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艱難を通して造りかえられる!

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

TRANSFORMED THROUGH TRIBULATION!

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2011年2月20日、主の日の晩の説教

“石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”(マタイによる福音書第13章20-21節)。

このメッセージは先週の日曜日の朝の説教“真の試練!”のパート2です。 試練の主題に関しての聖句から三つの思考を取り上げます。 レンスキ博士(Dr. R. C. H. Lenski)は、マタイによる福音書第13章20、21節は、教会へ来て説教を聞く人を表していると言っています。 “これは御言を聞くと、すぐに喜んでそれを受け入れ、彼[から]すばらしい結果を期待させる。 しかし、最初から何かが妥当でない:この人に‘根がない’からである”(R. C. H. Lenski, Th.D., The Interpretation of St. Matthew’s Gospel, Augsburg Publishing House, 1964 edition, p. 520; note on Matthew 13:20-21)。 これは教会へ来て説教を喜んで聞くが、教会に一時的に留まる人のことです。 すぐにこの人は感情を害し、つまずき、信仰を捨て、離れていき、“しばらく続くだけである”(マルコによる福音書第4章 17節)。 この人が教会を去っていく主な理由は、彼が“困難”を貫こうとしない事です。 

私達は、新約聖書で使われている言葉、“困難”の三箇所を見ることにします。 それら各聖句の中でのギリシャ語は、“thlipsis” です。 ストロング注解書(Strong’s Exhaustive Concordance)では、“thlipsis ”の言葉は、“困難、苦痛、苦難”( Strong #2347)を意味すると書かれています。 “困難”という言葉が現れている三つの聖句に注目してみましょう。

I. 最初に、困難によってつまずいてしまう人達。

21節を声を上げて読んで下さい。

“その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”
       (マタイによる福音書第13章21節)。

着席してください。

それらは、説教でキリストについて聞いた人達です。 彼らは初めて福音を聞き喜びます。 しかし彼らには“根がないので”(マルコによる福音書第4章17節)す。 ギル博士(Dr. Gill)は、“心中の働きがなく、[理論的なアイディア]そして、うわべだけの[感情]だけで、彼らの内に恵みなる根がない” (John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume I, p. 400; note on Mark 4:17)。 これらは“[キリストに]根ざし、建てられ”(コロサイ人への手紙第2章7節)ていない人々です。 ギル博士は、“彼自身に、もしくはキリストによって根がなく”(同著、note on Matthew 13:21)と書いています。 変えて言えば、このような人はキリストに来ておらず、回心していないのです。 彼は、教会での新しい友達ができ、賛美歌を歌い、説教を聞いて、感情的に“喜び”そして食事や親交を楽しんでいるのです。 しかし彼はイエスへの真の必要性をまったく感じた事がないのです。

そして時が経つと、彼は“困難”を感じてきます。“困難”という言葉は、“困難、苦痛、苦難”と意味するギリシャ語から来ている事を忘れてはなりません。 何かが起こると、それが彼にとって苦難になり、また困難を感じるさせます。 時には、彼らは実際“困難”もしくは“苦難”という言葉を用います。 彼らは、“集会に来るのに‘困難を感じる’”もしくは、“毎週来るのはあまりにも‘苦難’である”と言っています。 彼らがそのような困難を感じる時、それは彼らが直面する事を拒んでいるのです。 ですから、彼は、“しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”(マタイによる福音書第13章21節)のです。 ルカによる福音書は、“試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである”と書き添えています。 毎週教会に来る“困難”は、彼らに、教会を去るように仕向けます。

“同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”(マルコによる福音書第4章16-17節).

ギル博士は、“彼らはしばらくの間、福音を聞き、そして告白する”(同著、p. 400)と書いています。 キリストが彼らの心に根付いていないので、彼らは教会に長く留まらないのです。 彼らは生涯続く教会の会員となることは無いでしょう! 彼らは、スポルジョンが呼んでいる、“留まる所のない通りがかりの鳥”なのです。 彼らは、一時的のみに教会に留まるでしょう。なぜでしょうか?  なぜなら彼らは回心していないからです。 私はこの奉仕をほぼ53年間続けています。 年をとる毎に、教会を去っていくほとんどの人は、回心していない人であると自覚させられます。 使徒ヨハネは言いました、

“彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである”(ヨハネの第一の手紙第2章 19節)。

バーノン・マックギー博士は、ヨハネの第一の手紙第2章19節に関してこのように注解しています、

ヨハネは、人が真のクリスチャンであるかどうかを知る方法は、もし彼が神の子でないならば、ゆくゆく彼は[教会を]去っていくことである(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume V, p. 777; note on I John 2:19)。

教会へ来て、土曜日の伝道に出て行くようなのささいな“困難”が、彼を“つまずかせる”に十分な“困難”、そして“苦難”となるでしょう。 また彼をつまずかせ、そして彼が教会から去っていく原因となるでしょう。 困難はそれほど大いなるものである必要ではないのです。 ギル博士は、“些細な困難が彼らにやって来ると・・・そのような人はつまずき、[なぜなら彼らは]何かを犠牲にすることが我慢できず、何も耐える事が出来ないのである”(同著)。 ある中国人の女の子が2,3年前に教会を去って行きました。 なぜなら彼女にとって土曜日の午後に伝道に出て行く事は、“やりすぎ”だったからです。 もう一人の中国人の女の子も去っていきました、なぜなら彼女は、卒業にまったく必要ともしない科目を取りたいが為に教会を去って行きました。 彼女は、“ただそのクラスを取りたいのです”と言って出て行きました。 ある一人の中国人の若者は、彼のおじさんと夕食をしたいが為に去って行きました、彼はその食事を前の晩に問題なく変更する事が出来たのです! そのように彼は単に食事の日取りを変更する事よりも、教会を去っていく事を選んだのです!  ギル博士は、彼らは、“困難が彼らにやって来ると・・・そのような人はつまずき、[なぜなら彼らは]何かを犠牲にすることが我慢できず、何も耐える事が出来ないのである”と書いています。 それがあなた方の真の試練なのです!  聖書からあなた方が何を学んだかという事ではありません。 それは回心に関する質問に対してあなた方が何と答えるかではありません。 真の試練は、何があろうとも教会へ来続けますか? 日曜日の午前と午後の礼拝集会、そして土曜日の伝道活動に来続けますか? “御言のために困難や迫害が起ってくる”にかかわらず、教会へ来続けますか? あなた方が真に回心するまで教会に来続けますか、そうして生涯続く教会の会員となりますか? それが真の試練なのです!

II. 次に、困難を貫く人達は、神の御国へと入るであろう。

起立して使徒行伝第4章22節を読み上げて下さい。 

“弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った”(使徒行伝第14章22節)。

着席してください。

ここで“苦難”と訳されている言葉はマタイによる福音書第13章21節で見るギリシャ語と正に同じです。 使徒パウロは自分の体験から、クリスチャンの生涯には困難、苦痛、苦難がある事を理解していました。 

パウロはリストラの町で福音を説教したが為に、石で打たれました。 彼に敵対する者達は、“死んでしまったと思って”(使徒行伝第14章19節)、彼を町の外に放りました。 しかし神の恵みと御力により、“彼は起きあがって町にはいって行った。 そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた”(使徒行伝第14章20節)。 パウロがデルべに着いた時、彼はクリスチャンになりたがっている人達に “信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない”(使徒行伝第14章22節)と語りました。 “わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難[困難、苦悩、苦難]を”“経なければならない”とパウロは語りました。 ギル博士は、教会へ、そして回心へと入ることに対する困難は、“心中の堕落と不信、から、そしてサタンからの誘惑、そして人、更に友人、そして親戚からの悪口、そして侮辱などの外部から来るものである”(John Gill, D.D., ibid., volume II, p. 279; note on Acts 14:22)。

ですからキリストは、“はいるように努めなさい”(ルカによる福音書第13章24節)と言われたのです。 人が回心する時、心中に苦闘があります。 これは、“サタンからの誘惑”と“心中の堕落そして不信”によって起こるのです。 

通常、真の回心は簡単に来るものではないことを見出します。 サタンは常に近くにおり、心に誤った考えを起こさせ、努力する事を止めさせようとし、教会から出て行くようにさせ、あなた方には望みがないものと、もしくは、あなた方は“さほど悪くはない”から回心の必要ははないとささやき、またそのほかの誤った考えや誘惑を導入します。 そうして、彼ら自身の“心中の堕落、そして不信、”によるほとんどの人が貫く、困難、苦悩そして苦痛があります。 あなた方自身の心は非常に堕落しており、聖書は“自分の心を頼む者は愚かである”(箴言第28章26節)と言っています。 神があなた方の心に働かれる時、あなた方はおそらく、このように言ったダビデのように感じるでしょう。

“わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた”(詩篇第32篇3-4節)。

ダビデが罪を言い表わさなかった時、彼の骨はふるい衰えました。 彼は一日中苦しみうめきました。 正にこれは罪の意識を感じ、キリストに入ろうとする努力の苦悩の下で、神に対して苦闘している人の描写です! 第一大覚醒の間に、ジョナサン・エドワードは多くの人が罪の意識の下で嘆き、泣き叫んでいたのを見ました。 この状態は、現在中国で続いているリバイバルでしばしば起こっています。 何とも、神の御手があなた方の上に重く下されますように祈ります! 神があなた方の苦闘を通してキリストへと引き付けて下さいますように祈ります!   

グレシャム・メイシェン博士(Dr. J. Gresham Machen,)は、彼のランドマークとされる著作、Christianity and Liberalism(キリスト教と自由主義)の中でこのように書いています。

罪の意識を感じることなく、イエスが成された無比なる事の価値を認めることは出来ない。・・・そして罪の意識を感じることなくして、[イエスによる]贖いの福音は無意味な話である・・・罪の意識を感じる事は、自分自身の失われた状態の深い分別、[自分自身の良心の]失われた状態のイルミネーションを[与える]。・・・人がそのような体験を貫いた時、彼は、自分自身の以前の盲目差に驚かされる(J. Gresham Machen, Ph.D., Christianity and Liberalism, Eerdmans Publishing Company, 1990 reprint, pp. 105-106)。

罪の咎めによる“困難、苦悩、苦難”を通して、神があなた方を救い主イエス・キリストへと引き付けてくださるようお祈りします。 あなた方がキリストへと“狭い戸口からはいるように”(ルカによる福音書第13章24節)努めるよう祈ります。 神様があなた方に真の回心を授けてくださるようお祈りします!

III. 最後に、クリスチャンの生活の患難を貫く事によってかえられる人達。

起立して、ローマ人への手紙第5章3-5節を声を出して読んでください。

“それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである”(ローマ人への手紙第5章3-5節).

着席して下さい。 “患難”という言葉がここにもあります。 それはギリシャ語で“thlipsis”で、“困難、苦悩、苦難”を意味します。 ローマ人への手紙第3章5節のこの聖句で、すでに回心した人達に適用されます。 

クリスチャンとして生活する時、私達は苦しみをも喜ぶ事を学びます。 マックギー博士は、“言い換えれば、苦難は忍耐を生み出す事を知っているので、我々は苦難をも喜ぶ、忍耐は自動的に現れるものではない、そして忍耐は練達を、そして練達は希望を・・・言い換えれば、苦難によって、[クリスチャンの]生活の中の最上のものを生み出す” (J. Vernon McGee, Th.D., ibid., volume IV, p. 675; note on Romans 5:3-4)。 

試練と患難を通して、クリスチャンは忍耐強く、練達豊か、そして有望となって行きます。 そして聖霊によって神の愛が彼らの心に注がれるのです。 “困難、苦悩そして苦難”を貫く事によって、クリスチャンは“心を新たにすることによって、造りかえられ” るのです(ローマ人への手紙 第12章 2節)。

