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堕落した人の破滅そして再生

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

ON THE RUIN AND REGENERATION OF FALLEN MAN

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年3月6日、主の日の朝の説教

“肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない”(ヨハネによる福音書第3章6-7節)。

“肉”はアダムから出てきました。 新生は神の御霊から下されました。 しかしなぜ私達は新生が必要なのでしょうか? その質問は、私達が人間の堕落、そして彼の現在の堕落した、罪人としての状態を理解しないでは適切にその質問に答える事は出来ません。 この説教はこれらの主題に関して聖書が教えている事を明記します。  多くの人々は、最初に彼らの邪悪な罪を感じない限り新生の必要性を感じ始めないでしょう。 ですから聖書は私達に、堕落と人の生まれもった状態を告げているのです。

I. 最初に、人の本来の状態。

最初の男と女は聖なる者として創造されました、そしてしばらくの間、罪無くして神に仕えました。

“神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された”(創世記第1章27節)。

人は神の“かたち”に創造されました。 それは、人が神の様に創造されたという意味です。 神は霊です。 人の魂は霊です。 霊の本質的な特質は、知性(理性)、感性(善悪の判断力)、そして意志です。 チャールズ・ホッジ博士は、“神は霊である。 霊の本質的な特性は、理性、善悪の判断力、そして意志である。・・・御自分のかたちに人を創造された時、神は霊としての御自分の本性に属するそれらの特徴を彼に授けられた。・・・もしわれわれが神の様でなかったならば、我々は神を知ることは出来ないであろう。 我々は滅びる動物のようになるであろう”(Charles Hodge, Ph.D., Systematic Theology, Eerdmans, 1946, volume II, p. 97)。

本来の人は、そのように正義と神聖が宿っていたのです。 伝道の書第7章29節はこの“神は人を正しい者に創造された”ということを確証します。 これは更に、創世記第1章31節によっても示されています。

“神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった”。

“これは人をも含めている、そしてもし人が〔邪悪もしくは〕、道徳的に不完全であったならば、そ言葉は真実とならないであろう”(Henry C. Thiessen, Ph.D., Introductory Lectures on Systematic Theology, Eerdmans, 1949 edition, p. 221)。 シェッド(W. G. T. Shedd)は、人は神聖なものとして創造された、“神聖は無罪以上のものであり、・・・人は単に無罪であっただけでなく、確かに神聖であった。 人の再生は、神に似せて、義と真なる聖を備えた神にかたどって創造された。 ‘真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである’(エペソ人への手紙第4章24節)、(堕落以前の)彼の本来の状態への復帰である” (W. G. T. Shedd, Ph.D., Dogmatic Theology, Scribners, 1889, volume II, p. 96) 。 ジョン・ダッグ博士(Dr. John L. Dagg)は、どのくらい最初の(男と女)が、彼らの無罪と〔神聖〕なる本来の状態を保ったか、我々は知る方法は無い、しかし彼らはしばらくの間そのように保った事は、〔創世記で明白〕である。 神との自由な〔交流〕はあった・・・我々は、両親が彼らの創造者の手によって造られた時、彼らが留まった、聖なる、そして幸せな状態を想像するのは有益になるかもしれない。 そして我々がどこから堕落してきたかを、有益に、思い留めるであろう。 この主題に〔関して考える事〕は、〔最後の〕アダムなる〔キリストが授けてくださる〕復帰への恵み深い計画を〔受け入れるのに役立つ〕であろう“(John L. Dagg, D.D., A Manual of Theology, Southern Baptist Publication Society, 1858, pp. 141, 143-144)。

“聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった”
       (コリント人への第一の手紙第15章45節)。

最初のアダムは人類を罪に陥れた。 キリスト、すなわち“最後のアダム”は、御自分の民を罪から償う為に来られた。

II. 次に、人間の堕落。

最初の人は、神の律法に違反した、そして彼自身また彼の子孫に死をもたらした。 神の律法はその違反に対して、報い与えます。

“主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」”
    (創世記第2章16-17節)。

ダッグ博士は、“惑わされてはならない、神は侮られる方ではない。 彼は神に服従せず、神の支配を拒絶した;それゆえ神はそれをごらんになった。 アダムに〔下された〕服従の試みは、簡単であった;そして、まさにこの出来事が〔彼〕の罪を許しがたくした。 それは、彼の息子をいけにえにする事を要求された厳しい試練に耐えたアブラハムの信仰の偉大さを物語る;そしてそれは、アダムが容易にそれを避けることの出来た時に、犯したアダムの罪の偉大さをはっきりと示している”。 ダッグ博士は、“食べてはならない木の実を食べた事以上に、アダムによって犯された大いなる罪はありえなかったであろう”(Dagg,同著)。 彼は神に背を向け、蛇のいうことを聞き入れ 、神に屈せず立ち向い、自分自身の、そして彼のすべての子孫の魂を破壊した。

“このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである”
       (ローマ人への手紙第5章12節)。

“罪の支払う報酬は死である”(ローマ人への手紙第6章23節)。

“すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである”(ローマ人への手紙第 5章19節)。

1599年訳のジュネーブ・バイブルは、ローマ人への手紙第5章19節についてこのような補足説明をしています、“これらの二人〔アダムとキリスト〕は二つの・・・根本を整えている。 一人によって、本性による罪があらわれ、もう一人によって恵みによる義が他の人達の上に生じる。 それゆえに、われわれの祖先の道程をたどる事によって、罪がわれわれの中に入り込むのではなく、我々は彼から相続によって堕落を受けるのである”。

III. 三番目に、人の現在の状態。

ダッグ博士は、“我々の最初の両親からの不従順〔からの結果となる〕罪は、彼らを個人的に限定したのではなく、彼らの子孫へと更に〔彼らから受け継がれたのである〕。アダムは神のかたちに創造された。 しかし〔罪によって〕そのかたちが〔破壊された〕時、彼は自分にかたどった男の子を生んだ(創世記第5章3節)。 従って全ての〔アダムの〕子孫は、〔彼らの堕落した祖先〕をかたどって生まれたゆえに、そして性格だけではなく状態によって彼に似たのである”(Dagg, 同著, p. 150)。

したがって,全ての歳、そして国々の全ての人達は、神の律法に違反したのです。 なぜでしょうか? なぜなら、アダムの子孫として、“彼らは生まれながらの怒りの子”(エペソ人への手紙第2章3節)であるからです。

“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)。

“罪を犯さない人はない”(歴代志下第6章36節)。

“すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである”
     (ローマ人への手紙第3章9-19節)。

彼の現在の状態によって、アダムからの子孫として、人は現在“罪の下にあることを”(ローマ人への手紙第3章9節)、それは、ローマ人への手紙第3章9-19節によって明白に書かれているように、彼が罪によって支配されているのです。 使徒パウロが言っているように、人は“罪過によって死んでいる”(エペソ人への手紙 第2章5節)のです。

どうしたらアダムの堕落した子孫達は、罪の奴隷と堕落から救われることが出来るでしょうか? その答えは、“あなたがたは新しく生れなければならない”(ヨハネによる福音書第3章7節)です。 あなた方は最初に罪によって死んだアダムの子として生まれました。 現在、そして永遠の命を持つためには、あなた方は新しく生まれなければなりません。

再生はキリストが言われる、新しく生まれること(ヨハネによる福音書第3章3節)の神学的な言い方です。 初期の南部バプテスト教派神学者、ジョン・ダッグ博士(Dr. John L. Dagg、1794-1884)は、再生(新生)は“性格の変化”、“心の変化”を造り出すと書いています。 彼は“変化をもたらす事は非常にすばらしい事であり、その主題は、新しく造られた者と呼ばれている” (John L. Dagg, D.D., A Manual of Theology, Southern Baptist Publication Society, 1858, p. 277)と書いています。 そして、ダッグ博士は、このテキストを引用しています、

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
    (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

オックスフォード大学で教育を受けた有名な伝道師ジョージ・ホウィットフィールドは、第一大覚醒の際にウェールズの野外、イギリス、スコットランド、そしてアメリカで、大いなる群集に向かって、新生に関して説教しました。 22歳の若さで、彼が二番目に宣べた説教は、このテキストでした、そしてそれは1737年8月に出版されました。 私はここで、ホウィットフィールドの説教を(私自身のコメントを書き添えて)編集し短縮した、“再生”(George Whitefield, Sermons, Pietan Publications, 1994 edition, volume III, pp. 107-118)と題する彼の説教の改作を説教します。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
     (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

ホウィットフィールドは、再生(新生)の教義は、キリスト教のもっとも根本的な教義であると告げました。 それは、私達の救いが基づかれている主題です。 そしてそれは全ての教派の福音主義クリスチャン達が同意するポイントでもあります。 しかし、新生はまれにしか説教されておらず、多くの福音主義者達は、今日、それを体験していません。 多くの、クリスチャンと称する人達は、再生というようなものが実在するかどうかも聞いたことがありません。 したがって私達は、現在、ホウィットフィールドが説教をし始めた時と同じ哀れな状態にいるのです。

