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殉教者の話

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

THE EXAMPLE OF THE MARTYRS
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年7月12日、主の日の晩の説教

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (マタイによる福音書第16章24節).

キリストは彼の弟子達に、“イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き・・・多くの苦しみを受け、殺され”(マタイによる福音書第16章21節)ることを話されました。 しかし、ペテロは彼をいさめてこう言いました“そんなことがあるはずはございません”(マタイによる福音書第16章22節)と。 “このことは決してあなたには起こらないでしょう”。 イエスはぺテルに振り向きこう言われました、

“イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」” (マタイによる福音書第16章23節)。

ヘンリー・モーリス博士は、“これは真にペテロを通して悪魔的説得を話すサタンであった。 普通の人はほとんど誰でも本能的に、キリストの購いの死と復活という考えから後ずさりする。 そして、サタンはそれを痛烈に拒絶する”と言いました(Henry M. Morris, Ph.D., The Defender’s Study Bible, World Publishers, 1995, note on Matthew 16:22)。

そうして、イエスは他の弟子達に振り向きました。 マルコは、イエスは群集にも話していたと言っています(マルコによる福音書第8章34節)。 そしてルカは、“(イエスは)みんなの者に言われた”(ルカによる福音書第9章23節)と伝えています。 ですから、イエスはその群集のすべての人達に語っていたのです。

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (マタイによる福音書第16章24節)。

ここで言っている“十字架”はキリストの十字架を指してはいません。 それはクリスチャンの十字架を言っているのです。 だれでもキリストについてきたいと思うならば、そのひとは“自分の十字架を負”はなければなりません。 マタイによる福音書第16章24-27節で、すべてのクリスチャンが背負うように告げられた十字架について、三つのことが分かります。

I. 最初に、クリスチャンの十字架は自己を捨てることである。

イエスがこのように語られたことに注意してください、

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (マタイによる福音書第16章24節)。

キリストは、これはすべての人への語りであり、限られた数人へのものではないことを明白にしました。 キリストは言いました、

“自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない”(ルカによる福音書第14章27節)。

今日、特にここ西洋では、二種類のクリスチャンがいることを聞きます―すなわち、大多数の名ばかりのクリスチャンと大変少ない数の弟子の二種類です。 彼らのすべては、自分は本当のクリスチャンであると一般には信じられています。 しかし、それは聖書に則ってはいないのです。 聖書では、すべてのクリスチャンは弟子であると述べられたいます。 使徒行伝にはこのように書かれています、

“・・・このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった” (使徒行伝第11章26節)。

これは、最初の世紀では、すべてのクリスチャンはキリストの弟子と見なされていたことを示しています。 使徒行伝では、クリスチャンと弟子との間には何ら隔たりはありませんでした。 もしあなたがクリスチャンであれば、あなたは弟子なのです。 もしあなたが彼の弟子でなければ、あなたはクリスチャンではないのです。 このことは、私達のテキストに大いなる光を注いでいます、

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (マタイによる福音書第16章24節)。

それはまた、ルカによる福音書第14章27節で、イエスが語られた事にも光を注いでいます、

“自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない” (ルカによる福音書第14章27節)。

賛美歌シートの17番目にある、この偉大な真実を謳い上げた、ライス博士の好みの賛美歌を歌いましょう。

イエスよ、我、十字架を負わん、
   全てを後にし、汝に従わん;
乏しく、嫌悪され、見捨てられしが、
   ここからは、汝は我がすべて。
全ての我が志を捨て、
   望みし、慕いし、汝の思いすべてを;
我はどんなにか豊かなりし、
   神と天国は、今だ我にあり!
(イエスよ、我、十字架を負わん“Jesus, I My Cross Have Taken”
   by Henry F. Lyte, 1793-1847).

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい ” (マタイによる福音書第16章24節)。

“イエスよ、我、十字架を負わん、全てを後にし、汝に従わん。” 自分を捨てる、何という呼びかけでしょうか! 誰にでも出来る事でしょうか? 初期のクリスチャンはそうしました! クリスチャンであり歴史家でもあるスカッフ博士(Dr. Schaff)は、こう言いました、

