心を表す創世記からの三つの主なテキストを取り挙げます。

I. 最初に、アブラハムへの神の招き。

最初のテキストを再び開いて、それを読み上げて下さい。 

“時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい” (創世記第12章1節).

神はアブラムに、“カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』”(使徒行伝第7章2-3節)。

神は、アブラムを、カルデヤのウルの邪悪な異端の偶像崇拝から呼び出されました。 しかしアブラムは神に完全に従いませんでした。 創世記第12章1節は、“時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい”(創世記第12章1節)と書いています。 しかしアブラムは完全には従いませんでした。 彼はウルを出て行きましたが、偶像崇拝者である彼の父を離れませんでした。 そうせずに、彼はテラと彼の甥ロトを連れて行きました。 そしてカナンには行かず、彼はハランで留まり、彼の父が死ぬまでそこに住み着きました(創世記第11章31-32節参照)。 アーサー・ピンク(Arthur W. Pink)は、“アブラムへの神の招きは、信仰生活の始まり時点を表している。 最初の必要条件は、この世からの分離である。 ・・・アブラハムが[神の]招きに完全に服従する以前には、何の啓示も受けているような彼の記録はない。 ・・・俗世からの完全な分離があるまで、神との[キリストを通しての]親交は不可能である”(Arthur W. Pink, Gleanings in Genesis, Moody Press, 1981 edition, pp. 141, 143, 144)と書いています。

何ともそれは今日、私達に通用する模範ではないでしょうか! 天路歴程の中でジョン・バニヤンは、アブラムのように天命を受けたけれども、キリストによる救いに向かう巡礼の為に、“破壊の町”、そして彼の家庭を去らなかった一人の不信者について書いています。  

神は、“暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった”(ペテロの第一の手紙第2章9節)。 “世を友とするのは、神への敵対である”(ヤコブの手紙第4章 4節)。 “だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、・・・わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」”(コリント人への第二の手紙第6章17-18節)。 当然これは、修道院に入るとか、あるいはこの世と全く縁を切るという意味ではありません。 イエスはこのように言われました。

“わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります”
       (ヨハネによる福音書第17章15節)。

私達は何度も、若者達がアブラムのようにためらっているのを見ます。 彼らは、週日は多くの友人と共にし、週末はクリスチャンの友人達と共にするような、二つの生き方を望んでいます。 そうして彼らはなぜ不信者として留まっているのか不思議に思っているのです! その理由は簡単です。 彼は、ファニー・クロスビー(1820-1915)に習って“イエスのみを我に(Take the world, but give me Jesus)”と言わなければなりません。 その賛美歌を歌って下さい!

この世ではなく、イエスを我に与えよ、
   すべてのこの世の歓楽でなく、その御名を、
彼の御愛はとわに続き、
   永遠なる月日に、変わることなく・・・。
(“Take the World, But Give Me Jesus” by Fanny Crosby, 1820-1915).

あなたに、そのような態度が無ければなりません、そうでなければ決してあなたは救われないでしょう。 “イエスのみを我に”です!

イエスは、“招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない”(マタイによる福音書第22章14節)と言われました。 アブラムのように、実際招かれた人達のみが、“選ばれた種族、祭司の国、聖なる民、神につける民”となり、“それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである”(ペテロの第一の手紙第2章9節)。 “多くの”人にとって、神の招きは無視されるのです。 “招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない”(マタイによる福音書第22章14節)。 ピンク博士が述べたように、“アブラムが[神の]招きに完全に服従する以前には、何の啓示も受けているような彼の記録はない”(同著、p. 143)。

II. 次に、アブラハムの義。

二番めのテキストである創世記第15章6節を開いて下さい。 起立してそれを読み上げてください。

“アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた”
       (創世記第15章6節)。

着席してください。このような短い説教では、アブラハムの人生について詳しく伝える時間はありません。 私は、“われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡”を示す為に、創世記の中の三つの最も重要な聖句だけを取り上げます。

ここ創世記第15章 6節で、私達はアブラムが義とされたその時を理解します。 これは非常に重要な聖句です。  それは、新約聖書のローマ人への手紙第4章3節、ガラテヤ人への手紙第3章 6節、そしてヤコブの手紙第2章 23節と、三回引用されています。

多くの注解者は、アブラムは第5節で約束を信じた事によって義とされたと言っています。 しかしアブラムは創世記第15章6節のずいぶん以前から神の招きに従うほど、その約束を信じました。 その理由としてヘブル人への手紙第11章8節で、 

“信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時[彼はまだ救われていなかったけれども]、それに従い、行く先を知らないで出て行った” (ヘブル人への手紙第11章8節).