私が個人的に知っている偉大なクリスチャンの一人にウォンブラン牧師(Pastor Richard Wurmbrand / 1909-2001)。 彼は福音の言を説教したがため、ルーマニアの共産政権のもと14年間牢獄に監禁されました。 牢獄にいたある日、彼は、彼の妻もまた伝道をしたがために逮捕され牢獄に監禁されたことを知りました。 彼は言いました、“私は、妻が同じような苦難を経験していることを思わずにはいられなかった。 私は祈ろうと試みたが、私の思いはかなわなかった。 数日間私は誰一人として話をしなかった。 そうして、ある朝牢獄の中庭で、一人の年齢のいった牧師が笑みを浮かべているのをみた。 もしかしたら、彼は私の今の状態を助けてくれるかもしれないと思った。 私は彼に話しかけた。 その牧師には、私以上に悲しみを堪える理由があった。 彼の娘と息子は牢屋に入れられている。 クリスチャンで無いもう一人の息子が彼に入る。 彼の孫達学校から追放された。 しかし、その牧師は、私のように悲嘆にくれていない。 彼はここでの毎日を他の囚人を励ますために費やしている。 私は、‘そのような数々の苦難を経験して、どうしてそのようにいられるのか’と彼に聞いてみた。 彼は、‘喜び!にはいつも理由がある’と答えました。 ‘天国と私のこころの中には神がいる。 何か食べるものが今朝あった。 みなさい、太陽が輝いている! 多くの人達は私を愛してくれている。 あなたが喜ばなかった日は毎日、失われた日ですよ、リチャード。 その日は二度と来ないでしょう’と彼は言った。 [ウォンブランは言いました]私も、喜び始めた”(Imprisoned for Christ, Living Sacrifice Book Company, 2007, pages 91-92)。

世界中で起こっているクリスチャンに対する迫害を知りたい方は、ウォンブタン牧師が設立したwww.persecution.com, をご覧ください。 三年間を独房で、それ以外に12年間を牢獄で過ごし、その間拷問を受け、叩かれ、体中に生々しい傷を受けた後、ウォンブラン牧師は、多くのとき厳格な顔つきをするようになりました。 しかし、彼が笑みを浮かべるとき、私は、年老いた人で今までに見たことも無い美しい笑みをみました。 あなた方は、彼の笑みの中に、艱難は忍耐、経験、そして希望をつくりあげているのをみることでしょう。 神の愛は、聖霊により彼の心の中に焼きついているのです! 彼は、苦難を通して聖なる人へ造りかえられたのです!

私達の教会の執事三人全員、チャン医師、ケイガン先生、そしてグリフィス氏は、苦難を経験して神のひととなっています。 ケイガン先生は、しばしば私にウォンブラン牧師を思い起こさせます。 ケイガン先生もまたキリストのために苦難を経験してきました。 彼は、多くのとき厳格な顔つきをしていますが、すばらしい笑顔ももっています。 彼の笑みの中に、彼もまたキリストのために苦難を経験することによって聖なる人へ造りかえられているのをみるでしょう。

私がこの説教をする、とケイガン先生が聞いたとき、“艱難は選ばれたものにとっては肯定的だが、そうでないものにとっては否定的である”と彼は言いました。 艱難は選ばれていないものに困難を与え、教会から放れさせます。 しかし、真の回心のための苦悩や、クリスチャンとしての人生を送る上での試練を通って来るものは、苦難を通してキリストに喜びを持つ経験するのです! 彼らもまた艱難を通して造りかえられるのです! 起立してソングシートの8番の賛美歌を歌いましょう。

かって我はこの世の喜びを切望し、平安を求めたが、
   今では、最善を与えられる汝だけを求める。
我が祈りは、あぁキリストよ、汝をより愛すように、
   汝をより愛す、汝をより愛す!

悲しみと苦痛は、悲哀に任せよ、
   汝の伝え人は甘く、彼らの慎みは心地よい、
我と共に歌え、あぁキリストよ、汝をより愛すように
   汝をより愛す、汝をより愛す!
(“More Love to Thee” by Elizabeth P. Prentiss, 1818-1878).

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第5篇1-5節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“More Love to Thee” (by Elizabeth P. Prentiss, 1818-1878).

要 綱

艱難を通して造りかえられる!

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”(マタイによる福音書第13章20-21節)。

(マルコによる福音書第4章17節)

I.   最初に、困難によってつまずいてしまう人達。
マタイによる福音書第13章21節; マルコによる福音書第4篇17節;
コロサイ人への手紙第2章7節; ルカによる福音書第8章13節;
マルコによる福音書第4篇16-17節; ヨハネの第一の手紙第2章19節。

II.  次に、困難を貫く人達は、神の御国へと入るであろう 。
使徒行伝第14章22、19、20節; ルカによる福音書第13章24節;
箴言第28章26節; 詩篇第32篇3-4節。

III. 最後に、クリスチャンの生活の患難を貫く事によってかえられる人達。
ローマ人への手紙第5章3-5節;第12章2節。
ルカによる福音書第13章24節; 箴言第28章26節;
詩篇第32篇3-4節。