現在の教会の多くの人達は、聖書を信じていると言っているのは事実です。 しかしもしあなた方が彼らに、彼らがキリストを真に“主”と呼べる、もしくはキリストの御血によって救いの望みを得ることが出来る以前に、彼らは再生され、新らしく生まれ、心の奥底から新たにされたければならない、と彼らに告げるならば、彼らはニコデモのように、“どうしたらそれが可能でしょうか?”もしくはアテネ人のように、“このおしゃべりは何を言おうとしているのか”とわめくでしょう。 もし私達が教会員達に、彼らは失われている、彼らは再生されなければならない、と告げるならば、彼らのほとんどが、私達は奇妙な教えを説教していると考えるでしょう、なぜなら私達は彼らにキリストと新生を説教するからです!  多くの説教者自身が、彼らの説教壇で再生について説教されることを恐れています、なぜなら不信者の教会員達を失うことを恐れているからです、そしてそれらの説教者自身が再生を体験していないからです。 彼らに、そして、彼らの会衆の大部分の改心していない人達の会員達に、私達は使徒パウロと共に伝えなければなりません。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
    (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

しかしまた私達は、もし人がキリストにいないならば、彼は新しく造られた者ではなく、真のクリスチャンではなく、永遠なる地獄の火炎に向かっている失われた罪びとであることを告げなければなりません!

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
    (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

ホウィットフィールドの説教にしたがって、

IV. 四番目に、人がキリストにあることの必要性。

このテキストは、“キリストにあるならば”と言っています。 それはどういう意味でしょうか?  それは、あなた方がキリストに対して“決心をした”と言うことではありません。 それはあなた方が、“前に出て行き”、洗礼を受けた、と言う意味ではありません。 クリスチャンと称する何百万人という人達が洗礼を受けました、しかしキリストの内にいません! もしあなた方が“キリストの内に”いないならば、最後の裁きで、地獄の火炎へと投げ込まれるでしょう。 

“この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう”(マタイによる福音書第22章13節)。

“キリストにある”ということは、キリストへの外見的な告白以上のものです。 キリストあるという事は、十字架での彼の苦悩と死による特権を分かち合うという事です。 キリストにあるという事は、キリストに来て信仰を通して彼と霊的に結び付けられると言うことです。 キリストにあるという事は、“キリストと共に生かされ・・・共によみがえらされ、そしてキリストにあって、共に天上で座につかされ。・・・決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがない”(エペソ人への手紙第2章5, 6, 9節)。 もしあなた方がキリストに寄せ付けられているならば、あなた方は“キリストにある”のです、そしてあなた方は新しく造られた者なのです。 もしあなた方がキリストに寄せ付けられていないならば、あなた方はまだ失われた罪人なのです。

あなた方は新しく造られた者ではありません。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
    (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

V. 最後に、人が新しく造られた者であるという意味。

このテキストは、“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”(コリント人への第二の手紙第5章17節)と言っています。 ニコデモは考えも無く、新生についてそのように考えました。 彼はキリストに、“人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。 もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか”(ヨハネによる福音書第3章4節)と言いました。 もしそのようなことが可能であっても、それが新しく造られた者になる為にどのような何の役に立つでしょうか? “肉から生れる者は肉”(ヨハネによる福音書第3章6節)であるから、あなた方は、今のように同じ堕落した罪人となるでしょう。

いいえ、“新しく造られた者”と言うのは、あなた方の心が完全に変わらされたと言うことです。 スコーフィールド・バイブルの“creature (造られた者)”と言う言葉の次に記された解説の“r”は、ギリシャ語の“造られた者”を示しています。 “だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”。 彼は本質的には同じ人ですが、新しい心(彼の愛することと嫌うこと)、そして新しい思い(彼の考えること)がキリストにあって造られたのです。 ダビデはこのように祈りました。

“わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください” (詩篇 第51篇10節).

また、エゼキエル書で、神はこのように約束されました。

“わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える”
       (エゼキエル書第36章26節)。

それが再生なのです! それが新生なのです! それがあなた方を“新しく造られた者”とすることなのです!