しかし、創世記第15章6節で新たな事を告げています。 それ以前から、アブラムは神の存在を信じていました、そしてわずかな信仰によって、もたつきながらも主に服従しました。 それをスポルジョンは、“信仰以前の信仰”と呼んでいます。 それは人が実際再生され、そして回心する以前のひらめき、または解明という意味です。

しかし且つ、創世記第15章6節では、新たな事が書かれています。 アブラムは約束を信じただけではなく、更に重要とされる、“アブラムは主を信じた”(創世記第15章6節)のです。 彼は約束を信じただけではなかったのです!  いいえそうではありません! “アブラムは主を信じた”のです。 カイル(C. F.Keil)はそのへブル語を、“彼はエホバを信じた、主はこれを彼の義と認められた”と訳しています。 カイル博士はまた、“アブラムは神の告げられた事に同意しただけではなく、一人の方への堅固な、個人的な、自己を手渡すほどの拠りどころとして、実際に主を信頼した・・・‘主に信頼する事’、彼を信頼する事”とも書いています(C. F. Keil, Ph.D., Commentary on the Old Testament in Ten Volumes, William B. Eerdmans Publishing Company, 1973 reprint, volume I, p. 212)。

神について、もしくはキリストについての事柄を信じるだけでは十分ではありません。 あなたは、神の御前に義とされる為に、実際にキリスト御自身を信じなくではなりません。 ローマ人への手紙第4章の聖句に挙げられているように、

“なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである”
       (ローマ人への手紙第4章3-5節)。

あなたは、“不信心な者を義とするかたを”信じる時、あなたの信仰が、“義と認められるのである”(ローマ人への手紙第4章5節)。

これが、その時にアブラムの成した事です。 しかし、それ以前ではありません。 なぜなら創世記第15章18節で、私達は“その日[彼が主を信じたその日]、主はアブラムと契約を結んで”と理解するからです。 

ヨハネによる福音書第3章18節で、“彼信じる者は、さばかれない”と書かれています。 “を”と訳されたギリシャ語は“eis”です。 それは“場所あるいは物事の中への動き”(Zodhiates)という意味です。 あなたの信仰は天の神の御座におられるイエスへと動かされなければなりません。 更に聖書は、“主イエス信じなさい。 そうしたら、あなたも・・・救われます”(使徒行伝第16章31節)と書いています。 ギリシャ語の“を”と訳された言語は“epi”です。 それは、“に”という意味です。 ここでのアイディアは、あなたがイエスに身を投げるという意味です。 文字通り“主イエス信じなさい。 そうしたら、あなたも・・・救われます”(使徒行伝第16章31節)。 それが、アブラムがその日に成したことです! “アブラムは主を信じた。 主はこれを彼の義と認められた” (創世記第15章6節)のです。

我が信仰は安息の地をみつけたり、
   術や信条にではなく。
我はとわに生きる方を信頼し、
   我がためになされた彼の苦難は、弁護し・・・。
(“No Other Plea” by Lidie H. Edmunds, 1851-1920).

私はジョン・マッカーサー博士の“御子の具現化”とイエスの御血に対する考え方には反対しますが、創世記第15章6節の彼の次の見解には同意します。 彼は言いました、アブラハムが“主を信じた”とき、“アブラムは信仰により新生[生まれ変わった]された!”(The MacArthur Study Bible, Word Bibles, 1997, p. 36; note on Genesis 15:6) 。 これに関して彼はまったく正しいです! しかし、アブラムに関して私たちの創世記のテキストからもう一つの点を考慮します。

III. 最後に、アブラハムの神聖化。

神は、間をおくことなくアブラムを呼ばれました。 神はアブラムを再生され義とされました。 そして神は、アブラムに再び“現れ”て、神聖な生活を送るよう彼を呼びました。 起立して創世記第17章1節を声を上げて読んでください。

“アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ”(創世記第17章1節)。

着席してください。 スポルジョンはこの創世記第17章1節について次のような説明をしています、

      われわれは、アブラムがカルデヤのウルから離れるよう、そしてカナンの主のもとに離れるよう呼ばわれたときをもって彼の人生の注解を[始める]。われわれは、彼が神を信じたとき、彼の義をみ、そして、われわれは同じ主題を次の章にみる・・・創世記第17章に、われわれは、主のご使用のためにあう彼の主への神聖化をみる・・・。すべての間をおかない呼ばわりは義とされ、すべて義とされたものは聖霊により神聖化され・・・。
       これらの祝福はどんな順序で起こるのか。もしわれわれが神聖化あるいは献身ということを話すならば、それは最初に起こるものではなく、飛び石で到達する前の高尚のようなものである。人が、神の御霊が呼ばわれる前に、神に献身することは無意味である。彼らは、“あなた方は生まれ変わらなければならない”という言葉が何を意味するのかを習わなければならない。人が聖霊によって霊的な生活に導かれるまでは、彼らが話す、神に仕えるという言葉は、ヨシュアが言った、“あなた方は神に仕えることはできない”という言葉がその答えになるであろう。 私は神聖について話すが、それは最初のことではない。 二番目のことでもない。 なぜなら、人はキリスト・イエスへの信仰によって義とされなければならない、さもなければその人はすべての真の神聖化の根である恵みを持つことは無い。なぜなら、神聖であることは、イエス・キリストにおける信仰から成長するからだ。神聖は花ではなく根であることを覚えなさい。それは救う神聖ではなく、神聖にする救いなのです。人は自分の神聖さゆえに救われるのではなく、すでに救われたので神聖になるのです・・・神への神聖化は、呼ばわれ義とされた後に続く(C. H. Spurgeon, “Consecration to God – Illustrated by Abraham’s Circumcision,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1976 reprint, volume XIV, pp. 685-686; on Genesis 17:1-2)。

誤った回心をもつ人は、“神の御前に・・・完全に[真っ直ぐに、真摯に、スコーフィルド]歩くこと”はできません。 遅かれ早かれ、その人はまことの回心を経験しなかったことが明るみにでます。 間をおくことなく呼ばわれたひとたちだけが、キリストとの真の遭遇によって義とされ、神の御前に歩くことができ、神の恵みにより、人生を通して神のために生きてゆくことができるひととなるのです。 自分の“証”で“正しいことば”だけを語るひとたちは、実際には離れていき、名ばかりのクリスチャンになるか、それよりもひどい状態になるのです。 “正しいことば”を習うのを止めなさい! “正しいフィーリング”を持とうとすることさえ止めなさい。 “正しい”ことばと“正しい”フィーリングはあなたを救うことはできません! 決して! イエスその方を求めなさい! イエスその方のみが、あなたを義とすることができ、あなたがクリスチャンとして生活する恵みを与えられます。 ローマ人への手紙第5章1-5節で、使徒パウロはそのことを誰よりも明確にしました。

“このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからであるそして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである”
       (ローマ人への手紙第5章1-5節)。

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第4篇1-5節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“No Other Plea” (by Lidie H. Edmunds, 1851-1920).

要 綱

まことなる回心の典型、アブラハム

(創世記からの説教、その六十二)

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい”
(創世記第12章 1節)。

“アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた”
(創世記第15章6節)。

“アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ”(創世記第17章1節)。

(ローマ人への手紙第4章11, 12節)

I. 最初に、アブラハムへの神の招き。
創世記第12章1節;使徒行伝第7章2-3節;
ペテロの第一の手紙第2章9節;ヤコブの手紙第4章4節;
コリント人への第二の手紙第6章17-18節;
ヨハネによる福音書第17章15節;マタイによる福音書第22章14節。

II. 次に、アブラハムの義。 創世記第15章6節;
ローマ人への手紙第4章12節;へブル人への手紙第11章8節;
ローマ人への手紙第4章3-5節;創世記第15章18節;
ヨハネによる福音書第3章18節;使徒行伝第15章6節。

III. 最後に、アブラハムの神聖化。
創世記第17章1節;ローマ人への手紙第5章1-5節。