[ローマ帝国下の最初の数世紀に生きた]多くの人々は、人の受難という事に対して完全に無関心だった。彼らは拷問に対して好みと熱情をもっていた・・・非常な苦しみの、のた打ち回る光景を眺め・・・記録に残されている最も残酷な拷問の例えは・・・彼らの目の前で、闘技場の中で・・・繰り広げられた。我々は、赤く熱せられた鉄の鎖につながれたクリスチャンのことを本で知る、彼らの半分焼きただれた肉は、天への息詰まる雲の中で浮き上がる、また他の者は、鉄の鉤で骨の髄まで裂かれ・・・227人の回心者は一度に坑道に送られ、赤く熱せられた鉄で傷ついた腱の足を引きずり、片目を頭蓋骨から穿り出され、彼らは時間をかけて火破りにされ、何時間も苦しみの中で悶える。身体は骨から骨へと引き裂かれ、あるいは、熱した鉛をかけられ、血だらけになった身体へ塩と酢をかけられ、拷問は数日をかけて施行された。彼らの神聖なる主[キリスト]の愛のため、彼らの真実とそれを信ずるがために、たとえ一語が彼らをこの受難から解放したであろうが、老若男女、か弱い少女でさえ、ひるむことなくこれらの拷問に耐えた。後の時代の司祭達は、我々の殉教者の墓の前でひざまずき、崇敬することを何ら止めるべきではない(Philip Schaff, Ph.D., History of the Christian Church, Eerdmans Publishing Company, 1976 edition, Volume II, pp. 80-81)。

イレナエウス(130-202 A.D.)は、キリストの愛のために、教会は、“すべての場所で全ての時に於いて、天にいます父へ殉教者の群集を送る”と言いました (Schaff, 同著, p. 79)。 ローマのカタコンブは、その古代都市の地下にある長いトンネルです。 それは“900マイル(1,440キロ)以上に及び、700万に上る墓があり、多くの場所で殉教者の[骨]が埋葬されていると言われている”(Schaff, 同著, p. 80)。 これら数百万の殉教者の実際の施行に加え、“はるかに数多くの我慢しえない侮辱、いらだたしい中傷、そして人のこころを持たぬ異教徒や異邦人が考案できるであろう拷問・・・それは死より数千倍もひどい”(Schaff, 同著, p. 80)。

“彼らの受難ゆえに、最初の三世紀の殉教者は、クリスチャンの宗教として、来るべき世紀の者の心に留められた・・・ニカイア公会議以前の時代の殉教者と証聖者は、全てのキリスト教宗派・党派の共通の原因のために難を蒙り、それゆえに、彼らは正当に尊敬され感謝される”(Schaff, 同著, p. 80)。

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい ” (マタイによる福音書第16章24節)。

賛美歌シートの18番目にある、“したいまつる主の(Where He Leads Me, I Will Follow)”を歌いなさい。

したいまつる主の
   みまねきあるいま
十字架にないゆかん
   あいする主のあとを
いずくまでもゆかん
   いずくまでもゆかん
いずくまでもゆかん
   あいする主のあとを
(したいまつる主の“Where He Leads Me”by E. W. Blandy, 1890).

II. 次に、クリスチャンの十字架は、キリストのために自分の命を失うことである。

第25節を声を出して読んでください。

“自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう”
      (マタイによる福音書第16章25節)。

マタイによる福音書第16章25節で、マックギー博士は次のような注釈をしています、

主イエス・キリストの弟子になるために蒙る危険を予期しない人は、長い目で見て、永遠に自分の命を失うであろう。その反対はまた真実である(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p. 94; note on Matthew 16:25)。

『バイブル・ノレッジ・コメンタリー(聖書の知識の注解書)』はこの節について次のように述べています、

何処に連れて行かれようが、真の弟子の身分には、キリストに従うことと彼の意志を行うこととが関係する(John F. Walvoord, Ph.D., Roy B. Zuck, Th.D., editors, The Bible Knowledge Commentary, New Testament Edition, Victor Books, 1983, p. 59; note on Matthew 16:25)。

“自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう”
      (マタイによる福音書第16章25節)。

ヘンリー・モーリス博士は言いました、

自らに死に、神に生きるというこの神聖なる逆説は・・・今の世の中で生を全うし、来るべき世の中で永遠なる生を全うする、真に重要なる本質である (Morris, 同著; note on parallel passage in Matthew 10:39)。

賛美歌シートの17番目にある、“イエスよ、我、十字架を取らん(Jesus, I My Cross Have Taken.)”を歌いましょう。

イエスよ、我、十字架を負わん、
   全てを後にし、汝に従わん;
乏しく、嫌悪され、見捨てられしが、
   ここからは、汝は我がすべて。
全ての我が志を捨て、
   望みし、慕いし、汝の思いすべてを;
我はどんなにか豊かなりし、
   神と天国は、今だ我にあり!
(イエスよ、我、十字架を負わん“Jesus, I My Cross Have Taken”
   by Henry F. Lyte, 1793-1847).