新生について、罪人に説明することは簡単ではありません。 神があなた方に新生を認められない限り、あなた方は決してあなた方の罪に対する刑罰から逃れることは出来ません。 そしてあなた方は決して神の御国へ入ることは出来ないでしょう。 キリストは“よくよくあなたに言っておく。 だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない”(ヨハネによる福音書第3章 3節)と言われました。 ここに幾つかの使徒達の言葉による証を挙げました。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
     (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

新生の必要性を証するために、旧約聖書から多くの聖句を引用できるでしょう。 詩篇の作者達は、神に対して彼に“清いこころ”そして“うちに正しい霊を与えてください”と懇願しました(詩篇第51篇10節)ように、また、預言者達は人々に、彼らの神である主に立ち返るためには“清いこころ”が必要であると警告したように。

新約聖書では、キリストはヨハネによる福音書第3章3-8節の中で、新生について時間をかけて語っています。 キリストは、“あなたがたは新しく生れなければならない”(ヨハネによる福音書第3章7節)と語られ、新生の必要性を明白にしました。 使徒パウロは、再生(新生)に対して、私達は“恵みに”よらなければならない(エペソ人への手紙第2章5節)、“心の深みまで新たにされて”(エペソ人への手紙第4章23節)、そして、“わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである”(テトスへの手紙第3章5節)と彼は言っています。 もし聖書に何ら他の成句がないならば、このテキストは、あなた方は生まれ変わらなければならない、ことを証するのに十分ではないでしょうか!

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
     (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

これらすべての聖句は、真にこころを変える必要性を示しています!

ですが、私達の教会の数多くの人達は、このことを知りません。 これが、彼らの会話で説教や新生についてあまり語られない理由に違いありません。 キリストはこれらの人達について、“この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』”(マタイによる福音書第13章15節)と語っています。

もう一つの再生(新生)の必要性の証は、ひとの罪の中にいる完全なる堕落の状態です。 聖書はひとについて、“罪のうちに・・・みごもり”、“不義のなかに生れ” (詩篇第51篇5節)と言っています。 そして、“わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていない”(ローマ人への手紙第7章18節)、“肉につける者であって、罪の下に売られている”(ローマ人への手紙第7章14節)、そして、“肉の思いは神に敵するからである”(ローマ人への手紙第8章7節)と語っています。 また、“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)とも言っています。 再生されていない人達はそのような惨めな状態にいるので、その汚らしい、朽ちた、害された惨めな人が、変わる前に、聖なる清い神と共に生きることができるでしょうか? いいえ、こう考えたらどうでしょうか、光は闇と関係するでしょうか? キリストはサタンと共に生活するでしょうか? あなた方の失われた罪深い状態は、疑う余地無く、キリストにあって新しく造られなければなりません、そうでなければ、あなた方は決して神に対し平安を持つことは無く、神に行く望みもなく、死んだとき天国へ行くことも無いのです。 あなた方は、新しく造られなければなりません、そうでなければ、あなた方は自分の罪の中に死ぬでしょう。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
      (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

多くの人達は、罪深い思いと心をもって天国へ行け、死んだときすぐに楽しめる、と思っています。 もし真の天国がイスラム教で教える、多くの罪深い楽しみを持っていけるパラダイスであるならば、彼らはそうするでしょう。 しかし、真の天国の楽しみは唯一霊的なもので、清くないものはそこに入ることは無いのです。 あなた方が変わる必要があるのです。 あなた方が、そのような天上の楽しみを持つことができるためには、あなた方は、自分が生まれながらに堕落していると状態を改める経験をもたなければなりません。 それゆえ、キリストは、“だれでも新しく生れなければ、・・・神の国にはいることはできない”(ヨハネによる福音書第3章3, 5節)と言われたのです。 新生により、あなた方の心が変わらない限り、“神の国にはいることはできない”(ヨハネによる福音書第3章5節)と言われたのです。

耳の聞こえない人に、もっとも美しい音楽がもたらす楽しみとは何でしょうか? 目の見えない人に、もっとも美しい絵画がもたらす楽しみとは何でしょうか? 味覚を感じない人は、豪華な料理を楽しめるでしょうか? 泥だらけの汚い人に、美しい庭園が似合うでしょうか? 間違いなく違います! これらの祝福を楽しむためには、各々その生まれた最初からの状態を変えられなければなりません。 それはあなたの方の魂に対しても言えるのです。 あなた方が死んだ後では、魂は変えられません。 あなた方の魂が、この世で神の御心にかなうのでしたら、天国で神と共に楽しむでしょう。 しかし、もしあなた方が神に対し楽しみをもたないならば、そして、今教会にいることを好まないならば、あなた方が死ぬとき何ら変わらないでしょう。 もしあなた方が変わらず教会にいることを疎うならば、あなた方が死ぬとき天国でも楽しみをもたないでしょう。 もしあなた方が生まれ変わらないならば、あなた方にとって唯一の場所があります、それは地獄です。

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
     (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

新生は神の御霊によって起こされます。 イエスは言われました、“だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない”(ヨハネによる福音書第3章5節)。 私の妻のように、瞬時に回心する人達もいますが、御霊が新生を起こす通常の方法は、ひとに、母親に知られたくないような大きな罪を犯したことをそのひとに考えさせます。 母親に知られたくないほどの罪ですから、神に対してはなおさらです! この大きな罪を考えさせられるのですから、そのひとは人生で犯した他の罪も考え始めます。 そうしてそのひとは、“もし自分が生まれながらに罪びとでなかったならば、どうしてそのような罪を犯しであろうか?”と考えさせられます。 そうして御霊はそのひとに、事実彼は生まれながらにして罪びとであり、心は罪深い思いで満ちていることを知らせます。 そのひとは、自らの生き方と思いを変えて、よりよい人間になろうと努力をすることでしょう。 しかし、どんなに努力をしても自分のこころを変えることができないことを見出すでしょう。 彼は自分の罪に対してどうすることもできない自分を見出すでしょう。 あるひとは、ルター、ジョン・バニヤン、ホイットフィールド、そして他の多くの人達がリバイバルの際にしたように、罪に対して泣き始めるかもしれません。 そのひとは、“わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか”(ローマ人への手紙第7章24節)と泣き叫ぶでしょう。 そして、神の御霊はそのひとが生まれ変わる準備をされているのです。 そのひとは、キリストの必要性を考えさせられるのです。 そのひとは、キリスト以外には彼を変えることのできる人はいない、と考えさせられるのです。 そして、キリストの御血のみが彼の罪を清めらることができると感じ始めるのです。 そうして、彼は自分はキリストに来れると考えるのです。 イエスは言われました、“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう”(マタイによる福音書第11章28節)。 そのひとは、神の恵みでもってそうすることができると分かるのです。 神の御霊はそのひとをキリストへ導くことができ、彼は生まれ変わるのです。 彼のこころは回心するのです。 彼はキリスト・イエスの中で、新しい創造物となるのです!

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である”
      (コリント人への第二の手紙第5章17節)。

その人は、ジョン・ニュートンの賛美歌を心を込めて歌えるのです、

驚くべき恵み! 何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる!
道を踏み外しさまよっていた私を 神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを 今は見出すことができる

神の恵みこそが 私の恐れる心を論し その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の 神の恵みのなんと尊いことか!
   (“Amazing Grace” by John Newton, 1725-1807).

三位一体である神、すなわち、父である神の恵みによって、御子であるキリストの死と彼の御血によって、そしてあなた方を罪の悟りに導く聖霊とによって、あなた方がすぐに生まれかわることを祈ります。 アーメン。

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ヨハネによる福音書第3章1-7節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Ye Must Be Born Again” (by William T. Sleeper, 1819-1904).

要 綱

堕落した人の破滅そして再生

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない”(ヨハネによる福音書第3章6-7節)。

I.   最初に、人の本来の状態。創世記第1章27節;伝道の書第7章29節;
創世記第1章31節;エペソ人への手紙第4章24節;
コリント人への第一の手紙第15章45節。

II.  次に、人間の堕落。創世記第2章16-17節;ローマ人への手紙第5章12節;
ローマ人への手紙第6章23節;ローマ人への手紙第5章19節。

III. 三番目に、人の現在の状態。創世記第5章3節;エペソ人への手紙第2章3節;
第4章18節;歴代志下第6章36節;ローマ人への手紙第3章9-19節;
エペソ人への手紙第2章5節;ヨハネによる福音書第3章7節;
コリント人への第二の手紙第5章17節;ヨハネによる第一の手紙第1章7節。

IV. 四番目に、人がキリストにあることの必要性。マタイによる福音書第22章13節;
エペソ人への手紙第2章5, 6, 9節。

V.  最後に、人が新しく造られた者であるという意味。ヨハネによる福音書第3章4, 6節;
詩篇第51篇10節;エゼキエル書第36章26節;ヨハネによる福音書第3章3節;
詩篇第51篇10節;ヨハネによる福音書第3章3-8, 7節;
エペソ人への手紙第2章5節;第4章23節;テトスへの手紙第3章5節;
マタイによる福音書第13章15節;詩篇第51章5節;
ローマ人への手紙第7章18, 14節;第8章7節;エペソ人への手紙第4章18節;
ヨハネによる福音書第3章3, 5節;ローマ人への手紙第7章24節;
マタイによる福音書第11章28節。