第26節を声を出して読んでください。

“たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか” (マタイによる福音書第16章26節)。

私は、フランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、ジョン・レノン、あるいはマイケル・ジャクソンといった有名な歌手の葬式を見るとき、いつもこの節を思い浮かべます。 私達は、絶えずこの節を思うべきです。

“たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか” (マタイによる福音書第16章26節)。

神は、使徒パウロの次の言葉を、私達の全てが語るよう告げているのです、

“生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである” (ガラテヤ人への手紙第2章20節)。

III. 最後に、クリスチャンの十字架は、来るべき王国で報われる。

第27節を声を出して読んでください。

“人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう”
     (マタイによる福音書第16章27節)。

使徒パウロは言いました、

“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう”      
(テモテへの第二の手紙第2章12節)。

スミルナの教会に対して、イエスはこのように語りました、

“死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう”
     (ヨハネの黙示録第2章10節)。

賛美歌シートの17番目にある、“イエスよ、我、十字架を取らん(Jesus, I My Cross Have Taken.)”を歌いましょう。

イエスよ、我、十字架を負わん、
   全てを後にし、汝に従わん;
乏しく、嫌悪され、見捨てられしが、
   ここからは、汝は我がすべて。
全ての我が志を捨て、
   望みし、慕いし、汝の思いすべてを;
我はどんなにか豊かなりし、
   神と天国は、今だ我にあり!
(イエスよ、我、十字架を負わん“Jesus, I My Cross Have Taken”
   by Henry F. Lyte, 1793-1847).

クリスチャンであり歴史家でもあるスカッフ博士(Dr. Schaff)は、初期の殉教者についてこのように語っています、

これらの[長く]残酷な迫害に対して、[クリスチャンは]革命的暴力や現世的な抵抗をすることに反対し、真実のために苦しみ死んでいくというモラル上英雄的行為を選んだ。しかし、この非常に英雄的行為は[彼らの]最も最良の武器であった。この大変英雄的行為の中で、[彼らは][自分達を][彼らの]神聖なる創造者、すなわち、世の救いのために十字架の死を提供し、彼の殺害者のためにも、彼らのゆるしを祈られた、この方にとってとるに値する者である事を証明した。[殉教者は]天にある御国の故、準備されている栄冠のために自己を捨てることをいとわなかった。少年や少女でさえ英雄になった、そして神聖な熱狂でもって死に臨んだ。それらの困難な時、[彼らは真剣に]主の言を受け止めた、“自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない”、“わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない”・・・“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう”、“義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである”、“わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう”。そして、それは天恵のためにこの世の問題にある人生と交換した殉教者だけに適用されたのではなく、全体として、すべての迫害から、より清く、そして強固になった教会にも適用されのである。 よって、破壊される事のないバイタリティーを立証する。“続けなさい、拷問にかけよ、我々を粉になるまですりつぶせ、お前達が我々を殺戮すればするほど、クリスチャンは増えるのだ”とテルトゥリアヌスは異教の統治者にののしって言う。“クリスチャンの流す血は、彼らの収穫の種である・・・そして、我々に属した後、苦しみをあこがれないだろうか?”(Schaff, 同著, pp. 75-76)。

異教の統治者の前で、死を覚悟してキリストを受け入れたことを告白したが、死にまで追いやられなかったクリスチャンを証聖者という。 そして、受難を耐え死さえも耐えたクリスチャンを殉教者、あるいは血の証人という(Schaff, 同著, p. 76)。

あぁ、キリストについて行こうという彼らの熱意、自らを捨て自分の十字架を負い、自己中心の生活を失い彼に従う彼らの熱意、そして、キリストの来るべき御国での栄光のために突き進む彼らの熱意! 彼らの列に連なりたい人は誰かいますか? “どんな犠牲を払おうとも、私は自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従いたい”と言う人は誰かいますか? “私は彼と、彼とずっと共に行きます”という人は誰かいますか? 賛美歌シートの18番目にある、“したいまつる主の(Where He Leads Me, I Will Follow)”を歌いなさい。

したいまつる主の
   みまねきあるいま
十字架にないゆかん
   あいする主のあとを
いずくまでもゆかん
   いずくまでもゆかん
いずくまでもゆかん
   あいする主のあとを
(したいまつる主の“Where He Leads Me”by E. W. Blandy, 1890).

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読: マタイによる福音書第16章21-27節。
ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
“The Crucifixion Road” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

要 綱

殉教者の話

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい” (マタイによる福音書第16章24節).

(マタイによる福音書第16章21, 22, 23節;
マルコによる福音書第8章34節;ルカによる福音書第9章23節)

I.   最初に、クリスチャンの十字架は自己を捨てることである。
マタイによる福音書第16章24節;
ルカによる福音書第14章27節; 使徒行伝第11章26節。

II.  次に、クリスチャンの十字架は、キリストのために自分
の命を失うことである。 マタイによる福音書第16章25節;
ガラテヤ人への手紙第2章20節。

III. 最後に、クリスチャンの十字架は、来るべき王国で報われる。
マタイによる福音書第16章27節;テモテへの第二の手紙第2章12節;
ヨハネの黙示録第2章10節。